母さんに頼みがあって、パートの休憩中に電話をかけてきた。アイリスは娘の夫の妻で、つまり私の義理の娘だ。彼女は開口一番、新築一軒家を建てたいから頭金の九百万円を出してほしいと言ってきた。
九百万円。孫の小春のためにいい家に住ませたいのだと、アイリスは力説した。小春の友達はみんな新築一軒家に住んでいて、小春だけがアパート暮らしでは仲間外れにされるという。最新のスマホを持っていないだけで学校で孤立するのだと、以前も同じ論法で十万円を出させたことがあった。
あの時も、スマホ代の半分を出す約束だったのに、結局全額私が持つことになった。それなのにアイリスは「結果として孫のためになった」と言い張った。今回も同じ手口だ。孫を盾にされると、私は弱い。
「わかりました。ただし、条件があります」
書類にサインしろと言った。借用書だ。九百万円を返済するという約束の書類。アイリスは嫌な顔をしたが、サインしなければ金を出さないと言ったら、渋々従った。
一週間後、アイリスから礼の電話があったかと思うと、今度は態度が急に変わった。返済の話をすると「借用書なんて意味ない」と言い放った。
「あんなのただの紙切れですよ。そもそも頭金を出したくらいで恩着せがましい。このまま絶縁しますから」
「絶縁されたら、借用書があるから一括請求できるわよ」
私がそう言うと、アイリスは笑った。
「九百万円を一括請求されたら破産するのは私たちですけど、それなら小春がどうなると思ってるんですか。おばあちゃんのせいで友達もいなくなって、貧乏生活を送ることになるんですよ」
自分の娘を盾にするなんて、なんて卑怯なんだろう。私は怒りで震えたが、アイリスは「脅しても無駄です。何もできないババアには九百万円は諦めてください」と言い残して電話を切った。
あの時、私はもう動いていた。数日前から児童相談所に相談していたのだ。小春が一人で家に置き去りにされるタイミングを待っていた。アイリスと勝吾は九百万円を手に入れた途端、小春を置いて焼肉に行き、ホテルに泊まると言って家を空けるようになった。
小春は私に教えてくれた。ママが最新機種のスマホを買ってSNSで自慢していたこと。ママとパパはネットリテラシーがなってないと、小学生の小春でさえ呆れていた。小春は私に日記を書くよう言われていた。毎日の食事がカップ麺だけだったこと、両親が家にいない夜のこと。それはネグレクトの証拠になった。
勝吾が怒鳴り込んできたのは、小春を迎えに行った翌日だった。
「小春を返せ。もう母さんとは縁を切ったんだ」
「それは無理な相談ね。私は小春を保護してるの。子供を置いて泊まりに行くような親から」
「保護だって? 警察にでも通報する気か? 証拠があるのかよ」
「小春の日記が証拠よ。今、児童相談所と警察が動いてる」
勝吾は顔色を変えた。日記の存在を知らなかったのだ。児童相談所の調査が始まり、近所からの証言も集まった。幸い逮捕はなかったが、親権は私に移ることになった。小春自身の希望もあって、私は小春を引き取った。
数ヶ月後、勝吾とアイリスは私のところに来た。
「母さん、九百万円はちょっとずつ返すから、一括はやめてくれないか」
「借用書には返済の意思が確認できない場合、一括請求すると書いてあったでしょ。あなたたちがサインしたのよ」
アイリスが言った。「九百万円なんて払ったら家も手放すことになるし、借金も抱えるわ。これから先、普通の人生すら歩めなくなる」
「あなたたちが小春から奪ってきた時間も、同じくらい重いのよ。今度は自分の人生が奪われる番よ。私は小春ほど甘くないわ」
勝吾は懇願した。「俺は息子だろ。このくらいのわがままは通すのが親だ」
「親としての責任を果たしてない男が何を言ってるの。あなたは親としての立場も、息子としての立場も自分で捨てたのよ」
