私を騙して、子供ができない体だって言ったわね。離婚しましょう。
結婚してから一年が経っていた。夫の慎之介は多くの子供を欲しがっていたのに、私はなかなか妊娠しなかった。そんな中、彼が突然、衝撃的なことを言い出したのだ。
私の名前は由香里。三十二歳の専業主婦だ。慎之介と結婚して一年になるが、子供はいなかった。慎之介は子供好きで、結婚した時から家族を増やすことを切望していたけれど、コウノトリはなかなか私たちの家を訪れてくれなかった。
様々な検査を重ねた結果、医師から「特に問題はありませんよ」と言われ、私はほっと胸を撫で下ろした。問題は私にはないらしい。なのに、その直後、慎之介が突然言い放ったのだ。
「子供ができないなら、離婚しよう」
その言葉に、私は深く打ちのめされた。けれども、まだ一年しか経っていないし、私に問題がないと分かったのだから、もう少し待ってほしいと伝えた。それなのに、彼はとんでもないことを言い放ったのだ。
「お前には悪いけど、俺は自分の子供が欲しいんだ。それが無理なら、この結婚に意味はない」
その言葉は、私の心を深くえぐった。それでも、私は慎之介を愛していた。だから、もしかしたら彼の気持ちが変わるかもしれないと、すがるような気持ちでいた。しかし、慎之介の意志は固く、結局私たちは、結婚してわずか一年で離婚することになってしまった。
離婚してから、私は実家を出て、職を探した。気持ちの整理をつけるためには、何かに没頭するのが一番だと思ったのだ。そうして地元の小さな会社に就職し、必死に働く日々を送るようになって、私はようやく一つの真実を知ることになる。それは、離婚してから一年が経った、ある日のことだった。
元々、私には親友がいた。雅美という、私のことを何よりも理解してくれる大切な親友だ。その雅美が、重い口調で私に言ったのだ。
「由香里、聞いてくれる?慎之介のことなんだけど……」
「慎之介? 今さら何かあったの?」
「あのね、慎之介、どうやら由香里と離婚する前から、今の奥さんと付き合ってたらしいのよ」
「え……嘘……」
「しかも、その人、もう妊娠してるんだって。そして、由香里と結婚してた時も、他の女と遊び歩いてたって話よ」
「な、なんで……私、あんなに責められたのに……私のせいで子供ができないって、さんざん言われたわ。なのに、あっちは他の女と遊んでたって言うの?」
悔しさと悲しさで、涙が止まらない。彼に非があって離婚したわけではないのに、私はあの時、すべての責任を、まるで私が悪いかのように押し付けられて、追い出されるようにして家を出たのだ。自分が悪いくせに、私のせいにするなんて、あんまりじゃないか。
そう言って怒りをあらわにする雅美を見て、私は言った。
「もう、さっぱりしたわ。これで、無駄に涙を流すのはやめられるもの」
あれほど毎晩、悲しみで眠れない日々が続いたのに、不思議と、もう大丈夫だと思えた。そうして、私はやっと、この苦しい思い出を乗り越えることができたのだった。
それから月日は流れ、私の二十六歳の春。新しい生活にも慣れ、私は前を向いて歩き始めていた。そんなある日、会社の同僚である阿太朗から、同じ部署で交流を深めるうちに自然と惹かれ合い、私たちは付き合い始めた。慎之介とは違い、穏やかで優しい彼に、私はゆっくりと心を開いていった。そして、付き合ってから半年が経った頃、阿太朗は私に言った。
「由香里さん、僕と結婚してください」
プロポーズされて、嬉しくないはずがない。でも、私は言った。
「あのね、阿太朗さん、私、子供ができないかもしれないの。実は、前に結婚してた時、それが原因で離婚したの……」
すると、阿太朗は笑い飛ばして言った。
「なんだ、そんなこと? 子供ができないかもしれないって、医者に言われたのか?」
「ううん、検査では問題ないって言われたんだけど……」
「じゃあ、大丈夫だよ。それに、妊娠っていうのは二人で作っていくものだろ? 由香里さんだけの責任じゃないんだから。たとえ子供ができなくても、二人で歩いていくことはできるよ」
