母さん、元気にしてるか?心配なんだよ。そっちに帰ろうか。
何を急に言ってるのよ。帰ってきてくれたら嬉しいけど、まずは自分のことでしょ。花江ちゃんとはうまくやってるの?
当たり前だろ。喧嘩したことなんて一度もないよ。あんな良い子と結婚できて本当に良かった。
家のことは花江ちゃんがいてくれるから安心ね。それで仕事はどうなの?まだ続けてるの?あんた、いつも仕事を変えてばかりじゃない。
仕事?ホテルで働いてるとか言ってたでしょ?あんなのはもうとっくにやめたよ。
え、そうなの?
だって一日中フロントに立ってなきゃいけないんだぜ。あんな辛い仕事、やってられないよ。給料も安いしな。
いや、でも仕事なんだから。それでスーパーの正社員になろうと思ってパートで始めたんだけど、そっちもきつくてやめたんだ。
私の知らないうちに、またコロコロと仕事を変えてたのね。それで今は何をやってるの?
何も。無職だよ。
はあ。あんたね、家庭もあるんだからしっかりしなさいよ。
まあまあ、分かってるって。それでさ、ちょっと実家に住まわせてくれないか?家賃を払うのもきついし、生活が大変なんだよ。
それは仕事をしないからでしょ。そっちで仕事を探すよ。地元には友達もたくさんいるし、頼りになるからさ。
でも、あんたたち二人分の世話なんて私にはできないわよ。
花江はすぐにパートを見つけてくれるよ。あいつは仕事にこだわりなんてないからさ。
あんた、奥さんだけを働かせていいと思ってるの?
俺も仕事はすぐに見つけるって。それまでの間、生活の面倒を見てくれればいいんだよ。仕事が見つかって俺も稼げるようになったら、生活費はそれなりに渡すからさ。
本当に働く気はあるのね?
当たり前だろ。俺は稼ぎたいんだ。そのために無駄なことはやれないから、仕事をやめてるだけなんだよ。
そんなに言うなら、まあいいわよ。ただし、花江ちゃんにはちゃんと説明しなさいよ。私なんかと同居するのは嫌かもしれないからね。
大丈夫だよ。あいつは文句を言わないから。
あんたはもうちょっと花江ちゃんの気持ちを考えなさい。いつ捨てられてもおかしくない立場なんだからね。
うん、分かったよ。そんなに怒るなって。
まったくもう。まずはちゃんと花江ちゃんに説明して、了解を得なさい。そして二人の意思が固まったなら、いつ頃になるか日程を教えてね。こっちも部屋を片付けたりしないといけないんだから。
翌日。
お母さん、お久しぶりです。夫から話を聞きました。私たちを受け入れてくれて、本当にありがとうございます。
花江ちゃんはいいの?私と一緒に住むってなったら、気を使うんじゃない?
いえ、そんなことはないです。正直、どこか願ってたことでもあるというか。
どういうこと?
私は母を早くに亡くして、ずっと父と生活をしていたので、母親と呼べる人がお母さんしかいないんです。だから、家族と一緒に生活できるのが本当に嬉しくて。
そんな風に思ってくれてるなら、嬉しいわ。私も花江ちゃんのことを娘だと思ってるからね。
ありがとうございます。
でも、うちの息子があなたに迷惑をかけてしまって、申し訳ないわ。私がもっとしっかりと躾けておけばよかった。
そんなことはないです。今は仕事がうまくいってないので、イライラしてるだけです。結婚当初、まだ仕事の調子が良かった頃は、本当に家庭思いの人だったので、仕事さえ見つかれば、昔のようになってくれると思います。
そうなるといいんだけどね。むしろ、私があまり働けないのが申し訳ないです。
それはしょうがないわよ。私も昔から血圧が高めでね。花江ちゃんみたいに何か症状があるわけじゃないけど、命に関わる病気だから、気をつけてるのよ。
え、そうなんですか。私も低血圧で、ちょっと運動すると立ちくらみがしちゃうんです。
あら、そうなの。お医者さんから薬を処方してもらって、それを飲んで生活してるのよ。
そうなんですか。私も薬を飲んでます。こう見えて、タブレットケースに入れて持ち歩けるようにしてるのよ。
私たち、似たような病気持ちだったんですね。
血圧の凹凸コンビって感じね。
一緒に生活できるようになったら、その辺も助け合っていけそうですね。
うん。何でも甘えていいからね。
ありがとうございます。今からお母さんと一緒に生活できるのが、とても楽しみです。
私もよ。それじゃあ、待ってるからね。
はい。ありがとうございます。
一週間後。
お母さん、来週の日曜日、そっちに帰るね。
あら、そうなの?急にどうしたのよ。
いや、たまには実家に顔を出さないとなと思ってさ。
まあ、ちゃんと来るのね。一人ぼっちで寂しいでしょ?
