病室の時計だけが静かに針を刻んでいた。三ヶ月。医者から告げられた余命宣告は、俺の人生を根底から覆すには十分すぎる衝撃だった。突然のことに頭が真っ白で、でも悲しみに浸っている暇はなかった。そんなある日、買い出しから戻った佳美がベッドの横に座った。彼女は俺が病気だと知ったら、きっと何も言わずに献身的に看病してくれる。それはありがたい。でも、それじゃダメなんだ。「なあ、佳美。俺と、離婚してほしい」…

病室の時計だけが静かに針を刻んでいた。三ヶ月。医者から告げられた余命宣告は、俺の人生を根底から覆すには十分すぎる衝撃だった。突然のことに頭が真っ白で、でも悲しみに浸っている暇はなかった。そんなある日、買い出しから戻った佳美がベッドの横に座った。彼女は俺が病気だと知ったら、きっと何も言わずに献身的に看病してくれる。それはありがたい。でも、それじゃダメなんだ。「なあ、佳美。俺と、離婚してほしい」...

病室の時計だけが静かに針を刻んでいた。三ヶ月。医者から告げられた余命宣告は、俺こと洋介の人生を根底から覆すには十分な衝撃だった。突然のことに頭が真っ白だった。でも、悲しみに浸っている暇はない。これからのことを考えると、自然と頭の中はある計画でいっぱいになっていた。

佳美は、買い出しから戻るなり、ベッドに座って窓の外を見つめる俺の顔をき込んだ。この人は本当に人がいい。俺が病気だと知ったら、きっと何も言わずに付き添ってくれる。献身的に看病してくれるに違いない。それはありがたい。正直、とても心強い。でも、それじゃダメなんだ。

「なあ、佳美。聞いてほしいことがあるんだ。」

「何?急に改まって。もしかして、病状が悪化したとか?」

「いや、そうじゃない。そうじゃないんだが、お前にどうしてもお願いがある。」

「いいよ。何?私にできることなら何でもする。毎日お見舞いにも来るし、必要なら仕事だって休むよ。」

「ありがとな。やっぱりお前は優しいよ。だからこそ、な。」

一度深呼吸をして、覚悟を決める。佳美は何も気づいていない。きっと、俺が弱音を吐くと思っているんだ。看病してほしいと言われると思っているんだ。それはそれで構わないが、こっちにはこっちの考えがある。

「俺と、離婚してほしい。」

一瞬息が止まった。病室に緊張が走る。佳美の目が真ん丸に見開かれた。想像もしていなかった言葉だったのだろう。無理もない。数秒の沈黙の後、彼女は力なく笑いながら首を振った。

「…嘘でしょ?私のこと、心配してるの?なら大丈夫だよ。私、陽介が病気になっても支えるって決めたんだよ。病気を機に絆が深まる夫婦だってたくさんいるんだよ?そんなこと言わないで。最後まで私に寄り添わせて。」

ほんと、バカなやつ。こっちは本気なのに。佳美はいつもそうだ。俺のことを考えて、自分を犠牲にする。その優しさがありがたい反面、今回ばかりはそれが迷惑なんだ。

「いや、心配事は俺だ。だから済まないが、離婚してくれ。」

「だって…。いや、でも。そんな理由で納得できるわけないでしょ!病気のことを聞いて、私、ずっと不安だったんだよ。それなのに離婚したいって…。陽介は何を考えてるの?」