私は、その言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように涙があふれてきた。そして、思い出したのは、離婚前の慎之介の冷たい顔だった。
「阿太朗さん……本当にいいの?」
「もちろん。それに、由香里さんは俺にとって、何よりも大切な人だから」
「私も……阿太朗さんと一緒にいたい。どんなことがあっても、絶対に離れないわ」
あの時、阿太朗がかけてくれた言葉と、その温もりは、一生忘れることはないだろう。こうして私は、慎之介との離婚から二年後、阿太朗と再婚することになった。彼は料理もするし、家事も率先して手伝ってくれる。慎之介が出前ばかりで、ゴミ一つ出すこともなかったので、男の人なんてみんなこんなものだと思っていた私は、この再婚で驚かされてばかりだった。
そして、再婚してから半年が経ったある日、私はつわりで体調が優れなかった。病院で検査をしてもらうと、医師から予想外の言葉を告げられた。
「おめでとうございます。妊娠していますよ。順調です」
私は、自分の耳を疑った。まさか、私が妊娠なんて。
「本当ですか? 私、ずっとできないと思ってたのに……」
「いえ、赤ちゃんは元気に育っていますよ。おめでとうございます。ご主人にも、すぐに報告してください」
家に帰って、阿太朗にそのことを伝えると、彼は声を震わせて尋ねた。
「本当か? 俺、お父さんになるのか?」
「うん、本当だよ。きっと、阿太朗に会うために、赤ちゃんは来てくれたんだと思う」
そう言って、彼がそっと私のお腹を撫でた。その手の優しさに、私はまた涙が出そうになった。
「ありがとう、由香里。絶対に、死なずに育てような。無理はするなよ。赤ちゃんが一番大事なんだから」
「うん、ありがとう。そう言ってくれると思ってた」
こうして、私の妊娠生活が始まった。阿太朗の言う通り、二人の子供を授かれたのは、紛れもなく、穏やかで温かい家庭を築いてくれた阿太朗のおかげだ。あの時、阿太朗との出会いをくれた神様に感謝したい気持ちでいっぱいだった。
時は過ぎ、私は無事に女の子を出産した。生まれてきた赤ちゃんは、産声を上げて、必死に私の指を握ってくる。愛しくて、愛しくて、たまらなかった。名前は「由希子」と名付けた。私たちの希望が詰まった、大切な子供だ。
子育ては、想像していた以上に大変だった。夜泣きをすれば、阿太朗と交互に起きてあやし、オムツ替えも、ミルクも、わからないことだらけだ。実家に帰って、しばらく休んだらどうだと言われたこともあったが、私は阿太朗と由希子と一緒にいる時間を決して手放したくなかった。どんなに大変でも、私はこの二人と家族としての時間を大切にしたいと思った。
あれから二年の月日が流れ、由希子もすくすくと育ち、よちよち歩きを始めるようになった。そんなある日、私の元を、一人の女性が訪ねてきた。突然の来訪に驚いていると、彼女は言った。
「は、はじめまして。えっと……えりか、と言います。慎之介の、元妻の……えりかです」
そう、彼女は、慎之介の新しい妻だったえりかという女性だった。慎之介と再婚した相手だ。私たちは、離婚の際、顔を合わせたことはなかった。なぜ、彼女が私を訪ねてきたのだろうか。きっと、何かしらの言い分があってのことだろう。私は、彼女を家に通し、お茶を出すことにした。
えりかは、きっちりしたスーツ姿で、しっかりと乳児を抱いていた。そして、どこか疲れ切ったような、うつむきがちな印象を受けた。しばらく沈黙が続いた後、えりかは思い切ったように口を開いた。
「突然お邪魔して、すみません。今日は……本当に謝りたくて、来たんです。由香里さんを、ずっと苦しめてしまって」
そう言って、彼女は抱いていた赤ちゃんを、少し揺らしながら話し始めた。彼女の連れてきた赤ちゃんは、由希子よりもずっと小さい。同じくらいの年齢なのかもしれない。
「私が、責められるべきなのは、分かっています。でも、私も騙されていたんです。慎之介は、私にも由香里さんに言ったのと同じことを言いました。『離婚したいんだ。由香里に問題があるから』って。でも、本当は違ったんですね。私と付き合ってる時から、彼は他の女と会っていたんです」
