電話の向こうで母の声が震えていた。いや、震えていたのは自分もだった。スマートフォンを握る手に力が入る。リビングのソファに座ったまま、俺は受話器の向こうの言葉を聞いていた。
「かつや。お父さんが危篤なの。今すぐに病院に来て」
「え、そんなに悪いのかよ」
「前から悪いって言ってたでしょ。なのにあなたは一度もお見舞いに来ないで」
「忙しかったんだよ」
「それはもういいから。お父さんの最後なんだから、あなたも今すぐに病院に来なさい。今夜が山だってお医者さんが言ってるの」
「行けたら行くよ」
「行けたら行くで来る人なんていないのよ。絶対に来なさい。仕事だって事情を言えば休めるでしょ」
「そうかもしれないけど、そもそも父さんは俺が来ることを望んでないだろ。俺と父さんは仲が悪くて、ほとんど口も聞いてなかったし」
「そうかもしれないけど、最後くらいはいいでしょ。お父さんだってきっと喜ぶはずだから」
「どうだろうな。俺はそんなことないと思うけど」
「どうしてそんな考え方になったのよ」
「俺は俺で、新しい家族がいるんだ。だからこっちで幸せに生活してる。大切な人がそばにいてくれることの幸せは分かってるつもりだ。だからこそ、父さんも俺なんかより母さんが近くにいてくれた方が幸せなんだろ。俺と父さんはもう家族と呼べる関係じゃないから」
「どうしてそんなことが言えるの? お父さんはあなたのことを心配してたわよ」
「もう道は別れたんだ。父さんのそばには母さんがいてあげてくれ。葬儀には一応出るつもりだから」
「本気でそう言ってるのね」
「ああ、もちろん」
「分かった。あなたがそういうのなら仕方ないわ。好きにしたらいい」
「悪いな。よろしく頼むよ」
通話が切れた。リビングの天井を見上げる。もう戻れない関係だということは自分が一番分かっている。それでも、胸の奥で何かが引っかかる。だが、それは考えないことにした。今の自分の家族はここにある。俺が選んだ道だ。
一時間後、玄関のチャイムが鳴った。出てみると、リナが立っていた。涙で目を赤く腫らしている。
「リナちゃん、どうしたんだ? 何かあったのか?」
「おじさんが危篤なんだって。おばさんから連絡が来て」
「ああ、さっき俺も聞いた」
「かつやさんは行かないの?」
「行かない」
「どうして? お父さんでしょ」
「俺とあの人は、もうそういう関係じゃないんだ。それに、今さら行ったところで何を話せばいいんだよ。気まずいだけだ」
リナはしばらく何かを考え込んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「分かった。じゃあ、私が病院に行くよ」
「え? お前が?」
「だって、おばさん一人じゃ辛いでしょ。自分が行くよ」
「でも、用事があるんじゃないのか? 今日は確か仕事が休みだとか言ってなかったか?」
「今日は仕事が休みだし、大丈夫だよ。事実上の家族みたいなものだからね。昔からずっと可愛がってもらってたし」
「悪いな。頼むよ」
リナは小さく頷くと、そのまま病院へと向かっていった。
病院の白い廊下。消毒液の匂いが鼻につく。リナは病室の前で立ち止まり、深呼吸をした。中からは機械の音が聞こえてくる。覚悟を決めて、ドアをノックした。
「どうぞ」
母の声が聞こえる。リナが扉を開けると、病室には母だけがいた。ベッドに横たわる父の姿は、思っていた以上に小さく見えた。
「リナちゃん、来てくれたのね。ごめんね、頼っちゃって」
「いえ、こちらこそ突然呼び出してしまって。でも、一人でいるのは辛いと思って」
「ありがとう。あなたは本当に優しい子ね」
母は涙ぐみながら、ベッドの上の夫を見つめた。リナも隣に立って、眠るように息をするその姿を見つめる。
「おじさん、若いのに」
「本当よ。まだこんな歳でこんなことになるなんて、思ってなかったわ」