そのとき、アイリスが不気味な笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。お母さんがいずれ亡くなれば、その遺産は勝吾が相続するんですから。しばらく苦しい生活が続くってだけで、お母さんが死ぬまで我慢すればいいだけです。早めにあの世に行ってくださいね。心待ちにしてますから」
「残念ね。あなたたちの頭の方が残念だったみたい」
「どういうことですか」
「私は勝吾を相続人から排除する申し立てを、家庭裁判所にしているのよ。それから、小春との養子縁組もね」
アイリスの顔が引きつった。「縁を切ったって、相続権は残るはずでしょ」
「あなたたちが私にやったことを考えれば、相続権は奪えるわ。一方的な絶縁、数々の暴言、九百万円を騙し取ろうとした事実。返す気なんてなかったのに、よく言うわ」
さらに追い打ちをかけるように、アイリスはSNSで炎上していた。子供の親権を失った事実が周囲に知れ渡り、ママ友からも見捨てられた。顔写真までネットに拡散されて、特定までされていた。小学生の小春に「ネットリテラシーがなってない」と言われる始末だ。アイリスが小春を守るために新築一軒家を建てたいと言っていたのに、本当に孤立したのは自分たちだった。
一週間後、小春から電話がかかってきた。
「おばあちゃん、洗濯物入れといたよ」
「ありがとう。パートも終わったからすぐ帰るわね」
「うん、宿題しながら待ってる」
私は小春に聞いた。「学校にお友達はいるの?」
「うん、いるよ。たくさんいる。数えきれないかも」
「スマホが古いからって、仲間外れにされたりしてない?」
「うーん、たまに変なことはあるけど、そういうのはないかな」
安心した。小春は私の家に来てから、年相応の子どもらしい表情を見せるようになった。昔から大人びた子だと思っていたけれど、それは両親の都合でそうならざるを得なかっただけだったのだ。
小春が言った。「おばあちゃんは長生きしないとダメだからね」
「どうして急にそんなこと言うの」
「ママとパパが言ってたんだ。おばあちゃんは年だから長くないだろうって」
あの二人なら言いそうだ。私は笑った。
「そうね。小春が結婚するまでは頑張ろうかしら」
「結婚した後も長生きして」
「大丈夫よ。小春がうちに来てから、おばあちゃん前より元気になったんだから」
「それに、亡くなったおじいちゃんも、私を残してあっちに行ったら怒るわよ」
「おじいちゃん、怒ったら怖いよね。前にふすまに穴を開けたらすごく怒られた」
「そうよ。本当に怖いの。だからおばあちゃんも怒られたくないのよ」
「じゃあ、長生きしてくれる?」
「すぐにおじいちゃんのところに行ったら、追い返されちゃうもの。小春が大きくなってもう安心だなってなるまでは、一緒にいるわ」
「そっか。ありがとう、おばあちゃん」
「こちらこそ。小春が無事に大きくなってくれたことに感謝しかないわ。これからもあなたの成長を見守らせてちょうだいね」
その後、勝吾とアイリスは私に借りた九百万円を返すために家を売り払った。だが、元々ローンが残っていたこともあって、借金は残った。家の売却額と私への支払いを差し引いて、まだ五百万円の借金がある。今はその返済のため、夫婦そろって昼夜働き続けているそうだ。
家もお金も子供も、そして周囲の人間もすべて失った二人。この先も暗い人生になるだろうが、それも自分たちがやってきたことへの報いだ。子供の自由を奪い、愛情を注がず、親から金を騙し取ろうとしてきた。その代償を受け止め、反省することだけが、あの二人にできることである。
一方、私の方はというと、家庭裁判所への申し立ては無事に通り、勝吾は相続人から排除された。小春との養子縁組も成立した。小春は中学生への進学を控えながら、多くの友達に囲まれて日々を過ごしている。
小春が年齢の割に大人びた子だと思っていた。しかしそれは、あの子を取り巻く環境がそうさせていただけのこと。私の元へ来てからは、年相応の態度を見せることが増えている。それがいいことなのかどうかは分からない。ただ、小春が小春らしく、年相応に振る舞える環境を、私はこれからも守っていきたいと思っている。
