母さん、元気にしてるか?心配なんだよ。そっちに帰ろうか——電話の向こうでそう言った瞬間、私は手に持っていた湯呑みを落としそうになった。あの日、リビングの時計は午後七時を回っていて、テレビからはニュースの音が漏れていた。克は変わらず「仕事は探してる」と言い、家賃がきついから花江と一緒に実家に戻りたいと続けた。でもその口調は、まるで私が断るはずがないと決めつけているようで、私は奥歯を噛みしめた。…

母さん、元気にしてるか?心配なんだよ。そっちに帰ろうか——電話の向こうでそう言った瞬間、私は手に持っていた湯呑みを落としそうになった。あの日、リビングの時計は午後七時を回っていて、テレビからはニュースの音が漏れていた。克は変わらず「仕事は探してる」と言い、家賃がきついから花江と一緒に実家に戻りたいと続けた。でもその口調は、まるで私が断るはずがないと決めつけているようで、私は奥歯を噛みしめた。...

母さん、元気にしてるか?心配なんだよ。そっちに帰ろうか。

何を急に言ってるのよ。帰ってきてくれたら嬉しいけど、まずは自分のことでしょ。花江ちゃんとはうまくやってるの?

当たり前だろ。喧嘩したことなんて一度もないよ。あんな良い子と結婚できて本当に良かった。

家のことは花江ちゃんがいてくれるから安心ね。それで仕事はどうなの?まだ続けてるの?あんた、いつも仕事を変えてばかりじゃない。

仕事?ホテルで働いてるとか言ってたでしょ?あんなのはもうとっくにやめたよ。

え、そうなの?

だって一日中フロントに立ってなきゃいけないんだぜ。あんな辛い仕事、やってられないよ。給料も安いしな。

いや、でも仕事なんだから。それでスーパーの正社員になろうと思ってパートで始めたんだけど、そっちもきつくてやめたんだ。

私の知らないうちに、またコロコロと仕事を変えてたのね。それで今は何をやってるの?

何も。無職だよ。

はあ。あんたね、家庭もあるんだからしっかりしなさいよ。

まあまあ、分かってるって。それでさ、ちょっと実家に住まわせてくれないか?家賃を払うのもきついし、生活が大変なんだよ。

それは仕事をしないからでしょ。そっちで仕事を探すよ。地元には友達もたくさんいるし、頼りになるからさ。

でも、あんたたち二人分の世話なんて私にはできないわよ。

花江はすぐにパートを見つけてくれるよ。あいつは仕事にこだわりなんてないからさ。

あんた、奥さんだけを働かせていいと思ってるの?

俺も仕事はすぐに見つけるって。それまでの間、生活の面倒を見てくれればいいんだよ。仕事が見つかって俺も稼げるようになったら、生活費はそれなりに渡すからさ。

本当に働く気はあるのね?

当たり前だろ。俺は稼ぎたいんだ。そのために無駄なことはやれないから、仕事をやめてるだけなんだよ。

そんなに言うなら、まあいいわよ。ただし、花江ちゃんにはちゃんと説明しなさいよ。私なんかと同居するのは嫌かもしれないからね。

大丈夫だよ。あいつは文句を言わないから。

あんたはもうちょっと花江ちゃんの気持ちを考えなさい。いつ捨てられてもおかしくない立場なんだからね。

うん、分かったよ。そんなに怒るなって。

まったくもう。まずはちゃんと花江ちゃんに説明して、了解を得なさい。そして二人の意思が固まったなら、いつ頃になるか日程を教えてね。こっちも部屋を片付けたりしないといけないんだから。

翌日。

お母さん、お久しぶりです。夫から話を聞きました。私たちを受け入れてくれて、本当にありがとうございます。

花江ちゃんはいいの?私と一緒に住むってなったら、気を使うんじゃない?

いえ、そんなことはないです。正直、どこか願ってたことでもあるというか。

どういうこと?

