哲夫が「別れてくれ」と言ったのは、新居の鍵を受け取った夜だった。「お前とこれ以上は一緒にいたくない」——十二年連れ添った婚約者から、突然そう告げられた。銀行のローン契約も済ませ、婚姻届を出す日取りまで決めていたのに。理由を問い詰めても、彼は「説明しただろう」の一点張りで、荷物も残したまま出て行った。頭が真っ白なまま、私は同僚のユリアに電話をかけた。数日後、喫茶店で彼女が重い口を開く。「先週、…

哲夫が「別れてくれ」と言ったのは、新居の鍵を受け取った夜だった。「お前とこれ以上は一緒にいたくない」——十二年連れ添った婚約者から、突然そう告げられた。銀行のローン契約も済ませ、婚姻届を出す日取りまで決めていたのに。理由を問い詰めても、彼は「説明しただろう」の一点張りで、荷物も残したまま出て行った。頭が真っ白なまま、私は同僚のユリアに電話をかけた。数日後、喫茶店で彼女が重い口を開く。「先週、...

あやね、再来週に銀行でローンの契約があるからな。それは分かってるよな。ちゃんと休みを取っておいてくれないと困るぞ。

大丈夫よ。ちゃんと有給を取ってあるから。

そうか。なんか色々と忙しそうだったからな。

ちょっと今新しいプロジェクトを任せてもらってて。私がそのプロジェクトの主担当だから、忙しいってのは事実よ。でもさすがに将来のために大事なことだから、上司も快く了承してくれたわ。

そうだよな。家を買うんだからな。

そうよ。私たちの家を買うんだから。

本当に信じられないよ。ずっと二人で約束してたことが、やっと実現するんだからさ。

婚姻届けはいつ出す予定なの?婚約者のまま家を買うことになるんでしょ?

やっぱり記念日と合わせたいと思っててさ。あやねの誕生日に婚姻届けを出そうかと考えてるんだ。

そうなると半年くらい先になるわね。私は別にいつでもいいと思ってるけど。

いや、こういうのは記念日と合わせた方がいいんだよ。式とかは婚姻届けを出した後にやろう。

そうね。それがいいと思ってる。できれば早くに安心させたいのよね。お母さんがもう七十を超えてるから。

それは俺も同じだよ。だから式もちゃんと上げさせてもらう。だけど順番は大事にしたいんだ。

でも家を買うって時点で、もう順番はめちゃくちゃになってると思うけど。

それはいい条件の家が見つかったから仕方ないだろう。これを逃したら他の人に買われてたんだから。

まあ確かに、値段も立地も信じられないくらい理想的だったわね。

だろう?だから家はもう仕方ないとしてさ。それ以外のところはちゃんと順番を大事にしたいと思ってる。

そうなんだ。それに、これからずっと一緒にいるわけだし、少し式が遅くなるくらい大したことじゃないわ。

そうだよ。まあ、本当に結婚するまでは長かったけどな。

待たせてしまって、本当にごめんな。俺も仕事のこととか色々あってさ。

それは分かってるわ。別に責めてるわけじゃないの。あなたが私のことを真剣に考えてくれてるのは分かってたから。

それじゃあ、仕事頑張ってね。

ああ、あやねもな。

三日後。

ユリア、再来週なんだけど、私、有給を取るのよ。だから、ちょっとその日に私の代わりに任せたい仕事があるんだけど、いいかしら?

