妻が俺を置いて失踪した。残されたのは、彼女が毎日欠かさず飲んでいた血圧の薬だけ。母が震える声で言った。「あんた、自分で何をしたか分かってるの?」俺は何もしていない。ただ、家に友達を泊めただけだ。「俊ちゃん、好きに使っていいぞ」って言っただけだ。花江は俺の味方だと言っていた。なのに、どうして彼女の薬がこんなところに残されたままなんだ。薬を飲まなければ命に関わると言っていた。彼女はどこへ消えたん…

妻が俺を置いて失踪した。残されたのは、彼女が毎日欠かさず飲んでいた血圧の薬だけ。母が震える声で言った。「あんた、自分で何をしたか分かってるの?」俺は何もしていない。ただ、家に友達を泊めただけだ。「俊ちゃん、好きに使っていいぞ」って言っただけだ。花江は俺の味方だと言っていた。なのに、どうして彼女の薬がこんなところに残されたままなんだ。薬を飲まなければ命に関わると言っていた。彼女はどこへ消えたん...

母さん、元気にしてる?心配してるんだ。そっちに帰ろうか。

いきなり何言ってるのよ。帰ってきてくれたら嬉しいけど、まずは自分のことでしょ。花江ちゃんとはうまくやってるの?

当たり前だよ。喧嘩したことなんて一度もないし。

あんなにいい娘を嫁にもらえて、本当に良かったわね。

家のことなら花江がいるから安心だよ。それで、仕事はどうなの?まだ続けてるの?

あんたはいつも仕事をすぐ辞めるんだから。何言ってるんだよ、仕事って?

ホテルで働いてるって言ってたでしょ?

ああ、そんなのとっくに辞めたよ。

え、そうなの?

だって、一日中フロントに立ってなきゃいけないんだぜ。あんなきつい仕事、やってられるかよ。

そうは言っても、仕事なんだから仕方ないでしょ。

それで、スーパーの正社員になろうと思ってパートから始めたんだけど、それもきつくて辞めたんだ。

私の知らないうちに、またあちこち仕事を変えてたのね。

それで今は何をやってるの?

何も。無職だよ。

はあ。あんたね、家庭もあるんだから、もう少ししっかりしなさいよ。

分かってるって。それでさ、ちょっと実家に住ませてもらえないか?家賃とか払うのがきつくて、生活が大変なんだよ。

それは仕事をしてないからでしょ。

こっちで仕事を探すからさ。地元には友達もたくさんいるし、つてだってあるんだから。

でも、あんたたち二人分の世話まで私にはできないわよ。

花江はすぐにパートを見つけてくるよ。あいつは仕事にこだわりなんてないからさ。

あんた、奥さんにだけ働かせるつもり?

俺だってすぐに仕事は見つけるって。それまでの間、生活の面倒を見てくれればそれでいいから。仕事が見つかって稼げるようになったら、生活費はちゃんと渡すからさ。

本当に働く気はあるの?

当たり前だろ。俺は稼ぎたいんだ。そのために、無駄なことはしてられないから仕事を辞めてるだけだよ。

そんなに言うなら、まあいいけど。ただ、花江ちゃんにはちゃんと説明しなさいよ。私みたいな奴と同居するのが嫌かもしれないしね。

大丈夫だよ。あいつは何も文句言わないから。

あんたはもう少し花江ちゃんの気持ちを考えなさいよ。いつ捨てられてもおかしくない立場なんだからね。

うん、分かったよ。そんなに怒るなって。

まったくもう。ちゃんと花江ちゃんに説明して、了解を得なさいよ。それで、二人の気持ちが固まったら、いつ頃になりそうか日程を教えてね。こっちも部屋を片付けたりしないといけないから。

ああ、分かった。

その翌日のことだった。

お母さん、お久しぶりです。夫から話を聞きました。私たちを受け入れてくれて、本当にありがとうございます。

花江ちゃんはいいの?私と一緒に住むってなったら、気を使うんじゃない?

いえ、そんなことはないです。正直に言うと、ずっと願っていたことでもあるんです。

どういうこと?