本当だよな。病気を理由に離婚を申し出られたら、誰だってそう思うよな。しかし、こっちにも譲れない事情があるんだ。

「…他ならぬ、普通に金が嫌になったからだ。」

嘘ではない。いや、正確に言えば、全ての動機の根底にあるのがそれなんだ。

「え?…何言ってるの?私、何かした?何か迷惑かけることした?」

「いや、お前は何もしてない。だが、嫌なんだよ。俺の金を大好きな奴に残してやれないのが、我慢ならなくなったんだ。」

「大好きな…?どういうこと?誰のこと?」

「話せば長くなるが…、聞きたくないか?」

「…聞くに決まってるでしょ。」

佳美は一歩引いて、壁に背をつけた。顔から血の気が引いていくのが分かる。さあ、ここからが本番だ。

「あの子、うちの会社の部下の愛子のことなんだけど。」

「…部下?愛子さん?そんな人と何が関係あるの?もしかして…。」

「簡単に言えば、愛子と結婚したいんだ。この際だから言うが、俺の大事な大事な部下であり、未来の妻になる女だ。」

「…はぁ?ちょっと待って、意味がわからないんだけど。一体何を言ってるの?病気で気が触れたの?」

違うよ。至って正気だ。

「誰がどう見ても、俺は正気さ。むしろはっきりした。命が長くないと分かってな。俺は自分の人生を悔いなくまっとうしたいってな。

「ふざけないでよ!妻がいる前で何言ってるのよ!つまり、浮気してるってこと?!体を壊しただけじゃなくて、正気も壊しちゃったの?」

「あー、もうそういう物言いはやめてくれ。これは浮気じゃない。よく聞けよ。俺は愛子と出会うタイミングを間違えただけなんだ。つまり、真実の愛なんだよ。」

「それを世間では浮気っていうんだよ!」

佳美の怒号が病室に響く。まあ、そう怒るのも無理はないか。だが、俺の意志は固い。

「どうとでも言え。とにかく離婚だ。俺はもう決めたんだ。そして、入院中は佳美に看護を頼みたい。」

自分で言っておいてなんだが、厚かましいとは思う。だが、金のためだ。愛子のためにだ。

「はぁ?それは都合が良すぎない?私が何で、そんな女の彼氏の世話まで…。ねえ、愛子さんとやらに頼んだら?そうすればいいじゃん。」

「だめなんだ。愛子は今、自分の母の介護で手いっぱいなんだよ。」

「そんなの知らないわ。私には関係ない。」

「そんなこと言わないでくれ。本当に困ってるんだ。それにお前、さっき何でもすると言っただろ。看病してほしいって。」

確かに、お前に頼むと言っておいて、今さら何を言う。だが、金のためにだ。

「…はぁ!?何言ってるの?この状況でそれ?陽介、病気でおかしくなったの!?」

「お前が言い出したことだろうが。それに俺はな、入院生活の支度で忙しいんだ。それに、入院先の書類もそろえなきゃいけないし、退院した後の生活のことを考えたら、頭が一杯で倒れそうなんだよ。」

「知るか!」

「ところでな、入院の間、あのことがあって気になってたんだけど…。」

「あの事?」

「ああ。生命保険のことだ。ちょっと聞きたいことがあるんだ。なあ、俺の生命保険金は、いくらぐらい出るんだ?」

「…は?生命保険?それがどうかしたの?」

「どうかしたも何も、離婚するときにちゃんと分けてくれないと困るだろ。って、お前の方から言い出したんだろ。」

「は?お前、本気で言ってるのか?」

「当たり前だろ。この保険金は俺の貯金みたいなもんだ。だから、きっちり半分こにしよう。」

生命保険金。毎月コツコツと支払ってきたやつだ。言っておくが、これは俺の金だ。財産分与の対象になるのだ。

「はっ、そんなに上手くいくと思ってるの?馬鹿ね、陽介。生命保険金は、受取人をあなたにしているから何とかもらえるけど、誰が受取人になっているかで話が変わってくるからね。それはそうと、あなたの生命保険の受取人って誰にしてるの?」