えりかは、涙を拭いもしないで、一気に話し続けた。慎之介との離婚の原因が、彼の不貞にあることが発覚したのは、偶然だったらしい。ある日、慎之介のスマホの通知に、知らない女からメッセージが届いているのを見つけたのだとか。それも、自分が妊娠している時に。
私は思わず、口を挟んでいた。
「まあ……」
「でもね、由香里さん。本当にひどいのは、その後のことなんです」
えりかが、ポツリと呟いた。慎之介は、私と別れてからも懲りずに女遊びを繰り返し、今度はついに、他の女に子供を産ませてしまったらしい。それも、えりかが妊娠している時にだ。そして、その事実が発覚した時、彼は逆上して、えりかを「気持ち悪い」と罵ったという。
「それまで色々あっても、私は我慢してきました。でも、他の女の子供まで押し付けられて、まさか私の方が病気じゃないかって疑うなんて、人間としてどうかしてると思いませんか?」
「それは……ひどいわね」
私は、彼女の身に何が起きたのか、何となくだが理解できた。慎之介は、自分の子供ができないのは、えりかのせいだと言い張っているらしい。そして、離婚の慰謝料は払わないと、裁判沙汰になっているとも言う。人間のクズだ。まるで、かつての私を見ているようだった。
「今日、こうやって会って、本当に良かった。由香里さんは、やっぱりいい人ですね。こんなこと言っておいて何ですが、少しだけ、すっきりしました」
そう言って、えりかはようやく、ほんの少しだけ微笑んだ。私も、つられて微笑んだ。
「私でよければ、何でも話してね。あんまり無理しちゃだめよ」
すると、えりかはハッとした顔で、私の手を握ってきた。
「本当にいいですか? それじゃあ、お願いしたいことがあるんです。私、由香里さんの連絡先を知らなくて……」
「いいわよ。今度から、相談してきなさい。私でよければ、何でも力になるから」
私は、彼女に自分の連絡先を伝えた。どうやら彼女は、離婚するにあたり、周囲に相談できる人がいなかったらしい。私は、彼女に言った。
「えりかさん、あなたは何も悪くないわ。慎之介みたいな人間は、いますぐ別れて正解よ。あなたには、これからいい人が見つかるわよ」
「……ありがとうございます。由香里さん、本当に優しいんですね」
「んーん、私こそ、話してくれてありがとう」
彼女が帰った後、私はこっそりとため息をついた。まさか、あの慎之介が、自分の妻子を二人も泣かせているとはね。私は、胸の内に、ふつふつと怒りが湧いてくるのを感じた。
そして、この日のことをきっかけに、私はあの時、自分がされて嫌だったこと、そして、慎之介という人間の本質を、もう一度しっかりと見つめ直すことになった。こうして、私たちの、一風変わった、それでいて温かい交流が始まったのだった。
それから、また月日が流れ、秋の気配を感じる頃。私は子育てに追われる忙しい日々を送っていた。最近の由希子は、言葉を覚えておしゃべりが上手になったかと思えば、突然走り出したり、目が離せない毎日だ。そんなある日、マンションのインターフォンが鳴った。出てみると、そこには見知らぬ女性が立っていた。
「はい」
「あの、ゆ、由香里さん……! 私、真澄です! 覚えていますか? 高校の時の……」
「真澄? ……ああ! 真澄ちゃん! 久しぶり!」
そう言ってドアを開けると、そこには、少し痩せた印象になったものの、間違いない。高校時代の親友、真澄だった。卒業以来、なので十年以上ぶりだ。急な再会に、私が驚いていると、真澄は何やら神妙な面持ちで、抱えていた紙袋をぎゅっと抱きしめた。
「その……急に来てごめんね。でも、どうしても由香里さんに会って、話したいことがあって」
「いいけど……どうしたの? 何かあったの? まさか、あの慎之介が何か?」
私がそう尋ねると、真澄は深くうなずいた。どうやら、彼女がここへ来たのは、慎之介が関係しているらしい。私は彼女を居間に通し、お茶を淹れることにした。真澄は、住宅展示場のパンフレットでも見るかのような、あの気まずさで、ゆっくりと口を開いた。