ええ、別にいいですよ。でも先輩が有給を取るなんて珍しいですね。いつも上の人から取れって言われるまで有給は取らなかったじゃないですか。

確かにそうかもしれないわね。私が有給申請した時、部長も驚いてたし。でも、そんな理由じゃないの。銀行に行って、色々と契約をしないといけないから。

契約?家を買うのよ。それで共同ローンを組むことになるから、その契約をしないといけなくて。

なるほど。それって、もちろんアイノスってやつですよね。

そうよ。哲夫と二人でそこで暮らすの。

あれ、でも結婚はまだされてないですよね。

そうなの。プロポーズはされたから婚約関係ではあるけど。

式とか結婚する前に家を買うんですか?ちょっと順番が変ですけどね。

いえいえ、そんなの関係ないですよ。二人で幸せになれるのなら、何でもいいじゃないですか。

確かにユリアの言う通りね。でも哲夫さんも素晴らしいわよね。若いのに家を買う決断をするなんて。

昔から二人の夢だったのよ。いつか大きな家を買って暮らしたいねって、ずっと話してたの。

へえ、なんか羨ましいです。哲夫さんみたいな素敵な人が旦那様で、それで家を買って一緒に住むなんて。

ユリアは何回か哲夫と会ったことあるものね。そんなに哲夫を評価してるなんて思わなかったわ。

いやいや、本当に素晴らしい人だと思ってますよ。それに先輩も勝ち組ですね。

いや、別に勝つとか負けるとか、そういうのはないから。でも、ようやく哲夫と結婚できるのは嬉しいわ。十二年も一緒にいたんだからね。

本当に素晴らしい結婚ですよ。

新しい家に引っ越したら、ユリアも招待するからね。

本当ですか?もちろん喜んで行きます!

きっと哲夫も喜ぶわ。

二週間後。

お母さん、無事にローンも通ったわ。これでいよいよ引っ越しをすることになるから。

そう、本当に良かったわね。若くして家を買うなんて、最近じゃ珍しいと思うけど。

二人で働いてローンを返していく予定だからね。そこまで無茶をしてるって感じじゃないのよ。

哲夫さんとは、もちろん結婚をするのよね?

当たり前でしょ。私の誕生日に婚姻届けを出すから。

あやねが結婚するなんて、ちょっと現実味がないわね。

何を言ってるのよ。私だってもう三十五歳よ。若年層はとっくに過ぎてるんだから。

私の中では、あやねはいつまでも二十歳くらいで止まってるわよ。

そんなことないわよ。私はずっとお母さんには若い頃のまま見えてるのね。

ずっとその若さを保てたら、どんなにいいかしらね。

私は、お母さんを少しでも早く安心させたくて、ちょっと結婚を焦ってたくらいなのよ。

そうなの?そんなの気にしなくていいのに。あやねは真面目だし、仕事もとっても頑張ってるみたいだから、私、何の心配もしてなかったわよ。

そうだったんだ。でも、私が仕事を頑張ってるのは確実にお母さんの影響だよ。女手一つで私を育ててくれたお母さんの背中をずっと見てきたからね。

お父さんは、あやねが三歳の時にいなくなっちゃったからね。あなたには寂しい思いをさせたと思うわ。

そんなの全然感じてないから。私の中にあるのは、お母さんに対する感謝だけだよ。もちろん返していくつもりだし。

そう言ってくれると、お母さんは嬉しいわ。

それで、哲夫さんのご両親は私のこと、受け入れてくれるかしら?

お母さんは、自分のことなんて気にしなくていいのに。哲夫さんが嫌なんじゃないの?

大丈夫。その辺は全部、話し合ってあるから。

そういうことなら、いいんだけどね。

とにかく、まずは引っ越しを全部終わらせて、式を挙げたりして、色々と終わってからまた話そうよ。

そうね。哲夫さんとちゃんと話をしてみたいからね。

一週間後。

あやね、所有権移転登記が無事に完了したよ。鍵ももらったし。これであの家はもう俺たちのものだよ。

そうなんだ。それは良かったわ。なんだか自分たちが家を買ったなんて、まだ実感がないわね。でも、引っ越しをしたりしたら、湧いてくるのかしら。

引っ越しの準備はもうできてるのか?

もちろんよ。だって来週にはもう出るんだから。でも、本当に家具家電は全てあなたが払うってことでいいの?無理してるのなら、私も半分出すわよ。

いや、それはいいんだ。まあ、ありがたいことではあるんだけどな。

そう?

