父が亡くなって一週間後のことだった。リビングで母がいつものようにお茶を淹れている、ごく普通の午後。でも、その静けさを破ったのは、僕の口から出た信じられない一言だった。「母さん、ちょっと話があるんだけど。親父も亡くなったしさ、母さんにはこの家を出て行ってもらうから」—その瞬間、母の手が止まった。28年間、家賃も光熱費も食費も全部母が払ってきた。僕は結婚して3年、一度も払ったことがない。それなの…

父が亡くなって一週間後のことだった。リビングで母がいつものようにお茶を淹れている、ごく普通の午後。でも、その静けさを破ったのは、僕の口から出た信じられない一言だった。「母さん、ちょっと話があるんだけど。親父も亡くなったしさ、母さんにはこの家を出て行ってもらうから」—その瞬間、母の手が止まった。28年間、家賃も光熱費も食費も全部母が払ってきた。僕は結婚して3年、一度も払ったことがない。それなの...

母さん、ちょっと話があるんだけど。

匠、どうしたの、急に。

親父も亡くなったしさ、母さんにはこの家を出て行ってもらうから。

はあ? 何言ってるの、急に。出て行けって? だから、出て行ってほしいんだよ。俺はこの家の息子だからな。

息子だから何なの? 親父が死んだんだから、この家は俺のものになるだろ。

あんた、自分が何言ってるか分かってるの?

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分かってるよ。それより、28年間誰が誰を養ってきたと思ってるんだ? それは母さんだけど。

だけどじゃないでしょ。あんた、結婚して3年でしょ。

そうだけど、その3年間ずっと誰が面倒見てたの? 母さんだよ。家賃も払ってない。光熱費も払ってない。食費だって。全部私が出してきたでしょ。

それは世話になってたけどさ。

世話になってた? ただで養ってもらってただけでしょ。

養ってもらってたって言い方やめろよ。

じゃあ何て言えばいいの?

28歳の既婚者が親のすねをかじってたって。すねをかじるって事実でしょ。

とにかく、俺たち夫婦の家にするから、母さんは出て行ってくれ。

俺たち夫婦の家? はあ、意味が分かんないんだけど。

だから、親父が死んだら俺が相続するんだよ。

相続? あんた本気でそれを言ってるの? 当たり前だろ。

面白いわね。

何が面白いんだよ。

あんたの頭の中よ。この家、誰が買ったか知ってる?

親父だろ? 違うわよ。私よ。30年前、私の給料とボーナスを全部はたいて買ったの。

嘘だろ? 嘘じゃないわよ。私は不動産会社の営業部長だったんだから。

営業部長? …ああ、そういえば。

あんたの就職先だって、私がコネを使ったのを忘れたの?

それは…忘れてた。

都合の悪いことは全部忘れるんだから。本当に呆れるわ。

でも母さん、今は働いてないだろ。

お父さんの介護のために仕事を辞めたんだよ。それは知ってる。

知ってるけどさ。

知ってるけど、じゃないでしょ。退職金2,500万円、全部お父さんの医療費に使ったのよ。

2,500万? そうよ。あんたが相続するものなんて、何一つないの。

でも、この家は大事なんだよ。それに、義理の両親がこっちに来ることになってるんだ。

はあ? 何それ。勝手に決めたの? 向こうの両親はな、色々と援助してくれるんだよ。

援助?

そうだよ。母さんよりよっぽど頼りになるんだ。

あんた、今何て言った? だから、援助してくれるって言ってるんだ。

その前よ。母さんより頼りになるって言ったわね。

ああ、言ったよ。

28年も養ってきた母親より、嫁の両親の方が頼りになるんだ。よく分かったわ。

母さん、なあ。

何? 正直に言うわよ。

何をだよ? あんたが鬱になった時、誰が支えたと思ってるの?

