背中越しの電話越しに、男の声が怒鳴り散らしてきた。声の主は、つい先日離婚したばかりの元夫、慎二だった。話を聞けば聞くほど、こちらの理解を超えたことを言い出している。
「おい、離婚したんだから養育費を払うのがお前の義務だろうが。今月分、さっさと払えよ。払わないなら、ただじゃおかないぞ」
こちらの方が驚いている。亮子は受話器を耳に当てたまま、一瞬息を止めた。
「え、ちょっと、何をいきなり言ってるの? とぼけても無駄だぞ。今月分の振り込みがないのは確認済みなんだ。養育費を踏み倒せるってよく聞くけど、最初から払わないのはお前の性格の問題だろうが」
「あのさ、何を言ってるの? 養育費が何のお金か理解してる? 」
「子供を育てるための金だろうが」
「ええ、よかった。ちゃんと理解してるのね」
亮子がわざとらしく安堵のため息をつくと、向こうの男の声がさらに硬くなった。
「お前、俺をバカにしてるのか?

」
「別にそんな意味じゃないわ。ただ、あんまりにも突然変なこと言い出すから」
「変だと? お前、そうやって話をそらすつもりだろ」
「そらしてないってば。ていうか、なんで自分が養育費をもらえると思ってるわけ? 子供はあなたの実家で育ててるんだから、養育費をもらうのはこっちの側よ」
しばらく沈黙があった。だが、慎二は理解した様子もなく怒鳴り返してきた。
「ふざけんな。俺の実家で育ててるんだから、金を払えよ。出ないと訴えるからな」
亮子はこめかみを押さえた。本当に、こんな男と長年一緒にいたのかと思うと我ながら嫌になる。
「おい、今の言葉、完全に理解してる? 子供はもう私が引き取ってるのよ」
「は?
何言ってんだ? 」
「離婚してすぐは、あなたの実家の準備が整ってなかったから、相談して期間を決めて、お母さんたちに一時的に預かってもらってただけでしょ。引っ越しや転職で色々あったけど、ちゃんと期間内に迎えに行ったわ。あなたが実家にほとんど顔を出してないって、お母さんが言ってたから、何も確認してないんでしょ」
「ふざけんな! そんなはずない」
「なら、自分で確認しに行きなさいよ。半日もあれば確かめられるでしょ」
「ふざけんな。お前が勝手に子供を連れて行ったんだろうが! 誘拐だ!
」
「あのね、連れて行ったんじゃない。引き取ったの。離婚の時に決めたでしょ。ご両親も一時的に預けるだけだって了承してた。養育費だって、あなたが私を貶めるためにでっち上げたような真実じゃないんだから」
「お前、俺を怒らせたらどうなるか分かってるのか? 」
どうやら怒りの矛先が、金の話から感情論にすり替わっている。亮子はもう呆れるしかなかった。
「はいはい、分かったわ。私があなたを怒らせたってことでいいわよ。どうぞ訴えてみなさいな。その度胸があるならね」
受話器の向こうからは、うるせえ! という狂ったような叫び声が聞こえただけだった。亮子は電話を切ると、深く息を吐き、友人の真希のスマホを開いた。
「あら、どうしたの? 真剣な顔して」
すぐに直通のメッセージが来た。亮子は短く返信した。
「元夫から養育費を請求されてるの」
「はあ?
養育費? そもそも養育費って、子供を育ててない側が払うものじゃないの? あなた、子供預けてたでしょ」
「それはあいつも同じなのよ。とはいえ、本人の中では、子供を自分が引き取ってて、私が養育費を踏み倒そうとしてるってことになってる」
「はあ? どういう頭の構造よ、それ」
「離婚した親のそばにいる側が持ってるんじゃなくて、『離婚後に預かってた期間の親』がもらう側だって思い込んでるみたいなの。だから、離婚してしばらく実家に子供を預けてたでしょ?