ああ。

哲夫は黙って俯いてしまった。何か言いたげに口を開けては閉じ、目線をあやねから逸らす。妙に重い沈黙が二人の間に流れ込んだ。あやねは嫌な予感がして、ソファに座り直した。

哲夫?どうしたの?何かあった?

哲夫は手に持っていたコップをテーブルに置き、組んでいた足を組み替えた。彼の顔は強張り、先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。

……あやね。ちょっと話があるんだけど、いいか。

改まって何?引っ越しの準備ならしっかり進めてるわよ。

いや、そうじゃない。……その。

哲夫。

哲夫は顔を上げられないままだった。目を泳がせ、唇を噛んだ。あやねは彼の出方を待った。胸の奥が締め付けられるように冷たくなる。

俺、やっぱりお前と一緒にいるのは、無理だと思う。

一瞬、何を言われたのか分からなかった。あやねは自分でも理解が追いつかないまま、聞き返すのが精一杯だった。

は? 今、何て言ったの?

十二年も同棲して、新居も買って、これから結婚するって時に?婚約破棄ってこと?

そうなんだ。悪いとは思ってる。でも、お前とこれ以上は一緒にいたくないんだよ。だから、別れてくれ。

ちょっと待ってよ。何を言ってるの?そんなの、完全に婚約破棄じゃない。どうして急にそんなことを言うの?

だから、説明をしただろう。俺にはお前と一緒にいられないんだ。

そんなの説明のうちに入らないわよ。急に「無理だ」って言われて、それで納得できるわけないでしょ。

哲夫は何も言わない。あやねは立ち上がり、怒鳴り散らした。

何か理由があるんでしょ?私が何かした?それとも、何か誤解してるんじゃないの?あの家はどうするの?二人で夢に見た家じゃないの!

あの家のことは……今は何も言えない。

言えない?言えないって、どういうことよ!

案内書をもう一回見たかったのに、哲夫は壁の一点を見つめたまま、口を閉ざしてしまった。あやねの頭の中は質問でいっぱいで、自分の声が他人事のように聞こえた。

……下見に行った時、あなた嬉しそうだったじゃない。やっと実現するねって、私、心から思ったわ。それがどうして、今になってそんな言葉が出てくるの?

長い沈黙の後、哲夫は小さく息を吐いた。まるで自分に言い聞かせるように、静かに言った。

お前が幸せになれるのは、俺のところじゃないんだ。

そんなの、あなたが決めることじゃない!私の幸せは私が決める!

あやねの声は部屋に響いたが、哲夫はついに目を合わせなかった。彼は少し間を置いて、ぎこちなく立ち上がり、玄関の方へ歩き始めた。

……泣き言を言うなよ。俺もお前の幸せを願ってるんだ。

心にもないことを言わないで!

あやねが叫んでも、ドアは静かに閉じられた。彼の後ろ姿はもうそこになくて、あやねはその場に立ち尽くし、崩れるようにソファに座り込んだ。

どうして、どうしてなのよ。

結局、哲夫はそれ以上の説明をせずに家を出て行ってしまった。翌日、あやねは会社を休み、乱れた頭のまま友人で同僚でもあるユリアに電話をかけた。ユリアは驚いた声で、落ち着いて話すように促した。数日後、二人は駅近くの喫茶店で会った。ユリアはいつになく真剣な顔で、あやねの話を聞いた。

……それが、あの日の出来事なの。哲夫は「説明した」の一点張りで、何も詳しく話してくれなかった。あの家のローンも、誰が払うのかも決まってない。それなのに、あいつは突然いなくなることなんてできるんだ。

ユリアはコーヒーを一口含み、視線を落とした。そして何かを決心したように顔を上げた。

実は……先週なんですけど、哲夫さんが若い女性と、新宿の綺麗めなホテルで話しているのを見たんです。あやねさん、寝耳に水だと思って黙ってたんですが。

あやねは手に持っていたカップを音を立てて置いた。指先が震えている。

それが、どうしたの。何の関係があるの。

それが、その時……ホテルの壁に寄りかかって、かなり密着して話してたんです。私、一瞬、言い間違いかと思いました。でも、どう見ても知り合い……というか、それ以上の距離感で。

