母さん、ちょっと話があるんだけど、そう切り出した瞬間、母は湯呑みを置いて、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、間を置いた。それから「はあ?何言ってるの?急に」と、鼻で嘲るように笑った。親父が死んだ。喪服の匂いがまだ残るリビングで、俺は28歳にもなって、この家を出て行けと母に告げたんだ。母さん、この家出て行ってくれる?俺たち夫婦の家にするから。母は目を細めて、「あんた、自分が何言ってるか分かってるの?」…

母さん、ちょっと話があるんだけど、そう切り出した瞬間、母は湯呑みを置いて、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、間を置いた。それから「はあ?何言ってるの?急に」と、鼻で嘲るように笑った。親父が死んだ。喪服の匂いがまだ残るリビングで、俺は28歳にもなって、この家を出て行けと母に告げたんだ。母さん、この家出て行ってくれる?俺たち夫婦の家にするから。母は目を細めて、「あんた、自分が何言ってるか分かってるの?」...

母さん、ちょっと話があるんだけど。

匠、どうしたの? 急に神妙な顔して。

匠はリビングのソファに座ったまま、母親を見上げた。テーブルの上には湯気の立つお茶があった。母はその向かい側に立っている。

親父も言ったし、母さん、この家出て行ってくれる? 母は一瞬、本当に一瞬だけ、間を置いた。それからゆっくりと首を傾げた。

はあ? 何言ってるの?

Thumbnail

急に。

だから出て行ってほしいんだよ。出て行けって。

母は小さく笑った。笑うというより、鼻で嘲るような音だった。

あんた、何様のつもり? 何様って? 俺、この家の息子だし。

息子だから何? 親父が死んだんだから、この家は俺のものだろ。

母はその言葉を聞いても、怒るより先に呆れていた。目が本気で冷たくなった。

あんた、自分が何言ってるか分かってるの?

分かってるよ。当たり前のことを言ってるだけだ。

当たり前? 28年間、誰が養ってきたと思ってるの? それは母さんだけど。

だけどじゃないでしょ。あんた、結婚して3年でしょ。

そうだけど、その3年間、ずっと誰が養ってたの? 母さん。

家賃は?

払ってない。

それは。

高熱費は? 払ってない。

それは世話になってたけどさ。

食費は? 全部私が出したでしょ。

お世話になってたけど。

お世話になってた? ただで寄生してただけでしょ。

やめろよ、その言い方。

じゃあ、なんて言えばいいの?

28歳の既婚者が親の脛をかじってたって。事実でしょ。

匠は唇を噛んだ。母がここまで言い返すのは珍しかった。いつもは折れてくれるのに、今日は違う。

とにかく、俺たち夫婦の家にするから、母さん出て行ってくれる? 俺たち夫婦の家? はあ。意味が分からないんだけど。

だから、親父が死んだら俺が相続するんだよ。

相続? あんた、本気でそれ言ってるの?

当たり前だろ。

面白いわ。

何が面白いんだよ。

あんたの頭の中。

匠は立ち上がった。イスが床をこすって嫌な音がした。

何がおかしいんだよ。

この家、誰が買ったか知ってる? 親父だろ? 違うよ。

は? 私だよ。30年前、私の給料とボーナスを全部使って買ったの。

母の声は落ち着いていた。むしろその冷静さが、匠の感情を逆撫でた。

嘘だろ?

嘘じゃないよ。私は不動産会社の営業部長だったんだからね。あんたの就職だって、私のコネで決めたの、忘れた? 匠は口をつぐんだ。それは確かに忘れていた。いや、都合が悪いから忘れていたのだ。

忘れたんだね。都合の悪いことは全部忘れるんだ。本当に呆れるわ。

でも、母さん今働いてないだろ。

父さんの介護でやめたんだよ。それぐらい知ってるだろ。

知ってるけど。

知ってるけどじゃないでしょ。退職金の2500万、全部父さんの医療費に使ったのよ。

2500万? そう。あんたが相続するものなんて、何もないよ。

でも、この家はあるだろ。

匠の言葉に、母は静かに笑った。笑い方に力がなかった。

この家はね、匠。あんたの父さんが死んだら、私のものになるの。登記上、私の名前なんだよ。あんたにあげるものなんて、何もない。

母さんの名前? だって、それはおかしいだろ。夫婦で買ったんだろ?

違うよ。私が買ったの。私のカネで。

母さんの給料で? そう。あんたの父さんはあんたが産まれた頃、仕事がうまくいってなくてね。私は部長だったから、貯金もあった。全部、この家に注ぎ込んだ。

匠はフラフラとソファに座り込んだ。頭の中が混乱していた。今まで信じてきたことが、音を立てて崩れていくような感覚だった。

でも、それでも、俺は息子だろ。

息子だから何なの? だから、母さんより相続の権利があるんじゃないの? 母は深く息を吸った。それから、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。

ちょっと待ってなさい。

何するんだよ。

母はスマホをいじりながら、淡々と言った。

あんた、さっき私に出て行けって言ったね。3日以内にって。

ああ、言ったよ。

それは取り消さないんだね。

取り消すわけないだろ。

母はスマホを置いて、匠をまっすぐ見た。

分かったわ。じゃあ、私もあんたの言う通りにする。

本当か?

