「ひろし、どこにいるの?今日は定休日でしょ。お店の片付けをする約束だったじゃない。」
「悪いけど、今日は給料入ったからパスで。」
「え、ちょっと待ってよ。私が一人でやらないといけないの?」
「うちの若い職人たちが何人かいるだろ。あいつらに連絡して任せとけばいいんだよ。」
「ちょっと待って。そんな急に呼べるわけないでしょ。一応お休みってことになってるんだから。」
「休日出勤なんてこの業界じゃ常識なんだよ。」
「それならあなたも働かないといけないんじゃないの?」
「俺は毎日寿司を握ってるんだぞ。おかげで店も大人気になってる。そんな俺が休みの日まで働かないといけないのかよ。」
「私はもう十五年くらい無休で働き続けてるのよ。」
「それはお前の仕事が楽だからだろ。接客と裏方だけだし、簡単なもんだろ。」
「そんなわけないでしょ。あなたは私の仕事をちっとも理解してくれてないのね。」
「それはこっちのセリフだ。親父の潰れかけた店を立て直したのは俺だぞ。それが分かってるのか?」
「あなたもその一員だってことは分かってるわよ。でも、一員でしかないって自覚してほしいの。店はあなただけじゃない。私も含めた全員で立て直せたんだから。」
「そんなわけあるかよ。俺以外がいても結果は変わらなかったさ。俺の味を求めて常連客がついてきてるんだからな。」
「自信を持つのはいいけど、過剰になりすぎよ。特に最近のあなたは。調子に乗らない方がいいわよ。いつか足元を救われるからね。」
「俺がそんなことになるわけないだろ。なめるなよ。」
「お願いよ。お父さんが作ったお店の看板に泥を塗るようなことはしないで。」
「あんなやつはもうとっくに超えてるよ。」
「それは大きな勘違いよ。」
「何だって?」
「もう来ないのなら、私一人で清掃はやっておくから。勝手に好きにしたらいいわ。」
「別に構わないけど、店の味を落とすようなことだけはすんなよ。」
「そんなことするわけないでしょ。だから勝手にどうぞ。」
一時間後、店内の掃除を終えたとみのスマホに着信が入った。
「とみさん、ちょっと予約を取りたいんだけど、いいかしら?」
「エリカさん、予約は公式ホームページからお取りくださいと、前回もお伝えしたはずですが。」
「だって、それだと取れないんだもん。あなたたちの店って本当にいつも予約いっぱいじゃない。」
「ありがたいことに、そうなっております。ですけど、直接私に連絡をされても困りますよ。」
「だって、ひろしが私がこのLINEで予約を頼めばいつでも入れてやるって言ってくれたんだもの。」
「弘樹さんからそのように言われております。ですから、これまでにお二度ほどお受けしましたが、さすがにこれ以上は無理です。あなた様をお通しするということは、他のお客様にご迷惑がかかるということですので。」
「大学時代からの友達だったのよ。とっても仲良しだったんだから。そんな私の予約を断ったら、ひろしに怒られちゃうわよ。それでもいいの?」
「……分かりましたよ。予約はお入れしておきます。ですが、これは最後だと思ってくださいね。」
「ええ、もちろんよ。これがきっと最後になると思うから。」
「そうなんですか。」
「うん。あなたにお願いするのはこれが最後よ。」
一週間後、とみはいつものように魚市場に足を運んでいた。
「前田さん、お世話になっております。明日なんですけど、ご予約のお客様の中に白身魚をお好きな方がいらっしゃるので、いつもより多めに仕入れさせてもらいたいんですけど、大丈夫ですか?」
「そうだなあ。明日ならヒラメやカンパチあたりは多めに入れられるぞ。特にカンパチは旬だから、身が締まってて旨いと思うぞ。」
「ありがとうございます。では、そのあたりを明日、買い付けさせてもらいますね。」
「分かった。すぐ出せるように準備しておくよ。いつもありがとうな。」
「前田さんのところの魚はとにかく新鮮で、お客様たちからも評判なんですよ。」
「そこは自信を持ってやらせてもらってるよ。何せうちは歴史があるからな。漁師との繋がりもあるしな。」
「本当にありがとうございます。」
「でもな、とみさんの店も繁盛してるんだって、俺のところにまで噂が回ってきてるよ。」
「本当ですか?正直、ようやく黒字になったってくらいですけどね。」
「おお、そうか。ずっとあんたのところは大変だったからな。仙代の旦那は腕は一級品だったが、商売の才能はからきしだったからな。」
「そのせいで、店が潰れかけてたくらいですからね。」
「でも本当に、腕も人柄も素晴らしい人だったよ。私も今だにあの人の握った寿司は忘れられませんね。」
「それは俺も同じだよ。あの人と一緒に仕事ができたことは誇りだった。まあ、仙代の旦那が病気で倒れてから、ここまで立て直すとは思ってなかったけどな。本当にあんたは腕のある女将さんだよ。」
「いえ、私なんて本当に大したことはないですよ。」
