アラームは確かに聞こえていた。でも体が鉛のように動かなくて、布団から這い出すこともできないまま、掠れた声で謝った。その瞬間、夫の怒鳴り声が部屋に響いた。「おい、ポンコツ。もう七時だぞ。朝飯もできてないとか、専業主婦失格だろ」。私は三十九度の熱で、一睡もしていなかった。義母の排せつを後片付けし、認知症の義父が夜中に歩き出すのを何度も止めた。なのに夫は「高が風邪くらいで大げさなんだよ」と吐き捨て…

アラームは確かに聞こえていた。でも体が鉛のように動かなくて、布団から這い出すこともできないまま、掠れた声で謝った。その瞬間、夫の怒鳴り声が部屋に響いた。「おい、ポンコツ。もう七時だぞ。朝飯もできてないとか、専業主婦失格だろ」。私は三十九度の熱で、一睡もしていなかった。義母の排せつを後片付けし、認知症の義父が夜中に歩き出すのを何度も止めた。なのに夫は「高が風邪くらいで大げさなんだよ」と吐き捨て...

「おい、ポンコツ。もう七時だぞ。まだ寝てるのかよ。朝飯もできてないとか、専業主婦失格だろ。」

アラームの音は確かに聞こえていた。でも体がまるで鉛のように動かない。布団の中から這い出すこともできないまま、私は掠れた声で謝った。

「ごめんなさい。アラームは聞こえてたんだけど、どうしても体が動かなくて……。」

「はあ?何言ってんだよ。昨日残業で遅かった俺が起きれたんだぞ。一日中家にいるお前が、なんで起きられないんだよ。」

「私、一人でお父さんとお母さんの介護をしてるのよ。」

「知ってるよ。俺が頼んだんだから。」

「疲れが出る日もあるわ。」

「それは甘えだろ。」

「さっき熱を測ったら、三十九度あって……体が痛くて。」

「ああ、すごいね。で、それが朝飯作らない理由になんの?」

「フラフラして起きれないのよ。」

「LINEはできるんだろ。」

「返事をしなかったら怒るじゃない。本当はLINEするのもきついのよ。」

「じゃあ包丁も持てるだろう。作れよ。」

「お願い。今日はパンを焼いて食べてくれないかな?冷蔵庫に食パンがあったはずだから…。」

「ふざけんなよ。俺はこれから仕事に行くんだぞ。そんなもんでパワーが出るわけねえだろ。ちゃんとした飯を用意しろって言ってんだよ。」

「ごめんなさい。でも本当に辛くて……。今日はヘルパーさんも来るし、薬飲んで少し休めば、昼には動けるようになると思うから。」

「高が風邪くらいで大げさなんだよ。お前は。」

「そんなこと言わないでよ。お母さんの排せつがひどくて、昨晩も一睡もしてないのよ。」

「それは大げさすぎるだろう。」

「本当よ。十分おきに起きてるの。お母さんがトイレじゃない場所で排泄しちゃうから、後片付けして、着替えさせて、シーツを替えて……。お父さんの認知症もひどくなってきて、夜中に突然歩き出したりするし。」

「はいはい。サイアクなアピールおつ。」

「あのさ、親の面倒を見るくらいで恩着せがましいこと言うなよ。家にいるのが楽だと思ってるの?」

「楽だなんて思ったことないわ。お父さんはまだいいの。自分でトイレにも行けるし、こっちの話も聞いてくれるから。でもお母さんはもう私の顔も分からないし、目を離すと外に出ようとする。お父さんは私に気を使ってくれるけど、放っておけないし。ここ一ヶ月、毎日睡眠時間三時間もないのよ。」

「容量が悪いんだよ。適当に手を抜けばいいだろう。」

「命を預かってるのに、そんなことできない。」

「だから大げさすぎるんだって。介護なんて、三食昼寝付きの楽な仕事でいいよな。」

「は?」

「だってそうだろう。上司に怒鳴られることもない。満員電車に乗る必要もない。ただ、暖房の効いた部屋でボケ老人と遊んでればいいだけじゃん。」

「なんて言い方をするの?自分の親でしょ。」

「うるせえなあ。お前なんて、介護をサボったら何の価値もないんだよ。」

「は?私、あなたの寄生先になる気満々なんだけど。」

「寄生先って言った?読めば分かるだろ。俺が必死に働いて稼いだ金で、お前は飯を食って、俺の家に住んで、電気代も水道代も全部俺持ち。これを寄生と言わずして何と言うんだよ。」