「…ああ?そんなの決まってんだろ。とぼけるなよ。俺の金なんだから、この俺で決まってるだろうが。」

「…違うわ。保険金の受取人は、あなたじゃないの。おそらく、あなた自身の名義じゃないんだよ。ちょっと見てみる。」

そう言って、佳美がタンスの引き出しから保険の書類を取り出して、一生懸命に文字を追う。そして、小さくため息をついた。

「ああ、やっぱり。受取人は“陽介”ってなってる。いや、生命保険金は、受取人が死亡したときにしか請求できないから。つまり、契約者でもあるけど、被保険者でもあるあなたが死ぬまでは、この保険金はもらえないの。生きているうちにあなたのものになる訳じゃないの。」

「はぁ?何言ってるんだ?受取人を俺にしておけば、貰えるんじゃないのか。」

「法律的には、あなたは自分自身の死亡保険金を受け取ることはできないの。それは死亡を原因として発生するお金だから。それは、相続人が受け取るものよ。なんでそんな簡単な理屈もわからないの?」

「なに!じゃ、じゃあ、俺の保険金はどうなるんだ!」

「契約にもよるけど、まあ、あなたが死んだ時点で払われるのは、あなたが指定した受取人ってことになるわね。で、その受取人って、誰にしたの?」

「あ…、それは…。」

しまった。嫌な汗が出る。ごまかそうとしたが、もう遅い。

「…まさか、とは思うけど、もしかして、お前とか言わないよね?」

「いや…。」

「何が“いや”よ!保険会社の人との話の時に調べたんだよ!この書類にそう書いてあるわよ!私の受取人って!」

バレた。仕方ない。ここは白を認めるしかないか。

「…ああ、そうだよ。前の更新の時だ。何も考えずに、そのまんまにしてたんだよ。ごめん。だが、ここでおかげで話が早くなった。要はだな、受取人がどうであれ、保険金を渡せばいいんだろ?」

「は?何言ってるの?生命保険金は、原則として受取人固有の財産って扱いなんじゃない?って、私が会社の人のようなことを言うべきじゃないんだけど。例えばほら、神社とかで『保険金は家族のもの』って相談、あるじゃない?あれ、やっぱり違うんだね。」

おかしい。ちぐはぐだ。これは浮気の清算とは別の話だ。お前が弁護士さんに確認してる、みたいな顔をしないでくれ。

「……とにかくお前みたいな女を、これ以上そばに置いておけないんだ。わかったら、とっとと出て行ってくれ。話はそれだけだ。」

「…っ、そんな言い方って…。いいわよ。出て行くわよ!でも、その代わり、二度と私の顔を見せないでよね!」

ばたん!という激しい音とともに、病室から佳美の姿が消えた。足音が廊下に響き、次第に遠くなっていく。

「……ふぅ。」

やれやれ。うまくいったような、いけないような。いや、彼女はこれでいいんだ。このまま俺の介護で無駄な人生を送らせるわけにはいかない。心の中では思っている。これで彼女も自由になれる。そう考えて、自分の思考を打ち切った。その時、病室の扉が勢いよく開いた。

「陽介!ふざけんな!今、泉さんから聞いたぞ!」

見ると、足をガクガクさせた佳美が立っている。はぁはぁと息を切らしている。どうやら、カバンを忘れたので取りに戻り、ついでに家の鍵も取りに戻ったところで。

「あ、あんたねえ、ひどすぎない?私、何かした?何かしたか?」

「したよ。というか、お前の存在自体がムカつくんだよ。いいから、見苦しいから、じいさんでも見つけたら、さっさと出て行け。」

「…何よ、その言い草は!今度は何よ!私が何をしたっていうのよ!」

「話は全部ついたから。もういいだろ。今日からお前は俺の世話になることはない。あっちで勝手にやってろ。金ならやってるから、だまってサインでもしてろ。」

そう言って、枕元から離婚届けの用紙を取り出し、佳美に押し付けた。もういいだろ。いい加減、楽にしてくれ。

「貰っておくわ。だけど、あんたが後悔しても知らないからね!」

「ああ。後悔するのはお前の方だよ。」

そう言って、震える手でドアを閉め、病室の鍵をかけた。明日には、入院の手続きがあるのだろう。早く、すべてを終わらせたい。会社にも、とりあえず三ヶ月は消化試合のようなものだと伝えた。既に引き継ぎは終えている。

