さきがリビングのソファに座った瞬間、義母の幸恵が静かに入ってきた。今日の献心はどうだった、と開口一番に聞いてきた。さきはため息を飲み込んだ。これが毎日のやりとりだ。どうだったも何も、至って正常順調です、と短く返した。幸恵は疑うような目を向けて、本当に、と念を押してくる。本当ですって、疑うんですか。さきがそう言い返すと、幸恵は本題を切り出した。じゃあ聞きますけど、お酒とタバコはもうきっぱりとやめたの?
さきは身体が固まるのを感じた。やめていません、と正直に言うわけにはいかない。ちょっとくらいなら大丈夫です、とネットで見た知識をそのまま口にした。妊婦の喫煙や飲酒は赤ちゃんに悪影響よ、と幸恵の声が一段と硬くなる。ちょっとくらいって何よ。何度も注意してるわよね。
はいはい、とさきは流すように返した。幸恵は尚も続ける。妊娠出産を甘く見てる人は多いの。タバコやお酒が原因で流産してしまう人だって。その言葉にさきの堪忍袋の緒が切れた。そういう経験則ですか、元産婦人科の看護師さんだったんですから。でも私は大丈夫ですから。根拠のない自信ですね、と幸恵が言い返す。
もういいです。さきは立ち上がった。お母さんと話すのが一番ストレスなんです。細かい子ごとばっか言われて疲れるし、私がタバコとお酒をやめられないのはそっちの責任ですよ。何言ってるの、と幸恵の声が鋭くなる。あなたの意思の弱さの責任でしょ。母親として自覚を持ちなさいって言ってるだけ。
責任転嫁やめてくださいよ。さきは腕を組んで言い放った。妊婦にストレス与えるなんて、義理の母親がやることですか。最低ですよ、この程度でストレスになるって。幸恵が口を挟もうとするのを遮って、さきはまくし立てた。うちのママはお母さんと違って優しいんです。ちょっとだけならって目をつぶってくれますから。
それは優しいんじゃなくて甘いだけよ、と幸恵が返す。子供に嫌われるのが怖くて親ができますか。はいはい、またそれですか、とさきは白い目を向けた。お母さんって考え方が古いんですよ。今の時代、子供の自主性を尊重するのが主流でしょ。押し付ける教育は時代遅れです。
あなたは大人の自覚を持ちなさい、と幸恵が怒鳴る。何が悲しくて息子の嫁を叱りつけないといけないの。嫌ならやめてくださいね。さきがそう言い返すと、幸恵は一呼吸置いて、低い声で言った。やめさせてくれないのはそっちでしょ、と。それから、私の家にあったタバコとお酒、全部没収しました。冷たい言い方だった。
次の日、さきは買い物から帰ってきて、玄関の靴がいつもと違うことに気づいた。そしてリビングのテーブルの上に、見覚えのある箱が置かれているのを見つけた。慌てて棚を開けると、そこには何もなかった。たばこも酒も消えていた。あのババア、マジでやりやがった。
数時間後、携帯が鳴った。さきの母、裕子からだ。さきが電話に出ると、裕子は早口で言った。さっき幸恵さんから聞いたわよ。あなた、タバコとお酒を隠れて続けてたんだって?さきは思わず口をゆがめた。はい、そうみたいです。いや、聞きましたよ、と裕子はため息をついた。それで、ちゃんとやめる気はあるの?もう体に入ってる子供に影響があるんでしょ。
それはそうですけど、とさきは言いかけて、ストレスが良くないのは分かるし、と言い訳を口にした。自分の身内の言い分より、もっと客観的な視点が必要だと思った。だが、裕子は容赦しなかった。そのストレスっていうのは、あなたが言うことを聞かないからよ。普通に考えて、妊婦が酒もタバコもやめられないっておかしいでしょ。
さきは頭にきた。自分の親なのに、どうして義母の肩ばかり持つのか。分かってますから、と言って電話を切ろうとしたが、裕子は語気を強めた。幸恵さんもね、ああ見えて心配してくれてるのよ。あなたが嫌われるのを怖がって強く言えないだけ。実際、あなたの部屋に行ってタバコとお酒を没収したのは、ちゃんとあなたのためを思ってのことなんだからね。