「あなたが家で見てあげたいって言ったから、私がキャリアを捨ててこの家に入ったんじゃない。私は元々、正社員として働いてたのよ。あなたの方が収入が安定してるし、介護しながら働くのは難しいって言ったのは、そっちの方でしょ。」

「うるせえなあ。口応えする元気があるなら、さっさと飯作れよ。あと、ついでにお袋のオムツも変えとけ。さっきから臭いんだよ。」

「……分かったわ。」

ベッドから這い出すようにして起き上がると、私はふらつく足を何とか踏ん張って立ち上がった。リビングに向かうと、ソファに座っている義父の姿が見えた。義母は車椅子に座ったまま、ぼんやりと窓の外を見ている。

「そうだ。オムツが切れるんだった。ネットスーパーを使いたいから、カードを使ってもいいかな?」

「配達手数料がかかるだろう。買いに行けよ。」

「今、熱があるって言ったよね。」

「金食い虫もいい加減にしろよ。先週も二万渡しただろ。」

「あれは食費と介護用品で消えたわ。介護用品って、本当にお金がかかるのよ。オムツもおしりふきも、ポータブルトイレの処理袋も……。」

「知らねえよ。お前のやりくりが下手なだけだろ。安いものを探そうとか、節約しようって努力が全く見えないんだよ。」

「私、自分の化粧水さえもう半年も買ってないのよ。全部、家のことと義父母のことで精一杯で……。」

「うるさい。口を開けば金くれ金くれ。働いてもいないくせに。」

「生きていくには必要なんだから、仕方ないじゃない。」

「分かったよ。そんなに金が足りないなら、これからは俺が管理してやる。」

「え?」

「おい、財布とカードを出しておけ。全部没収だ。」

「ちょっと待ってよ。それじゃあ、今日のお買い物はどうするの?」

「甘えんな。寄生中だろ。金が欲しければ、床に頭を擦りつけて頼めよ。本当に必要なものか、俺が毎回審査してやる。」

「あまりだよ。私、あなたの奴隷じゃないのよ。」

「奴隷以下の寄生中だろ。嫌なら稼いでみろよ。まあ、三十五過ぎたおばさんなんて、どこも雇ってくれないだろうけどな。」

「今の私のどこに、働く時間があるって言うのよ。朝から晩まで、あなたの両親の世話で……。」

「じゃあ、俺は会社に行くから、帰るまでに家中ピカピカにしとけよ。熱があるなら、汗をかいて動いた方が治るだろう。」

「こんな体で……お金もなくて……どうやって生活しろっていうのよ。」

彼は無視して、リビングを出て行った。やがて玄関の扉が乱暴に閉まる音がして、家の中に静寂が戻ってきた。

私はその場に座り込んだ。涙が出るわけでもなく、ただ頭が真っ白だった。どれくらいそうしていただろうか。後ろから、優しい声がかかった。

「さなさん。起きているかい?」

振り返ると、義父が立っていた。足腰が悪いからと、普段はほとんど自分から動かない人なのに、今日は杖をつきながら、ゆっくりと近づいてくる。

「お父さん、どうなさいました?」

「直はもう出たかな?」

「まだトイレにいるみたいですが……。あ、お腹空きましたよね。すぐに行きますから、朝ご飯の準備をしますね。」

「来なくていい。」

「え?」

「座りなさい。」

私は言われるままにソファに腰を下ろした。義父は反対側のソファに、時間をかけて座った。何かを話そうとして、言葉を探しているように見えた。

「お父さん……どうされました?」

「LINEで直と話したんだ。もう一度、直の言葉が聞きたくてな。だから私から伝えようと思って。」

「直きが……何か言ってましたか?」

「……熱があるんだろう、と言ったんだ。そしたら、直が言い出したんだよ。『熱があると言ってるが、それは嘘だ。信じるな。起き上がることもできないというのは、大げさに言ってるだけだ』と。」

「……そうですか。」

「だから、確かめに来たんだ。本当に熱があるのかどうか。君の顔を見て、話を聞いて、確信したよ。これは本物だ。直は嘘だと言い張ったけれどね。」

「大丈夫です。ちょっと熱があるだけですから。薬を飲んで、気合を入れれば、何とか動けますから。」

「直が暴言を吐いてたのは、全部、聞こえてたよ。最初はLINEで君を責めてただろう。それが我慢できなかったんだろうな。朝から騒がしくしてしまって、すみません。」

「私のことより、お父さん。何か飲み物を……。」

「いいから、座っていなさい。」

義父は深く息を吐いた。目が、窓の外の朝日を映して、きらきらと揺れている。

「君は、わしらのために、十分すぎるほど尽くしてくれた。君が来てくれてから、家の中はいつも綺麗だし、食事だって、歯の悪いわしらに合わせて、細かく刻んでくれているだろう。わしは毎日、感謝していたんだよ。」