私は母を早くに亡くして、ずっと父と二人で暮らしてきたので、母親と呼べる人がお母さんしかいないんです。だから、本当の家族と一緒に暮らせるのが、心の底から嬉しくて。

そういう風に思ってくれるなら、私も嬉しいわ。私も花江ちゃんのことは、実の娘だと思ってるからね。

ありがとうございます。

でも、うちの息子があなたに迷惑をかけてるんじゃないかと思うと、申し訳ないわ。私がもっとしっかり叱っておけばよかった。

そんなことないですよ。今は仕事がうまくいってなくて、ちょっとイライラしてるだけです。結婚してすぐの頃、仕事の調子が良かった時は、本当に家庭を大事にする人でしたから。仕事さえ見つかれば、また前みたいになると思います。

そうなるといいんだけどね。

むしろ私の方が、あまり働けなくて申し訳ないです。

それは仕方ないでしょ。体質なんだから。

昔から低血圧で、ちょっと運動すると立ちくらみがしちゃうんです。

私は逆に、血圧がずっと高い方なのよ。花江ちゃんみたいに症状がはっきり出るわけじゃないけど、命に関わる病気だから、すごく気をつけてるの。

え、そうなんですか?

お医者さんから薬をもらって、それを飲みながら生活してるのよ。

そうなんですね。

そうよ。いつも錠剤ケースに入れて持ち歩くようにしてるの。

私も血圧の薬を飲んでるので、何だか親近感が湧きますね。

血圧の凸凹コンビってところね。

本当だ。一緒に暮らせるようになったら、そういうところも助け合っていけますね。

うん。何でも遠慮せずに甘えていいからね。

ありがとうございます。お母さんと一緒に暮らせるのが、今から本当に楽しみです。

私もよ。じゃあ、みんなで待ってるからね。

はい。

一週間後、克さんから母の携帯に電話が入った。

もしもし、母さん?来週の日曜日に帰るから。

あら、そうなの?急にどうしたの?

いや、たまには実家に顔を出さないとなと思ってさ。

一人ぼっちで寂しいだろ?

父さんが天国に行ってもう二年くらい経つから、さすがに慣れたけどね。

そんなのダメだよ。心配だから、定期的に帰るようにするよ。

そう言ってくれるのは嬉しいけど。

できれば一緒に住んであげたいくらいだけど、子供たちのこととか、旦那の仕事のこともあるしね。

そんなに気を使わなくていいのよ。それより、実はもうすぐ一人じゃなくなるんだ。

どういうこと?何かペットでも買うの?

違う違う。克と一緒に住むことになったんだ。

はあ?何それ?あいつがこっちに戻ってきて、仕事を探すって言うから。それで、一緒に住もうってことになったのよ。

ねえ母さん、それ本気?あいつ、家賃を浮かせたいだけじゃないの?

それはそうかもしれないわね。でも、それを機にちゃんと仕事を探すって言ってたわよ。

あいつの知り合いなんて、全員ロクでもない奴らばかりでしょ。

まあ、やんちゃな連中と遊んでた時期もあったけどね。でも、みんな大人になって、今はちゃんとしてるんじゃない?

そうかもな。でも、母さんもあいつに優しくしすぎるなよ。付け上がるだけだから。

もちろん、あんたに言われなくても、甘やかすつもりはないわよ。ただ、花江ちゃんがね、あの子のことを思って色々と考えてくれてるのよ。

花江が?

うん。あの子は真面目でいい子だわ。それに、仕事をしたらちゃんと家賃を払うって言ってくれたのよ。

本当に?あいつにそんなつもりがあるのかな?

そこは、やっぱり大人なんだからあるんじゃない?

でも、あいつは母さんがどれだけ心配してるか、全然分かってないでしょ。

親っていうのは、そうやって子供のことを心配するもんなのよ。あんたにだって、昔はそうだったんだから。

うっ。まあ、でも、花江がちゃんとしてるなら、それでいいけど。

そういうこと。心配しなくて大丈夫よ。

それで、母さん。

何?

このことは、克には言わないでくれよ。……何の話か分かってるだろ?

……ええ、分かってるわよ。言わないから。

約束だぞ。じゃあ、日曜日に帰るから。

うん。待ってるわ。

どっちにしろ、あんたも早く実家に帰ってきなさいよね。

はいはい。

日曜日、克さんは約束通り実家に帰ってきた。花江ちゃんも一緒だ。

ただいま。

おかえりなさい。さあ、上がって。

二人とも、今お茶を入れるわね。

ありがとうございます。母さん、疲れただろ?まあ、座れよ。

母さんの淹れてくれたお茶を一口飲んで、克さんは話を切り出した。

母さん、今回の話だけど、本当にいいんだな?

