美容院で髪を切っている最中に、夫から電話がかかってきた。出てみると、いきなり怒鳴られた。「おい、今すぐ病院に来い。娘の出産に立ち会わないなんてどういうことだ」。はあ?私、産休前に髪を整えてるだけなんだけど。しかも、隣に座ってた女が電話越しに「私、大地の妻です」って。え?何それ。私は今、美容院で髪を切ってるんだよ。動けないんだから当然でしょ。でも、その女が言った次の一言で、頭が真っ白になった。…

美容院で髪を切っている最中に、夫から電話がかかってきた。出てみると、いきなり怒鳴られた。「おい、今すぐ病院に来い。娘の出産に立ち会わないなんてどういうことだ」。はあ?私、産休前に髪を整えてるだけなんだけど。しかも、隣に座ってた女が電話越しに「私、大地の妻です」って。え?何それ。私は今、美容院で髪を切ってるんだよ。動けないんだから当然でしょ。でも、その女が言った次の一言で、頭が真っ白になった。...

朝はごめんね。送った動画、見てくれた?
見たよ。この前の魔王の発表会のやつだろ。
そうそう。うちの子、可愛くない?
そりゃあみさの娘なんだから。可愛いに決まってるだろ。
何?私のこと好きなの?
好きじゃなきゃ結婚してないだろ。バカなことやってんなよ。
え、乗ってくるんだ。
それにしても、あの腕の角度は原点だな。
は?腕の角度?
踊りの振り付け自体は悪くない。三歳の幼稚園児でも踊れるように工夫してあるし。
あの、ちょっと。
まお自身、顔はいいんだ。だから観客の視線が顔に向くように、腕の角度をもう少しこうすると。
おーい。奥さんが置いてかれてますけど。
うん。あ、終わり。
いや、いつものことだからいいけどさ。クソ真面目っていうか、なんていうか。
総合して、魔王の踊りはギリギリ大台だな。
出た。採点癖。
あ、終わり。
謝んなくてもいいって。結婚前は若干引いてたけど。
引いてたのか。
今となっては一周回って面白いから大丈夫。
そうか。
ただし、人前ではあんまりやらない方がいいよ。
悪い癖だって自覚はあるんだけどな。つい。職業病ってやつだよね。人事部で面接も担当してるわけだし。何でも評価するのが癖になってるの。
気をつけるよ。
まあ、そこまで仕事に真面目に向き合ってるのは素直に尊敬してるからさ。私の前ではそんなに気にしないで。
ありがとう。
で、話は変わるんだけど。ついさっき、あなたの元妻を名乗る女性が来たんだけど。
は?うちに来たのか。
すぐに帰ってもらったけどね。あなた、離婚歴ないって聞いてるし。なんか怖いじゃん。
そうか。その人、知人なんだ。
知人?まあ、私と同年代っぽかったけど。同級生?
上司の娘でな。お前と結婚する前に、紹介されたことがあるんだよ。
そうなの。付き合ってたとか?
いや、丁寧にお断りした。見た目はともかく、感情的な人でな。どうも合わなかったんだ。
で、なんで元?あの見た目でしょ?
うん。まあ、綺麗な人だったよ。スタイルもすごく良かったし。
振られたのが納得いかなかったみたいで、それ以来、何かとちょっかいかけてくるんだよ。それでついに我が家にまで来たってわけだ。
で、大丈夫なの?上司の娘だし、無下にはできないでしょ。
俺の方からまた話をしておくよ。みさは安心してくれていい。
そっか。大地がそう言うなら、また来るようなら追い返せばいいから。悪いけど頼むね。
ああ、わかった。
じゃあ、午後のお仕事を頑張ってね。

それから一週間後。スマホが鳴った。画面には大地の名前。出てみると、そこからは怒声が飛んできた。
おい、裕子。どういうことだ。
は?何が?
ゆう、お前、いい加減にしろよ。俺たちの娘の出産に立ち会わないって、どういうことだ。
はあ?何言ってるの?私、今美容院にいるんだよ。産休前にどうしても髪を整えておきたくて。
お前、それは言い訳にもならん。もうすぐ生まれるんだぞ。今すぐ病院に来い。
無理だよ。動けないんだから。
は?動けない?美容院にいるんだろ、お前。
そうよ。美容院では髪を切ってるんだから、当然じゃない。
それが理由になるかよ。バカ。
そう言ってるうちに、隣に座っていた女が口を挟んできた。顔は整ってるけど、なんだか気に食わない感じの女。ボブカットにしたらしい髪を揺らしながら、こっちを見てニヤリと笑った。
どうも、はじめまして。
誰?あんた、まさか。
私、大地の妻です。
は?
ちょっと待て、みさ。違うんだ。これは、その、知り合いへの連絡のことで。
あら、妻の前で何言ってるのよ。さっき、はっきり言ってたじゃない。第一の、大好きな奥さん、みささんですって。
いや、それはそう言ったけど、こういう事情があってだな。
スクショしたわよ。
へ、待ってくれ。みさ。
あっぶね、声出た。
あ、今の録音したから。言い訳は後でじっくり聞くとして、とりあえず私は美容院の続きをやるから。
そう言って、電話は一方的に切られた。車の中で、隣に座る裕子のことが、まさかあそこまでとは、と頭が痛くなる。