本当よ。でも、あんたも約束しなさい。自分が言った言葉に責任を持てってね。

何だよ、それ。

その日の夜、匠の妻でさえも、母の話を聞いて呆れていた。

あなた、本気で言ってるの? 言ってるよ。だって、この家は俺のものになるんだから。

あなた、お母さんが30年前に買った家だって言ってたじゃない。

それは、そうだけど。でも、親父が亡くなったんだから、話は別だろ。

何が別なのよ。お母さんは何も悪くないでしょ。

お前まで、こっちの味方をしないのかよ。

匠はイライラしながらリビングを歩き回った。母は別の部屋で荷造りを始めていた。本当に出て行く気らしい。

すると、ついさっきまで音がしていた襖の向こうから、母の声が聞こえてきた。

匠、ちょっと来てくれない? 何だよ。

匠は襖を開けた。母はタンスの前にしゃがみ込んで、古い書類の束を取り出していた。

何だよ、そんなもの。

見てごらん。

母は書類を差し出した。匠は受け取って、何気なく眺めた。それは土地の権利書と、家の登記簿だった。

見た通りの名前が書いてあるよ。

匠は目を見開いた。登記簿の所有者の欄。そこには確かに、母の名前が記されていた。それも、父の名前はどこにも書いていなかった。

どういうことだよ、これ。

どういうことも何も、私は30年前にこの家を買ったの。この家は私のものよ。

でも、親父の遺産って言っただろ! あんたの父さんは、自分の遺産として何も残さなかった。病気で働けなくなったからね。私が全部、看病して、お金も払った。あんたの父さんの分も、あんたの分も、ぜんぶ私が背負ってきたんだ。

母の声は震えていたけれど、目は笑っていなかった。

あんたが私に言ったこと、覚えとくからね。3日以内に出て行けって。

匠は何も言えなかった。手に握っていた登記簿が、やけに重く感じられた。

その翌朝。リビングに母がいた。いつもの場所に座って、コーヒーを飲んでいた。

匠、あなた、私に言ったよね。3日以内に出て行けって。

匠は黙ったままだった。

私、ちゃんと準備するわ。あんたが言った通りにね。ただ、あんたも約束して。自分で言った言葉の責任を取るって。

何だよ、それ。

その時、玄関のチャイムが鳴った。母が立ち上がって、玄関に向かおうとする。匠は焦って、母の腕を掴んだ。

母さん、待って。

何?

匠の声は、昨日までとは別人のようにか細かった。でも、もう遅かった。母は振りほどいて、玄関のドアを開けた。

そこには、匠の妻の両親が立っていた。

こんにちは。今日からお世話になります。匠くんから、もう話は聞いてますよ。

母は振り返って、息子を見た。

そう。匠。あなた、よくもこんなことしたね。私、まだ何も言ってないわよ。でも、もう決めたから。私、今日、ここを出ていきます。

匠は、口を開けたまま何も言えなかった。母は妻の両親に頭を下げると、振り返らずに自分の部屋へ向かった。そして、数分後、大きなスーツケースを引っ張って、玄関に出てきた。

じゃあね、匠。娘さんを大事にしなさいよ。私は、もう戻らないから。

ドアが閉まった。家の中には、嫌な静けさだけが残った。匠の妻は両親と一緒に、リビングで何やら楽しそうに話している。匠は一歩も動けずに、玄関の前に立ち尽くしていた。

最初は、追い出された喪失感だけだった。でも、数日後、匠はじわじわと実感し始めた。家計が回らない。母は確かに、家計を支えていた。朝ごはんも、洗濯も、掃除も、母がやっていた。それを全部、自分たちでやる羽目になった。

妻は料理がうまくない。掃除も適当だった。家はどんどん散らかっていった。食費を自分たちでやりくりすると、1ヶ月も持たなかった。匠はようやく気づいた。

母さんは、俺のために、この家のために、ずっと動いてくれていたんだ。それなのに、俺は、何も分かっていなかった。

匠はスマホを取り出して、母に電話をかけた。コール音が数回鳴って、留守番電話に切り替わった。何度かけ直しても、母から折り返しはなかった。そして、数週間後、匠は母の知り合いから、噂を聞いた。母は遠くの県で、アパートを借りて、一人で暮らし始めたらしい。そして、生活のために、パートの仕事を始めたという。それは、今まで一度も働いたことがなかった母の姿だった。

匠は、自分が取り返しのつかないことをしたのだと、その時初めて思い知った。家は自分のものになっても、母という存在を失った。その代わりに手に入れたのは、母のいない、冷めた家だけだった。

数ヶ月後、匠は家を売ることにした。妻の両親と暮らすために、新しい家に引っ越すという理由で。売却した金額から、母に渡すべき遺産の分を差し引いて、残りを自分の口座に入れた。でも、そのお金を見るたびに、匠は母の顔を思い出した。母が言った通り、母はこの家の権利を持っていたのだ。そして、母を追い出した自分が、母から何も奪えなかったことに、ようやく気がついた。

匠は、自分の選んだ道がどれほど愚かだったのか、もう手遅れになって、やっと理解した。母のいない家で、新しい生活を始めるために、匠は今日も、母の古い電話番号をスマホに残したままにしている。かけることもできないと知りながら、ときどき、その番号を見つめてしまう。

それでも、電話をかける勇気は、もう二度と出てこなかった。母の声を聞いたら、泣いてしまいそうで。今さら謝ったところで、どうにもならないと分かっているくせに、匠は毎晩、リビングのソファーに座って、母のいない家の静かさに耐えている。そして、あの日、母が出て行くときに言った言葉だけが、頭の中で繰り返し繰り返し、渦を巻いている。

自分で言った言葉には、責任を持て。あの時の母の目は、怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。ただ、静かに諦めた、そんな目だった。匠はその目を、10年経っても永遠に、忘れられないだろう。