母さん、ちょっと話があるんだけど。
匠、どうしたの? 急に神妙な顔して。
匠はリビングのソファに座ったまま、母親を見上げた。テーブルの上には湯気の立つお茶があった。母はその向かい側に立っている。
親父も言ったし、母さん、この家出て行ってくれる? 母は一瞬、本当に一瞬だけ、間を置いた。それからゆっくりと首を傾げた。
はあ? 何言ってるの?

急に。
だから出て行ってほしいんだよ。出て行けって。
母は小さく笑った。笑うというより、鼻で嘲るような音だった。
あんた、何様のつもり? 何様って? 俺、この家の息子だし。
息子だから何? 親父が死んだんだから、この家は俺のものだろ。
母はその言葉を聞いても、怒るより先に呆れていた。目が本気で冷たくなった。
あんた、自分が何言ってるか分かってるの?
分かってるよ。当たり前のことを言ってるだけだ。
当たり前? 28年間、誰が養ってきたと思ってるの? それは母さんだけど。
だけどじゃないでしょ。あんた、結婚して3年でしょ。
そうだけど、その3年間、ずっと誰が養ってたの? 母さん。
家賃は?
払ってない。
それは。
高熱費は? 払ってない。
それは世話になってたけどさ。
食費は? 全部私が出したでしょ。
お世話になってたけど。
お世話になってた? ただで寄生してただけでしょ。
やめろよ、その言い方。
じゃあ、なんて言えばいいの?
28歳の既婚者が親の脛をかじってたって。事実でしょ。
匠は唇を噛んだ。母がここまで言い返すのは珍しかった。いつもは折れてくれるのに、今日は違う。
とにかく、俺たち夫婦の家にするから、母さん出て行ってくれる? 俺たち夫婦の家? はあ。意味が分からないんだけど。
だから、親父が死んだら俺が相続するんだよ。
相続? あんた、本気でそれ言ってるの?
当たり前だろ。
面白いわ。
何が面白いんだよ。
あんたの頭の中。
匠は立ち上がった。イスが床をこすって嫌な音がした。
何がおかしいんだよ。
この家、誰が買ったか知ってる? 親父だろ? 違うよ。
は? 私だよ。30年前、私の給料とボーナスを全部使って買ったの。
母の声は落ち着いていた。むしろその冷静さが、匠の感情を逆撫でた。
嘘だろ?
嘘じゃないよ。私は不動産会社の営業部長だったんだからね。あんたの就職だって、私のコネで決めたの、忘れた? 匠は口をつぐんだ。それは確かに忘れていた。いや、都合が悪いから忘れていたのだ。
忘れたんだね。都合の悪いことは全部忘れるんだ。本当に呆れるわ。
でも、母さん今働いてないだろ。
父さんの介護でやめたんだよ。それぐらい知ってるだろ。
知ってるけど。
知ってるけどじゃないでしょ。退職金の2500万、全部父さんの医療費に使ったのよ。
2500万? そう。あんたが相続するものなんて、何もないよ。
でも、この家はあるだろ。
匠の言葉に、母は静かに笑った。笑い方に力がなかった。
この家はね、匠。あんたの父さんが死んだら、私のものになるの。登記上、私の名前なんだよ。あんたにあげるものなんて、何もない。
母さんの名前? だって、それはおかしいだろ。夫婦で買ったんだろ?
違うよ。私が買ったの。私のカネで。
母さんの給料で? そう。あんたの父さんはあんたが産まれた頃、仕事がうまくいってなくてね。私は部長だったから、貯金もあった。全部、この家に注ぎ込んだ。
匠はフラフラとソファに座り込んだ。頭の中が混乱していた。今まで信じてきたことが、音を立てて崩れていくような感覚だった。
でも、それでも、俺は息子だろ。
息子だから何なの? だから、母さんより相続の権利があるんじゃないの? 母は深く息を吸った。それから、テーブルの上に置いてあったスマホを手に取った。
ちょっと待ってなさい。
何するんだよ。
母はスマホをいじりながら、淡々と言った。
あんた、さっき私に出て行けって言ったね。3日以内にって。
ああ、言ったよ。
それは取り消さないんだね。
取り消すわけないだろ。
母はスマホを置いて、匠をまっすぐ見た。
分かったわ。じゃあ、私もあんたの言う通りにする。
本当か?
