「ゆうな、家誰もいないんだけど。」
その声を聞いた瞬間、電話越しの優奈の頭の中には、嫌な予感しかしなかった。聞こえてくるのは、自分の家、つまり今住んでいる部屋の、しかも玄関の、ドアの開く音。
「は、お姉さん仕事中ですから。って、え、うちに来てるんですか?」
「そう、そう。ああ、今日から私と娘のメイも一緒に住むから。」
優奈の姉は、電話の向こうで、実に楽しそうな、そして妙に明るい声でとんでもないことを言った。
「いや、は、意味が分かりませんよ。何言ってるんですか?」
「ああ、優奈ってバカなの?こんな簡単なことも理解できないとか、受けるんだけど。」
「受けません。というか、本当に何なんですか?説明してください。」
しかし、姉は全く動じない。試しに言ってみるような、軽い口調で話し出す。
「いや、実はさ、旦那と離婚しちゃってさ、行く当てがなくなっちゃったんだよね。もう、どうしようもなくて。」
「だ、だからって、小実家に帰ったらいいじゃないですか。お父さんもお母さんもいるんだから。」
「無理無理。私、両親から勘当されてるから。そんなの知ってるでしょ?だから、もうここに住むしかないの。よろしくね。」
「だからって、こんな急に言われても…。ちょっと待ってください。窓、開けてないでください!」
ガラッという音に、優奈は血の気が引いた。
「お、窓開いてる。ラッキー。じゃあ、こっから家の中入っておくね。」
電話の向こうで、姉が窓を開けて侵入してくる気配がする。
「だめです!やめてください!不法侵入ですよ!」
「ヤの許可は取ってあるから大丈夫。心配しないで。」
「ヤが許可したんですか?」
「え?うん。『2週間くらい同居させてくれ』って言ったら、そこはOKって。まあ、要するに、次の家が見つかるまでってことだから。よろしくね。」
開いた口がふさがらないとはこのことだった。強引すぎる。非常識すぎる。そもそも、あの「ヤ」はうちの大家さんであって、お姉さんの味方ではないはずだ。
「た、たい、や、何考えてるのよ。私は反対ですから。絶対に反対ですからね!」
「はあ。」
そのため息には、呆れよりも「なんで反対されるのか理解できない」という感情がこもっていた。優奈が何か言おうとすると、逆に、悲しそうな、哀れを装うような声を出してくる。
「小、ずれで行く当てがない私がかわいそうだと思わないの?血の繋がった妹なのに?」
「思いません。というか、何で平然としていられるんですか?人の家に上がり込もうとして、普通の神経してたらできませんよ。」
「あー、何が?」
「……昔、私がまだヤの家に同居してた時、あなたが何したか、覚えてないんですか?」
優奈は、かつて自分が姉におんぶに抱っこで世話になっていた頃のことを思い出していた。すると、電話の向こうの姉は、本当に思い出した、という風に声を上げる。
「あー、なんかしたっけ?記憶にないんだけど。」
「私の私物を勝手に売り払ったんですよ。しかも何回も。私のバッグも、服も、靴も、全部。」
「あー、思い出した思い出した。でも、あれはそっちも悪いでしょ。」
「は?どこがですか?」
「だって、名前書いてなかったじゃん。リビングに置いてあったんだから、誰が使ってるか分かんないでしょ。フリマサイトで売っちゃったけど、別にいいじゃん。」
「そんな小学生みたいな理屈が通るとでも思ってるんですか!?私の物だったんですよ!何で謝りもせずに、堂々と言い返せるんですか!」
「はいはい、ごめんごめん。じゃ、そういうことで。私、荷物整理してくるから。」
「ちょっと待ってください!いいからさっさと帰ってください!私の家から出て行ってください!」
「帰るとこないって言ってるじゃん。人の話はちゃんと聞いた方がいいよ。社会人の常識でしょ。優奈はバカなんだから、ちゃんと言うこと聞いてれば間違いないんだって。」
「なら、そっちも聞いてください!私は帰れって言ってるんです!今すぐ出て行ってください!」
「帰るとこがないから、こうやって頼んでるんじゃん。それに、悪い話じゃないでしょ?メイが一緒に住んでくれるんでしょ?ラッキーじゃん。」
「あなたって、どこまで自分勝手上手なの…。私は大反対です!」
「はいはい、怒んないの。てか、この話もうめんどいから、終わりね。じゃ、私は部屋もらうからさ。メイは…うん、廊下とかに寝れる子だから、気にしないで。」
