夜く、リビングのソファに座っていたたけしが、不意にスマホの画面から顔を上げた。目が合った瞬間、彼女のほうが先に口を開いた。
「たけし、私ね、妊娠したの。」
一呼吸置いて、彼は言葉を探すように「え、そうなの? 」と返した。
「うん。検査したら陽性が出てさ。やっと子供を授かることができたわ。」
「そうか。それは良かったよ。」
その表情は、言葉とは裏腹に晴れやかさに欠けていた。彼女は首をかしげる。
「あれ? なんだか嬉しくなさそうだけど。」
「いや、もちろん嬉しいよ。ただ、まだ実感がなくてさ。」
「まあ、それはそうね。私だって実感があるわけじゃないから。でも昔から子供が欲しいって思ってたから、それが実現したって思うと、とっても嬉しいわ。」
「2年くらいはかかったもんな。」
「そうよ。正直焦っててさ。もうそろそろ不妊治療を受けないといけないんじゃないかって考えてたの。だからこうして子供ができて、本当に嬉しいわ。」
「でも、これから仕事を頑張らないといけないよな。子供の将来のためにも、共働きは必須だからな。」
「それはそうね。でも、とりあえずお腹が大きくなってきたら、育休を取ることになると思うわ。」
「ちなみに、どれくらいになりそう? 」
「産休と育休を合わせて、多分1年半くらいになるんじゃないかな。子供がある程度大きくなって、保育園とかに預けられるようになってからじゃないと、仕事に復帰できないから。」
「1年半か。その間って、収入はどういう感じになるんだっけ?

」
「産休は給料の3分の2かな。それで育休の6ヶ月が同じく3分の2で、そこから先は半分、って感じになってるよ。」
「そうか。休んでるだけで金がもらえるのか。なんかずるいな。」
「ずるいって何よ。ちゃんとした国の制度でしょ。」
「まあ、そうだな。でも、全部ってわけじゃないんだな。」
「そうよ。その間は、たけしの収入が頼りになるわ。」
「分かってるよ。あんまりプレッシャーをかけないでくれ。」
「一応、貯蓄もあるし、そんな背負わなくていいわよ。」
「でも、俺が働かなかったら、みんな飯が食えないんだろう。」
「そうね。生活は厳しくなると思う。もし必要なら、私が昔買ったブレスレットとか、そういうのを売ったりするのも考えてるし。」
「そんなの、大した額にならないよ。」
「もちろん、他にも色々と考えてはいるわ。それが当てになればいいけどね。」
「お金のことばかりになると、暗くなるな。それよりも、子供の名前とか、もっと楽しいことを考えようよ。」
「そういうのは、あなたに任せるわ。俺はちょっと仕事が立て込んでてさ。」
「大丈夫? なんか最近、きつそうだけど。」
「仕方ないだろ。働かないといけないんだから。」
「それはそうだけどさ。」
「休んでる間は、家事とか、そこら辺は頼んだぞ。ちゃんと俺のことをサポートしてくれよな。」
「ええ、もちろん、約束するわ。」
出産後、彼女の体は酷く疲れ果てていた。立っているのも辛い日が続き、布団に横たわったまま、電話の受話器を握った。
「お母さん。今日もうちに来て、赤ちゃんの面倒をお願いできる? 」
「あら、どうしたの? 大丈夫?