「あのね……慎之介の今の奥さん、知ってる?」
「ええ。前に、えりかさんって人が会いに来てくれたわ」
「そうなんだ。それでね、今、慎之介、奥さんと離婚問題になってるの」
真澄の話によると、慎之介は相変わらず女癖が治らないらしい。近ごろでは、自分の子供がなかなかできないのは、奥さんのせいだと、周囲に吹聴しているのだと言う。その上、自分から他に女を作っておきながら、だ。
「あの人、自分の子供がなかなかできないのを全部、奥さんのせいにしてるらしいんだよね。実際は、慎之介のせいかもしれないのにさ。病院で調べてもらったら、怪しいのはあっちの方らしいのに」
「……まあ」
「しかも、その奥さんが妊娠したんだって。でも、今度はその子が、自分の子供なのかどうかって疑い始めてるみたい」
真澄の話を聞いて、私は、ははあ、なるほど、と得心した。慎之介の二番目の妻であるえりかさんは、既に私と連絡を取り合うような間柄になっていたが、彼女が言うには、慎之介は自分の子供がなかなか産まれないのを、またしても妻のせいにし、離婚だのなんだのと騒いでいるらしい。そして、彼女が妊娠したと聞いて、今度は自分が父親なのかどうか、疑い始めたというのだ。
あの時、私に向かって「お前の体のせいだ」と言い放った男が、である。呆れて物も言えない。とんだ愚か者だ。そして、そのことを、高校の時からの友人が教えに来てくれた。
「聞いてる? 由香里さん」
「うん、聞いてる。それで、真澄ちゃんはどうして私に教えに来てくれたの?」
そう尋ねると、真澄は少し言いにくそうにしながらも、真剣な顔で答えた。
「もうね、この際はっきり言うよ。慎之助があんたに変なちょっかい出してきても、無視しなよ。そして、もしも何かされたら、これを使って」
そう言って、真澄は私の手のひらにスマホを置いた。何かと思い画面を見ると、そこには、慎之介の今の奥さんらしき人物と、若い女性が言い争っているような、いかにも怪しい写真が写っている。
「何これ……どうしたの、これ」
「あの女だよ、慎之介の今の奥さん。どこかで聞いて、今の住所まで突き止めて来たんだよ。あんたに何か言われたのか知らないけど、あの女、あんたに惚れ直してるみたいなんだよ」
「はああ!? 意味が分からないんだけど」
私は思わず力なく笑ってしまったが、真澄は至って真剣だ。
「本当に笑い事じゃないのよ。この写真を、今のうちに、あちら側の人間に見せておけば、結構な値で買ってくれる人もいるだろうし、何より、あんたの身の安全を確保するためには必要なんだって、旦那の雅人君と話し合って決めたことなんだから」
私は、一気に現実に引き戻される思いがした。どうやら私は、ただ真澄に会えた嬉しさで安心していたが、話は思いのほか、とんでもない方向へ転がっているようだ。慎之介は、私の住まいを突き止め、今の妻であるえりかさんに暴力を振るい、家を追い出したらしい。そして、今度は私にまで、何か言いがかりをつけてくる可能性があるというのだ。
「は、はあ……そうなんだ……ちょっと待って、慎之助が私に何かって、一体、何をされるって言うの?」
「さあね。でも、あんた、あの男の本性を知ってるくせに。女が妊娠したら、途端にそっちの女の味方をするような男じゃないんだから。もしも、逆上して、あんたのところに流れてくるなんてことになったら、その時はこの写真を、今の奥さんの母親に見せれば大丈夫だから」
真澄は、私が何か言う前に、まくし立てるように言った。気がつけば、私は彼女の勢いに圧倒されて、コクコクとうなずいていた。真澄は、話し終えると、ふぅと息を吐き、少し落ち着いた口調で言った。
「もしも、何か変なことがあったら、どんな小さなことでもいいから、連絡しなよ。私のことは、当然、把握してるから」
「ありがとう。真澄ちゃん、助かったよ」
「本当だからね。今度、由希子ちゃんにも、ちゃんと挨拶させてよ。もう、あの慎之介に、由香里さんたちの純粋な心までは汚させない。あいつは、幸せになる資格なんてないんだから」