私は母を早くに亡くして、ずっと父と生活をしていたので、母親と呼べる人がお母さんしかいないんです。だから、家族と一緒に生活できるのが本当に嬉しくて。

そんな風に思ってくれてるなら、嬉しいわ。私も花江ちゃんのことを娘だと思ってるからね。

ありがとうございます。

でも、うちの息子があなたに迷惑をかけてしまって、申し訳ないわ。私がもっとしっかりと躾けておけばよかった。

そんなことはないです。今は仕事がうまくいってないので、イライラしてるだけです。結婚当初、まだ仕事の調子が良かった頃は、本当に家庭思いの人だったので、仕事さえ見つかれば、昔のようになってくれると思います。

そうなるといいんだけどね。むしろ、私があまり働けないのが申し訳ないです。

それはしょうがないわよ。私も昔から血圧が高めでね。花江ちゃんみたいに何か症状があるわけじゃないけど、命に関わる病気だから、気をつけてるのよ。

え、そうなんですか。私も低血圧で、ちょっと運動すると立ちくらみがしちゃうんです。

あら、そうなの。お医者さんから薬を処方してもらって、それを飲んで生活してるのよ。

そうなんですか。私も薬を飲んでます。こう見えて、タブレットケースに入れて持ち歩けるようにしてるのよ。

私たち、似たような病気持ちだったんですね。

血圧の凹凸コンビって感じね。

一緒に生活できるようになったら、その辺も助け合っていけそうですね。

うん。何でも甘えていいからね。

ありがとうございます。今からお母さんと一緒に生活できるのが、とても楽しみです。

私もよ。それじゃあ、待ってるからね。

はい。ありがとうございます。

一週間後。

お母さん、来週の日曜日、そっちに帰るね。

あら、そうなの?急にどうしたのよ。

いや、たまには実家に顔を出さないとなと思ってさ。

まあ、ちゃんと来るのね。一人ぼっちで寂しいでしょ?

お父さんが天国に行ってもう二年くらい経つから、さすがに慣れた感じはあるわよ。

ダメだよ。心配だから、定期的に帰らせてもらうわ。できれば一緒に住んであげたいけど、子供たちのこととか、旦那の仕事のこともあるしね。

そんな気を使わなくていいのよ。実は、もうすぐ一人じゃなくなるからさ。

どういうこと?ペットでも買うの?

違う、違う。克と一緒に住むことになったのよ。

はあ?何それ?

あの子がこっちに戻ってきて、仕事を探すって言うから。それじゃあ、一緒に住もうかってことになってね。花江ちゃんも一緒よ。

ねえ、大丈夫?あいつ、家賃を浮かせたいだけでしょ?

それはそうみたいだけどね。でも、何かあってから、それで仕事を探すって言ってたわよ。

あいつの知り合いなんて、全員ロクでもない奴らばかりでしょ。

まあ、やんちゃな連中と遊んでたのは確かだけどね。でも、みんな大人になって、しっかりしてるんじゃない?

そうかな。お母さんも、あんな奴に優しくする必要ないよ。付け上がるだけなんだからさ。

もちろん、優しくするつもりはないけどね。花江ちゃんが可哀想だと思ってね。まあ、あの子は確かに真面目でいい人だけどね。それに、仕事をしたらちゃんと家賃とかは払うって言ってくれたのよ。

本当に?あいつにそんなつもりがあるのかな?

そこはやっぱり大人なんだから、あるんじゃない?でも、あいつはお母さんがどれだけ心配してるかなんて、全然分かってないんでしょうね。

親だから、そういうのは別に普通よ。でも、あのことは克には絶対に話しちゃダメよ。分かった?

もちろんよ。ていうか、私たちのことなんて気にせずに、好きに使っていいんだからね。

いいのよ。別に趣味とかあるわけじゃないし。

うん。まあ、お母さんがいいのなら、止めないけどさ。

それじゃあ、そっちには来週に帰るからね。

うん。楽しみにしてるわ。あと、克のことで何かあったら、すぐに私に連絡して。私が直接怒るからさ。

大丈夫よ。あの子だって、そんな変なことはしないわ。

半年後。

かつみ、今日は話があるから、早く帰ってきなさいって言ったでしょ。どこで何をしてるのよ。

悪いな。友達から飲みに誘われちゃってさ。それで、ちょっと遅くなりそうだわ。

ちょっと、仕事もしてないくせに、フラフラしてないでよ。

仕事は探してるって言ってるだろう。それで、話って何?

…あのさ、これ以上、俺に文句を言ったら、どうなるか分かる?俺の友達が黙ってないぜ。

親を脅すつもり?あんた、今なんて言ったの?

…悪かったよ。でも、本当に仕事を探してるんだ。ただ、時間がかかってるだけさ。

花江ちゃんは何も悪くないと思うのよ。あんたが仕事をしないことで、あの子まで巻き込んでるんじゃない?

花江は分かってるよ。俺を支えるのが、あいつの役目なんだ。

あんたね、そんな考え方だから、仕事も続かないんじゃないの?