パチッと、無情にも電話が切れた。
「ちょ、お姉さん、聞いてるんですか!?」
受話器から聞こえるツーッ、という機械音。あまりの理不尽さに、優奈はその場にしゃがみ込んだ。
その日の夜。優奈は、会社の同僚である若い男のアパートにいた。この男は、優奈たち姉妹を知る数少ない理解者である。
「なあ、今日は遅いのか?」
男は、腕を組みながら、テーブルに向かっている男に話しかけた。
「仕事で遅くなるって言ってあったでしょ?」
「そっか。ああ、てかさ、姉貴が帰ってきたんだって?」
「……またなんか、彼氏と別れたんだと。今度で何回目だよ。いい加減にしてほしいわ。もう1年だぞ。姉貴が家にいるの。」
「1年?そうは言うけどな、ちゃんと出て行ってるだろ。ちょっとしたお泊まりレベルでしょ?」
「1年、同居してるのと何も変わりません。その間、何回、家を転々としたり、彼氏の家に行ったり、喧嘩して帰ってきたりを繰り返したか。悠長に暮らしてるのは姉貴のほうなのに、私が神経質になってるみたいに言わないでください。」
「はいはい、分かったよ。けど、向こうもお前の狭いアパートに子連れで転がり込んでくるつもりなんだろ?さすがに可哀想だぞ。」
「可哀想って、向こうは生活費を入れてくれてるんですか?」
「いや、そこまで聞いてないけど…。ただ、家賃とか光熱費とか、色々大変だろうなとは思っただけだ。」
「あの人は、私の物を売り払って金にした前科があるんです。あてにできたもんじゃない。それに、前も言ったけど、メイもおかしいですよ。あれで小学生ですよ?最近、友達の家に泊まりに行くって言って、大きなカバンを持って出かけるんです。でも、帰ってくるときはいつも綺麗なままで。」
「メイが?それは…ゲームとか持って行ってるんじゃないのか?友達と。」
「問題はそこなんです。メイはあれで結構、計算高いところがある。あの子が何を考えてるのか、全然分かったもんじゃない。」
「まあ、姉貴に似たんだろうよ。ったく、人に迷惑かけてばっかで。だが、何にせよ、あんたの口からハッキリ言ったほうがいいんじゃないか?『出て行け』って。」
優奈は複雑な表情で、兄の物言いに眉をひそめた。
その翌日。優奈が玄関を開けると、案の定、リビングからはテレビの音と、くつろぐ気配がした。
「おはよう。優奈、遅いじゃん。ていうか、今日は仕事でしょ?早く出かければいいのに。」
「お姉さん、お話があります。」
「あー、何?てか、上着、貸してよ。なんか寒いんだけど。」
「昨日の、……その、お泊まりの件なんですけど。」
「あー、その話?もう決まったから。私は全然構わないよ?メイも喜んでるし。」
「私は、構います。いくらあなたの頼みでも、私はあなたと同居するつもりは、最初から全くありません。メイはともかく、アナタと一緒は絶対に嫌です。」
優奈がきっぱりと言い放つと、姉はケラケラと笑った。
「はあ?何言ってるの?あんた、1年前と同じこと言ってたら、また同じことになるよ?」
「同じことって、何ですか?」
「昔、あんたが言ったんだよ。『彼氏と結婚して、2人でどこかに引っ越すから!』って。結果は、コレだよ。毎月のように喧嘩して、男を連れ込んでは、挙句の果てに別れたからって、私の家に戻ってきて。1年もだよ?お前は、その間、何をやってたんだ?」
「それは…。でも、私たちは仕事を頑張って、ちゃんとお金を貯めて…。」
金が貯まる前にコケたんだろ?と姉は嘲るように笑った。その言葉にカッとなった優奈は、言い返した。
「お姉さんに関係ないでしょ!それに、あなたは出て行ったんじゃなかったの?『彼氏と暮らすから』って!なんでまた、ここに居座ってるんですか!」
「あー、やっぱりそういうこと?自分が失敗したからって、私に八つ当たりしてんの?」
「違います!誤解しないでください!私はあなたが嫌いなだけです!すべてを投げ出して逃げてきたあなたが、一番嫌いなんです!」
「はいはい。で、あんた、どうすんの?この家、手放すの?家賃、払えないの?だったら、私のために明け渡してくれたら助かるんだけど。」
「嫌です!私たちは、もう、あなたには頼りません!」
ドアをバタンと閉めて、自室に引きこもってしまった。それを見た男が、おずおずとソファから立ち上がった。
