淳、今日、私、帰りが遅くなるから、お母さんにご飯を出しておいてくれない?
おい、なんで俺がそんなことしないといけないんだよ。俺が仕事で忙しいのを知ってるだろ?
それは私だって一緒よ。あなたは正社員で、私はパート。でも介護を始めたのはあなたの方でしょ。自分でやればお金が浮くって考えたんだから。
仕方ないだろ。仕事で帰れないんだから。
だったら少しぐらい手伝ってくれたっていいじゃない。相手はあなたの実の母親よ。
あんなの、もうただの邪魔者だよ。家にいたって何もしないんだから。
どうして実の母親にそんなことが言えるの?
そう言いたくもなるだろ。俺が全部の面倒を見てやってるのに、何の見返りもないんだぞ。
家族っていうのは、そういうことじゃないでしょ。
とにかく、俺は何もしないから。
お母さんにご飯を出すだけでいいのよ。薬とお水を渡すだけ。お母さんは量も分かってるから、それでいいの。
そんな面倒なことはしない。
じゃあ、今日は私も遅くなるから。
子供みたいなこと言わないでよ。
本当だ。会社の後輩たちと飯を食うから。それで遅くなるから、母親の世話なんて見てられないんだよ。
分かったわ。もう、あなたには頼まない。
それなら、自分でどうにかしろよ。
はいはい、どうにかしますよ。
五分後。
もしもし、まなちゃん? ごめんね、急に。またうちの母の介護をお願いしてもいい? ちょっと仕事が長引いて、ご飯を出してあげられそうにないの。
あ、そうなんですか。大丈夫ですよ。私、伺います。
本当? じゃあ、会社の方にもお願いしておくね。
はい、ありがとうございます。
お母さん、まなちゃんのこと、すごく信頼してるから、できるだけまなちゃんにお願いしたいって言ってたのよ。
私も、あ子さんのお世話をするのは楽しいです。いつも優しくしてくださるので、大好きですから。
そう言ってくれると、本当に助かるわ。
でも、旦那さんは? 残業で遅くなるんですか?
彼はあんまり協力的じゃなくてね。
そうなんですね。
前も言ってたけど、介護費用をできるだけ抑えたいって、彼が言ってたんですよ。ごめんなさい。介護の会社で働く人に言うことじゃなかったわ。
いえいえ、お気になさらないでください。私、今の会社に勤める前から、お二人とお知り合いだったんですから。
本当に運が良かったわ。介護教室でまなちゃんに出会えて。
私もそう思います。あの教室に通い始めて、もう三年くらい経ちますね。
私は介護の仕事をするために通ってたんだけど、し子さんはお母さんのために通い始めたんでしょ?
ええ。母も年を重ねてきて、一人で介護するのが難しくなってきたんです。だから、ちゃんと指導を受けておきたくて。
それで、あれから本当にやりやすくなりました。
そこまでしてくれる人が近くにいるのは、本当に幸せなことですよ。
そうね。お母さんのためなら、何でもないわ。
今日だって、し子さんがしてるんですからね。
本当よ。この人は、本当に何もしてくれないんだから。
大変ですね。
今すぐにでも離婚したいくらいよ。でも、お母さんがいるから、そうもいかないの。私がいなくなったら、お母さんの面倒を見る人がいなくなっちゃうから。
本当に、お互い大変ですね。
そうね。ところで、まなちゃんとこは、まだあの旦那さんと続けてるの?
はい。もうとっくに離婚してもいいくらい、冷めきってます。
そうなの。向こうの方から、離婚したいって言い出してくれないかなって、ずっと思ってるんです。
この仕事だって、一人で生活できるようになるために始めたんです。別に、やりたくてやってるわけじゃないですから。
色々あるわね。
でも、まなちゃん、離婚したら大変じゃない? パートで一人暮らしなんて、難しいと思うわよ。
大丈夫ですよ。実は、こっそり投資をしてるんです。
投資?
ええ。パートの収入や、昔の貯金をずっと投資に回してて、結構お金が貯まってるんです。
へえ。すごいわね。将来、一人暮らしを始めるためのお金?