何だって?お袋のくせに、俺の生き方に口出しするなよ。

かつみ、もういい加減にしなさい。あんた、お父さんが亡くなってから、全然変わってないんじゃない?いつまで子供みたいなこと言ってるのよ。

勝手に言ってろよ。もう帰る。

待ちなさい、かつみ!

お前には関係ないんだよ。俺は自分のやり方でやるからさ。

そう言って、克は母の言葉を遮るように、家を飛び出していった。母は玄関に立ち尽くしたまま、その背中を見送ることしかできなかった。

数日後、花江から電話があった。

お母さん、すみません。克がご迷惑をおかけしてしまって。

花江ちゃん、あの後、何かあったの?

いえ、あのまま帰ってこなくて。私、どうしたらいいか分からなくて。

あの子、また仕事をやめたの?

…はい。今月で辞めるって言ってました。合わなかったみたいで。

花江ちゃんはどう思う?あの子に、これから先、やっていけると思う?

お母さん、正直、私も分かりません。でも、私が支えていくしかないと思ってます。きっと、そのうち分かってくれるって信じてますから。

花江ちゃんまで、そんな風に言うの?あんたが甘やかすから、あの子がダメになるのよ。

…お母さん。

今、私が言うのもなんだけど、昔は私も一生懸命だったのよ。仕事もして、家のこともして。でも、お父さんが急にいなくなって、私、何もかもが嫌になっちゃって。そういう時期がずっと続いてたの。

え、そうだったんですか?

うん。でも、今は違うわ。花江ちゃんがいてくれるから、私も頑張れる。だから、あんただけは、あんな風にならないでよね。

花江はしばらく黙ってから、静かに言った。

お母さん、ありがとうございます。私、頑張ります。

うん。無理はしなくていいからね。困ったことがあったら、いつでも言いなさい。私にできることなら、何でもするから。

それから、また時が流れて。

克は結局、仕事を見つけることはできなかった。家にはほとんど帰らず、友達の家を転々としていた。母と花江は、何度か連絡を取り合いながら、克を待ち続けた。

ある日、花江が実家を訪ねてきた。

お母さん、克から連絡がありました。

本当?何て言ってたの?

…自分を探したいから、しばらく連絡を絶つって。お母さんにも、花江にも迷惑をかけたくないって。

あの馬鹿者。今更、何を言ってるんだか。

でも、ちゃんと自分を見つめ直して、帰ってきたら、また一緒に暮らしたいって言ってました。

花江ちゃんは、それでいいの?あの子がいつ帰ってくるかも分からないのに。

はい。私は待ってます。何年でも。だって、私は克と結婚したんですから。

母は、花江の目をじっと見つめて、ふっと笑った。

本当に、あんたは強い子ね。うちの息子が、もったいないぐらいだわ。

そんなことないです。私こそ、お母さんに出会えて、幸せです。

花江がそう言って、にっこり笑う。その姿を見て、母は心の内で、娘がもう一人できたような気持ちになっていた。

それから、また月日が流れ、克は一度も連絡をしてこなかった。花江は、一人で仕事を続けながら、克の帰りを待ち続けている。母も、花江を実の娘のように気遣いながら、何とか穏やかな日々を送っていた。

そして、ある晩のこと。花江の元に、一通のメールが届いた。

「花江、元気か。俺、やっと仕事を見つけた。まだ生活は安定しないけど、ちゃんと稼げるようになったら、迎えに行く。それまで、待っててくれないか。」

花江は、その文面を何度も読み返し、涙を拭いながら、返信を打った。

「うん。待ってるよ。お母さんも、私がちゃんと見てるから。早く帰ってきてね。」

数年後。克は本当に帰ってきた。仕事も、家も、今度はちゃんと見つけて。花江と、母と、三人で暮らすために。

母は、克の姿を見て、最初こそ文句の一つも言いたそうだったが、花江が嬉しそうにしているのを見て、何も言わずに、ただ「おかえり」とだけ言った。

「ただいま、母さん。花江。長い間、本当にごめん。」

その言葉に、花江は首を振り、母は目元を拭った。

「もう、二度と私の前から消えないでよ。花江ちゃんが泣いてたんだからね。」

「分かってる。もう、何もかも捨てたりしないよ。今度こそ、ちゃんとやる。」

克はそう言うと、花江の隣に立ち、母に向かって深く頭を下げた。母は、息子の成長した姿に、込み上げてくるものを必死に堪えながら、静かに頷いた。

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