あやねの顔から血の気が引いた。それでも、まだ何かを信じたいのか、首を振った。

そんなの誤解よ。何かの用事だったかもしれないじゃない。

それにしては、あんまりでした。それに、あれから彼の様子がおかしかったって、私には感じ取れました。

あやねは何も言えなかった。ユリアは続けた。

私からは以上です。でも、一つだけ。仮の話、もし誤解じゃなかったとしても、ずっとあなたを悲しませるような人なら……縁がなかったと思うべきです。

あやねは返す言葉もなく頷き、ユリアの言葉を噛み締めた。何日か経つと、哲夫から一通のメッセージが届いた。

「話したいことがある。今度の土曜日、前から決めてた場所で会えるか。」

前から決めてた場所。それは、あの二人で下見に行った新居の前だった。

土曜日、あやねは一応、綺麗な服を着て待ち合わせの場所に向かった。あの家の前に着くと、哲夫が立っていた。彼は前よりも痩せたように見えた。

あやね、来てくれたんだ。

でしょ、こんな形で呼び出すって言うから。それで、何の話?

哲夫はしばらく口ごもったあと、小さな声で言った。

新婚の家具、キャンセルした。引っ越しの準備で買うはずだった家具も、全部キャンセルした。

え?

あの家はもう買わない。俺、我慢する意味が分からなくなった。

あやねは呼吸を止めた。次の瞬間、哲夫は早口で告白した。

ごめん。俺、お前を悲しませる男で、馬鹿みたいにお前の幸せを願うとか言って。本当は最初からずっと、別の人がいたんだ。上手く説明できない。けど、お前といると、いつも心のどこかに引っ掛かりを感じてた。俺が幸せにしてやりたいって思えば思うほど、それが自分の嘘みたいに思えてさ。

あやねは唇を噛んだ。涙は出なかった。代わりに、感情を殺した、静かな声で言った。

…………そう。やっぱり、そうだったんだ。

許すと?許してくれるのか?

許すも何も、私の口から許すなんて言えないわ。それに、あなたのことは、もう信じられない。

分かってる。それでも、一つだけ言わせてほしい。

哲夫は一歩、前に出た。あやねはもう一歩、後退した。

俺のお前への気持ちは、本物だった。それだけは信じてほしい。

あやねは目を閉じた。そして、ゆっくりと目を開け、はっきりと言った。

家のローンは、私一人で払っていくから。あとは、法律的なことは、あとは弁護士に任せるわ。新しい生活、きちんとリセットしたいから。

ああ。

じゃあ、これで。

あやねは振り返って歩き出した。何度後ろを振り返りたいと思っただろう。何度、叫びだしたいと暴れ出したいと思っただろう。でも、あやねは正面を見た。涙はとうとう流れなかった。代わりに彼女は、落ちる夕日と真逆の、東の空を見つめながら歩き続けた。

一週間後、あやねは取り下げた有休申請を改めて提出し、新しいローン計画を担当の銀行に相談し直した。あの広い家は売りに出され、彼女は前よりも少し狭いマンションに荷物を運び込んだ。広い家に一人きりで足を踏み入れるのは想像していたよりもずっと冷たかったが、この家で新しい生活を始めるんだ、と心に言い聞かせた。

ユリアが引っ越しの手伝いに来てくれた。仕事を終えたあと、いつものようにカフェに寄った時、ユリアが言った。

「本当に、これで良かったんですか。」

あやねは、目の前に置かれたカップを両手で包み込むと、口元をほんの少しだけ緩めて頷いた。

「ええ、もちろん。お互いのためよ。」

それは、誰に言い聞かせるというより、もう自分に言い聞かせる必要がなくなった呟きに近かった。そして、あやねは少しだけ、前より軽くなったカバンを持つと、きれいなアナウンスが流れる改札へと足を進めたのだった。

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