そこまでは考えてなかったですけど、海外で暮らしてみたいって思ってるんです。英語もずっと勉強してますし。
その夢を叶えるための貯金ってわけね。
そうなんです。
すごいわ。私は何もしてないから、耳が痛いわ。
いえ、し子さんは立派なお仕事をしてるじゃないですか。それでいいんですよ。
それじゃあ、後はお願いしてもいい?
はい。任せてください。
二十分後、まなはあ子のアパートの部屋を訪ねていた。
お母さん、ごめんね。今日は遅くなるから、まなちゃんが来てくれたよ。
ああ、まなちゃん、すまないね。いつも本当にありがとう。
いえ、気にしないでください。ほら、ご飯を用意しましたから、食べてください。
ヘルパーさんの費用も、し子さんが出してくれてるんだろう?
そうですけど、気にしないでください。私がやるべきことですから。
そんなことないよ。本当に、ずっと迷惑をかけてしまって。
お母さんの年齢なら、当然のことですよ。それに、あ子さんはしっかりしてる方ですから。
もう二十年近く、お世話になってるからね。
昔は私も元気だったんだけど、夫が亡くなってから、こうなっちゃってね。きっと、寂しかったんだと思う。
お二人は、本当におしどり夫婦でしたからね。
私も、お父さんみたいな人と一緒にいられたら、良かったんだけどね。
悪いのは、全部、淳よ。私のことも、家事も、全部、まなちゃんに押し付けてるんだから。あんな風に育ててしまって、本当に申し訳ないと思ってるわ。
そんなこと、言わないでください。淳には言いたいこともありますけど、お父さんたちと出会えたことは、本当に良かったと思ってます。結婚して、この家に嫁いできたことを、後悔したことは一度もありません。
だから、こうして、できる限りのことをさせてもらってるんです。
本当に、ありがとうね。
淳のことは、本当にどうでもいいんだ。でも、まなちゃんに迷惑をかけてるのは、申し訳なくてね。きっと、まなちゃんは、私がいない方が、もっと人生を楽しめるんじゃないかって思うんだよ。
そんなこと、ないです。はっきりと言い切れます。
そう言ってくれるのは、ありがたいけどね。こんなに長生きして、人に迷惑をかけるだけの人生に、何の意味があるのかなって、思っちゃうんだよ。
やめてください。そんな話、聞きたくないです。私は、やりたくてやってるんです。だから、お母さんも、胸を張ってください。落ち込んだり、悲しそうにしてるお母さんを、私は見たくないんです。
そうだね。変なことを言って、ごめんよ。
すぐ帰ってきますから。それまで、まなちゃんを頼っててくださいね。
分かったよ。気をつけて、帰ってくるんだよ。
はい。
それから半年が過ぎたある日、し子はリビングのテーブルに置かれた一枚の書類を見つけた。
何よ、これ。
ああ、それか。俺が置いておいた離婚届に気づいたか。
ええ、まあね。こんなところに堂々と置かれてたら、さすがに気づくわよ。
はっきり言って、俺は、もうこれ以上、お前と一緒にいるのは無理だと思ったんだ。
ふざけないでよ。なんで、いきなりそんなものを出すのよ。
特に深い理由はないよ。ある時ふと考えたんだよ。このまま歳を取っても、ずっとお前と一緒にいるのかってな。お前と一生一緒にいると思うと、鳥肌が立ったんだよ。それで、離婚しようと思ったんだ。
ここまで言われたら、もう仕方ないわね。悪いけど、私の方からも、出て行かせてもらうわよ。
それはいいけど、一人でやっていけるのか?
それはこっちの心配よ。あなたにだけは言われたくないわ。
分かったよ。好きにすればいいさ。
し子はそのまま二階に上がり、娘の部屋のドアをノックした。
まなちゃん、ちょっといい? 大事な話があるの。
ええ、どうしました?
聞いてほしいことがあるの。ずばり、なんだけど…
もしかして、離婚するんですか?
