妊娠したって切り出したのは、たけしの妻だった。
「たけし、私ね、妊娠したの」
「え、そうなの?」
「うん。検査したら陽性が出てさ。やっと子供を授かることができたわ」
「そうか。それは良かったよ」
言いながら、たけしの目線はどこか窓の外を泳いでいた。妻はそれに気づいた。気づいたけれど、あえて言葉にはしなかった。
「あれ? なんか嬉しくなさそうだけど」
「いや、もちろん嬉しいよ。でもまだ実感がなくてさ」
「まあ、それはそうね。私だってそんな実感があるわけじゃないから。でも昔から子供が欲しいって思ってたから、それが実現したって思うと、とっても嬉しくて」
2年くらいはかかった。不妊治療を受けなければいけないかもしれないと本気で焦り始めた頃だった。だからこそ、この知らせは二人にとって待ち望んだものだった。
「でもこれから仕事を頑張らないといけないよな。やっぱり子供の将来のためにも共働きは必須だからな」
「それはそうね。でもとりあえず、お腹が大きくなってきたら産休を取ることになると思うわ」
「ちなみに、どれくらいになりそうなんだ?」
「産休と育休、合わせて多分1年半くらいになるんじゃないかな。子供がある程度大きくなって、保育園とかに預けられるようになってからじゃないと、仕事復帰はできないしね」
「1年半か……その間って収入はどういう感じになるんだっけ?」
「産休は給料の3分の2かな。それで育休の6ヶ月が同じく3分の2で、そこから先は半分って感じになってるよ」
「そうか。休んでるのに金がもらえるのか。なんかずるいな」
「ずるいって何よ。ちゃんとした国の制度でしょ」
「まあそうだな。でも全額ってわけじゃないんだな」
「そうね。その間はたけしの収入が頼りになるわ」
「分かってるよ。あんまりプレッシャーをかけないでくれ」
「一応蓄えもあるし、そんなに背負わなくていいわよ」
「でも俺が働かなかったら、みんな飯を食えないんだろう」
「そうね。生活は厳しくなると思う。もし必要なら、私が昔買ったブレスレットとか、そういうのを売ったりするのも考えてるし」
「そんなの大した額にならないって」
「もちろん他にも色々考えてはいるわよ。それが当てになればいいけど」
「お金のことばかりになると暗くなるわ。それよりも、子供の名前とか、もっと楽しいことを考えましょう」
「そういうのはお前に任せるよ。俺はちょっと仕事が立て込んでてさ」
「大丈夫? なんか最近きつそうだけど」
「仕方ないだろ。働かないといけないんだから」
「それはそうだけどさ」
「休んでる間は家事とか、そこら辺は頼んだぞ。ちゃんと俺のことをサポートしてくれよな」
「ええ、それはもちろん約束するわ」
出産後、妻は体調を崩しやすい日々が続いていた。そんな中、たけしの母が頻繁に家に来るようになった。最初はありがたいことだと思っていた。ただ、その手伝い方がいつも「自分がやってあげている」という態度で、どこか上から目線だった。
「お母さん、今日も家に来てもらって、この子の面倒をお願いできる?」
「あら、大丈夫なの?」
「うん。ちょっとここ最近ずっと体調が悪くてさ」
「いいのよ。無理しないで。私がすぐに行くから」
「本当に情けないわ。母親になってからずっとこの調子で」
「出産直後っていうのはそういうものなのよ。私も同じような経験をしてきたから、よく分かるわ。私の場合も、母とか姑さんに手伝ってもらったから、何も気にしなくていいのよ。頼れる時は頼りなさい」
「ありがとう。実家が近くに助かったわ」
「でも、全部あなたが1人でするのは大変でしょ。たけしさんは手伝ったりしてくれないの?」
「全然。何を言っても無理だって言って」
「そうなの?」
「なんか、たけしって最近ずっとイライラしてるのよね。多分仕事がかなり大変みたいで」
「そうなんだ。仕事好きそうだと思ったのに」
「私もそういうところがいいなって思ってたの。でも、配置転換で希望してない部署に移動になったみたいなのよ」
「へえ、そうなんだ」
「それで、慣れない仕事を任されるようになって、ずっとイライラしてるんだよね」
「それはちょっとかわいそうね」
「私もできればたけしの心のサポートもしてあげたいんだけど、なかなかそこまでやる余裕がなくて。今はもう赤ちゃんのことだけで手いっぱいで」
