モネが突然、海外出張を告げられたのは、ついさっきのことだった。上司に呼び出されて、十日後から二ヶ月間ニューヨークで働けと言われたのだ。
「え、マジで? ってことは、二ヶ月も家を空けるの? 」
夫のカイトが、ソファから顔も上げずに聞いてきた。
「そういうことになるね。私がいなくて大丈夫? 」
「俺もう三十だぜ。家事とか飯なら心配すんなよ」
「そうだよね。じゃあ、よろしくね」
「おう。ミュージシャンになる夢、俺がいなくても頑張ってるよ」
その言葉に、モネは少し迷ってから切り出した。
「それなんだけどさ、俺、ミュージシャンの夢、諦めるわ」
「え?

あんなに頑張って努力してたのに、そんなにあっさり諦めていいの? 」
「いいんだ。周りにも現実見ろって言われてさ」
「そっか。カイトがそう決めたなら、尊重するよ」
「じゃあこれからどうするの? 」
「正社員になれるよう、就活するよ。毎月三十万も生活費を出してくれてただろう。今まで胸を張って働いてくれた分、今度は俺が支えるから」
「その気持ちだけで十分嬉しいよ。私にできることなら何でも言ってね。協力するから」
「じゃあ早速なんだけど、スーツ代を出してくれない? 就活したいんだけど、俺スーツ持ってないからさ」
「それは大事だね。いくらあれば足りる?
」
「とりあれ、五万お願い」
「分かった。帰ったら渡すね」
「おお、ありがとう。気をつけて帰れよ」
一週間後。モネが仕事の合間に電話をかけると、カイトは暗い声で面接の報告をした。
「面接どうだった? 仕事中、気になって仕方なかったよ」
「ダメだった」
「まだ結果は出てないんでしょ」
「いや、絶対に不採用だよ。手応えを感じなかったもん」
「そっか。大丈夫だよ。きっと次受かるって」
「ありがとう。でも、就活って交通費もかかるんだな。これじゃあ次の面接にも行けないかも」
「それは困るね。いくらいるの? 」
「うん。じゃあさ、一万円、PayPayで送ってくれる? 」
「そんなにいるの?
都内でしょ。電車代だけなら二千円ぐらいでいいんじゃない? 新幹線で遠いところにでも行くの? 」
「いやいや、就活ってお金がかかるんだよ。新卒で一発受かったお前には分からないだろうけど」
「私もそれなりにお金はかかったから、気持ちは分かるよ。スーツはもちろん、それまで化粧したことなかったからメイク道具も揃えなきゃだったし」
「なら分かるだろう。男は整髪スプレーとか、制汗剤の汗拭きシートとか、タバコの匂いがつくからスーツ用の消臭スプレーも必要だな。あと香水で匂いの印象をつけるのは大事だろう」
「香水はやめた方がいいって」
「なんでだよ。匂い系は大事なんだよ」
「とにかく、必要なもんがいっぱいあるんだよ」
「うーん。まあ、必要なら貸すよ。必ず返してね」
「もちろん。出世したら十倍にして返してやるよ」
「ああ、頼もしい。楽しみにしてるね。あ、そうだ。今日は帰りが遅くなるから、夕飯はいらない。この後もいくつか面接があるんだ」
「張り切ってるね。頑張って。私も荷造りを頑張ろう」
八時間後。夜も遅くなった頃、モネのスマホにカイトから連絡が入った。
「カイト、いつ帰るの? 」
「今、面接が終わったところ。今から帰るよ」
「嘘だよね」
「え?
何が? 」
「私、仕事中に見たの。カイトが昼間から飲んでるところを」
「は? 間違いじゃないの? 」
「知らない女性と一緒に外で飲んでる写真もある。しかも、そのあとホテルに入るところまで見たんだけど、どういうことなの?
」
「いや、だから、それは他人の空似だって」
「どこからどう見てもカイトだよ」
「しかもそれ、盗撮か。消しとけよ」
「誰だって気になるでしょ」
「あれは、ただの友達だよ。女性に相談されたから、話を聞いてただけだ」
「解放してもらっただけ? そういうことをしてないって、どうして信じられるの? 」
「まさかとは思うけど、あの一万円、今日の飲み代とホテル代に使ったんじゃないよね」
「ああ、めんどくさいな」
「はいはい。行きましたよ。別にいいじゃん。面接に行ったご褒美だよ」
「良くないよ。私は就活の費用として貸したんだよ」
「あくまで予定だろ。必ずしもその通りに使われるわけないだろう」
「そんなの社会では通用しないからね」
「人を犯罪者みたいに言うなよ。説教するなよ。お前は俺の上司か。大体、会社の金じゃなくてうちの金だろ」
「同じことよ。結婚してる以上、二人で協力して家族を運営していかなきゃならないんだから」
「だるいな。そんな真面目なこと考えて結婚生活を送ってたの? 」
「それを言うなら、カイトだって。カイトのそのいい加減なところ、直した方がいいと思うけど」
「んじゃあ、俺ら価値観が合わないってことだな」
「そうだね。嘘ついてまでお金を借りて、妻がいるにも関わらず他の女性とベタベタして」
「何だよ。嫉妬してんの?