お父さんが天国に行ってもう二年くらい経つから、さすがに慣れた感じはあるわよ。
ダメだよ。心配だから、定期的に帰らせてもらうわ。できれば一緒に住んであげたいけど、子供たちのこととか、旦那の仕事のこともあるしね。
そんな気を使わなくていいのよ。実は、もうすぐ一人じゃなくなるからさ。
どういうこと?ペットでも買うの?
違う、違う。克と一緒に住むことになったのよ。
はあ?何それ?
あの子がこっちに戻ってきて、仕事を探すって言うから。それじゃあ、一緒に住もうかってことになってね。花江ちゃんも一緒よ。
ねえ、大丈夫?あいつ、家賃を浮かせたいだけでしょ?
それはそうみたいだけどね。でも、何かあってから、それで仕事を探すって言ってたわよ。
あいつの知り合いなんて、全員ロクでもない奴らばかりでしょ。
まあ、やんちゃな連中と遊んでたのは確かだけどね。でも、みんな大人になって、しっかりしてるんじゃない?
そうかな。お母さんも、あんな奴に優しくする必要ないよ。付け上がるだけなんだからさ。
もちろん、優しくするつもりはないけどね。花江ちゃんが可哀想だと思ってね。まあ、あの子は確かに真面目でいい人だけどね。それに、仕事をしたらちゃんと家賃とかは払うって言ってくれたのよ。
本当に?あいつにそんなつもりがあるのかな?
そこはやっぱり大人なんだから、あるんじゃない?でも、あいつはお母さんがどれだけ心配してるかなんて、全然分かってないんでしょうね。
親だから、そういうのは別に普通よ。でも、あのことは克には絶対に話しちゃダメよ。分かった?
もちろんよ。ていうか、私たちのことなんて気にせずに、好きに使っていいんだからね。
いいのよ。別に趣味とかあるわけじゃないし。
うん。まあ、お母さんがいいのなら、止めないけどさ。
それじゃあ、そっちには来週に帰るからね。
うん。楽しみにしてるわ。あと、克のことで何かあったら、すぐに私に連絡して。私が直接怒るからさ。
大丈夫よ。あの子だって、そんな変なことはしないわ。
半年後。
かつみ、今日は話があるから、早く帰ってきなさいって言ったでしょ。どこで何をしてるのよ。
悪いな。友達から飲みに誘われちゃってさ。それで、ちょっと遅くなりそうだわ。
ちょっと、仕事もしてないくせに、フラフラしてないでよ。
仕事は探してるって言ってるだろう。それで、話って何?
…あのさ、これ以上、俺に文句を言ったら、どうなるか分かる?俺の友達が黙ってないぜ。
親を脅すつもり?あんた、今なんて言ったの?
…悪かったよ。でも、本当に仕事を探してるんだ。ただ、時間がかかってるだけさ。
花江ちゃんは何も悪くないと思うのよ。あんたが仕事をしないことで、あの子まで巻き込んでるんじゃない?
花江は分かってるよ。俺を支えるのが、あいつの役目なんだ。
あんたね、そんな考え方だから、仕事も続かないんじゃないの?
何だって?お袋のくせに、俺の生き方に口出しするなよ。
かつみ、もういい加減にしなさい。あんた、お父さんが亡くなってから、全然変わってないんじゃない?いつまで子供みたいなこと言ってるのよ。
勝手に言ってろよ。もう帰る。
待ちなさい、かつみ!