「そう言っていただけるだけで、嬉しいです。」

「さなさん。今すぐ、ここから逃げなさい。」

「え?」

「いいから。こんなところにいちゃだめだ。」

「でも、私が出ていったら、お父さんとお母さんが……。」

「わしらのことは、気にするな。このままここにいたら、君は持たないぞ。」

「お父さん……。」

「わしらが、今すぐ施設に入ればいいんだ。そうすれば、息子の世話にならずに済む。わしも、母も。もう十分だ。情けないけれどね。」

「そんな風に言わないでください。空がないんですから、仕方ないじゃないですか。困った時はお互い様ですよ。私だって、お父さんたちに助けてもらったこと、たくさんあります。そうじゃないですか。それに、まだ何とかなります。三日もすれば、熱も下がりますから……。」

「いいから、荷物をまとめなさい。」

「お父さんたちを置いて行けません。あと三日辛抱すれば、大丈夫だから。」

「どういうことだね?」

「三日間だけ……って。お父さん、ひどいこと言わないで。私、ちゃんとやりますから。」

「……違うんだ、さな。聞いてくれ。」

義父はゆっくりと、自分の足元を見た。そして、絞り出すような声で言った。

「三日間だけ、直に地獄を見せてやる。」

「……え?」

「わしの口からは、これ以上は言えん。でも、わしはお前を信じておる。わしらが施設に入るその日まで、どうかお前も一緒にいてくれ。それが無理なら……お前は今すぐにでも、ここを出て行きなさい。」

「そんな……。」

「昨日、あの息子が言っておったよ。『親父は、お袋は、わしに捨てられたと思ってる。だから泣き言を言うんだ』とな。違うんだ。わしは、あいつに捨てられたんじゃない。わしと母ちゃんが、あいつを見限ったんだ。」

「お父さん……。」

「あのまま息子の面倒を見続けていたら、わしらは息子をダメにしていただろう。もう決めたんだ。わしと母ちゃんは、三日後の昼に出ていく。」

「だったら、私も……。」

「お前は来なくていい。」

「でも……。」

「さな。お前には、感謝してる。本当にありがとう。あとは……ちと、わしからも言わせてくれ。」

義父は立ち上がると、自分の部屋の方へ歩いていった。ドアのところまで来て、何かを思い出したように振り返った。

「そうだ。駅前のスーパーのポイントカード、わしのタンスにしまいっぱなしだったから、使いたかったら使いなさい。二千円分ほど、溜まっているはずだ。」

「ありがとうございます……。」

翌日、義父の言葉通り、私は不思議な感覚に包まれていた。昨晩、直が帰ってきてから、何かが変わったわけではない。でも、確かに何かが変わった。

「さなさん。駅前に、スーパーがあるだろう?」

朝食の準備をしていると、義父が話しかけてきた。

「はい。ありますけど。」

「今日、新しいのが開くらしい。品揃えがいいそうだ。行ってみないか?」

「お買い物ですか?でも、お母さんが……。」

「わしが見ておる。半日でいい。行ってきなさい。」

「……はい。」

半日。キッチンに立つ私は、自分の部屋にあるスマホの画面を見つめた。財布の中には、義父から貰った二千円分のポイントカードだけが入っている。

「行ってきます。」

緊張しながら玄関を出た。駅までの道すがら、私は昨日の会話を思い出していた。結局、私は施設に入ることを選んだ。あのまま直の家にいても、幸せにはなれないことは分かっていた。それに、義父も義母も、私の幸せを本気で考えてくれているのが伝わってきたからだ。

駅に着き、改札を通ろうとした時、後ろから声をかけられた。

「さなさん、ですよね?」

振り返ると、見覚えのない女性が立っていた。歳は私より少し若いくらいだろうか。優しそうな笑顔だった。

「はい。そうですけど……。」

「よかった。あなたを探してたんです。お義父さんから聞きました。ぜひ、うちで働いてみませんかって」

「働く……ですか?」

「はい。介護の仕事です。資格はお持ちじゃないですけど、何年も介護をされていた方の方が、むしろ信頼できます。うちの施設、人手が足りなくて困ってるんです。」

「施設……。」

「はい。あなたの経験を、ぜひ活かしてほしいんです。住み込みの仕事もありますから、よかったら、考えてみてくれませんか?」

私は、その場で立ち尽くした。朝焼けが、私の頬を温かく照らしている。

「……はい。お願いします。」

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