それがまるで、自分に子供を預けてくれたってことになってるみたい」
「意味が分からなさすぎるわ。裁判所の書類にも書いてあることじゃないの? 子供を一時預かりにしただけって」
「それが離婚当時の取り決めとしては合ってたんだけど、今になって『お前は俺の実家から子供を誘拐した』って言い出してるのよ。しかも、お母さんたちも『俺が預かってた』って言ってるのかもね」
「それ、マジで言ってるの? お前が電話してやろうか? 」
泣きそうな気分だった。冗談どころではない。亮子は事の次第をメッセージで説明したが、二人の間で結論は見えなかった。
数時間後、相手方の弁護士から連絡が来た。亮子が依頼している弁護士の先生からだ。先生は、何とも言えない渋い顔で電話を切った。
「ねえ、先生、何かありました?
」
「相手方の弁護士が、ね。まさかモナ先生だとは思わなかったよ」
「モナ誠治先生? 負け知らずの弁護士って言われてるあの? 」
「うん。彼は確か、こちらの証拠を揃えて臨んでくるはずだよ。あんたも、心当たりは? 」
亮子は考え込んだ。モナ誠治。確か、離婚の話がまとまる前に、慎二が一度だけ話題にしたことがある名前だった。
「もしかして、あいつ、本当に本人の思い込みのまま弁護士を立ててるんじゃないわよね」
翌日、さらに事態は悪化した。慎二から、今度はLINEではなく、文書が送られてきたのだ。内容証明郵便で、中身は『訴訟を起こすための予告』だった。
それだけではなかった。『慰謝料500万円』という数字と、『お前が浮気した証拠もある』とあった。
亮子は一気に血の気が引いた。浮気の事実など、あるはずがない。
「ふざけんな!
お前の思い込みだろ! 」
思わず声が出た。だが、スマホの相手はすでに新しいメッセージを送っていた。
「おい、謝るなら今のうちだぞ。今入金しなかったら、訴えるからな。弁護士の先生が、もう俺の勝ちだって言ってるんだよ。お前、浮気しただろ。負けなしの弁護士に頼んで、慰謝料も取らないとな」
「あんた、本当に弁護士を雇ったの? まさか」
「当たり前だろ。友達のツテでな。お前みたいな凡人弁護士とは実力が違うんだよ」
亮子は天を仰いだ。ここまで歯車が狂っている人間がいるだろうか。
「ねえ、あなたに確認するけど、私は浮気してないわよ。むしろ、あなたの思い込みがひどくて、会話にならないから離婚したんでしょ」
「黙れ! お前は誘拐犯で浮気女だ!
弁護士さんがそう言ってたんだから、間違いない」
もう会話にならない。亮子は呆れ果て、友人にLINEをした。
「ねえ、聞いてよ。あいつ、本当に訴えるって言い出したんだけど」
「まじ? マジでやるみたいね。友達に弁護士がいるらしくって、余裕で勝てるって言われたって」
「こちらはこっちで準備するわ。どうせ向こうは負け確定でしょ。向こうの弁護士、誰なの? 」
「モナ誠治さんだってよ。負け知らずの」
「はあ!? あのモナ先生が、なんでこんなクソみたいな事案を受けるんだよ。まあいいわ。楽しみにしてらあ。私がボコボコにしてやるわ」
亮子の友人で、今依頼している弁護士の八木先生は、スマホ越しに笑いを漏らした。
「亮子ちゃん、私だってね、こういうモラハラ夫から逃げてきた子の味方なんだよ。絶対に勝ってやるから、任せなさい」
「ありがとう。でも、一回は会って話した方がいいわ。向こうの思い込みがどれだけ強いか、ちゃんと伝えないと」
「そうね。とことん付き合ってやるわよ。裁判になれば、こっちのものだよ。あっちは、自分が養育費をもらう側だと思い込んでるんでしょ?