三十分後。落ち着かない気持ちのまま、俺は喫茶店で裕子と向かい合っていた。
いや、裕子さんの言う通りでしたね。まさか、大地さんに二十歳の娘さんがいたなんて。
それどころか、離婚歴がないってのも嘘だったんでしょ?あと、上司の娘ってのも。
あいつ、そんな言い訳してたの?はあ、受ける。
受けんけど。
で、何?なんで私とアイコンお揃いにしてるの?
あえてよ。
は?あえて?
あえて。そう言って、裕子は自分のスマホを見せつけた。そこには、俺がみさに送ったことのある犬のアイコンと同じものが表示されていた。
もしかして、今回の騒動を誘発させる気だったとか?何それ?
単純に、大地の気を引くためよ。
は?何それ。意味がわからないんですけど。
え?私のファンとかですか?
違うわよ。知ってるわ。
じゃあ何なんですか。それに、今どこにいるんですか?
そんなの聞いてどうするの?
いや、娘さん出産されるんですよね。立ち会うんじゃないんですか?
ああ、いいのよ、いいの。どうせ大地が立ち会ってるし。
そういう問題じゃないでしょ。
それに今は無理よ。動けないもの。
動けないって、美容院にいるからってことですか?今、髪切ってますけど。
美容院ではそれが当然でしょ?
でしょ?けど、出産中の娘がいるっていう母親にとっては、当然じゃないですよ。
ボブカットにしてもらったのよ。髪色も変えるわ。暗い茶色に。
え、やっぱり私のファンなんじゃないですか?
なんでそうなるの?
だって、その髪型と髪色って、私と全く一緒ですから。
言ったでしょ。これも大地の気を引くためよ。
え、気を引くどころか、ドン引きなんですけど。
ともかく、これではっきりしたでしょ。
何がですか?
あんたは大地にとって、ただのキープってことよ。
は?ご存知なんですか?普通、キープとは結婚しませんよ。
うるさいわね。私はね、あんたよりも顔もいいし、スタイルもいいの。
確かに、初めて会った時は衝撃でしたよ。
でしょ?でしょ?胸にバレーボール詰めてるのかと思いましたからね。
褒めてないわよね、それ。
褒めてるんですよ?自信持ってくださいよ。
なんであんたに励まされてんのよ。
とにかく、私は大地とは十年以上も夫婦だったの。あんたは四年目でしょ?負けたわね。
まあ、そうですね。
今でも大地との関係は続いてるし。娘だって、大地はまだ独身だと思ってるわよ。
うん。まあ、娘さんには言えませんよね。
つまり、あんたみたいなポッと出には邪魔なのよ。さっさと離婚して、大地の前から消えなさい。
確かに、大地に裏切られたのはショックですよ。
そうでしょ。なら、離婚しなさいよ。
でも、離婚とかになると、話は別です。
はあ?
夫婦間の問題ですからね。部外者の裕子さんがあれこれ出しゃばるのは違うでしょう。
部外者?あんた、よく言うわよ。
これでも一応、大地の妻ですから。あの人の性格も分かってます。
それが何?
このまま、ただ離婚して、はい、おしまい、で済ませるつもりはないってことですよ。
は?どういうことよ。
だから、私は離婚しませんよ。大地と。
おい、裕子。どう責任取るつもりだ?
ああ、責任?何よ、それ。あんたのせいで、みさが魔王を連れて実家に帰ったんだぞ。
私のせい?冗談やめてよ。あんたの不義理が原因でしょ。
何が不義理だ。実の娘の出産にも立ち合わなかったくせに。
あんたが立ち合ったんだから、いいでしょ。
よくないだろう。そもそも、なんだそのラインのアイコンは?
みささんとお揃いにしたのよ。何度も言ったけど、あたしが一番の親友だってアピールしてるの。
は?意味がわからん。
わからないなら、いいわよ。

