トールは社長令嬢と結婚させるから、あんたはさっさと身を引いて。
義母はにこりともせず、真っ直ぐに私の目を見てそう言い放った。まるで今日の天気でも教えるかのような、その冷淡な口調に私は一瞬何を言われたのか理解ができなかった。
義母曰く、夫に新しい恋人ができたらしい。その相手というのが、トールが経営するヘアサロンの取引先の社長令嬢で、すでに二人は深い関係になっているというのだ。
やはり、トールは浮気をしていたのだ。私は薄々感じてはいた。帰りが遅くなり、私に対する態度が冷たくなっていくのには理由があるのだと思っていた。しかし、それを目の前に突きつけられると、心の奥底にしまい込んでいた不安が一気に現実のものとなって、体の力が抜けるようだった。
私は近藤し織、33歳。夫は2つ年上のトールで、今はヘアサロンを経営している。私はそこでチーフスタイリストとして働いている。店の運営に関わることはほぼすべて私が任されていて、実質的な店舗運営は私の双肩にかかっていると言ってもいい。
トールと知り合ったのは約5年前。知人の紹介だった。料理が得意で、店を持つという夢を持っていると語る姿は魅力的で、優しくて頼りになる人だと思った。私の方から惚れてしまった。当時私は別のサロンで働いていたのだが、1年ほどの交際の後、結婚を機にトールのサロンへ移ってきた。
結婚して4年ほど経つ。だが、結婚当初から悪かった義母と私の関係は一向に良くならず、最近はますます悪化している。義母はトールが小学生の頃に離婚し、今は私たちと同じマンションの違うフロアで一人で住んでいる。私はどうしても義母と同居するのが嫌で、当時トールに無理を言って、別々に暮らすことにしてもらった。最初から関係はいいものではなかったが、同居を拒否したことも影響してか、義母の私に対する態度はとても攻撃的だ。
この義母、離婚してから女手一つでトールを育て上げた立派な女性なのだが、未だに息子の人生の全ての決定権は自分にあると思っている節がある。私たちが結婚する際も、結婚式や新婚旅行、新居選びはもちろん、日頃の食事に至るまでどんなことにも口出ししてくる。私にも好みがある。新婚旅行で行きたい場所だってあった。しかし、私の意見を伝えると、義母は頭ごなしに反対し、かなり威圧的な態度で攻撃してくるのだ。
「あんたね、これから義理の母になる私に逆らうつもり?あんたのくだらない意見なんか必要ないわ」
と、ひどい時は鼻で笑いながら言い放つ。私の育てられ方が悪いなどと、両親のことまで悪く言うこともあった。義母はトールを育て上げたことに相当な自信を持っているので、私や私の両親のことを見下すように見ているのだろう。
私にとって最も辛いことは、トールの態度が結婚前とまるで変わってしまったことだ。結婚する前は、たとえ義母の言うことに反対はしなくても、後になって私に義母が言い過ぎたことを謝ってきたり、事情を説明してくれたりしていた。しかし結婚してからは、恐らく180度変わったと言ってもいいくらいに、義母に便乗して私を攻撃してくるようになったのだ。
結婚前は、この人なら義母と私が対立することがあっても、私の味方になってくれると思っていた。最初は不安だった結婚を決意できたのは、トールが私を守ってくれると信じていたからだ。どうしてこんなことになってしまったのか分からないが、先の見えない状況で結婚したことを後悔する日も少なくない。
ある日の夕方、私はトールに相談したいことがあり、声をかけた。
「ちょっと、仕事のことで話したいんだけど」
「無理、無理。俺は今から商店街の集まりがあるから」
トールは前日は青年会議所の集まりに行ったばかりで、その前の週も飲み会や接待だと言って、ほとんど家にいない。私が不満そうな顔で、いつなら落ち着いて話ができるのかと尋ねると、トールは不機嫌な態度でこう言った。
「文句言うなよ。どれも仕事に関わる大事な付き合いなんだよ。そんなんじゃ経営者の妻失格だな」
威圧的で偉そうな言い方に、私は気分が悪くなる。お店は今では3店舗に増え、私は今後の運営について相談したいことがあった。しかしいつもこうだ。トールは私に「自分で考えろ」と突き放すだけ。
