母さん、もうあなたとの同居は限界です。
え、さなさん急にどうしたの?
お母さんの介護とかしたくないですし、同居は解消します。
だから急にどうしたの?そもそも私、まだ56よ。体だって健康だし。
将来的な話ですよ、それは。それに、この間のぎっくり腰。
え、ぎっくり腰?
あの時に通感しました。こんな、墓に片足突っ込んだババアとの生活は無理だって。
いやいやいや。いくらなんでもそれは言いすぎでしょ?
言いすぎじゃありません。
確かに、ぎっくり腰の時は色々と手間を取らせたけど。
取らせたってレベルじゃないですよ。ちょっと動くだけで腰が痛いって騒いで、悶絶してるようなもんでしょ。家事もできずに寝てるだけで、はっきり言って超迷惑でした。
そんなこと言われても。
あの時確信しました。数日のぎっくり腰でもあの迷惑さ。介護なんて始まったら耐えられません。
そんな。
というわけで、我が家から出てってください。できれば今すぐ。
だから本当にちょっと待ってって。家から追い出されたら行く場所がないんだけど。
お母さんの実家があるじゃないですか。
あなたに言われて売っちゃったわよ。
え?そうでしたっけ?
そもそもこの同居だって、あなたの提案じゃない?
だとしてもです。
というか、私が出て行って本当に大丈夫なの?
どういう意味ですか?
だってあなた、言うならば生活力に不安があるでしょ。
問題ありません。
そう言うけどね。
いいですか、お母さん。
はい。
ゆとはもう立派な大人です。
そうね。
そもそも、夫の管理は妻の仕事ですから。
そうね。
なんでちょっと疑問系なんですか?
いや、だって普段のあなたたちを見てると、そういうのはいいんです。
良くはないでしょ。
お母さんは過保護すぎるんですよ。
過保護?私が?
そうです。「崖から突き落とす」つって。
あ、そうだっけ。
そういうことですよ。
どういうこと?
つまり、可愛い子には旅をさせよってことです。
ああ。まあ、なんとなくだけど、言いたいことは分かったわ。
分かってくれましたか?
確かに、このままじゃダメだと思ってたし。
そうです、そうです。さっさと私たちを崖から突き落としてください。
なんか違う気がするけど。でも本当にいいのね。
嬉しいわ。子供の成長を喜べる親で良かったですよ。
そうね。分かったわ。出ていきます。
じゃあすぐにお願いします。
同日。
母さんから連絡来てたよ。うちから出てくって。
はあ?本当に?
さ、なんか親戚の家に行くんだって。
親戚?ああ、そういや、もう実家売ってたな。同居始める時に。
母さんに実家売るように説得したの、サナじゃん。
だって、持ってるだけで税金かかるし、もったいなくない?
まあ、固定資産税とかね。
そうそう。そんな無駄金より、うちに入れてほしかったの。
実際、母さんは結構うちに入れてくれてたしな。
その代わり、口うるささに拍車がかかってたけどね。
あれだろ?家庭内ルールみたいな。
それ、マジできつかったよね。母さんが金も入れてくれて、家事もしてくれて、最初は同居しておくって思ってたんだけどな。
私なんて、友達呼ぶなって言われたんだよ。
お前の場合は頻度の問題だろ。毎日呼ばれたら、俺でも切れるわ。
でも、ここって私たちの家なのに。俺なんて酒禁止だぞ。酒。唯一の楽しみなのに、ふざけんなっての。
被害者ヅラしすぎ。週1で飲んでいい日があったじゃん。
俺は毎日仕事で疲れてんだよ。酒飲んで癒されないとやってられるか。
はいはい。もうちょっと酒癖が良ければね。
うっせえ。
って言っても、これからはお母さんもいないし。
だよな。俺らは自由だ。
家事やってくれる人がいないのは痛いけど、生活費やら金の使い道まで口出されてうんざりだったんだ。それがなくなるって考えただけで、俺、もうワクワクが止まらんわ。
私も。ていうか聞いてよ。何あのババア、最後まで強がってんの?「嬉しい」とか言ってたけど、笑っちゃうわ。
やばい。
私たちがいなくなって、どうすんだろうな。
まあ、金はあるから大丈夫じゃね?実家売った金と、父さんの年金だっけ?