後は、愛子に残す金をどうやって作るか。難しいところだ。保険金を何とか受取人にできないか。生命保険は、前の保険は途中で解約している。貯蓄性のある保険がいくつかあるが、それは3年前から入っているやつだ。

生命保険金は、契約者と受取人が違えば、贈与税の対象になるケースがある。遺産分割の時も問題になる。生前に結構な額を動かすことになるが、妻である佳美に遺産をすべて持って行かれてたまるか。残せばいい。

それにしても、佳美の姉の美恵がいつまでもうるさかった。佳美に付き添って病院に来ているらしい。あの女は、亡くなった母から受け継いだ家を守るためか、いつもイライラしている。だが、母の遺産は全部父のものだ。俺にそれをよこせと言われる筋合いもない。

佳美が冷静になればいいんだ。三ヶ月という限られた時間を後悔なく使いたい。佳美、お前には悪いことをしたと思っている。だが、これも、愛する人のためと思って、許してくれ。

一月後。病室のテレビでは、連日ワイドショーが賑わっている。時々、佳美が来る。毎回、些細なことでチャチャを入れてくるが、帰る時はいつもビクビクしている。こっちはこっちで罪悪感でいっぱいだ。早く楽になりたい。

退院してからが本番だ。マンションに戻ると、荷物がまとめて送られてきていた。佳美からの伝言もなく、離婚届が一枚、机の上に置かれていた。書類には、はんこが押してある。もう、おしまいだ。

「……ちゃんと、出したんだな。」

家の中は、あの日から時が止まったままだ。空気が澱んでいる。何年もすごした家。しかし、もう思い出は何も飾らない。カバンをその辺に置き、一息つく。ようやく、次のステップに進める。

数日後。待ち合わせの喫茶店に、愛子が現れた。彼女は、形式上、俺の秘書という建前になっている。

「お久しぶりです。体調はどうですか?」

「ああ。なに、お陰さまでな。それより、あがりは金とかを管理してくれてるのか?」

「いえ、それが…。お母さんが口を出してきて、お金が全部もらえないんです。入院費で貯金が目減りしているのに、あなたが稼いだ分は全部、お母さんがパチンコで使っちゃうんです。」

「ちっ、あのババア。とうとう、家の金まで手を付け始めたのか。」

「でも、それ以上に、ですね。実は…、奥さんの佳美さんから、離婚するにあたって慰謝料を請求しますって、内容証明郵便が届きました。養育費じゃないですけど。あと奥さん、私と会って話がしたいって。」

「無視しろ。あんたに渡す金なんて、一円もないんだからな。あの女、しつこいだけだ。」

「でも、奥さん、あなたの病状について、会社に知らせるって言ってきてて…。それだと、クビになるかもしれません。」

「好きにさせておけよ。俺が仕事ができなくなるのは、もう目の前だろ。今度こそ、あの女を、社会的にぶっ壊してやる。お前、姉ちゃんにラインしておけ。」

「…え、私、どうすれば。」

「何もしなくていい。すべて、俺が引き受ける。」

そう言って、俺は依頼していた探偵から送られてきた、佳美の浮気の証拠写真が入った茶封筒を、机の上に叩きつけた。

「とっくに調べがついてるんだよ。あの女の方から手を出しておいて、まったくふざけた話だ。裁判で泥を塗られる前に、さっさと引っ込めさせたいんだがな。」

「まあ。そんなことになっていたんですね。何だか、お気の毒で…。」

「余計なことを言うな。心配しなくても、あんたはわかってるんだろう?最後は、俺のものだ。」

私は何も言わずに俯いた。本当は、すでに気持ちは決まっている。もう二度と愛子と会うことはないだろう。芯の通った、いいお母さんになれよ。口には出さなかったが、心の中でそう呟いた。

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