「店舗のことは全部しおりに任せてるのは分かってるよな。学歴もなければ家柄も大したことないお前の唯一の取り柄が美容師のスキルだろう。それを発揮して売上アップに務めるべきで、俺を当てにするのはおかしいよね」
なんて上から目線なんだろうと、うんざりする。1から始めたサロンの経営は順調で、4年間で3店舗をオープンさせた。しかも年末には4店舗目オープンの準備も進めている。それは大変結構なことなのだが、経営が右肩上がりになるにつれて、トールは周囲から若手経営者として持て囃されるようになった。その頃から、トールの私に対する態度は高圧的になっていった。
私の何から何まで口出ししてきて、自分が教育者とでも思っているようだ。私の化粧や服のセンス。果てはライバル店のスタイリストを引き合いに出して、私を散々にけなすこともある。何が気に入らないのか、いちいち小言を言われ、こき下ろされる日々。それでも私は必死に耐えてきた。店のことを任されているという自負もあったし、トールのため、お店のためだと思っていたからだ。
さらに厄介なのは、トールの無視作戦だ。私のLINEの返事が遅かったり、頼まれた用事を後回しにしたりすると、突然私のことを完全に無視するようになる。返事がなければ何か悪いことをしたのかと不安になり、何とか機嫌を取ろうと必死になる。しかし、一度無視が始まると、まず帰宅が遅くなる。帰ってきても私が用意した夕食を食べずに放置し、知らん顔で出前を取ったり、コンビニでお弁当などを買ってきたりする。時には同じマンションの義母の家に入り浸り、食事から入浴まで義母のところで済ませることもある。声をかけても全く返事をせず、あまりしつこく声をかけると、部屋にこもったり、何も言わず外へ出ていってしまう。
こうしたトールの無視作戦は、結婚当初にはなかったことだ。最近になって始まったことで、どうしたらいいか分からない私は怒ることもできず、ただただ我慢するしかなかった。食べてくれないかもしれないと思いながらも、トールの機嫌がさらに悪くなるのが怖くて、食事やお風呂など、いつものように用意して待つ。帰宅しないことがあった時は、私は明け方まで寝ないで待っていたこともある。翌日、家に現れた義母から聞いて、トールが義母のところに泊まったことを知ったのだ。
そう、義母が家に来ることもある。これがさらに私にはきつい。事前の連絡もなく、いつも突然の訪問で、しかも毎回何かしら毒づいて帰っていく。
「全く出来の悪い嫁よね。トールがかわいそうだわ」
私はこの前みたいに、トールが何か聞いているのかと思い、何が原因なのか尋ねる。すると義母は私を見下すように笑いながら、こう言う。
「あら、心当たりないの?自分で自分の至らない点が分からない人に、私が何を言っても無駄でしょ」
何一つアドバイスもなく、私のことを笑い物にするためだけに来たようだ。しばらくこの状態が続くと、私の神経が参ってくる。鏡を見ると、自分の顔色の悪さに驚くくらいだ。
「はあ…」
ため息をつきながら、明日のお弁当の準備をしていると、玄関の鍵が開く音がした。また一晩中待たされるのかと思うと気が重い。だが、今日は帰ってくるのが早かった。トールは何食わぬ顔でリビングに入ってくると、私の顔も見ずに言った。
「ただいま。腹減った。早く夕ご飯にしよう」
何事もなかったかのように、当たり前のように言う。私は精神的な疲れがどっと押し寄せ、座り込んでしまいそうになる。それでも、トールが帰ってきてくれて安心している自分がいた。しかしまたいつ、トールの機嫌が悪くなるのかと不安に怯え、無意識のうちに顔色を伺うような暮らしになっていく。
私が自分のこういう精神状態に気づいたのは、この春に入社した新人スタイリストのり子ちゃんに、ずばっと指摘された時だった。
その日は、またトールに無視されている最中だった。トールは夕食も食べず、口も効かない状態。作った料理を捨てるのはもったいないので、自分用のお弁当にして翌日職場に持っていった。そして、それを休憩時間に一人で食べていると、り子ちゃんが声をかけてきた。
「しおりさん、今日のお弁当、いつもと違いますね」
「あ、バレた?昨日の残りを詰めたのよ」
「残りですか?」
り子ちゃんは申し訳なさそうにうつむいた。私はバツが悪くなって笑いながら言い訳をする。