それだけありゃ、なんとかするだろ。
だね。もう出てった人のことだし、私たちにはもう関係ないか。
そういうこと。じゃあ早速、酒買って帰ろう。今日は飲むぞ。
私も早速、明日友達呼んじゃおうっと。マジで自由って幸せ。
数週間後。
もう無理。我慢の限界だ。
あらあら。どうしたの?ゆと?お母さんよ。
さ、さなさん。あいつ、母さんが出てってからひどいんだ。毎日のように友達呼んで、飲んで騒いで。
お友達を呼ぶのは週末だけって、約束だったわよね。
それは母さんが作ったルールだろ。もうルールなんてないんだよ。それが失敗だった。
夜遅くまでうるさいし、後片付けもしてくれないし。
大丈夫?寝れてる?
寝不足なんだよ。おかげで仕事のミスも増えたし。
そう。大変ね。
頼むよ。母さんの方から行ってやってくれ。
行ってやってくれって、何よ?注意してくれってこと?
こんなの続けられたら、こっちがおかしくなるわ。
そうは言うけどね。
なんだよ。息子が困ってんだぞ。
さなさんに言われたのよ。「小離れをした方がいい」って。
はあ?小離れ?
ほら、同居始めてからルールを作ったり、家事に家計の管理にって、全部私がやってたでしょ。
そうだけど。
それが過保護だって。
いや、まあ、窮屈に思うとこはあったけどさ。
でしょ?ゆともさ、もう大人だし。これからはあまり干渉しないことにしたの。
いや、ちょっと待ってくれよ。じゃあ、さなはこのまま放置するっていうのか。
何だったかしら。そう、崖から突き落とすのよ。
はあ?何それ?
可愛い子には旅をさせよ、らしいわよ。さなが言ってた。
多分なんか違うぞ、それ。
とにかく、私はもうあなたたちの世話はしません。自分のことで忙しいのよ。
忙しいって、何がだよ。
親戚の家から引っ越してね。その片付けもあるし、ご近所へのご挨拶もあるし。
そんなのどうでもいいだろう。
良くないでしょ。これからの私の生活がかかってるんだから。
こっちは息子夫婦の生活がかかってんだぞ。
もう大人でしょ。夫婦の問題は夫婦で解決してちょうだい。
数日後。
もう無理。我慢の限界です。
あらあら。なんだかデジャブを感じるわね。
何の話ですか?
ああ、いや、こっちの話よ。それで、さなさんはどうしたの?
聞いてくださいよ。ゆとが最悪なんです。
はいはい。
予想通りですよ。毎日晩酌。後始末は全部私ですよ。
それは大変ね。
一応聞くけど、お酒は週末だけってルールは?
そんなルール、お母さんが出てって、なくなったでしょ。
そうね。この間なんて、玄関先で吐いたんですよ。飲み会も増えて、帰りも遅いし。
さなさんが毎日友達を呼んでるからじゃない?
いやいや、だって、毎日パーティー状態なんでしょ?
それはそうですけど。
確かに、ゆとが原因でもあるでしょうけど。さなさんにも責任はあるでしょ?
いいえ、ありません。
どうして?
だって、お母さん。
はい?
お母さんが居なくなってから、もう、めちゃくちゃなんです。私が全部やらなきゃいけないんです。お母さんは楽しくやってるかもしれないけど、私は全然楽しくないです。
あら、そう。
そうなんです。だから、もう、お母さん、戻ってきてくださいよ。
え?何言ってるの?
だって、このままだと、私、ダメになっちゃいます。ゆとも、私が全部やると思ってるし。
あなた、さっき「出てってください」って言ったのは誰よ。
それは、その、その時は、そう思ったんです。でも、今は違います。お母さんがいたから、私はやってこれたんだって、身に染みて分かりました。
ふうん。でも、私はもう、ここには戻らないわよ。
え?どうして?
だって、私はもう、崖から突き落とされたんだもの。せっかくこの年で自由になったんだから、私は私の人生を生きるわ。
え?ちょっと待ってください、お母さん。それって、どういう…
さなさん。あなたも、ゆとも、自分のことは自分でやるのよ。そうしないと、いつまで経っても、大人になれないんだから。応援してるわ。愛を込めて。
ちょっと、お母さん。お母さん!
ああ、すっきりしたわ。あの人、ちゃんと自分から返事してるし、捨てる神あれば拾う神あり、ね。
さて、あの二人、この先どうなるのかしら。私は私で、のんびりやらせてもらうわ。
お母さん、その、戻ってくる気は、やっぱりないの?