「それで、旦那はどうしてるんだ?」
「一応、店には立ってくれてますけど……どんどん態度が横柄になっていきますね。周りからちやほやされて、調子に乗ってるようです。」
「まあ、そうなるだろうとは思ってたよ。あんたも大変だな。」
「最初は真面目にお父さんの下で修行してたんですけど、だんだんとおかしくなってきましたね。」
「問題が起こる前に対処した方がいいよ。じゃないと、今度こそ店が潰れてしまうからな。」
「そうですね……なんとかしたいと思います。」
「まあ、何とかなるだろ。それじゃあ、明日よろしくな。」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします。」
その夜、とみが店の片付けをしていると、ひろしからLINEが届いた。
「とみ、ちょっと話があるんだけど、いいか?」
「話?何?急に。それならお店に来てくれない?こっちはあなたの分まで定休日に店の清掃とかやってるのよ。」
「いや、LINEで話をさせてほしいんだ。」
「何よ。」
「これから俺はこの店をもっと大きくしたいと思ってるんだ。」
「大きく?そうね。今のままじゃお客さんをたくさん待たせないといけないしね。もっと広くなって数が増えるだけで、全然変わってくるとは思うけど。」
「だから、これからはもっと店の格を上げたいと思ってるんだ。」
「格を上げる?どうやって上げるの?」
「女将をお前からエリカに変えようと思ってるんだ。」
「は?何それ?」
「そうしないと、上を目指すことはできないんだ。」
「意味が分からないわ。」
「潰れかけた店がここまで立て直せたのは良かったよ。だが、この先はもうお前と一緒じゃ無理なんだ。」
「つまり、エリカさんを女将にしろって言うの?」
「そうだ。それが一番いいと思ってるからさ。」
「なんでよ。」
「エリカはめちゃくちゃ美人なんだよ。大学の時はミスキャンパスに選ばれるくらいだったんだ。芸能事務所からも声がかかってたくらいだしな。」
「でも、それは昔の話でしょ。」
「いや、今でも十分に美を保ってるさ。女将ってのは店の顔でもあるんだ。となると、美人の方がいいに決まってるだろ。」
「あなたは自分の妻に向かって何を言ってるのか、分かってるの?」
「もちろんだ。妻としてお前には感謝してる。だが、これはビジネスとしての話なんだ。」
「本気で言ってるみたいね。」
「女将は元カノのエリカに任せる。ブスには女将は無理だしな。」
「やっぱり、あんたって元々エリカさんと恋人同士だったのね。」
「あれ、気づいてたのか。」
「エリカさんが分かりやすく匂わせてくれてたからね。なんでそんなことをしてくるのか意味は分からなかったけど。でも、今なら分かるわ。あなたはずっと前からこうするつもりだったんでしょ。」
「まあ、そういうことだな。」
「店のために私がいなくなる必要はないわ。私はあんたと一緒にこの店を作り上げてきたんだから。」
「作り上げた?違うだろう。俺が作ったんだ。お前はただ、それに乗っかってただけだ。」
とみはスマホの画面をじっと見つめたまま、唇を噛みしめた。
翌朝、とみは予告もなく、店を取り仕切る老舗の親方のところへ向かった。
「急にすみません。少しお時間よろしいですか?」
「おう、とみちゃんか。どうしたんだ、改まって。何かあったのか?」
「実は、昨日から旦那と店の運営をどうするかでもめておりまして。それで、一度、知恵を貸していただけないかと思いまして。」
親方は湯呑みを手に、しばらく間を置いた。
「ふむ……まあ、座りなよ。ゆっくり話を聞こう。」
とみはその日、いくつかの取引先を回り、ひろしを除く店の従業員たちと個別に話をした。彼らにしてみれば、とみは何年も店の稼働と人の管理を一手に任されてきた存在だった。
「迷惑をかけるけど、ちょっと集まってほしいことがあるの。」
店の若い職人たちは、とみの話を真剣に聞いた。
「実は、ひろしさんが店の方針を大きく変えようとしているの。このままだと、今までの店も、お客様も、そして私たちの味も、全部台無しになるかもしれない。」
「とみさん、何か心当たりがあるんですか?」
「彼が、女将を私からエリカさんに変えたいと言ってきたの。私たちが必死で作り上げてきたものを、彼は簡単に壊そうとしている。」
「女将を変える……?それには私たちも承服しかねます。とみさんの姿を何年も見てきてますからね。ここは徹底的にやりましょう。」
「ありがとう。でも、今回は穏便に済ませたいの。何より、お客様の信頼を損なうようなことだけは絶対に避けたい。」
とみは、思い切って一つの策を取ることにした。
数日後、とみはエリカを呼び出して話をした。
「突然呼び出してしまってごめんなさいね、エリカさん。」
「いいのよ。それで、話って何?まさか、私に女将の座を譲ってくださいって?」