その日の夜。俺はみさに電話をかけていた。何度かけても出ない。メッセージを送っても既読がつかない。魔王を連れて実家に帰ったという連絡だけが、裕子経由で入っている。不安でたまらない。
俺が悪かった。LINEのアイコンなんかに浮かれてたわけじゃない。ただ、娘のまおが生まれて、仕事も順調で、この幸せがいつか崩れるんじゃないかって、そんな不安があったからだ。
裕子のことは、何の未練もない。でも、断ったことを根に持って、ずっとちょっかいをかけてくる女がいることは知っていた。上司の娘で、綺麗な女だった。だからこそ、勘違いしやすい相手だというのも分かっていた。
みさが怒るのも無理はない。自分が何も知らないところで、夫の元妻だという女が家に来ていたんだ。しかも、自分とお揃いのアイコンを設定して、わざわざ挑発してきたとくれば、不機嫌になるのも当然だ。
でも、離婚なんて絶対に嫌だ。まおもいる。みさと家族でいるために、自分は何をすべきなんだ。
とりあえず、今はみさの気持ちが落ち着くのを待つしかない。そう思って、俺はしばらく連絡を待つことにした。
翌朝、スマホを見ると、みさからメッセージが届いていた。
「魔王は元気だよ。お前のことはまだ許す気はないけどな」
それだけだった。安心したような、もっと話したいような、複雑な気持ちになった。とりあえず、返信を打つ。
「わかった。ありがとう。まおのことは本当に悪かったと思ってる」
既読はついたが、返信はなかった。でも、それだけで十分だった。まだ見捨てられたわけじゃない。

それから一週間。俺はひたすら仕事に打ち込みながら、みさからの連絡を待っていた。すると、また裕子から電話がかかってきた。
何の用だ。お前に話すことはない。
あら、冷たいわね。義理の父になるあなたに、祝いの言葉を言おうと思ったのに。
何の話だ。
娘が産まれたって連絡が来たわよ。おめでとう。
まさか、みさが。
ええ、予定日より早かったみたいね。今、病院にいるんじゃない?
そう言うと、裕子はケタケタと笑った。
俺はすぐに病院へ向かった。病室の前で、俺は大きく息を吸った。中からは、産まれたばかりの娘を抱く、疲れ果てたみさの姿が見えた。
みさ。
声をかけると、みさはゆっくりと顔を上げた。目が合う。一瞬の間。
あ、ごめん。来るんじゃなかった?
いや、そんなことない。入れよ。
病室に入ると、みさは赤ん坊を見せてくれた。まおにそっくりだ。
名前、決まったのか?
うん。真央。大地の字を取って、真央。…いい?
ああ、いいに決まってるだろ。
俺は、みさと真央を抱きしめた。何も言えなかった。しばらく、しばらく抱きしめて、ようやく言葉を絞り出した。
許してくれるか?みさ。
もう、このバカ。当たり前だろ。お前が謝るなら、俺も悪かったと思う。でも、あの女を許すつもりはないからな。
まさか、そんなこと言うとは思ってなかった。俺は笑って、みさの頭を撫でた。
ありがとう。
何がだよ。
夫婦でいてくれて。
ほっとけ。寝てるよ、真央が。
見ると、腕の中の真央がすやすやと寝ていた。大切な時間だった。この日を境に、あのバカな女とのことも、もう終わりにしようと思った。

退院して一週間後、今度は俺のスマホに見知らぬ番号から着信があった。出ると、相手はみさだった。
もしもし、大地?
…どうしたんだ、みさ。まさか、裕子が何か?
いや、今、家に来たのよ。あんたの元妻って人。
は?!今、どこにいるんだ。すぐ行く。
大丈夫よ。もう帰ったから。こういうことはきっちりと言っとかないとねって話をしてやったの。
そうか。悪い、迷惑をかけた。
迷惑なんて、思ってないよ。ただ、あんたは私の旦那だし、娘の父親だ。これからも、家族でいるためには、ちゃんと向き合わないとね。それだけよ。
ああ、わかった。
それじゃあ、真央のミルク買ってきてくれない?
安心して、任せておけ。すぐに買って帰る。
電話を切ると、俺は家を飛び出した。みさは強くなった。いや、元々強かったんだろう。ただ、俺が無意識に弱い部分をみせていただけで。
俺はもう、何も迷わない。この家族を守るために、できることをやる。それが、俺の役目だ。
日が沈みかけた頃、スーパーの袋を提げて家に帰ると、玄関に立つみさの姿があった。真央を背負って。
おかえりなさい。
ただいま。ミルク買ってきたぞ。
うん。それより、少し散歩してきてよ。真央が今日はぐずってて、何とかやってたところなんだ。
ああ、いいぜ。一緒に歩くか。
え?いや、いいよ。あんたは疲れてるだろ。
いや、いいんだ。これくらいの時間が大切なんだよ。
そう言って、俺は妻と娘と一緒に、ゆっくりと夜の街を歩き出した。もう、あのバカな女のことを思い出す必要はない。俺の隣には、この人の居場所がある。それだけで、十分だった。
そう、それで十分なんだ。

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