「勝也さんは来れないんですか?」
母は一瞬、表情を強張らせた。そして、何かを言いかけて、やめる。リナにはその表情が痛いほどよく分かった。
「あなたには言ってなかったけどね。うちの親子は正直、関係がうまくいってなくて」
「え? どうしてですか?」
「そもそも、夫とかつやは気が合わなかったのよ。何かにつけてよく喧嘩をしてたわ。でも決定的になったのは結婚だと思う」
「結婚が?」
「かつやが、私たちに何の報告もなく結婚したのよ。私たちが聞いたのは、式を挙げる1か月前だったわ。いきなり招待状が届いて、参列してくれって言われたのよ。そこで大喧嘩になっちゃって」
「そうだったんですか」
「報告だけでも欲しかったって話をしたら、かつやとか向こうの両親がすごく感情的になったのよ。その態度に夫が頭に来ちゃってね。私もちょっと向こうの親御さんたちの対応が変だったから心配で声をかけたりしたんだけど、それが余計になっちゃって。関係がどんどん悪化しちゃったの」
「確かに、大人になってから勝也さんを見なくなったなとは思ってました。一応、結婚式には参列したけど…」
「そうね。でも、そこでもまた喧嘩をしちゃってさ。そこからは連絡もそんなに取らなくなっちゃって。でも、夫の最後くらいは見送ってもらいたかったわ」
リナは隣で沈む母の肩をそっと抱き寄せた。
「分かりました。勝也さんの代わりにはなりませんけど、私が病院にいますから」
「ありがとうね。リナちゃんが来てくれるだけで、夫はとても喜ぶと思うわ。本当に小さい頃からずっと一緒だったからね」
「いえ、これくらい何てことないですよ。私からすると、お二人がいなかったら今の私はいないと思ってますから」
「それは大げただって」
「いえ、本気でそう思ってますよ」
リナの目は本気だった。幼い頃、近所に住んでいて、いつも遊んでくれた人。家族よりも長い時間を一緒に過ごした、もう一つの家族。そんな存在の最期の時間を、せめて見守りたいと思った。
翌日、リナのスマートフォンが鳴った。相手を見ると、母からだった。電話を取ると、返事を待たずに声が飛び込んできた。
「お父さんが亡くなったわ」
リナは何も言えずに、ただ黙って携帯電話を握りしめた。視線の先でカーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。
一週間後。リナのスマートフォンが再び鳴った。今度はかつやからだった。画面に表示された名前を見て、少し迷ってから通話ボタンを押した。
「もしもし」
「おい、リナか。葬式の件なんだけどよ。式場の段取り、手伝ってくれないか」
「分かりました。段取りしますよ」
「頼むわ。人に任せられることじゃないし」
一週間後。告別式を終えた後、リナは片付けを手伝うためかつやの実家に訪れていた。久しぶりに訪れたその家は、少し古びていたが、そこに生活の匂いがした。縁側からは木の葉が揺れるのが見える。
部屋の片隅で段ボールの箱をまとめながら、リナはふと顔を上げた。すると、玄関のチャイムが鳴り、玄関の方を向く。
「すみませーん」
リナが応じる前に、かつやが先に玄関へ出ていった。
「おう、お前らか。よく来てくれた」
すると、今度は複数人の足音。かつやの後ろに立っていたのは、見知らぬ女性と子供たちだった。
「帰ってきたよ」
リナはその光景を呆然と見つめた。
「かつやさん、この荷物は? それに、この人たちは…?」
かつやは何の躊躇もなく、あっけらかんと言った。
「俺の家族だ」
女性は静かに会釈をした。
「はじめまして、リナさん。私はユキと言います。こちらが夫のかつや、それと私の連れ子……って言うのもおかしいけど、この子たちが私の娘です。これからここで暮らすことになるんです」
「はあ? ちょっと待ってよ。ここで暮らすって…。この人は誰? どういうこと?」