えっ、なんで分かったの?
リビングの書類、見えちゃいました。お父さんの分も、お母さんの分も、二人分ありましたから。
そう…。そうなるわよね。そう、私たちね、離婚することになったの。
まあ、なんとなく、そうなるだろうとは思ってました。
まなちゃんは、驚かないの?
正直に言うと、ほっとしています。お母さんは、お父さんのことを、もう好きじゃないんですよね?
…そうだね。どうやら、そうみたいだわ。長い間、冷めきってたからね。
それなら、良かったんじゃないですか。二人のためにも。
そうかしらね。でも、まなちゃんは、どうするの? 一緒に来てくれる?
いえ。私は、ここに残ります。
どうして? 一緒に暮らせるわよ?
私は、自分の人生を歩みたいんです。海外で暮らすって、前に言ったでしょ? あの夢を、もう一度、叶えたいんです。
一人でやっていけるの?
大丈夫です。投資も順調ですし、それに、私だって、もう大人ですから。
…そう。強くなったのね、まなちゃんは。
お父さんにも、お母さんにも、感謝してますよ。私を育ててくれて、ありがとうございました。
まなちゃん…。
二人はしばらく抱き合った後、し子は大きく息を吐いた。
ふう。今日から、私も一人暮らしね。
はい。たまには、ご飯を食べに来てくださいね。お母さんの手料理、また食べたいですから。
もちろんよ。本当に、ありがとうね。
しばらくして、リビングに降りてくると、淳がソファに座ってテレビを見ていた。
終わったか?
ええ、まあね。
なら、早く荷物をまとめろよ。
分かってるわ。そんなに急かさないでよ。
あなたの方こそ、本当にそれでいいの?
はあ? 何がだよ?
離婚して、後悔しないの?
後悔? するわけないだろ。せいせいするよ。
そう。それなら、いいわ。
し子は自嘲気味に笑うと、そのまま階段を上り、部屋のクローゼットから、昔、一人で旅をしていた頃のトランクを取り出した。
そして、そんな二人のやり取りを、まなは二階の窓から、静かに見つめていた。
「これで、ようやく、みんな自由になれるね。」
そう呟くと、彼女はスマホを手に取り、ある人物にメッセージを送った。
「連絡ありがとうございます。あの日、お母さんを送り出したのも、これで終わりにできそうです。」
まなの顔には、ほのかな笑みが浮かんでいた。
その日の夜、し子はアパートを出て行った。玄関で待っていたまなに、彼女は優しく微笑んだ。
「それじゃあ、まなちゃん。またね。」
「はい。お気をつけて。また連絡します。」
「うん。待ってるわ。本当に、今までありがとう。」
し子は一度だけ振り返ると、待っていたタクシーに乗り込んだ。テールランプが小さくなるまで見送った後、まなは、静かにアパートの一室へと戻っていった。
翌朝、台所で朝食の準備をしていると、二階から物音がした。やがて、パジャマ姿の淳が、のそのそと階段を降りてくる。
「あれ? お母さんは?」
「母なら、早朝に出て行ったよ。今日から、一人で暮らすんだってさ。」
「ふうん。そうか。で、お前はどうするんだ?」
「どうするって、何がですか?」
「決まってるだろ。俺と出て行くのか、それとも、ここに残るのかって話だよ。」
「ああ、それなら安心してください。私、父さんと一緒に暮らすから。」
「は? 何言ってるんだ?」
「だから、ここに残りますよ。家のこと、今までみたいに全部、私がやるから。安心して働いててください。」
「…まあ、お前がそう言うなら、構わないけどな。ついでに、家賃を入れてくれよ。」
ええ、分かってますよ。それじゃあ、朝ご飯、出来てますけど、食べますか?
ああ。いただくよ。
――そう言って、二人は向かい合うこともなく、自分だけの食事を始めた。
まなは、一人、鼻歌でも歌いながら、洗い物を始めた。これで全てが丸く収まった。彼女の手は、いつもよりずっと軽やかに動いていた。