「最近、夫が帰り遅くてね。一人分も作るの面倒で」
「…暗いですよ、しおりさん」
急にり子ちゃんが真剣な表情で言った。私は「なんですって?」と聞き返した。り子ちゃんは私の目を真っ直ぐに見つめて、ゆっくりと話し始めた。
「しおりさん、最近すごく顔色が悪いですよ。めっちゃ痩せたし、なんか前と全然違う。辛いなら、無理しなくていいですよ。何か悩み事ですか?」
その言葉に、私はハッとさせられた。確かに昔の私なら、義母に何を言われても、トールに無視されても、ここまで思い詰めることはなかった。私はこの数年で、トールの顔色をずっと窺いながら、自分を殺して生きてきたことに気づいた。誰かに相談できるものでもなく、かといって現状を変える勇気もない。ただがむしゃらに働いて、家に帰ればトールの機嫌を伺う。私は一体、何のために結婚したんだろう。
少し迷った末、私はり子ちゃんに打ち明けることにした。最初は少しだけ。最近夫とうまくいっていないこと。自分の存在価値が分からなくなること。するとり子ちゃんは「それバイト先の店長の愚痴とかとはレベルが違いますよ。旦那さん、サイテーじゃないですか」とあっけらかんと言い放った。
「しおりさん、それってモラハラですよ。無視するのも、自分が教育してやるとか言うのも。よく3店舗も回してやってますよ。でしょ?どう考えたって、おかしいのはそっちです」
り子ちゃんの言葉が、自分が言われたわけでもないのに、なければ前に進めないと思っていた。義母に何を言われようが、トールに無視されようが、私が悪いんだと、そう思うことで何とか自分を保っていたのに。
「私、そろそろ、ハッキリしないとダメなのかもしれない…」
つぶやくように言うと、り子ちゃんは「そうですよ」とにっこり笑った。
「やっぱり、ちゃんと話し合わないとダメですよ。こんなの長く続けたら、お互いのためになりませんって」
その時は、まだ自分に何ができるかなんて分からなかった。しかし、確かに思ったのだ。このまま腫れ物に触るような生活を続けていても、何も状況は変わらない。トールが私と話すことを拒み、義母が私を攻撃し続ける限り、私はこの家で一体何をしているのか分からなくなる。
その夜、私は久しぶりに、トールを待たずに先に布団に入った。子供はいない。2人だけの静かな部屋だった。作り置きの料理を皿に並べ、お風呂を沸かし、トールが帰ってきたら食べられるように、机の上に置いておいた。もう何も言わなかった。翌朝、私は皿が空になっていることに気づいた。残っていたおかずは半分以上、無理やり箸をつけたような形跡もなく、出前の容器がそのまま残されていた。私はどこかで、トールを諦めかけている自分に気づく。
トールが帰ってこないまま、月日は流れた。義母の「身を引け」という言葉。それは荒唐無稽な話ではなく、もしかしたら一番の正解なのかもしれない。私はふと、窓の外を見た。このマンションを選んだ時、二人で将来のことを夢見て話したことを覚えている。それが今では、こんなにも色褪せて見える。
しかし、やはり簡単に結論は出せない。私はこのサロンを愛している。3店舗に増えたのは、私が毎日必死に働いてきたからだ。トールは経営者としての看板を背負っているが、実際にお客様をさばき、スタッフを教育し、売上を作ってきたのはこの私だ。それを、トールにもういらないと言われる筋合いはない。義母に「身を引け」と言われる筋合いも、本当はなかった。
あの日、義母に言われた言葉を思い出し、私は拳を握りしめた。
「今のトールを作ったのは私よ。トールを幸せにできるのは、私だけなんだから」
そう自分に言い聞かせてきた過去を、私はもう捨てるべきなのだろうか。
ある真夜中、トールが酔っ払って帰宅した。私はソファでうたた寝をしていて、あまりの酒の匂いに目が覚めた。トールはネクタイも外さず、玄関の前に座り込んでいる。
「トール、おかえりなさい」
私がそう声をかけると、トールは私を見上げ、そして何の脈絡もなく言い放った。
「しおり、離婚しよう」
私はその言葉に、寝ぼけているのかと思った。しかし、トールの目は、酔っているくせに妙にしっかりとしていた。
「…トール、今、何て言ったの?」