その言葉に、私は深くうなずいた。あの時の、私の味方をしてくれる人が、今、こうしてそばにいる。それだけで、心強かった。
それから更に月日が流れ、私は平穏な日々を送っていた。阿太朗と二人で歩む穏やかな毎日。由希子は、すくすくと成長し、もうすぐ三才になろうとしている。こんなに幸せな毎日の中、私はすっかり慎之介のことを忘れかけていた。そんなある日、私はスーパーの駐車場で、思いがけない人物を見かけた。
「あら、由香里じゃない?」
声をかけられた方は、私よりもワントーン高い声で驚きつつも、なぜか妙に能天気な口調で言った。見ると、そこには、真新しいベビーカーを押した、見覚えのある女性が立っている。私はその顔を見て、声を失った。
「……慎之介」
そう、そこに立っていたのは、元夫の慎之介だった。何の因果か、こんなところで再会してしまうとは。しかも、ベビーカーを押している。彼が押しているということは、その中にいる赤ちゃんは、まさかとは思うけれど、彼の新しい子供なのだろうか。
「久しぶりだな。元気にしてたか?」
「……まあね。あなたこそ、元気そうで何よりだわ」
私は平静を装って、そう答えるのが精いっぱいだった。周りから見れば、ただの元夫婦の再会風景だろう。でも、私の胸の内は、複雑な感情でいっぱいだった。すると、慎之介がベビーカーを自分の方に引き寄せ、私に見せつけるようにして言った。
「見ろよ、俺の息子だ。かわいいだろう?」
ベビーカーの中には、眠っているのか、小さな赤ちゃんがいた。慎之介にそっくりな、いや、きっとそうなのだろう、顔立ちのはっきりした子だった。
「……そう。おめでとう」
「なあ、由香里。お前、今、誰かと暮らしてるのか?」
突然の質問に、私はどきりとした。
「それが、私の仕事に何か関係あるの?」
「いや、聞いた話だと、新しい旦那ができたんだって? それに、子供もいるんだって?」
べったり話していた過去の女のように、私は低い声でそう言った。慎之介の顔が、一瞬で歪む。その表情を見て、私は理解した。こいつは、自分が幸せになるのが面白くないんだ。昔の女である私が、自分より先に幸せになっているのが、気に入らないのだ。
「それが、私の仕事に何か関係あるの?」
「まあ、そう言うなって。ちょっと聞きたいことがあるんだけどよ」
「何かしら? 急に」
「お前一回、真面目な顔して、俺の話を聞けよ。実はさ、俺、今、離婚したんだ。妻と」
慎之介は、何の前触れもなく、そう言った。私は、突然のことに、何も言葉を返せなかった。
「今の妻がさ、こっちが騙されたってのに、慰謝料の請求をしてきて、裁判ざたになってるんだ。しかも、俺の両親にも、お前の言葉だと思って、とんだ濡れ衣を着せられて、俺は家を追い出されちまったんだ」
そう言って慎之介は、私の反応をうかがうように、チラリと私の顔を見た。私は、冷静心を失わないように、ゆっくりと口を開いた。
「そう……それは、大変だったわね」
ここで、少しでも感情を見せてはいけない。慎之介は、私の様子を見て、何か言いかけたが、思い直したように言葉を変えた。
「ああ、俺も、お前には、ひどいことをしたと思ってるよ。全部、俺が悪かったんだ。本当にすまなかった」
「……うん、なかったことにして」
私がそう言うと、慎之介は、安堵したような顔をした。こっちが、何も言わないのをいいことに、彼は都合よく自分を許してもらえると思っているのだろうか。そんなことは、絶対にないのに。
「じゃあ、これは、心ばかりの詫びだと思って、受け取ってくれ」
そう言って、慎之介が差し出してきたのは、ポチ袋だった。中には、諭吉が何枚か入っているらしい。私は、それを受け取ることもなく、言った。
「こんなもの、いらないわ」
「そんなこと言わずにさ、これで何か、美味しいもんでも食べてくれよ」
「何を言ってるの? 私には、あなたが必要だった時の方が多かったんだから。そうでしょ? あなたは、自分のことしか考えてなかった。私は、あなたに、どれだけ傷つけられたか分からない。その傷は、お金で消えるものじゃないの」