お前には関係ないんだよ。俺は自分のやり方でやるからさ。
そう言って、克は母の言葉を遮るように、家を飛び出していった。母は玄関に立ち尽くしたまま、その背中を見送ることしかできなかった。
数日後、花江から電話があった。
お母さん、すみません。克がご迷惑をおかけしてしまって。
花江ちゃん、あの後、何かあったの?
いえ、あのまま帰ってこなくて。私、どうしたらいいか分からなくて。
あの子、また仕事をやめたの?
…はい。今月で辞めるって言ってました。合わなかったみたいで。
花江ちゃんはどう思う?あの子に、これから先、やっていけると思う?
お母さん、正直、私も分かりません。でも、私が支えていくしかないと思ってます。きっと、そのうち分かってくれるって信じてますから。
花江ちゃんまで、そんな風に言うの?あんたが甘やかすから、あの子がダメになるのよ。
…お母さん。
今、私が言うのもなんだけど、昔は私も一生懸命だったのよ。仕事もして、家のこともして。でも、お父さんが急にいなくなって、私、何もかもが嫌になっちゃって。そういう時期がずっと続いてたの。
え、そうだったんですか?
うん。でも、今は違うわ。花江ちゃんがいてくれるから、私も頑張れる。だから、あんただけは、あんな風にならないでよね。
花江はしばらく黙ってから、静かに言った。
お母さん、ありがとうございます。私、頑張ります。
うん。無理はしなくていいからね。困ったことがあったら、いつでも言いなさい。私にできることなら、何でもするから。
それから、また時が流れて。
克は結局、仕事を見つけることはできなかった。家にはほとんど帰らず、友達の家を転々としていた。母と花江は、何度か連絡を取り合いながら、克を待ち続けた。
ある日、花江が実家を訪ねてきた。
お母さん、克から連絡がありました。
本当?何て言ってたの?
…自分を探したいから、しばらく連絡を絶つって。お母さんにも、花江にも迷惑をかけたくないって。
あの馬鹿者。今更、何を言ってるんだか。
でも、ちゃんと自分を見つめ直して、帰ってきたら、また一緒に暮らしたいって言ってました。
花江ちゃんは、それでいいの?あの子がいつ帰ってくるかも分からないのに。
はい。私は待ってます。何年でも。だって、私は克と結婚したんですから。
母は、花江の目をじっと見つめて、ふっと笑った。
本当に、あんたは強い子ね。うちの息子が、もったいないぐらいだわ。
そんなことないです。私こそ、お母さんに出会えて、幸せです。
花江がそう言って、にっこり笑う。その姿を見て、母は心の内で、娘がもう一人できたような気持ちになっていた。
それから、また月日が流れ、克は一度も連絡をしてこなかった。花江は、一人で仕事を続けながら、克の帰りを待ち続けている。母も、花江を実の娘のように気遣いながら、何とか穏やかな日々を送っていた。
そして、ある晩のこと。花江の元に、一通のメールが届いた。
「花江、元気か。俺、やっと仕事を見つけた。まだ生活は安定しないけど、ちゃんと稼げるようになったら、迎えに行く。それまで、待っててくれないか。」
花江は、その文面を何度も読み返し、涙を拭いながら、返信を打った。
「うん。待ってるよ。お母さんも、私がちゃんと見てるから。早く帰ってきてね。」
数年後。克は本当に帰ってきた。仕事も、家も、今度はちゃんと見つけて。花江と、母と、三人で暮らすために。
母は、克の姿を見て、最初こそ文句の一つも言いたそうだったが、花江が嬉しそうにしているのを見て、何も言わずに、ただ「おかえり」とだけ言った。
「ただいま、母さん。花江。長い間、本当にごめん。」
その言葉に、花江は首を振り、母は目元を拭った。
「もう、二度と私の前から消えないでよ。花江ちゃんが泣いてたんだからね。」
「分かってる。もう、何もかも捨てたりしないよ。今度こそ、ちゃんとやる。」
克はそう言うと、花江の隣に立ち、母に向かって深く頭を下げた。母は、息子の成長した姿に、込み上げてくるものを必死に堪えながら、静かに頷いた。