本当よ。でも、あんたも約束しなさい。自分が言った言葉に責任を持てってね。
何だよ、それ。
その日の夜、匠の妻でさえも、母の話を聞いて呆れていた。
あなた、本気で言ってるの? 言ってるよ。だって、この家は俺のものになるんだから。
あなた、お母さんが30年前に買った家だって言ってたじゃない。
それは、そうだけど。でも、親父が亡くなったんだから、話は別だろ。
何が別なのよ。お母さんは何も悪くないでしょ。
お前まで、こっちの味方をしないのかよ。
匠はイライラしながらリビングを歩き回った。母は別の部屋で荷造りを始めていた。本当に出て行く気らしい。
すると、ついさっきまで音がしていた襖の向こうから、母の声が聞こえてきた。
匠、ちょっと来てくれない? 何だよ。
匠は襖を開けた。母はタンスの前にしゃがみ込んで、古い書類の束を取り出していた。
何だよ、そんなもの。
見てごらん。
母は書類を差し出した。匠は受け取って、何気なく眺めた。それは土地の権利書と、家の登記簿だった。
見た通りの名前が書いてあるよ。
匠は目を見開いた。登記簿の所有者の欄。そこには確かに、母の名前が記されていた。それも、父の名前はどこにも書いていなかった。
どういうことだよ、これ。
どういうことも何も、私は30年前にこの家を買ったの。この家は私のものよ。
でも、親父の遺産って言っただろ! あんたの父さんは、自分の遺産として何も残さなかった。病気で働けなくなったからね。私が全部、看病して、お金も払った。あんたの父さんの分も、あんたの分も、ぜんぶ私が背負ってきたんだ。
母の声は震えていたけれど、目は笑っていなかった。
あんたが私に言ったこと、覚えとくからね。3日以内に出て行けって。
匠は何も言えなかった。手に握っていた登記簿が、やけに重く感じられた。
その翌朝。リビングに母がいた。いつもの場所に座って、コーヒーを飲んでいた。
匠、あなた、私に言ったよね。3日以内に出て行けって。
匠は黙ったままだった。
私、ちゃんと準備するわ。あんたが言った通りにね。ただ、あんたも約束して。自分で言った言葉の責任を取るって。
何だよ、それ。
その時、玄関のチャイムが鳴った。母が立ち上がって、玄関に向かおうとする。匠は焦って、母の腕を掴んだ。
母さん、待って。
何?
匠の声は、昨日までとは別人のようにか細かった。でも、もう遅かった。母は振りほどいて、玄関のドアを開けた。
そこには、匠の妻の両親が立っていた。
こんにちは。今日からお世話になります。匠くんから、もう話は聞いてますよ。
母は振り返って、息子を見た。
そう。匠。あなた、よくもこんなことしたね。私、まだ何も言ってないわよ。でも、もう決めたから。私、今日、ここを出ていきます。
匠は、口を開けたまま何も言えなかった。母は妻の両親に頭を下げると、振り返らずに自分の部屋へ向かった。そして、数分後、大きなスーツケースを引っ張って、玄関に出てきた。
じゃあね、匠。娘さんを大事にしなさいよ。私は、もう戻らないから。
ドアが閉まった。家の中には、嫌な静けさだけが残った。匠の妻は両親と一緒に、リビングで何やら楽しそうに話している。匠は一歩も動けずに、玄関の前に立ち尽くしていた。
最初は、追い出された喪失感だけだった。でも、数日後、匠はじわじわと実感し始めた。家計が回らない。母は確かに、家計を支えていた。朝ごはんも、洗濯も、掃除も、母がやっていた。それを全部、自分たちでやる羽目になった。
妻は料理がうまくない。掃除も適当だった。家はどんどん散らかっていった。食費を自分たちでやりくりすると、1ヶ月も持たなかった。匠はようやく気づいた。
母さんは、俺のために、この家のために、ずっと動いてくれていたんだ。それなのに、俺は、何も分かっていなかった。
匠はスマホを取り出して、母に電話をかけた。コール音が数回鳴って、留守番電話に切り替わった。何度かけ直しても、母から折り返しはなかった。そして、数週間後、匠は母の知り合いから、噂を聞いた。母は遠くの県で、アパートを借りて、一人で暮らし始めたらしい。そして、生活のために、パートの仕事を始めたという。それは、今まで一度も働いたことがなかった母の姿だった。
匠は、自分が取り返しのつかないことをしたのだと、その時初めて思い知った。家は自分のものになっても、母という存在を失った。その代わりに手に入れたのは、母のいない、冷めた家だけだった。
数ヶ月後、匠は家を売ることにした。妻の両親と暮らすために、新しい家に引っ越すという理由で。売却した金額から、母に渡すべき遺産の分を差し引いて、残りを自分の口座に入れた。でも、そのお金を見るたびに、匠は母の顔を思い出した。母が言った通り、母はこの家の権利を持っていたのだ。そして、母を追い出した自分が、母から何も奪えなかったことに、ようやく気がついた。
匠は、自分の選んだ道がどれほど愚かだったのか、もう手遅れになって、やっと理解した。母のいない家で、新しい生活を始めるために、匠は今日も、母の古い電話番号をスマホに残したままにしている。かけることもできないと知りながら、ときどき、その番号を見つめてしまう。
それでも、電話をかける勇気は、もう二度と出てこなかった。母の声を聞いたら、泣いてしまいそうで。今さら謝ったところで、どうにもならないと分かっているくせに、匠は毎晩、リビングのソファーに座って、母のいない家の静かさに耐えている。そして、あの日、母が出て行くときに言った言葉だけが、頭の中で繰り返し繰り返し、渦を巻いている。
自分で言った言葉には、責任を持て。あの時の母の目は、怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもなかった。ただ、静かに諦めた、そんな目だった。匠はその目を、10年経っても永遠に、忘れられないだろう。