はっきりと言い切ると、慎之介は、まるで殴られたような顔をした。感情のない、冷めた目で、私は続けた。
「もう、私たち、会わない方がいいと思う。さようなら」
そう言って、私は背を向けた。もう、こいつの顔なんて、見たくもなかった。しかし、慎之介は、私の服の袖を掴んで、執拗に食い下がってきた。
「おい、待ってくれよ、由香里! 頼む! 助けてくれ! 頼むから!」
「放して!」
「お前しか味方がいないんだ! なあ、そうだろう? 俺たち、夫婦だったじゃないか!」
その言葉を聞いて、私は足を止めた。そして、振り返り、笑顔を作って言った。
「お願いやめて。気持ち悪い」
そう言い放ち、私は今度こそ、その場を離れた。後ろの方で、慎之介の情けない声が聞こえたが、二度と振り向かなかった。家に帰って、さっきの慎之介との会話を思い出し、私は深くため息をついた。あの日、私は自分の口で、全てを終わらせたはずだったのに、いつまでも、こちらの心を惑わせるようなことを言ってくる。あれが、元夫の精一杯の強がりだとしても、私は、もう心を動かされたりしない。
その夜、夫の阿太朗に、スーパーで慎之介に会ったことを話すと、彼は心配そうな顔をして言った。
「それで、由香里は、どう返事をしたんだ?」
「別に、何も。『会わない方がいいと思う』って言っただけよ」
「そうか……。それで、向こうは、何か言ってたのか?」
「しつこく、金を貸してほしいとか、助けてほしいとか……。信じられないよね。私に、何の権利があるっていうのよ」
笑いながら言ったつもりだったが、阿太朗は、複雑そうな顔をしていた。翌日、私は、阿太朗と由希子と三人で、ドライブに出かけた。海が見える公園に、由希子は大はしゃぎだ。私は、ベンチに座って、海を眺める二人を見て、あの日、感じた穏やかな時間を、噛みしめていた。
「ねえ、パパ。今度、でんしゃに乗せてくれる?」
「いいよ。今度の休みに、一緒に駅まで見に行こうな」
阿太朗は、そう言って、由希子の頭を優しく撫でた。その光景を見ていると、私は、なんて幸せな時間を過ごしているんだろうと、思う。あの日、慎之介に捨てられて、どん底の思いをしたからこそ、この幸せが、痛いほどに分かる。もはや、こんな穏やかで、幸せな生活を手に入れた私にとって、慎之介の存在は、ただの過去の傷痕でしかなかった。
そうして、穏やかな時間は流れ、あれから、さらに何年もの月日が経った。由希子も小学生になり、私は、ようやく、あの頃の暗い記憶も、完全に過去のものとして、笑い話にできるようになった。そんなある日、私は、ひょんなことから、慎之介の噂を聞くことになる。
「ねえ、知ってる? 慎之介さん、会社、首になったんだって」
「え? そうなの? 何で?」
「それがね、どうやら、セクハラ絡みなんだって。部下の女性に、しつこく言い寄ってたらしいのよ。今までも、何度か注意されてたらしいけど、ついに、妊娠させちゃって、大問題になってるんだって」
とは、共通の知人から聞いた話だ。慎之介は、あの時に私と離婚し、自分の子供を産んだ女性と再婚した。しかし、私に対するのと同じように、自分の思い通りにならないと分かると、他の女に手を出していた。そして、その女を妊娠させ、またしても、妻を困らせているそうだ。
「ふーん。で、そのあとは、どうなったの?」
「それが、今度の奥さん、お堅い家でな。可愛がって長男を産んだって言うから、逆上して、離婚だのなんだのって、大騒ぎしてるらしいんだよ。まあ、それだけだよ。あの男、どうせまた、どこかの誰かを、不幸にでもするんじゃない?」
私は、その知人の言葉を、ただ静かに聞くことしかできなかった。もはや、私には、何の関係もない話だ。残念ながら、彼には、何が何だか分からなかっただろうが。
気がつけば、私は、すっかり笑っていた。今日という日は、穏やかな日曜日。ベランダからは、公園で遊ぶ、由希子の楽しそうな声が聞こえてくる。私は、カーテンを開け、青く晴れ渡った空を見上げた。もう二度と、あの頃の私には戻れない。けれど、この何気ない一日が、かけがえのない幸せなんだと、しみじみと感じている。