「……話、聞いてたぞ。お前の言いたいことは分かった。たしかに、姉貴は自己中かもしんねぇ。けどよ、あの口調はないんじゃねえか?相手は血の繋がった姉だぞ。ひどすぎるだろ。ちゃんと謝れよ。姉貴だって、お前のことを考えて言ってるんだからよ。」
「……知りません。あんな人、ほっといてください。」
そう言って、優奈はキッチンに立った。しかし、机の上に置かれた一通のメモ書きを見て、手が止まる。
そこには、姉のノートの切れ端に、こう書かれていた。
「ユナへ、金がなくなったの。生活費、少し貸してほしい。」
次の瞬間、玄関のチャイムが鳴り、思い出したように姉が喋り出す。
「あ、そーいえば、メイを今日、友達と泊まらせる約束してんの。明日の夕方には帰ってくるから、よろしくね。」
「……はい。」
優奈は、その足で、姉の部屋へと向かった。ノックをする。
「お姉さん。メイを連れて行くなら、ちゃんと私に言ってください。あと、勝手に私の部屋に入らないでください。」
「は?何言ってるの?私は何もやってないけど?」
「嘘つかないでください。あんた、さっき、私の部屋から何か持って行ったでしょ。机の上に、あなたのメモが置いてあった。よく読んだら、『返さなくていいから、これで好きなもの買いなさい』って書いてあったけど、あれは私のです。」
「あー、それ?見れば分かるでしょ。お金でしょ。」
「違います。私が机の上に置いてあったのは、お金じゃなくて、大事なものです。あなた、また、私の物を勝手に売ったんでしょ!」
「は?全然分かんないんですけど。」
「あんた、私が何を大事に思ってるか、分かっててやってるでしょ!」
優奈の怒りが頂点に達した瞬間だ。
ガチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー。あれ?おばさん、また来てたんだ。」
「メイ…。お前、どうしたんだよ、その大きなカバン?」
男が何気なく聞くと、メイは、しょうもなさそうに答えた。
「だって、今日からお母さんとユナおばさんの家に住むから、荷物持ってきたんだよ。だから、いらないの、ここの家。」
「は?いや、お前、今なんつった?」
男が聞き返す前に、メイは優奈の方を向いて、ニヤリと笑った。
「ねえ、ユナおばさん。私、学校で友達とけんかしたんだ。それでさ、みんなで仲良くするために、ユナおばさんの家に住むことに決めたの。やっぱり家族だし、一緒に住むのが一番でしょ?」
優奈は、何も言えずに立ち尽くした。部屋からは、ガサゴソと音がして、姉が自分の荷物を抱えて出てきた。
「あーメイ、帰ってきたの?ちょうど良かった。ほら、アンタの部屋、準備したから。こっちに置きなさいよ。」
「うん。あー、疲れた。」
メイは、そう言うと、優奈を無視して、勝手に奥の部屋へと歩いていく。男は、ただ呆気にとられて、その光景を見つめるしかなかった。
「ちょっと待て。どういうことだ。俺は、お前の家に金を借りに来たんじゃない。俺はな…。」
「何よ、まだ何かあるの?」
その時、優奈の携帯が鳴った。見ると、知らない番号だ。
「はい、もしもし…。」
「あ、あの、優奈さんのお姉さんのお宅ですか?私、心優奈さんのクラスメイトの母の者ですが…。メイちゃん、学校でお友達の物を盗んじゃったみたいで、ちょっとお話が…。それで、担任の先生も交えて、明日、学校に来ていただきたいんですけど…。」
ガチャリ。電話が切れた。受話器を握ったまま固まる優奈の後ろで、姉は他人事のように笑った。
「あーあ、やっちゃったか。メイも悪い子ねえ。」
そう言った瞬間、今度は男の携帯が鳴った。
「もしもし…?ああ、はい、次男です。…え?母が倒れた?入院先の病院は分かっていますか……ええ、分かりました。今から行きます。」
男の顔から血の気が引いていくのが分かった。彼は何も言わずに、鞄を掴んで、家を飛び出そうとした。しかし、代わりに、冷めた口調で伝えた。
「……今の電話、病院からだ。母さんが倒れたらしい。悪いけど、鍵は閉めといてくれ。」
そして、ドアをバタンと閉めて、出ていった。
残された部屋には、勝ち誇ったように遊ぶ姉と、何も分からずにテレビを見ているメイ。優奈は、床に散らばったままのメモ用紙を、ボーッと見下ろすことしかできずにいた。窓の外からは、サイレンの音がどこか遠くで鳴り響いていた。