」
「うん。ちょっとここ最近、ずっと体調が悪くてさ。」
「いいのよ、無理しなくて。私がすぐに行くからね。」
しばらくして、玄関のチャイムが鳴り、義母が入ってきた。彼女はソファに横たわったまま、申し訳なさそうに顔を歪めた。
「本当に情けないわ。母親になってから、ずっとこの調子で。」
「出産直後っていうのは、そういうものなのよ。私も同じような経験をしてきたから、よく分かるわ。私の場合も、母や姑さんに手伝ってもらったからね。何も気にしなくていいのよ。頼れる時は頼りなさい。」
「ありがとう。実家が近くに助かったわ。」
「でも、全部あなたが一人でするのは大変でしょ。たけしは手伝ってくれないの? 」
「全然。何を言っても無理だって言ってさ。」
「そうなの? なんか、たけしって最近ずっとイライラしてるのよ。多分、仕事がかなり大変みたいで。」
「そうなんだ。仕事、好きそうだと思ったのに。」
「私も、そういうところがいいなって思ってたの。でも、なんか配置転換で、希望してない部署に移動になったみたいなのよ。」
「へえ、そうなんだ。」
「それで、慣れない仕事を任されるようになってさ。ずっとイライラしてるんだよね。」
「それは、ちょっと可哀想ね。あなたも大変でしょ。彼の心のサポートもしてあげたいところだけど、なかなかそこまでやる余裕がなくてさ。今はもう、赤ちゃんのことだけで手いっぱいで。」
「あの子のことで手いっぱいで、あなたが休んでるのは当たり前よ。でも、こんな頼りない母親で、申し訳ないわ。出産する前は、もっと色々と頑張ろうと思ってたのに。」
「あなたは、十分頑張ってるわよ。家計にも立派に貢献してると思うし。」
「休んでるのが申し訳ないなとは思ってるんだけどね。」
「そんなことないわ。もっと、あなたは自分のことを考えなさいよ。最近、何か自分のためにした? 美味しいもの食べたとか、何か買ったとか、した?
」
「いいえ。そういう贅沢は、今はダメよ。家族の未来のために備えておかないといけないから。」
「あなたがそういうのなら、いいけどね。」
会話をしているうちに、玄関の扉が開く音がした。足音が近づいてきて、たけしがリビングに姿を見せた。彼は義母の姿を認めると、やや驚いた顔をした。
「お母さん、今日うちに来てたの? 」
「ええ、来てたわよ。あなたたち、誰もいなかったけどね。」
「先程まで掃除をしてて、家を開けてたんです。でも、どうやって入ったんですか? 」
「たけしが鍵を渡してくれたのよ。私があなたたちのことが心配だって言ったら、鍵を持って来てくれても構わないってね。」
彼女がソファから体を起こして、義母に視線を向けた。
「心配ですか? 」
「そうよ。あんたが家事をサボるって言うからね。」
「サボってませんよ。何を言ってるんですか。」
「何を言ってるのよ。たけしが迷惑してるって言ってたわよ。家にいるのに、全然何もしてくれないって。」
「家にはいますけど、何もしてないわけじゃないです。育児にかかりっきりなんですよ。」
「でも、体調が悪いって言って、横になってばかりでしょ。それって、サボってるのと同じよ。」
「本当に体調が悪くなったんです。出産直後で、ずっと体調が思わしくなくて。」
「そんなの聞いたことないわ。私はバリバリ、育児も家事もやってたわよ。」
「体調は、人それぞれだと思います。」
「だとしても、あなたのような人間に、母親が務まるのかしら?
」
「どういう意味ですか? 」
「だって、何かと言えば、そっちの母親に頼って、自分は楽してるわけでしょ。そんな状態で、子育てなんてできるの? これから、どんどん大変になっていくのよ。」
その場にいたたけしが、口を挟んだ。
「お母さん、そこまで言わなくても。」
「だって、そうでしょ。この子、全然、家事も育児もしてないんだから。」
「できます。できないわけじゃないです。」
「なら、どうして今日も、私に掃除をさせたのよ。あんたの家の掃除を、何で私がしなくちゃいけないの。」
「そんなこと、頼んでません。向こうに来てくれたのは、お母さんです。」
「たけしが心配だって言うからよ。あなたが家事を一切しないから、私が来てやってるだけでしょ。」
彼女は、拳を握りしめた。奥歯を噛み締めて、声を絞り出す。
「お母さん。あなたが正しいとしてよ。今の私が、ちゃんとやってないのは、認めます。だけど、子供が泣いてる時に、相手をしてあげようとか、そういうことは思わないんですか? 」
「当たり前でしょ。私がちゃんと見てあげてるんだから。少なくとも、あんたの分の負担が減るだけでも、大きいわ。」