仕事が辛いって言って、治った後も家にいさせてあげたわよね。

それは…まあ。

でも、治った後、あんたは何してた? ゲームして課金して、私のお金を好き放題使ってたわよね。やっと出て行くかと思ったら、今度は私を追い出すの? だって、親父の遺産が何もないって言っただろ。全部、私の家なんだよ。

じゃあ、どうすればいいんだよ。

知らないわよ。自分で考えなさいよ。

母さん、ちゃんと聞けよ。

匠、覚えておきなさい。

何をだよ。

自分で言った言葉には責任を持ちなさいってことよ。

うるさいな。もういいから、出て行けよ。

そのうち痛い目を見るわよ。

一時間後。

そうだ。言い忘れてたけど、仏壇も持って行ってくれよ。

仏壇? 親父の仏壇だよ。俺たち若い世代はそういうの信じないし、邪魔なんだよ。

邪魔?

お父さんの仏壇が邪魔だって言うの? だって、置く場所がないんだもん。それに、両親の家具は高級品ばかりだからさ。母さんの古い家具とかも全部処分していいから。

処分? うん。どうせ古いし。

30年かけて揃えたものなんだけどね。

その言い方、何? 30年前の家具とか、逆にすごいよな。

すごいって、褒めてるつもり?

いや、そういう意味じゃなくて。

じゃあ、どういう意味よ。

とにかく、新しい生活には新しいものが必要なんだよ。

新しい生活? いいわね。キラキラしてて。

母さん、皮肉かよ。

皮肉じゃないわよ。素敵だなって思っただけ。

なんか怖いんだけど。

怖い? 何が? 母さんの態度が。

別に普通だけど。

ああ、そうだ。三日以内に出て行ってくれ。

三日?

いくらなんでも急すぎるでしょ。

義理の両親が来週には引っ越してくるから。

来週? 勝手にそこまで話を進めてたの? 向こうはもう準備してるし。

私に相談もなく? だって、母さんは反対しそうだし。

反対するに決まってるでしょ。

だから言わなかったんだよ。

あんた、本当に変わったわね。

変わってないし。

変わったわよ。昔はもっと優しかったのに。

優しい?

ふん、うるさいな。もう早く出て行けよ。施設でも何でも行けばいいだろ。

ああ、そう。あんた、言っちゃいけないことを言ったわね。

とにかく、三日以内に出て行ってくれ。

もういいわ。分かったわよ。

本当か? 本当よ。あんたの望み通りにしてあげる。

よっしゃ、助かるわ。

でもね。

何だよ? 前にもこういうこと、あったわよね。

こういうことって、何がだよ。

私を追い出すことよ。無理だって言ってるでしょ。

無理? 何が無理なんだよ。

結婚式の時もそうだったわね。結婚式に五百万出せって言ったでしょ。

それは、世話になってたからだろ。

世話になってた。お礼のつもりで親に金をせびるの?

せびるって言い方、やめてくれよ。

じゃあ、何て言えばいいの? もういいよ。

あんたさ、私のことを何だと思ってるの? 何って、母親だろ? ATMじゃないの?

はあ? いつもお金の話ばかりじゃないか。

それはね、結婚式に五百万、新婚旅行の費用に五十万、新居の家具に百万。全部出したのを覚えてる? 覚えてるけど。

で、お礼の一言も言われてないんだけど。

言ったはずだよ。覚えてないけど。

覚えてないんじゃなくて、言ってないんでしょ? 細かいなあ。

細かくて結構。私はあんたに言われた言葉を全部覚えてるから。

母さん、変だよ。

変なのはあんたでしょ。都合のいいことだけ言ってるんだから。

すごいな。

そうでしょう。私の家を勝手に自分のものだと思い込んで、私を追い出して、嫁の両親を住まわせるんだから。

だから、親父が死んだら関係ないだろ。

関係あるわよ。

ないよ。この家は最初から私の家なんだ。

でもでも、じゃないわよ。登記簿って見たことある?