そもそも、子供は誰の戸籍にいるの? 」
亮子は一瞬止まった。離婚の際、子供の親権は亮子が持っている。戸籍も亮子の姓に変えている。それは確かだった。
「私の戸籍に入ってるわ」
「だったら、それで終わりだよ。なんで養育費が出なきゃいけないんだ。逆に、あっちは勝手なことをしてるんだから、こっちから慰謝料請求してやりたいくらいだよ」
「向こうは、私が誘拐したって言ってるの」
「はあ? 何を根拠に? 」
「離婚する前に、あんたの実家に預けたでしょ。その期間中に、勝手に引き取ったって言ってる」
「あー、なるほど。それで拗れてるのか。でも、離婚届を出す時に、親権のことははっきり決めたはずよね。だって、当時の取り決めがなきゃ、今の状態にはならないよ」
「その当時の取り決めって、紙に書いた?
」
八木先生に聞かれて、亮子は記憶を辿った。確か、協議離婚の際、養育費について話し合った記憶はある。しかし、それが正式な公正証書になっていたかどうか。
「……多分、なってない。口約束でした」
「そりゃ、痛いね。でも大丈夫だよ。冷静になろう。裁判所は、口約束でも、親権者として明確に行動してきたかどうかで判断するから。あなたがちゃんと子供を育ててきた経緯があれば、負ける話じゃない」
「でも、向こうは勝ち確だって思ってるみたいで」
「勝ち確? なら、思わせておけばいいのさ。こっちは土俵にすら乗ってないんだ。とにかく、一回弁護士会を通して話をつけるから。日を改めて、ちゃんと会って話そう」
その日から、亮子は内心穏やかではなかった。思い込みの激しい慎二のことだ。頭に血が上ったまま、暴走するに決まってる。果たして、翌日の朝。亮子のスマホに、慎二から怒鳴り声が届いた。
「おい! 当日になって、金を振り込まないってどういうことだ! 訴えてやるぞ!
」
「だから、訴えたいなら勝手にしなさい。こっちはいつでも受けて立つから。ただ、本当に裁判になる前に、一回ちゃんと話をつけたいんだけど。こちらにも弁護士がいるから、その場で話しましょう。そうしたら、あなたがいくら勘違いしてるか分かるから」
「うるせえ! お前の言い分なんか聞く耳持たない! 俺はな、もう弁護士に全て任せてあるんだからな! これから裁判所に訴状を出すんだ!
お前は法廷で泣くがいいんだ! 」
亮子は、落ち着いた声を作った。
「どうぞご自由に。私もすぐにでも訴えられて構いませんよ。ただ、もしもあなたが私に注意されたくらいで逆上するタイプだってなら、ここで言っておくわ。あなた、私に自分の言い分が通らないと、いつもそうやってヒステリックになるでしょ。それが多分、離婚した一番の理由よ」
「何だって! てめえ、今なんつった! 」
「事実しか言ってないわよ。思い込みが激しくて、人を平気で傷つけて、それに気づかない。私が訴えられても困るのは、あなたの方よ。もういい、ぶった切るわ。裁判してくれるなら、いつでもかかってきなさい」
ビチッと通話を切った後も、亮子の手は震えていた。本気で、見合うつもりがなくても、決着はつけなければならない。
数日後、慎二から訴訟を起こすとの連絡が来た。亮子のところには、八木先生を通じて正式な訴状が届いた。内容は、案の定というべきか、『子供の引き渡し』と『養育費の支払い義務の不存在確認』、そして『慰謝料500万円』の支払い請求だった。
「はああ、馬鹿馬鹿しい。逆だってのに」
八木先生が書類を揃えて足を組んだ。
「先生、やっぱりあいつ、自分が正しいと思ってるんですね」
「分かってるね。ああ、それと、知ってるか?
