あの日、義理の妹のさくらちゃんから、これでもかというほど嫌味を言われた。結婚の報告をしに顔を出したその場で、向こうは最初から牙をむいていた。
「中卒の人にお姉さんなんて呼ぶ価値もないけど。まあ、一応便宜上そう呼んであげるわ。結婚おめでとう」
お祝いの言葉かどうかも分からない口調に、一瞬で背筋が冷たくなった。何か言われるとは思っていたが、まさか最初から本気で嫌ってくるとは思わなかったからだ。
「余計なディスが多すぎて、祝福が入ってこないんだけど」
笑顔を貼り付けたまま言い返すと、さくらちゃんはふんと鼻を鳴らした。
「お兄ちゃんと結婚したのは学歴が目当てでしょ。大卒の夫のステータスが欲しかったんでしょ。違うの? だって、中卒らしいし」
「なんで私がそんなことのために、かゆと結婚しなくちゃいけないの。……ていうか、その言い方、失礼すぎない?」
「だって、中卒じゃん」
「それが何? 別に学歴で人の価値が決まるわけじゃないでしょ」
「学歴コンプレックスでもあるんでしょ。可哀想に」
「持ってないよ」
「見え張らないでよ。気持ち悪いな」
「ちょっと、話にならないんだけど」
息が荒くなるのを感じた。どうやら向こうは私を怒らせるために喋っているとしか思えない。感情をぐっと飲み込んで冷静になろうとすると、さくらちゃんが勝ち誇った顔で続けた。
「ああ、そうだね。こっちこそごめん。私、私が読めるのに、相手が読めない言葉を選んで話してても意味ないもんね。日本語の勉強から始めたら?」
挑発的な笑み。流石にカッとなった。
「全部読めてるよ。あなたが言うことが下手なだけ。……それに、中卒のこと、何だと思ってるの?」
「義務教育しか受けてない哀れな人たちでしょ」
「哀れかどうかは人が決めることじゃない! いろんな理由でそうなった人もいれば、自らその道を選んだ人もいるんだから」
「綺麗に言えばそうかもね。けど、結局のところ負け組じゃん。世の中には中卒でも政治家になった人もいれば、社長になった人もいるんでしょ? でも、あなたはそのどれでもない」
改めて言われると、胸がちくりと痛んだ。それでも、私は引かなかった。
「とにかく、私は学歴でお兄さんを選んでない。それだけは断言する。……あなたがどう思おうと、私は夫を誇りに思ってるから」
「じゃあ、なんで結婚式しないの?」
急に話題が変わって、拍子抜けした。
「別に、写真だけ撮ればいいかなって。2人で決めただけよ」
「隠さなくていいから。ねえ、紹介とか友人挨拶で『中卒』ってバレるのが嫌なんでしょ。みっともないもんね」
「別に隠すつもりはないけど。お兄ちゃんの友達には、黙っててあげようか?」
「大丈夫。気が済むまで言いふらしてくれていいから」
「またまた。そんなの、恥をさらすだけだよ。私は兄の友人たちを馬鹿にする夫は嫌だな。……というか、ここまで言ってもまだ分かんないの?」
「何が?」
「だから、そういうところだよ。お兄ちゃんがあなたを選んだのは、可哀想だから助けてやろうって同情したからだよ。全部わかってやってるのに、お世辞でもなんでもなく、ちゃんと選んだんだから」
最後の言葉は、もう半分投げやりだった。正直、心のどこかで夫に同情されたのかもしれないと思っている自分もいたからだ。
「……とにかく、さくらちゃんの言い分は分かった。私、帰るわ」
立ち上がろうとすると、さくらちゃんが冷たい声で言った。
「とりあえず、これでどう?」
机の上に、数枚の札束を置いた。思わず見入ってしまう。
「何のお金?」
「口止め料。お兄ちゃんには言わないでくれるんでしょ、この話は。学歴のことでいじめたって、黙っててくれたらって」
……私は、そこまで安い女じゃない。
「洗わないよ、そんなお金。……あっそ。じゃあ、今後は可愛い義妹ってことで、よろしくね」
「自分で言うか、普通」
数分後、私は夫にメッセージを送った。