「だったら、あなたが私の代わりに、全部やってくださいよ。そうすれば、文句はないでしょ。」
義母は一瞬、言葉に詰まった。だが、すぐに鼻で笑った。
「ふん。言うじゃない。いいわよ。じゃあ、今日から私が、ここの家事も育児も、全部してあげる。その代わり、あんたは、たけしに何も言わせないでよ。」
「それは、できません。私の家庭のことは、私が決めます。」
「あんたに、何が決められるのよ。」
「お母さん、そこまでにしてください。」
たけしの低い声が、部屋に響いた。二人の女が、同時に彼を見る。
「どうやら、僕の妻と、僕の母親の間で、僕が何とかしないといけないみたいだ。」
彼はため息をつきながら、妻を見た。
「母さん。家事も育児も、全部、俺と妻でやるから。お前は、もう手伝いに来なくていい。」
「何を言ってるの。あんた、仕事で大変なのに。」
「大変なのは、妻も同じだろ。産んだばかりなんだから。俺だって、もう大人なんだ。自分の家庭ぐらい、自分でやる。」
義母は、信じられないものを見るような目で、息子を見つめた。唇を何度か開けたり閉じたりしていたが、やがて、吐き捨てるように言った。
「……好きにしなさい。」
そう言って、彼女は振り返らずに玄関へと歩いていった。扉が閉まる音が、部屋に響く。
沈黙が流れた。彼女は、怖々と夫の顔を見上げた。
「……ごめんなさい。私、お母さんと言い合いになって。」
「別に、謝らなくていいよ。」
「でも、私のせいで、たけしまでお母さんと喧嘩をしたようなもんでしょ。」
「謝る必要はないって。俺の方こそ、母が勝手なことばかり言って、悪かった。お前が不機嫌になるのも無理はない。」
彼女は、目に涙を浮かべた。
「本当は、分かってるの。私が全然、動けてないから。たけしの負担になってるんだなって。せめて、あと1週間もすれば、体も動くようになるはずだから。そうしたら、きちんとやるから。」
「無理すんなよ。」
「無理なんかじゃない。私、自分の家なのに、他人に面倒を見てもらうなんて、嫌なんだ。私が、私の家族を、ちゃんとやるから。たけしは、気にしないで大丈夫だよ。」
たけしは、何も言わずに、彼女の頭にそっと手を置いた。
「……とりあえず、今日はもう休め。朝まで、赤ちゃんの面倒は見ておくから。」
「でも、たけしは朝から仕事が…」
「いいから。いいんだ。」
その夜、彼女は布団の中で、何度も「大丈夫」と繰り返したが、眠れない夜は続いた。毎日が試行錯誤の連続だった。夜泣きに起き、授乳に追われ、自分が食べる時間すらもままならない。それでも少しずつ、自分のリズムを取り戻し、家の中を自分の手で動かせるようにしていった。
あれから三ヶ月。彼女は再び、台所に立っていた。買い置きしてあった食材を前に、味汁の準備をしながら、彼は、壁に掛けたカレンダーを見つめた。
「ねえ、たけし。」
「ん?
」
「今度の日曜日なんだけど、ちょっと一緒にさ、近所の公園に、行かないか? 」
「……公園? 」
新生児を抱えて、公園か。たけしは驚いた顔をしたが、妻の表情は真剣だった。
「うん。ベビーカーでも大丈夫そうな、平らなところがあるんだって。前、ネットで調べたんだけど、そろそろ外の空気を吸わせてあげたくて。あんまり遠くには行けないけど、気分転換になるでしょ。」
朝の光に当たった台所の床には、洗濯物を干した跡がくっきりと残り、アルミのボウルに入った湯を加えると、湯気がふわりと立ち上った。
たけしは、暫く黙って、妻の背中を見つめていた。出産直後は、病院のベッドの上で、見る影もなく料理もしない、家のことも程々で、Instagramに載せるために掃除をするだけの人だと思っていた。しかし今は、この家の真ん中に立っている女の彼女に対して、ずっと言いたかった言葉が、ついに口の端まで来ていた。
「……たけし?
」
「ああ。」
彼は、手に持っていた朝刊をテーブルに置き、立ち上がった。
「そうだな。行こう。せっかくの日曜日だしな。……俺も、久しぶりに外で、家族で風に当たりたい気分だったんだ。」
彼女は、ほっと息を吐き、口元をほんの少しだけ緩めた。
「うん。……ありがとう。」
そうして、日本の、普通の家族の一日が、ゆっくりと明けようとしていた。彼女の体には、まだ無理をすれば悲鳴をあげる日もあるけれど、もう、頼るべき場所を間違えることも、指図に俯くだけの日々も、終わりにしたかった。自分の足で立って、自分の手でこの家を守ろうと決めた、その覚悟が、彼女の中に、ひっそりと芽生えていた。