「離婚しよう。決めたんだ。いろいろと、お前じゃ俺はやっていけない」
私は体が凍りつくのを感じた。心臓がドクドクと鳴り、今にも飛び出してしまいそうだった。どう返せばいいのか分からなかった。直前まで義母に「身を引け」と言われていたことの答えが、この突然の言葉によって確定してしまった。私は何も言えず、その場に立ち尽くしていた。トールは用事が済んだかのように立ち上がり、スタスタと寝室へ歩いていってしまう。
結局、私は何も言い返せなかった。言い返す元気も、残されていた。トールは私を庇いもしない。お前は経営者の妻失格だ、お前の取り柄は美容師としてのスキルだけだ、そう言ったのも、全部本心からなのだろう。義母に社長令嬢と結婚させると言われ、前向きになったのは、トール自身なのだ。
あくる日、私はサロンへ行き、り子ちゃんに言った。
「私、離婚する気になれなかった。でも、決まったみたいなの。つい昨夜、本人に言われた」
り子ちゃんは何も答えなかった。ただ、すごく苦しそうな顔で私を見つめていた。その顔を見て、私は逆に少しラクになれた。誰かに気づかってもらえるということは、ここまで心を救ってくれるものなのか。
そして私は思った。もう、無理に笑わなくていいんだな、と。
夫婦の終わり。それは突然訪れた。トールは私の出生地も、これまでの努力も、何も理解してはいない。私から何かを奪って、全てを自分に従わせようとしている。それに気づいた時、私はトールに見切りをつける決意をした。彼の下で、このまま衰えていくのはごめんだ。私は美容師として、これからも生きていく。たとえ一人になっても、トールの経営者としての看板がなくなっても、私の技術を求めてくれる人がいる限り、私は美を追求し続ける。
私はサロンを辞めることにした。トールに有無を言わせず、辞表を直接社長室に持っていった。もっとも、その社長室も、規模は言えないが、私が1から作り上げてきた店の一つの一部屋に過ぎなかった。トールは私の行動が予想外だったのか、驚いた顔をした。しかし、私は何も言いはしなかった。聞いたところで、きっとトールは私を貶す言葉しか返してこないからだ。
最後の仕事を終え、荷物をまとめて店を出た。り子ちゃんが玄関まで見送ってくれた。
「しおりさん、お疲れさまでした。また連絡しますね」
「ありがとう、り子ちゃん。あなたに会えて、最後に相談できてよかった」
そう言って笑顔を振りまくと、り子ちゃんは目を真っ赤にして「元気でいてくださいね!」と叫んでくれた。私は振り返らずに、手を振りながら歩き出した。
実家に戻ることは選ばなかった。これからどうするかは、まだ決めていない。でも、きっと何とかなる。長年抱えていた不安や辛さから解放され、私はこの先、やっとの思いで新しい一歩を踏み出せるところに立っていた。
何年かして、私は実家の近くの商店街に、小さなヘアサロンをオープンさせた。トールの力は借りていない。私が作ったお店だ。あの時、義母に言われた「トールは社長令嬢と結婚させるから身を引いて」という言葉。今なら、ようやくあれはトールと義母からの最後のギフトだったのかもしれないと思う。
しばらくして、店に一人の年配の女性が訪ねてきた。挨拶をした瞬間、私は目を見開いた。そこには、昔と変わらず堂々とした風格の義母が立っていたのだ。私は一瞬たじろいだが、笑顔を絶やさずにこう言った。
「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか?」
義母は私の顔をじっと見つめ、少し黙り込んだ。そして、急に気まずそうに視線を逸らし、「…切ってもいい? 」とだけ言った。私はその言葉に、心の中でそっと呟く。ああ、この人も、トールに捨てられたんだ。
私は何も聞かず、「承知しました」と言って、バーバー用の椅子を用意した。義母との関係が修復したわけでは全くないが、私を一人の美容師として扱ってくれるのだとすれば、これ以上ない再生の兆しだった。私が「トールから幸せになりなさいとも言われてないし、これからは私の人生だわ。私、美の仕事をしていくんだから」と決めた通り、私は目の前の小さな幸せを積み重ねていく。それが、かつての自分を取り戻す唯一の道だから。