」
「私が頑張って働いて得たお金を、そんなことに使うなんて」
「分かった。分かったよ。後でちゃんと返すからな」
「もう、そういう問題じゃないから」
「何だよ。もうめんどくせえな」
「私、カイトが遊ぶお金を稼ぐために働いてるんじゃない。二人で幸せに暮らすためのお金だったんだよ」
「だるい、だるい。つうか、浮気はしてねえから。そんなに自分の旦那が信じられねえのかよ」
「うん。だって、嘘をついてお金を借りたじゃない。だから、いつも通りとは限らないだろう」
「もういい。そんなに俺を疑うなら、離婚だ」
「本当にいいの? 」
「ああ。お前との結婚生活にはもううんざりだ」
「分かった。じゃあ、今から離婚届を印刷して書いておくね」
「勝手にしろ」
「ダイニングテーブルの上に置いておくから。帰ったら記入しておいてください」
「はいはい。偉そうに指示しやがって。そういうところも嫌だったんだ」
「じゃあ、今月中に荷物をまとめて家を出てね」
「なんで俺が出ていかなきゃならないんだよ」
「当たり前でしょ。この家の名義は誰? 」
「……お前だな」
「だから、出ていくのはカイトよ」
「あの、やっぱり離婚は一旦保留でいいですか? 俺もまだ就職が決まってないし、せめて仕事と家が決まるまでは、ここに置いておいていただけないでしょうか」
「……じゃあ、すぐには決まらないと思うから、二ヶ月の猶予をあげる」
「ありがとうございます」
「私が海外に行っている間に出てってね。離婚届だけは三日以内に書いておいて。私のタイミングで役所に提出するわ。それまでは私が預かるからね。それでいい?
」
「はい、分かりました」
一週間後。モネがニューヨークで夜を過ごしていると、スマホに実家の母からビデオ通話がかかってきた。映ったキッチンの映像に、母の顔はすぐに険しくなった。
「ちょっとモネさん、あなた、全然片付けてないわね」
「お母さん、いきなり何ですか? 日本は昼間だと思いますが、こっちは夜中なんですけど」
「このキッチンにある、わけの分からないものは何? カルダモン? アニス?
何だか分からない調味料が多すぎるわ。それに、どうしてお母さんがうちの台所を知ってるんですか? 」
「日本人なんだから、お茶を出さなきゃダメでしょう」
「これだから料理ベタは……って、まさかとは思うけど、家にいるの? 」
「そうよ。カイトが海外旅行に行ったんですってね。しかも二ヶ月も」
「え、ちょっと待ってください。私、旅行で行ってるんじゃなくて出張なんです」
「嘘? おかしいわね。カイトがそう言ってたわよ」
「嘘じゃないです。本当に仕事の出張で……」
「本当だとしても、夫をほっといていくなんて非常識よ。女は家に入って家庭を守るのが仕事でしょう。時代が違うのよ」
「それを言うなら、会社に務めて外で働くべきですよね。私だって……」
「黙りなさい!
ああ、こういう生意気な嫁ね。親の意見を聞くこともできないのなら、もういいわ」
「……分かりました。どうせ私が悪いんです。今は仕事が忙しいので、また今度にしてください」
モネは通話を切ると、深く息を吐いた。夫は離婚届をテーブルに置いたまま、二ヶ月間、家を出て行った。モネはニューヨークの小さなアパートの窓から、遠い空を見上げた。これで本当に終わったんだ。そう思うと、悲しみよりも、どこか清々しさのようなものを感じていた。
二ヶ月後、モネは帰国した。アパートのドアを開けると、中はもぬけの殻だった。カイトは言われた通り、荷物をまとめて出て行ったようだ。テーブルの上には、記入済みの離婚届が置いてあった。
モネはそれを手に取り、しばらく眺めてから、そっと鞄にしまった。そして、これから始まる新しい生活のために、ダイニングテーブルの上に落ちていたカイトの忘れ物、一本のボールペンと、一枚のレシートを見つけた。それは、あの日、カイトが飲み代とホテル代に使ったであろう金額のものだった。モネはそれを丸めてゴミ箱に捨てた。
その夜、モネは一人の夕食を作った。彼女の好きなカレーだ。ニューヨークで覚えたスパイスを効かせた、彼女にとっての新しい味。それを食べながら、モネは静かに笑った。きっと大丈夫。私は私の人生を歩いていくんだ、と。