かつやが、何のてらいもなく答える。
「家族だよ。新しい家族だ。引っ越してくることにしたんだ」
「引っ越して…って、だってここはお父さんの家でしょ? お母さんはどうするの?」
「母さんは、もう出ていってもらう」
リナは耳を疑った。
「はあ? ちょっと待って。どういうこと? あんた、今何て言った? この家はあんたたちのものだろう? お母さんを追い出すっての?」
「俺が相続するからな。この家はもらったも同然だ。それに、母にはもう出ていってもらう。新しい生活を始めるんだ。ここで、家族三人で」
「ふざけるな! お前、いくらなんでも酷すぎるよ。お父さんが亡くなったばかりだっていうのに、何を言ってるんだ!」
「うるさいな。口を挟まないでくれないか」
「口を挟むって…。あんたお母さんをどこに追い出すつもりだよ。もう歳なんだぞ!」
「それは向こうで考えてもらうしかない。施設を探すとか、何とかするんだろ」
リナの体が震えた。
「そんな…。どうしてお前がそんなこと決めるんだよ。分かってるのか? あんたのやっていることを」
「分かってるさ。だが、今更遅いんだよ。何せ俺はこの家に住むことを決めたんだから」
「本気で言ってるのか、かつや!」
「本気だ、本気。それで悪いんだけど、明日からこの家を片付けてくれないか? 新しい家具を入れるから」
リナは言葉を失った。じっと短く息を吐いた後、何か決意したように顔を上げた。
「…分かった。分かったよ、かつや」
「そう言ってくれると助かるよ」
「そのかわり、もうお前に関わりたくない。もう二度とこっちに来るな。あんたの顔なんて、見たくもないんだよ。さよならだ」
リナはそう言い放つと、ドアの外へと歩き出した。振り返ることもなく、玄関の外へ出た。
その後ろで、かつやの冷たい声が聞こえた。
「あんたが幸せなこと、祈ってるよ」
リナは足を止め、すぐに振り返った。
「役立たずのイカレ野郎。あんたも幸せになれるといいな。でも、どうせなれっこないけどな」
もう二度と振り返らなかった。リナは家の角を曲がると、その場にしゃがみ込んだ。涙は出なかった。目の奥が熱くなるだけで、泣けなかった。
一週間後。リナは新しい部屋にいた。実家から送られてきた段ボールを、何も考えずに眺めている。
そこに、携帯が鳴った。見ると、兄からだった。
「もしもし、リナか。聞いてくれ。母さんが入院することになった」
「え?」
「部屋を追い出された後、体を壊しちゃってさ。まあ、あの男のせいだよ。勝也って言ったっけ。あいつが全部、ぶち壊したんだ」
「兄さん、ちょっと待って。今、何て言った?」
「あの男だよ! かつやだ! あいつが家を売り払って、母さんを追い出したんだ!」
リナは息を呑んだ。
「家を…売った?」
「そうだよ。不動産屋が来て、全部、話をつけてたんだ。あの男の新しい家族と暮らすために家を売るんだって。母さんは何も知らされなかったんだ。死んだ後で、孫の顔も見せずに追い出されたってわけだ」
リナの手から、スマートフォンがこぼれ落ちた。
「弁護士に相談するんだ。あの男に相続権はないって、裁判で争ってやる」
「…ああ、頼む」
リナは電話を切り、机の上にスマートフォンを置いた。窓の外を見る。遠くのビルが光を反射して刺さった。
あの時、もっと本気で止めればよかった。そう思っても、もう遅い。
リナは、自分が目を背けていた事実を深く噛み締めていた。あの日、病院のベッドの上で、他の誰よりも父を想っていたのは、確かに母だった。そして、あの男はあの場所から何も見ていなかった。最後の最後まで、あの男は家族を捨てた。自分から、逃げ込んだんだ。
リナは目を閉じ、怒りを押し殺した。もう、何も考えなくていい。あいつに何を言っても無駄だ。失われたものは、二度と戻ってこない。そのことだけは、よーく分かってる。