さきは鼻で笑った。勝手に人の家に上がって物を取り上げるのは窃盗ですよ。それを親の心配って言うんですか?電話の向こうで裕子が何か言いかけたが、さきは遮った。もういいです。私は自分のことは自分で決めますから。そう言って、強くボタンを押した。そして深くため息をついた。みんなして私の人生に口出ししないでほしい。たったそれだけのことなのに。
夕方、夫の達也が仕事から帰ってきた。さきはソファに座ったまま、テレビを見ているふりをした。達也は何か察したように、コートを掛けると、ゆっくりと近づいてきた。さき、聞いたよ。母から。さきはリモコンを置いて、達也を見上げた。聞いたって、何を?タバコとお酒、没収されたんだって。達也の声は優しかったが、さきにはそれが逆に刺さった。
あのね、さきは立ち上がった。義母が私の家に上がり込んで、勝手に物を取り上げたのよ。それをお前が何も言わずに納得してるの?達也は困ったように頭をかいた。母もさずがに言い過ぎたとは思ってるよ。でも、さきが悪いのは間違いないんだからさ。は?さきは目を見開いた。私が悪い?確かに私はタバコを吸ってたよ。でも、お前の母さんに、いきなり没収する権利はないでしょ。それに、あなた前々から言ってたじゃん、妊娠したら一緒にタバコやめるって。達也が静かに言った。
さきは言葉を失った。確かにそう言った。言ったが、それはその場しのぎの気持ちもあった。私はまだやめるって決めたわけじゃない。でも、身体のことを考えたら、と達也が言いかけて、さきは手を振った。分かってる。分かってるから、もう言わないで。もう少しで夕飯の支度をするから。達也は何か言いたそうだったが、さきがキッチンに消えたので、その場に立ったままため息をついた。
居間に戻った時、さきは冷蔵庫を開けて、中を無言で見つめていた。頭の中はぐるぐるしていた。義母の言葉、自分の母の言葉、夫の言葉。みんな押し付けてくる。私のことは私が決める。そう思えば思うほど、胸の中は複雑に絡まっていくばかりだった。そして、二日後、今度は義母の妹の由佳子が家に訪ねてきた。
由佳子は玄関に立つと、にこやかな笑顔のまま、いきなり本題を切り出した。さきさん、幸恵から聞いたわよ。またやめる気ないんだって?さきは眉をひそめた。由佳子さん、もしかして、説得しに来たんですか?違うわよ、と由佳子は呑気に笑った。いい色の付き合い方があると思って。つまりね、こういう時は、ばれないようにやればいいのよ。あいまいな笑み。さきは呆れて首を振った。私はバレたから怒られてるんじゃないです。妊娠中に酒やタバコが悪いって言われてるんです。でも、あなたはそのくらいでやめるつもりはないんでしょ?負けず嫌いのさきさんなら、言われたからって素直にあやまれるタイプじゃないわよ。さきは何も言い返せなかった。確かに、その通りだと思った。今ここで、幸恵の言いなりになったら、負けを認めたような気がする。私はそうは思いませんよ、と言いかけて、同じようなことを言っても無駄なのは分かっていた。要するに、こういうことですよ。さきさんは、本当はやめたいんでしょ。でも、やめろって言われるのが悔しいだけ。違いますか?由佳子はそう言って、帰っていった。
その夜、ベッドに入ってもさきは眠れなかった。隣で達也が穏やかな寝息を立てている。由佳子の言葉が頭にこびりついて離れない。やめたい。本当はこんなこと、続けられるわけがない。私は自分に嘘をついていたんじゃないか。あの人が言ったように、やめろって言われるのが悔しくて、反発してただけなんじゃないか。そう思うと、砂の上に立っていたみたいに、足元が崩れていく気がした。
数日後、実家に顔を出すと、母の裕子が台所で茶を淹れていた。さきが障子の向こうから、母、と声をかけると、裕子は振り返り、驚いたことに、急に涙ぐんでいた。さき、ごめんね。母は俯いた。何がごめんなの、とさきが聞くと、裕子は続けた。あなたがタバコをやめられないのも、お酒を飲みたいのも、私のせいかもしれない。私がもっとしっかりしてれば、あなたが小さい頃から、ちゃんと注意してれば、こんな大人に育てなかったかもしれないのに。