「そうなるのは当然よ。赤ちゃんなんだから、あなたが近くにいないとね」
「でも、こんな頼りない母で申し訳ないわ。出産する前はもっと色々と頑張ろうと思ってたのに」
「あなたは十分頑張ってるわよ。家計にも立派に貢献してると思うし」
「休んでるのが申し訳ないなとは思ってるんだけどね」
「そんなことないわ。もっと自分のことを考えた方がいい。最近何か自分のためにした? 美味しいもの食べたとか、何か買ったとか」
「いいえ。そういう贅沢は今はダメよ。家族の未来のために備えておかないといけないから」
「あなたがそういうのならいいけどね。それじゃあ、今日も来てもらっていいかな?」
「もちろんよ。すぐにそっちに行くから。あなたもできるだけ安静にしておきなさいよ」
「うん。ありがとう」
1週間後、義母が来た。妻は家で赤ちゃんの世話をしていたが、その日はたまたま訪問の連絡なく来たのだった。
「お母さん、今日うちに来ましたか?」
「ええ、行ったよ。あなたたちは誰もいなかったけどね」
「鍵があったので、家を開けてたんですよ。でも、どうやって入ったんですか?」
「たけしが鍵を渡してくれたのよ。私があなたたちのことが心配だって言ったら、鍵を持ってってくれて構わないってね」
「心配ですか?」
「そうよ。あんたが家事をサボるって言うからね」
「サボってませんよ。何を言ってるんですか」
「何を言ってるのよ。たけしが迷惑してるって言ってたわよ。家にいるのに、全然何もしてくれないって」
「家にはいますけど、何もしてないわけじゃないです。育児にかかりっきりなんですよ」
「でも、体調が悪いのを理由にしてサボったりしてるんでしょ」
「本当に体調が悪かったんです。出産直後で、ずっと体調が思わしくなくて」
「そんなの聞いたことないわ。私はバリバリ育児も家事もやってたわよ」
「体調の感じ方は人それぞれだと思います」
「だとしても、あなたのような人に母親が勤まるのかしら?」
「どういう意味ですか?」
「だって、少しでも体調が悪いって言っては、自分の母親に頼って、自分は楽してるんでしょ。そんな状態で子育てなんてできるの? これからどんどん大変になっていくのよ」
「私が不甲斐ないのは自覚してます。ですが、最近ようやく体調が回復してきましたので、ここからはなんとかやってみせますよ」
「ならいいんだけどね」
「お母さんにも、これからはなるべく頼らずにやっていきます。もちろん来ていただくのは構いません。ただ、来る前には連絡をいただけるとありがたいです」
「なんでよ。今日だって掃除をしてあげたのよ。本当に汚くて、見てらんなかったわ」
「勝手に物が移動されると、どこに何があるか分からなくなるんです。だから掃除は今後私がやります。お気持ちだけ受け取らせていただきますので」
「なんだか私のことを、邪魔物扱いしてるように思えるけど」
「不快に思われたのでしたら申し訳ありません。ただ、今は子供のことに集中してあげたいんです」
「ふん。まあ、そういう約束はするつもりはないけどね。それに、あなた、料理だって手を抜いてるみたいだし。たけしが好きなものを作ってあげるくらいはいいでしょ」
「まあ、それくらいなら……」
「言っておくけど、あなたが完璧にしてくれてるなら、私だってこんなことをする必要はないんだからね」
「分かっています。これから頑張りますので」
「まあ、お手並み拝見って感じかしら」
その日から、家庭の空気は凍りついていた。義母は来るたびに何かしら文句を言った。掃除の仕方がなってない、料理が手抜きだ、子育てがなってない。その言葉の一つ一つが、妻の心を少しずつ削っていった。
1ヶ月後、妻はまた体調を崩した。熱があり、起き上がるのもつらかった。夕方、たけしが帰ってきた。妻はソファに横たわったまま、小声で言った。
「悪いけど、今日は外でご飯を済ませてくれる? 私、ちょっと体調が悪くて」
「体調が悪いって、またかよ」
「ごめん。本当は作ろうと思ったんだけど」
「分かったよ。適当に外で食べてくる」
たけしは玄関で靴を履いた。その背中に、妻は言った。
「あのさ、ここ最近、私が家事をサボってると思ってる?」
「何言ってんだよ。別にそんなこと思ってないよ」
「でも、お母さんがそう思ってるみたいで、結構きついんだよね」