『舅さん、今日、入籍3日で妹さんから熱烈な祝福を受けたわ』
既読はすぐに付き、返事が来た。
「おお、そうか。まあ、仲良くやってやってくれよ」
「冗談よ。…めちゃくちゃ嫌なこと言われたんだけど」
小さなため息をついて、私は夫にすべてを打ち明けた。中卒だと馬鹿にされたこと。学歴コンプレックスだと言われたこと。お兄ちゃんを取られたと怒っているようだったことを。
夫は黙って聞いていたが、最後にぽつりと呟いた。
「悪かったな。アイツは……末っ子で、わがままなのは分かってるんだけど、だからってあんな言い方していいわけじゃないよな。……すまん」
「私、あれでも結構傷ついてるんだけど」
「分かってる。今度、ちゃんと言っておくから」
そう言ってくれたので、私は頷いた。が、それでも私は夫に言いたいことがあった。
「お兄ちゃん、私の味方はしてくれないの? あんなにひどいこと言われて、悲しいのはこっちだよ」
夫は困ったように頭をかいた。
「悪いって。あいつ、悪意があって言ったわけじゃないんだよ。ただ、ちょっとわがままだっていうか。お前のことを姉だと思って可愛くないことを言っちゃうだけで」
「そういうの、私からしたら『悪意がないから許せる』問題じゃないんだけど」
夫の手前、あまり言い過ぎるつもりはなかったが、さすがに黙っていることにも限界があった。とはいえ、物わかりのいい妻を装わなければ。私は深く息を吐いた。
「分かったよ。でも、これ以上攻撃してきたら、私も黙ってないから。私からも、きちんとお願いしておいて。兄さんがお母さんと同じように距離を置くことになったら嫌だから」
「ああ。……次に会ったら、俺からも言っておく」
その日はそれで終わった。だと思っていた。
数日後。
「お姉さん、明日、時間つくってくれない? 話があって」
珍しく、さくらちゃんから連絡が来た。何の話か分からないが、あの日の続きだろう。嫌な予感がしつつも、私は実家に行くことを伝えた。
翌日、指定されたカフェで待っていると、さくらちゃんはカバンを抱えて現れた。着席早々、口を開く。
「まず、この前言い過ぎた。ごめん」
いきなり頭を下げられて、面食らった。
「え? いいよ、別に。もう気にしてないし」
「言うと思った。……でも、本当は伝えたいことあって、こうして時間をもらったの。お姉さん、お兄ちゃんと離婚してほしいの」
何を言い出すんだ、と思わず聞き返した。
「は? 何、今さら。離婚しろって言うためにわざわざ呼んだわけ?」
「うん。……というか、いや、ちょっと違う。話を聞いて」
さくらちゃんは一度目を伏せてから、ゆっくりと話し始めた。
「うち、お父さんが介護状態なの。知ってる?」
「え? ……お義父さんは、確か病気してたって聞いたけど。実家であんまり面倒見れてないってのは、お兄ちゃんから聞いてる」
「そう。お母さんが仕事しながら1人で介護してて、私も実家にお金を入れてる。貯金も切り崩してる状態。……で、お父さんに借金があって、お兄ちゃんもそこに毎月5万円くらい振り込んでくれてたんだよね」
「仕送り? それは知らなかった」
「当然知らないよね。……お兄ちゃん、エミさんと結婚するってなってから、『もう仕送りはできない』って言い出したの」
「結婚したら、生活もあるもんね」
「そう。私も口出しはできないから。……でも、お母さんの体調が悪い時は、私だって仕事を休まなきゃいけないし。パートの私が稼いだって、手取りで20万円もいかないの。正直、もう限界なわけ」
そう言って、さくらちゃんは手元のコーヒーカップを見つめた。さっきまでの攻撃的な態度はもう影をひそめていた。
「なるほど。……じゃあ、私とお兄さんが離婚すれば、また仕送りが元通りになると思って、あんな攻撃してきたんだ」
「……そう。最初は、もうお兄ちゃんに離婚してほしいとしか思ってなかった。憎たらしかったんだよ。体調の悪いお母さんがなんとか働いて介護してるのに、結婚に浮かれてるお姉さんが許せなかった」