相手方の代理人の弁護士が、モナ誠治先生に決まったぞ」
「え、本当ですか? 」
「ああ。こっちも厄介な相手に当たったなと思ったけどな。ただ、モナ先生は本当に強い。相手に『勝てる』と言わせる手腕は本物だよ」
「じゃあ、正直負けるかもしれないんですか? 」
「はは、それはありえない。だって、こっちには立派な親権者の裏付けと、相手がDV的だったり、モラハラで離婚に至ったという経緯まであるんだ。負ける道理はないさ。モナ先生だって、それは分かってる。だが、今回は依頼人にどう説明してもどうにもならないかもしれない。なら、こっちは負けないって腹づもりで行こうじゃないか」
「……分かりました。先生、よろしくお願いします」
裁判当日、亮子の目には、裁判所の前へタクシーで乗り付けてくる慎二の姿が見えた。こちらをギロリと睨み付け、勝ち誇った笑みを浮かべている。亮子は、八木先生の背中を追いかけた。
法廷で、向こうの弁護士、モナ誠治が立ち上がる。
「裁判長。本件は、離婚に伴う子の監護者指定と、それに伴う養育費の請求に関する事件でございます。まず、原告(慎二)は、離婚の際に自らの実家で子を一時的に養育した期間があることを主張しております。そして、その期間中、実の子を被告(亮子)が無断で自分のもとに連れ去った、いわば誘拐であると主張し、それに伴い、子の引き渡しを求めているのです」
裁判長は淡々と、亮子の反論を求めた。八木先生が立ち上がる。
「裁判長。誘拐という主張は、単なる妄想に過ぎません。私は、元夫である原告と協議離婚をした際、正式に親権者として子を引き取る取り決めを合意しております。これは、当時のメールや、娘の保育園の変更手続きなどからも明らかです。加えて、元夫は離婚後に子の面会も定期的に実家でしておらず、子が実際にいつから被告のもとで生活していたかは、その期間の間も目撃証言で明らかでございます。また、相手方の主張する慰謝料についても、根拠がありません。原告は、離婚が成立した後に既に新しい関係を持っておりましたが、その事実は私どもが掴んでおります」
慎二が法廷内でどよめく。知らなかった、俺はそんなこと知らないと叫ぼうとした。だが、モナ誠治に止められる。
八木先生は、続けた。
「元夫は、その悪質な言動により、妻に離婚の決意を固めさせたという経緯がある以上、あってはならないのは、騙されて負ける側です。よって、原告の請求が認められないのは勿論のこと、子を略取しようとした行為そのものが、今後の面会の制限に値する悪質なものであると、私は考えます」
モナ誠治は、もはや何も言えなかった。弁護士として、ロジックの欠けた相手側に勝ち目がないことは一目瞭然だった。
審理は数分で終わった。判決は、まったくの予想通り、亮子の全面勝訴。慎二の請求は全部棄却され、加えて、弁護士費用の一部負担も言い渡された。慎二は、真っ青な顔で立ち尽くすだけだった。
法廷を出る際、慎二は亮子を追いかけ、怒鳴った。
「ふざけんな! こうなったら、すぐに控訴してやる!
俺の勝ちに決まってるんだ! 」
亮子は振り返り、静かに言った。
「どうぞご自由に。何度でも負けに来てください。もうあなたの顔なんて見たくないけれどね」
八木先生が間に入り、慎二とモナ誠治が何か話す前に、亮子を連れて法廷を後にした。
「お疲れさま。まあ、見事なもんだね。はじめっから分かってた事とはいえ、あなたがきちんと断言したのが、勝因さ」
亮子は、心の奥に溜まっていた何かが、すとんと落ちていくのを感じた。
「先生、ありがとう。でも、何かまだモヤっとしますね。あいつ、反省もせず、また何か言ってくるんでしょうね」
「そうかもしれないね。でも、もう向こうに非があることは裁判所が決めたことだ。あなたが怯える必要はない。さあ、家でお子さんが待ってるよ。しっかり顔を見てやってくれ。そして、この件が終わったら、あなたはもう思い込みで動く人に振り回されなくていいんだよ」
亮子は、タクシーの中で、ふと穏やかな気持ちになった。ああ、これでようやく、新しい人生が始まれる。そして、携帯の通知が届く。
『ご両親、離婚の裁判、終わったよ。今から帰るからね』