さきは笑った。母が悪いんじゃないよ。私の意思が弱いだけ。そう言いながら、目の奥が熱くなるのを感じた。母は首を振った。あんたの友達関係が複雑で、私がきつく言うと、あいつは親に嫌われるのをずっと怖がって、自分の気持ちを押し殺す子になった。だから、今度は素直になれって言ってるわけじゃないけど、無理に背伸びして、人に嫌われるのを怖がって、自分を隠さなくてもいいんだよ。さきは畳の上に座り込んだ。ぽたりと涙が落ちた。母、私、妊娠してるとかあるのに、何でやめられないんだろう。そう言うと、母はさきの隣に座って、背中をさすってくれた。ちゃんとやめられるよ。気づけたんだから。
その帰り道、さきは自宅のマンションの階段を上がりながら、ポケットの中のたばこの箱に指が触れた。もう、残り少なくなってきた。一箱吸ったら、本気でやめる。そう思った。だが、部屋のドアを開けた瞬間、玄関の下駄箱の上に置かれた、見覚えのある封筒が目に入った。開けると、中から手紙と、そして一本のたばこが入っていた。震える手で、手紙を広げる。そこには、幸恵の文字があった。
「さきへ。今回のことは、お前を傷つけたかもしれない。でも、私は、これが正しいことだと信じている。子供を授かるっていうのは、ただ産むだけじゃない。産まれてくるまでの間も、気持ちも、身体も、大事にすることだと思う。お前が思う以上に、産まれてくる子は、お前のことを待っている。頑張れ。」
その下に添えられた文章。「このたばこは、私の夫、つまりさきの舅の勝義の形見だ。勝義は、ヘビースモーカーで、肺がんで死んだ。お前が、この先、この一本に手を伸ばそうとするなら、それを選ぶのもお前の人生だ。だが、私は、勝義みたいに死んでほしくない。子供の前で、タバコを吸う親になってほしくない。」
さきはその場に、しゃがみ込んだ。手紙が、じわじわと滲んで見えなくなる。思い出した。昔、義母が何度も言っていた言葉を。「人はね、大事なものを失わないと、そのありがたみが分からないのよ。」さきは、そのたばこを手に取ると、細長い一本を、手のひらで包み込んだ。そして、昨日までの自分に、心の中で別れを告げた。
その夜、さきはリビングで達也に向き合った。話があるの。達也が顔を上げる。さきは深呼吸をして、言った。タバコ、ちゃんとやめる。お酒も、卒乳するまで一滴も飲まない。達也は目を見開いたが、すぐに優しい笑顔を浮かべた。無理すんなよ。いや、無理じゃない。借り物の勇気かもしれないけど、今回は本気。さきは笑った。だから、これからは、私が禁煙したら、いっぱい褒めてほしい。ありがとう、と達也が手を握ってきた。
それから、さきは幸恵に手紙を書いた。義母がくれた、その一本を、手元に置いたまま。「お母さん、ごめんなさい。言うことを聞かなくて。それから、ありがとう。」そして、送り届けた。その日の夜、布団の中で、さきはお腹に手を当てた。まだ微かにしか膨らんでいないお腹。けれど、確かに命が宿っている。さきはそっと微笑んだ。私は、ちゃんと母になる。自分のことは、後回しにしてでも。そして、言われた通り、翌日からタバコを一切やめた。酒もだ。辛かった。ものすごく、辛かった。だが、そのたびに、あの手紙を思い出した。あの形見の一本を思い出して、静かに目を閉じた。
数ヶ月後、さきは産声を上げた。元気な女の子だった。抱き上げると、ずっしりと温かい。達也が隣で、泣きながら笑っている。幸恵も、涙を拭いながら見守っていた。さきは、生まれたばかりの娘に、つい語りかけた。あなたの、ひいおじいちゃんの宝物よ。そう言って、おくるみのそばに、小さな小さな印を添えてあげた。たばこじゃない。これから始まる、長い長い物語の、表紙になるように。