そこで彼女は、ちいさく「ごめんな」と呟いた。
「エミさんは、悪くないんだ。私が言うことじゃないけど、それでお兄ちゃんを責めても仕方ないし、お姉さんも関係ないのは分かってる。……でも、あの時はどうしても、誰かを攻めたくて」
「……分かってる。ちょっと正直、すっごく嫌な気持ちにはなったけど。でも、あなたの気持ちも分からなくはないよ。お母さんの負担を思うとね」
さくらちゃんが目を丸くした。
「……嫌なやつじゃないんだね。私、お姉さんのこと、攻撃しちゃってさ。しかも、慰謝料代わりに10万円振り込んだの、お姉さんでしょ。あれ、お兄ちゃんから聞いた。ああいうの、受け取れない。お母さんが介護で本当に死にそうだから、ちゃんと使ってほしい」
あの金を受け取らないのか。私は少し困ったが、彼女の言葉を無下にするわけにもいかない。
「……それは、どういう意味?」
「エミさん、今無職なんでしょ。本当はお兄ちゃんにお前が働けって言いたいんだけど、今のお前じゃ二人とも食べられないし。混乱させて悪いけど……とりあえず、その10万円は私がお母さんに渡す。お母さんの介護疲れがマシになるなら、いくらだって払う。あと、代わりに言っておいてくれる? 『お前に介護の手伝いはできないけど、お母さんもさくらも殺さないでください』って」
予想外の展開に、私は頭が追いつかなかった。
「ちょ、ちょっと待って。介護を手伝う? あなた、私のこと嫌いなんじゃなかったの?」
「嫌いだから手伝わないってわけじゃないよ。……私、今のあなたを見て、ちょっとだけ自分のことを恥ずかしくなったんだ。どっちかっていうと、迷惑かけたくないっていうか。……あと、私は仕事探すから」
「仕事? いや、一応、退職した手前、もう少し落ち着いたら働こうとは思ってる」
「そう? なら、今のうちに仕事決めておきなよ。年齢の問題もあるし。私みたいな中卒の若造が言うのもおかしいけど、先々、奨学金の返済とかもあるんだったら尚更ね。……あのさ、お姉さん、何で私にここまで優しくしてくれるの? 一番きつい時に、いちばん嫌な女だって思ったでしょ」
「思ったよ。……思ったけど、あなたが本心から謝ってるって伝わったから。それに、義理の妹が苦労してるって分かってて、嫁の私が舅を病院に連れて行くだけの余裕もないし。仕送りできないってお兄ちゃんに言わせてるのは、妻の私のせいでもあるし」
「……やめろよ。お前が謝ることじゃないって」
彼女は俯いてしまった。しばらく沈黙が流れたあと、さくらちゃんは顔を上げた。
「正直に言うね。お姉ちゃんのことが、最初は本気で憎かった。でも、今は違う。……あんたみたいな人間が、兄の隣にいてくれて。本当に、本当に良かった」
その瞳は潤んでいた。さっきまでの目つきとは全然違う。
「なくて、あの時言った『中卒くそ』って言葉、忘れないでよ。傷ついたけど、ちゃんと覚えてるから。二度とあんな言い方しない。……お姉さん、これからも兄と結婚していてほしい。本当は離婚なんて考えてなかった。絶対、一生恨んだるからな」
泣き笑いみたいな複雑な表情で、彼女は言うのだった。
数日後、さくらちゃんから夫に連絡が入った。どうやら両親とも話し合ったらしい。舅の介護と仕事の調整をするために、私も時々実家で手伝いをすることになった。夫の仕送りを減らさずに済むように、私がパートで働き始めたのは言うまでもない。そろそろ子供も考えたい時期だが、今は目の前の生活を大事にするのが一番だと思っている。何より、家族の形は一つじゃない。
あの日、全力で夫を責め立てた日々を思い出す。あの時、あのままエミさんが離婚を選ばずにいてくれたこと。そして、妹の本気の言葉を聞いて、私たちは本当の意味で姉妹になれた気がした。何がどう転ぶか分からないものだ。