「そんなつもりはないわ。ただ、ひろしさんがあなたに店を任せると言い出してて……あなたは本当にそれで納得できるの?一時の喧嘩に乗るだけじゃない?彼にうまく利用されてるだけかもしれないわよ。」
エリカはしばらく黙っていたが、意外なことを口にした。
「あんた、本当にひろしと長くいたんだな。でも、私も最初から彼がそういう手に出ることは分かってた。彼は私を“飾り”にして店を広げたいだけよ。だけど、あんたがそうやって来るって待ってたんだ。」
「……どういうこと?」
「私、おかしいと思ってたの。急に昔みたいにちやほやし始めたのは。そして、予約を何人も取らされた。でも、これで分かったわ。私は彼に“女将”としてお披露目されて、その後に何かトラブルが起きたら、私は捨てられる——ただの踏み台よ。」
「なら、なんでひろしの申し出に乗ってるの?」
「あのね、私はあんたが彼と離れるなら、その時は私が店に残って本物の女将になる道もあるかなって思ってたの。でも、今回あんたがこうやって来てくれて決心がついた。店を守るなら、私が潰れ役になる必要はない。店を守るのは私じゃなくて、あんたたちでしょ?」
エリカは小さく笑った。
「じゃあ、最後にひとつ提案よ。こうやって作戦を変えたことを、あんたはひろしに教えないで。むしろ、“エリカなら店を任せられる”って、私がひろしを安心させてあげる。あいつが強気になればなるほど、店から離れる準備を進めた方がいい。」
そして、決行の日が来た。
その日は、ひろしの晴れ舞台として用意した場所を、店の面々全員が待ち構えていた。
「店の顔を一新して、この店を次へと進めるために、今日からお前には店から去ってもらう。俺の店で、もう働かなくていいぞ。」
とみは静かに立ち上がると、一枚の書類を取り出した。
「そう、あなたがそう言うなら仕方ないわ。そう思って、私からもこれをもらっておいたわ。」
それは、昼間から地元の金融機関に持ち込んだ、店の権利に関する書類だった。そして、そこには取引先の多くが署名をしている。
「な、何を勝手なことを!」
「勝手にしたのはそっちでしょ?あなたは私に“ビジネス”の話をした。なら、私もビジネスとしてあなたに話すわ。この店は私が立て直したの。あなたの片腕としてじゃなく、店の“番頭”としてね。」
「ふざけるな!この店は俺のものだ!」
「いいえ。この店の代表権は、今もお父さんから受け継いだまま。私が“代表代行”よ。そして、今ここにいる取引先の方々も、事情を理解して味方になってくれてるわ。」
ひろしは周りを見渡した。そこには、全員がうなずく姿しかなかった。
「あんたのそういうところだよ!」ひろしは激高した。「昔からだ!何でも俺を越えてしまえばいいと思ってる!」
「あなたを越えようとは思ってない。ただ、お客さんと、この店と、あなたが大事にしてきた味を守りたかっただけ。」
とみは最後にこう付け加えた。
「あなたは白を切るようだけど、私はあなたよりずっと前から、あなたのヒーローのことを知ってる。親方から聞いたわ。あなたは十八の頃から、腕のいい職人になりたくて、何度も夜遅くまで修業してきたって。その気持ちを私は忘れたことはない。私があんたに初めて会ったのは、あんたが店のまな板にも誰よりも早く来て、出前のカバンの中で握ったとき。父の桜が、あんたの握りを見たがってたんだろ。」
ひろしは何も言えなくなって、その場に立ちすくんだ。
その日をもって、とみは彼からの離婚届にサインをさせ、正式に店を背負って立つことになった。エリカは、最後まで表向きの“女将候補”の座を守り続けたが、とみが新型の予約システムを導入してからは、ひそかにこう言って笑っていた。
「店の顔は、結局あんたの笑顔なんだよね。まあ、こっちは引退して結婚でも探すさ。」
数ヶ月後、とみは一つの決断をする。
「ねえ、ひろしさんのこと、どう思ってるの?」近所の常連客からそう問われたとき、とみは澄ました顔でこたえた。
「彼は、私たちの店の“お客様”よ。よく来てくれる昔の話し相手ってところかしら。」
彼は今でも時々、昼下がりに店の前まで来て、店内のとみの姿を遠巻きに眺めている。自分の手から滑り落ちていったものの大きさに、今は誰よりも気づいている。だが、とみは二度と振り返らない。彼の笑顔は、もはやあの店の看板の前にはなかった。
店は変わらずに、今日も暖簾をくぐる。
とみは夜、誰もいなくなったカウンター越しに、父の遺影をそっと拭いた。
「お父さん、今日も一日、終わりましたよ。あなたがくれたこの店を、私は絶対に守り抜きますから。明日も、お客様が笑顔になる一番の握りを、私がしっかりと。だから、どうか見守っていてくださいね。」
そう言うと、とみは笑顔のまま、布巾を絞ってピンと張り直した。その目は、もうかつてのような悲しみの色ではなく、静かな強い光をたたえていた。