登記簿? いや、見たことないけど。

じゃあ、確認してみなさいよ。何が書いてあるか。

自分で確認しろってことか? そうよ。自分でやりなさい。

母さん、あのな。

匠、何? 私、色々と準備してるから。

準備?

そうよ。楽しみにしててね。私も我慢の限界なんだから。

何の準備だよ。教えろよ。

秘密よ。三日後ね。

ああ、三日以内って言っただろ。約束は守るわ。

あんたも、約束を守りなさいよ。

約束? 何のだ? 自分で言った言葉の責任よ。覚えておきなさい。

三十分後。

お母さん、出て行く準備は進んでますか? 私の両親がすごく楽しみにしてるんですよ。

ああ、あんたもそっち側なのね。息子だけじゃ飽き足らず、嫁まで出てくるんだから。

何言ってるんですか?

お母さんこそ、早く出て行ったほうがいいですよ。古い人間の考え方は、もう時代遅れなんですから。

古い? あんた、30年も生きてきて、何も分かってないのね。

分かってないのはお母さんのほうです。新しい生活には、新しい考え方が必要なんです。

新しい生活? はあ、笑わせるわね。あんたたちに何ができるの? お母さんには関係ないことです。とにかく、三日以内に出て行ってくださいね。

出て行けって、この家は私の家よ。

違います。この家はもう、私たち夫婦のものです。お父さんが亡くなったんだから、当然でしょ。

夫の前で、よくそんなことが言えるわね。

何か文句があるんですか?

文句も何も、あんたたち、私に言う前に、やることがあるでしょ。

何のことですか? お父さんのお線香をあげるとか、仏壇に手を合わせるとか、そういうことが先でしょ。

そんなこと、若い世代には必要ないんです。古い習慣は、捨ててしまえばいいんです。

古い習慣? あんた、それは人として間違ってるわよ。

お母さんこそ、古い考え方に固執しすぎです。時代は変わるんですよ。

変わったのは、あんたの心よ。昔は、もっと素直な子だったのに。

昔のことはいいんです。今が大事なんです。とにかく、三日後までに、この家を出て行ってください。それで、古い家具とかも全部処分してください。

処分? あんた、何様のつもり?

何様って、この家の主ですから。この家の家具は、全部処分します。新しいものを入れるんで。

あんた、本当に私を怒らせるわね。

怒らせてるつもりはないですけど。ただ、事実を言ってるだけです。古いものは、処分する。それだけです。

ふん。分かったわよ。好きにしなさい。

お母さんも、分かってるじゃないですか。じゃあ、三日後を楽しみにしてますね。

三日後か。あっという間だな。

そうですね。では、私たちは買い物に行くので、それまでに準備を済ませておいてくださいね。

行こう、匠。

ああ、行こう。

二人が立ち去った後、静かになった部屋で、母は一人、古い仏壇に手を合わせた。

「お父さん、聞こえてる? 今の話、聞いてたでしょ。あの子たち、本気であたしを追い出そうとしてるのよ。」

仏壇の向こうから、返事はなかった。

「でもね、お父さん。あたしは、これで終わるつもりはないの。30年、あんたと二人三脚でやってきたんだもの。あの子たちに、あたしの人生を踏みにじる権利はないわ。」

母は、立ち上がった。

「腹はくっきれたわ。あんたに、目にものを見せてやるからね。」

三日後。匠と妻は、母が出て行ったことを確認すると、すぐに家具の処分を始めた。

「これも、これも、全部捨ててくれ。あと、仏壇もな。」

「やっぱり、あの仏壇も捨てるの? 」

「ああ、邪魔だからな。新しいのを買うんだ。」

その時、玄関のベルが鳴った。

「はい、どちら様ですか? 」

匠が玄関を開けると、そこには見知らぬスーツ姿の男が立っていた。

「こんにちは。こちら、匠さんのお宅で間違いないですか?

」

「はい、そうですけど。どちら様ですか? 」

「ああ、私は不動産会社の者です。ご連絡いただいた件で、確認に伺いました。」

「不動産会社? 何のことですか? 」

「え?