ええ、もちろんよ。二人がいいなら、いつでも帰ってきなさい。

ありがとう。助かるよ。

でも、本当に話がまとまったのね。克がまともに働けるか心配だわ。

それは心配しないでください。私がちゃんと見てますから。

花江、お前も大変だろうけど、よろしくな。この馬鹿息子が迷惑かけたら、いつでも言いなさい。

お義母さん、そんな言い方しないでください。克さんはちゃんとやってますよ。

そうかしらね。まあ、あんたがそう言うなら信じるけど。

その日は、久しぶりに三人でゆっくりと団欒を楽しんだ。母の手料理を久しぶりに食べて、克さんも嬉しそうだった。

一週間後、二人は家賃を浮かせるために、実家へと引っ越してきた。

部屋は以前、克さんが使っていた部屋だ。狭いけど、二人で暮らすには十分だった。

しばらくすると、花江ちゃんはすぐにパートを見つけた。近所のスーパーで、レジの仕事だ。

俺も早く仕事を見つけねえとな。

克さんはそう言いながらも、なかなか行動に移さなかった。ハローワークに行くでもなく、求人誌を広げるでもなく、毎日ゴロゴロと過ごしている。

花江ちゃんがパートに出かけた後、母はリビングでテレビを見ている克さんに声をかけた。

ねえ、克。あんた、そろそろ仕事探しを始めたらどうなの?

何だよ、急に。うるさいなあ。

いつまで花江ちゃんに養ってもらうつもり?あんた、男でしょ。

うるさいな。ちゃんと探すって言ってるだろ。それに、花江は俺が働かなくてもいいって言ってたぞ。

そんなこと言うと思ってたわよ。あの子は優しいから、そう言うかもしれないけど、あんたが働かない理由にはならないわ。

母さん、うっせえなあ。ほっとけよ。

克、あんたね。

母の言葉を無視して、克さんは自分の部屋へと入っていった。母は深くため息をついた。

花江ちゃん、ごめんね。あの子、昔からああで。

数日後、花江ちゃんがパートから帰ると、克さんはソファでだらしなく寝転がってスマホをいじっていた。

克さん、今日は何してたの?

別に。家でゆっくりしてた。

……そう。そういえば、お義母さんから聞いたんだけど、ここに来る前に、一度ハローワークに行ったらどう?って言われたよ。

あー、うるさいな。母さん、何言ってんだよ。俺のことは構わないでくれって。

でも、いつまでもこうしてるわけにはいかないよ。お義母さんにだって迷惑かけてるし。

花江は俺の味方じゃないのか?

そんなこと言ってないよ。ただ……。

ただ何だよ。

……何でもない。

その日から、二人の間には少し気まずい空気が流れるようになった。

数日後、花江ちゃんが仕事から帰ると、見知らぬ男がリビングにいた。サングラスをかけて、いかにも柄の悪そうな男だ。

あれ、お嬢ちゃんが克の可愛い奥さんか?よく聞いてるぜ。あんた、部屋を間違えてないか?

何か用ですか?

おい、花江。邪魔すんなよ。俺の友達の俊ちゃんだ。

よろしくな、姉ちゃん。

俊ちゃんはここにしばらく泊まるんだ。いいだろ?

でも、いきなりそんなこと言われても……。お義母さんにだって迷惑がかかるし。

大丈夫だって。母さんは関係ないだろ。なあ、母さんもそれでいいよな?

リビングの隅で、母は黙ってうつむいていた。

おい、母さん。話聞いてるのか?

……勝手にしなさい。

よし、決まりだな。なあ俊ちゃん、好きに使っていいぞ。

俊ちゃんはずかずかと上がり込むと、テーブルの上にあったお菓子の袋を開けて、ソファにどかっと座った。

あー、疲れた。なあ、何か飯くれよ。

ああ、母さん。何か作ってやれよ。

……分かったわよ。

母が台所に立つと、花江ちゃんも後を追った。

お義母さん、いいんですか?あんな人を家に上げちゃって。

ごめんね、花江ちゃん。あの子、小さい頃から友達の影響されやすいところがあってさ。どこかで断れないんだと思う。

でも、いくら何でも……。

何か言いかけた花江ちゃんを、母は手で制した。

もうしばらくは我慢して。そのうち、あの子も目を覚ますから。

そう言うと、母は何かをこらえるように、台所の棚をじっと見つめていた。

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