「母さんはああいう人だからさ。気にするなよ」
「気にするなって言われても……。私、あなたに言われた通り、出産後も育児も家庭も、全部中途半端で、収入だって手当をもらってるだけだって言われたのよ」
「そんなこと言ったのか?」
「うん。あなたの前でね。『あなたが正しいとしてよ。子供が泣いてる時に、相手をしてあげようとか、そういうことは思わないの?』って言ってたよ」
「……まあ、母さんなりに心配してるんだろ」
「あんたの分の負担が減るだけでも大きいって言われたら、もう何も言い返せなかったよ」
「あの人はそういう人なんだよ。全部自分のやり方が正しいと思ってるんだ」
「たけしは、そう思わないの?」
「俺は……、俺は何も言えないよ。仕事があるから、家のことは任せてるし」
「何も言えないって、あなたの子供でしょ。本当にそれでいいの?」
その夜、二人の間に長い沈黙が流れた。たけしは何も答えなかった。ただ、冷めた目でスマホの画面を見つめていた。妻はもう何も言わなかった。代わりに、隣で寝ている赤ちゃんの頬を、そっと指で撫でた。
翌朝、妻は義母に言った。
「お母さん、昨日の話ですけど、やっぱり私のやり方でやらせてください」
「何が言いたいの?」
「あなたの手伝いは、もう必要ありません。子供の世話も、家事も、料理も、全部私がやります。たけしのサポートも、私がします」
「そんなこと言って、またすぐに音を上げるんじゃないでしょうね」
「音を上げません。私がこの子の母親ですから」
義母は何か言いかけたが、妻の目の力に押されて、何も言えなかった。その日を境に、義母の足はぱったりと途絶えた。
たけしとの関係は、それでも何も変わらなかった。妻が体調を崩しても、たけしは何も言わず、自分で外食を済ませ、家に帰ってくるとゲームをして過ごした。二人の間で交わされる会話は、用件だけのものになっていた。
「ねえ、たけし。最近、私と話してくれないけど」
「疲れてるんだよ」
「私、あなたに何かした?」
「何もしてないよ。ただ、仕事が忙しいだけ」
「仕事が忙しいのは分かった。でも、ねえ。私たち、このままでいいの?」
「何が言いたいんだよ」
「子供ができて、家族が増えて、嬉しいはずなのに、何でこうなっちゃったんだろうね」
「……考えすぎだよ」
そう言って、たけしはスマホの画面をまた見つめた。妻は何も言えなかった。その日、たまにトイレに立つたび、たけしのスマホにメッセージが届いているのが目に入った。画面に表示された女性の名前は、妻が知らないものだった。
「それ、誰から?」
「誰でもないよ。同僚だ」
「この時間に? 同僚と連絡取る必要あるの?」
「うるさいな。仕事の連絡だよ」
その返しは、いつもより強く、そして短かった。妻はそれ以上追及しなかった。追及するのが怖かった。何よりも、もしそれが真実だったら、と思うと、それ以上先を進められなかった。
数日後、たけしは突然、遅くまで帰らなくなった。残業だと言い、飲みに行ったと言う。妻は「分かった」とだけ言って、赤ちゃんを抱き上げた。夜、一人で赤ちゃんを寝かしつけて、キッチンの時計を見た。午前1時。まだ帰ってこない。
妻はスマホを手に取り、たけしの連絡先を呼び出した。コール音の後、留守番電話に切り替わった。3回かけて、4回目であきらめた。布団に入っても、眠れなかった。目を閉じると、あの日の義母の言葉が蘇ってくる。
「あなたのような人に、母親が勤まるのかしら?」
「全部あなたが1人でするのは大変でしょ」
朝、妻は重い体を起こした。リビングに行くと、たけしがソファで寝ていた。会社の制服のままだ。テーブルの上には、スマホが置きっぱなしになっていた。画面はロックされていなかった。
葛藤が頭をよぎった。見てはいけない。見てもいいことなんて何もない。そう思ったのに、指は勝手にスマホの画面を開いていた。LINEが開いた。そこには、知らない女とのメッセージのやり取りがあった。
「今日はありがとう」
「また会おうね」
送信者の名前は「かなで」と表示されていた。受信トレイには、それまでのやり取りが保存されている。深夜のやり取り、昼休みのやり取り。内容は仕事の話もあれば、それ以上のものもあった。
「愛してる」と送ったのは、たけしの方だった。