ご存じないのですか? こちら、20年前に、お母様が購入された物件ですよね? 」

匠は凍りついた。

「は? 母が?

この家を? 」

「ええ、そうです。所有権は、お母様のままですよ。ご自身で登記簿を確認されたほうがいいでしょう。」

「登記簿…」

匠は、すぐにパソコンを取り出して、登記情報を確認した。すると、そこには確かに、母の名前が所有権者として記載されていた。

「信じられない…」

「どうやら、お母様はご存じのないまま、ここに住んでいたご様子ですね。では、私はこれで。」

男が帰っていった後、匠はその場に座り込んだ。

「匠、どうしたの? まさか、本当にあの人がこの家を? 」

「……ああ。俺は、母が嘘をついてると思ってた。でも、本当だったんだ。この家は、最初から母のものだったんだよ。」

「じゃあ、私の両親は……?

」

「来る場所がなくなるよ…」

匠は、急に恐怖に襲われた。母は言っていた。「自分で言った言葉には責任を持て」と。そして、決して忘れられないあの言葉を。

「そうだ。母さんは、何か知ってたんだ。『私も我慢の限界だ』って言ってた。あれは、この家を売る準備をしてたってことなのか? 」

匠は、すぐに母に電話をかけた。しかし、何度呼び出し音を鳴らしても、繋がらない。

「ダメだ。母さん、出ない。」

「まさか、本当に出て行っちゃったの? 」

「いや、待てよ。母さんは、この家を手放すつもりはなかったはずだ。でも、もし売ってしまったら…」

その時、匠の携帯にメッセージが届いた。母からだった。

「匠、今まで育ててくれてありがとう。そして、さようなら。あなたは、あなたの選んだ道を進みなさい。私は、私はこれから自由になるわ。」

匠は、震える手で返信した。

「母さん、家はどうなるんだ? 」

それから何分経っても、返信はなかった。匠は、もう一度電話をかけたが、今度は電源が切れていた。

「母さん…。」

妻が、不安そうな顔で匠を見つめた。

「匠、どうするの?

」

「……分からない。」

その夜、匠は眠れなかった。翌朝、一階から物音がして、匠は飛び起きた。急いで階段を降りると、リビングに見覚えのある背中があった。

「母さん…? 」

母は、ゆっくりと振り返った。

「おはよう、匠。」

「どうして…家にいるんだ? 」

「だって、ここは私の家だからよ。」

母は、冷ややかな笑みを浮かべた。

「聞いたわよ。私たちの不動産屋さんから、あなたが登記簿を確認したって。そうでしょ? 」

「……そうだよ。」

「なら、分かるわね。私は、失うものは何もないの。むしろ、すべてを手に入れたわ。あなたたちを追い出して、この家に住み続ける権利をね。」

「母さん、俺は…」

「言い訳はいいわ。出て行くのは、あんたたちよ。三日以内に出て行きなさい。」

匠は、反論できなかった。母の目は、完全に、覚悟を決めた人の目をしていたからだ。

「分かったよ。……出て行く。」

妻が、匠の袖を引っ張った。

「匠!?

」

「いいんだ。俺たちが悪かったんだ。」

匠は、妻の手を握り、そのまま部屋に戻っていった。一時間後、二人は大きなスーツケースを抱えて、家を出た。母は、玄関まで見送りにも来なかった。

妻は、家を振り返って、ぽつりと呟いた。

「匠、私たち、これからどうするの? 」

匠は、空を見上げた。

「……親父の墓参りに行くよ。」

「え? 」

「みんな、俺のせいだ。親父が死んで、家がどうなるかも分からないうちに、母さんを追い出そうとした。あんなことをしなければ、こんなことにはならなかったんだ。」

「匠…」

「まずは、謝りに行くんだ。母さんに、できることは全部やる。」

二人は、ゆっくりと歩き出した。日光が、新緑の並木道に降り注いでいた。