ないわよ。
ああ、そう。
でも、本当に良かったの?あの子、自分が言い出したくせに、後悔してなかった?
してたね。あの子も、私もね。
でも、もう決めたことだもの。いいえ、決めさせてもらったの。あの子たちのためにも、ね。
そうね。それで、これから、どうするの?
さあね。せっかくだから、旅行にでも行こうかしら。この年になって、親に頼るのも悪くないって思えたからね。
はあ、なるほどね。まあ、私は、お母さんの決めたことなら、どこにでも行くわ。
ふふ、頼りにしてるわよ。
さあ、やっと、普通の親子に戻れた気がするわ。これからは、月に一回は、顔を見せにきなさい。それで、一杯お茶でも飲んでいきなさい。
はい、お母さん。
彼らは、これからも、親子として、穏やかな時間を過ごしていくのでしょう。それは、彼ら自身の力で掴み取った、そういう関係だったのかもしれません。
あの日、サナが「出て行け」と言わなければ、ユトは酒に溺れた自分を変えることも、サナへの感謝の気持ちも、取り戻せなかったかもしれません。母が独立を決断し、二人を崖から突き落とすように家を出て行ったからこそ、彼らは自分の足で立つことの意味を学び始めたのです。
甘えていたのは、子供の方だったのかもしれません。親の小言が煩くて、自分の好き勝手に生きたいと願って、解放されたと喜んだのは、ほんの束の間のこと。真っ当な生活というのは、親が敷いてくれたレールの上にだけ存在するのではなく、自分たちで築いていくものなのだと、彼らは今、実感しているのでしょう。
母は言います。
「私は、自分の人生を生きるのよ。それは、あなたたちのことは何も見ないという意味じゃない。私のやり方で、あなたたちを見守っていくってこと」
彼女が選んだのは、子供を信じて、自分の人生を受け入れること。その環境を自分から手放すという、一見するとリスクのある決断でした。しかし、彼女はその覚悟を持って、崖から飛び降りたのです。自分の息子と嫁の未来を案じながらも、彼らが大人になる瞬間を信じて。
息子の嫁であるサナは、義母のいない生活に自由を感じつつも、どこかで義母の存在の大きさを認めていました。
「お義母さん、あの時は、本当にごめんなさい。あんなこと言って、私、馬鹿だったわ」
電話でのサナの声は、少し湿っぽいものでした。
「謝ることはないわ、サナさん。あの時、あなたは、私に正直だっただけでしょう?私こそ、あなたの気持ちも知らないで、押し付けがましいことをしてしまったみたいね」
「そんなことは、ありません。お義母さんは、何も悪くないです」
「ありがとう。でもね、これは、私が決めたことなの。あなたたちは、これから、自分の人生を歩んでいきなさい」
こうして、彼らは、それぞれの道を歩み始めました。息子のユトは、酒の量を減らし、家計のやりくりを覚え始めたようです。サナも、家事と仕事を両立させるために、一歩ずつ前に進んでいます。何より二人は、夫婦で会話をするようになりました。
「今日は、何があったんだ?」と、ユトが聞きます。
「会社で、ちょっとトラブルがあって、さ」と、サナが答えます。二人は、どちらかというと、笑い話に変わるまで、いろんなことを話し合えるようになりました。
それは、誰に強制されたわけでもなく、自分たちで掴み取った小さな幸せなのかもしれません。あの日、母が娘のもとから去らなければ、彼らは、いつまでも親の存在を当てにしていたでしょう。
しかし、母は、彼らが自分の人生を歩むことを信じて、彼らの窮屈だったかもしれない縛りを解き放ったのです。それは、親の務めとしての、試練なのでしょう。
「ありがとう、お母さん。今度、新居に遊びにおいでよ。寂しいだろうけど、私たち、頑張るから」
「はい、楽しみにしてるわ。サナさん、ユトを宜しく頼むわね」
母は、穏やかな気持ちで受話器を置きました。彼女の胸の内には、まだ子どもたちを思いやる気持ちで溢れていましたが、それは、手助けをしてあげるためのものではなく、彼らの幸せを願う、ただの母の愛情でした。
風は東へ、流れる雲の先に、また新しい旅立ちの予感がいたします。彼女は、ゆっくりと、新しい一歩を踏み出す決意を固めるのでした。