妻はスマホを置いた。手が震えていた。息ができなかった。目に涙が溜まったが、落とさなかった。落とすわけにはいかなかった。隣で、赤ちゃんが寝返りを打って、すうすうと寝息を立てている。
妻は立ち上がると、キッチンのテーブルを挟んで、ソファに寝ているたけしを見下ろした。何度も、何度も、何度も、その背中を見つめた。
そして、妻は言った。
「たけし、起きて」
「ん……なんだよ、朝か?」
「話があるの」
「何だよ、眠いんだよ。また今度にしてくれ」
「今、してほしいの」
たけしは体を起こして、珍しく妻の顔を見た。彼の妻にしては、静かで、真っ直ぐで、何かが終わったと悟るような目をしていた。
「何だよ、改まって」
「ねえ、たけし。私、あなたと一緒にいたいって思ってるの。昔みたいに、二人で乗り越えられると信じてるの。でも、あなたがそう思ってないなら、もう、いいの」
「何を言ってるんだよ」
「昨日、見たの。あなたのスマホ。『かなで』って人と、やり取りしてるのを見た。前に誰かって聞いた時、同僚だって言ったけど、あれ、違うでしょ」
沈黙が落ちた。たけしは何も言えなかった。時計の音だけが、部屋に響いていた。
「……そうだよ。付き合ってる女だよ」
妻は息を飲んだ。分かってはいた。でも、実際に言葉にされると、胸が絞りつけられるような痛みが走った。
「いつから?」
「……3ヶ月前から」
「3ヶ月……。私、妊娠する前からじゃない」
「そうだよ。お前が妊娠する前からだよ。そうしないと、やってられなかったんだ」
「何て言ったの今? 私が妊娠する前から……。あなた、私との間に子供作るのに、どうして他の人と……」
「だって、お前、ずっと体調が悪いって言って、家事も育児も俺に押し付けて。俺は会社でクタクタになって帰ってきてるんだぞ。話を聞いてくれない、寄り添ってくれない女と、生活なんてやってられるか」
妻は、一歩も動けなかった。涙は、ついに頬を伝って落ちた。それを見て、たけしはため息をついた。
「もう、泣くなら泣けよ。だから言ったんだよ。そういうところだって」
「違う……。違うわ。私、ちゃんと頑張ってた。あなたのためを思って、自分のことは全部後回しにして……。そしたら、その結果が、これなの?」
「だから、お前がそうやって上から目線で俺のことを縛るからだよ。俺は自由に生きたかったんだ。お前の価値観を押し付けるなよ」
その言葉を聞いた瞬間、妻の中で何かが冷めた。涙は、乾いていった。代わりに、心の奥底から湧き上がる静かな炎。それは怒りの色をしていた。
「……分かった。もう、いいや」
「何がいいんだよ」
「決着をつけましょう。この家を出て行ってほしいの。今日中に」
「は? 何を言ってるんだよ、いきなり」
「養育費は払って。今までの生活費だって、きっちりと請求するから。子供の顔も、二度と見たくないっていうなら、それでもいい。ただ、あなたの好きなようにすればいい」
「本気か?」
「私、あなたのこと、もう何も感じない。たぶん、今日までは好きだったんだと思う。けど、もう無理。あなたの顔を見たくない」
たけしは何かを言おうとしたが、妻の目を見て、口をつぐんだ。彼は何も言わず、立ち上がると、寝室に行き、荷物をまとめ始めた。妻は、リビングの床にヘタヘタと座り込んだ。赤ちゃんが目を覚まして、泣き始めた。妻は立ち上がることができず、ただその場から動けなかった。
荷物をまとめたたけしは、何も言わずに玄関に向かった。最後に振り返ることなく、ドアが閉まった。
妻は、その音を聞いても、涙は出なかった。代わりに、静かに立ち上がった。キッチンに行って、コップに水を注いだ。喉の渇きを、水で流し込んだ。
隣の部屋から、赤ちゃんの泣き声が聞こえる。妻はコップを置いて、赤ちゃんの元へ歩いた。そっと抱き上げると、赤ちゃんは泣き止んだ。その小さな手で、妻の指を握っていた。
「大丈夫。大丈夫よ。お母さんがいるから」
妻は、窓の外を見た。朝日が昇りかけている。今日から、彼女の新しい生活が始まる。何もない部屋の中で、ただ一人、赤ちゃんと一緒に。
それは、誰も望んでいなかった始まり方だった。それでも、どうしようもなく、歩き出すしかなかった。妻は、赤ちゃんを抱きしめる腕に力を込めた。そして、静かに、呟いた。
「さあ、新しい生活の始まりよ」
それが、彼女の選んだ、最初の一歩だった。
