「入学金だけど、あなたが一人で払ってね。」
合格通知を前に私がそう言うと、夫は目を丸くした。
「何を言っているんだ? 夫婦の貯金から出せばいいだろう。」
「いやよ。」
「正明は俺たち二人の息子だろ。」
私は夫をまっすぐ見つめ、静かに離婚届を差し出した。
「ええ、正明はあなたと不倫相手の息子よ。」
その瞬間、夫の顔から一瞬で血の気が引いた。
これは、妻の愛情を利用した夫が、二十年分の嘘の代償を払うことになった話です。
私の名前は明美。五十二歳。夫の正人とは二十年前に結婚しました。私たち夫婦には、長い間子供ができませんでした。病院に通い、何度も不妊治療を受けました。生理周期に合わせて予定を立て、薬の副作用に耐え、結果が出るたびに泣きました。それでも、思い通りにはいきませんでした。周囲から「子供はまだなの?」という何気ない言葉をかけられるたびに、何度も傷つきました。なぜ自分たちだけなのか。何度もそう思いました。
治療を始めて六年が過ぎた頃、私は心も体も限界を迎えていました。「もうやめようかな」と話した私に、夫が言いました。
「養子を迎えるのはどうだ?」
夫の知人に、子供を育てられない女性がいる。その女性が養子を望んでいるというのです。最初は戸惑いました。血のつながらない子供を、本当に自分の子供として愛せるのか。不安がなかったといえば嘘になります。それでも、初めて赤ん坊を抱いた瞬間、その不安は消えました。小さな手で私の指をぎゅっと握ったのです。この子を幸せにしたい。心からそう思いました。
そして私たちは、その子を二人の名前から一文字ずつ取って「正明」と名付けました。夫婦で目に入れても痛いくらいにかわいがりました。夜泣きをすれば、交代で抱っこしました。初めて笑った日、初めて立った日、初めて私のことを「お母さん」と呼んだ日。そのすべてが、私たち夫婦にとって宝物でした。子供を持つことが長年の夢だった私たちは、ようやく本当の家族になれた。そう信じていました。
正明が八歳になった頃、思いがけないことが起こりました。不妊治療を再開した私が、妊娠したのです。信じられませんでした。辛かった日々、神様を恨んだ日もあります。だからこそ、心の底から嬉しかった。何度も諦めかけた末に、私は四十三歳で次男の遼を出産しました。念願かなってできた子。可愛くて仕方がありません。でも、私は二人の息子を区別したことはありませんでした。二人とも大切な私の息子だから。
お兄ちゃんになった正明は最初は戸惑っていましたが、少しずつ遼を可愛がるようになりました。泣いている遼をあやし、手をつないで歩き、学校から帰ると真っ先に弟の顔を見に行きました。少し年が離れた、仲のいい兄弟でした。
ただ、子供たちが成長するにつれ、夫と私の間には意見の違いが増えていきました。特に、正明の進学についてです。
「正明には私立高校へ行かせたい。」
中学三年生になった正明を前に、夫がそう言いました。
「でも、私立はお金がかかるわ。不妊治療に使ったお金も多いし、住宅ローンも残っている。これからは遼の教育費も必要よ。」
私はそう説明しましたが、夫は譲りませんでした。
「正明にはできる限りのことをしてやりたいんだ。」
その気持ちは私にも分かりました。結局、私は家計を切り詰め、在宅で仕事を再開しました。正明は私立高校へ進学。すべては息子のため。そう思うと、辛くても頑張れました。正明は成績も良く、問題も起こさず、あっという間に時間が過ぎていきました。三年後には、夫の希望通り私立大学を受験しました。そして、見事、第一志望に合格したのです。
合格通知を見た正明は、珍しく子供のように喜びました。
「母さん、今までありがとう。」
その言葉を聞いた時、私は胸がいっぱいになりました。反抗期には口を聞いてくれない時期もありました。それでも育ててきてよかった。心からそう思いました。
ところが、大学から届いた案内を見て、私は現実に引き戻されました。入学金と授業料、施設費や教材費を合わせると、最初に必要な金額は百万五十万円近くになるのです。
「こんなお金、どこから出すの?」
私が夫に尋ねると、夫は当然のように答えました。
「家の貯金から出せばいい。」
「それを使ったら、遼のための貯金がほとんどなくなってしまうわ。遼はまだ小さいでしょ。」
「また貯めればいい。」
「簡単に言わないで。あなたは家計を知らないから、そんなことが言えるのよ。」
私が反論すると、夫は不機嫌そうに言いました。
「正明は俺たちが望んで迎えた子だ。最後まで責任を持つのが親だろう。」
その言葉に、私は何も言い返せませんでした。夫の言う通りだと思ったからです。
しかし、入学金の支払い期限まであと一週間となった日、夫から連絡がありました。
「机の引き出しにある通帳を確認しておいてくれ。」
夫の書斎に入り、指定された引き出しを開けました。通帳を探していると、古いタブレットが目に入りました。電源が入ったままになっており、画面にはメッセージの通知が表示されていました。送り主は「リカ」という女性。その名前には見覚えがありました。正明の本当の母親です。正明が十五歳の頃、本人の希望で一度だけ会ったことがありました。当時、リカは私に頭を下げて言いました。
「正明を育ててくださって、ありがとうございます。」
私は、リカを「子供を手放さなければならなかった可哀想な母親」だと思っていました。
ところが、画面に表示された文章を見て、体が動かなくなったのです。
「正明が合格してよかった。あなたの息子なんだから、大学のお金くらいちゃんと払ってあげてね。」
……あなたの息子?
私は震える手で、過去のメッセージを開きました。そこには、信じられない会話が残されていました。二人は、私が不妊治療をしていた頃から関係を持っていたのです。そして、リカが妊娠すると、夫は離婚するのではなく、恐ろしい方法を選びました。自分の子供を養子として私に育てさせる。そうすれば、リカとの関係を隠したまま、自分の息子を家庭に迎えられる。
正明を養子に迎える話を夫が突然持ち出した理由。夫が誰よりも正明を私立へ行かせたがった理由。すべてが繋がりました。私はその場で泣き崩れそうになりました。私が母になれたと喜んだ日も、夫婦で家族を築けたと信じた時間も、すべて夫が作った嘘の上にあったのです。
しかし、私はすぐには夫を問い詰めませんでした。メッセージを保存し、通帳の履歴も確認しました。夫は家計が苦しいと言いながら、リカに定期的にお金を送っていたのです。さらに調べると、二人の関係は現在まで続いていました。
私は弁護士に相談し、必要な証拠を集めました。
そして、今に至ります。
「正明は、あなたとリカさんの息子でしょ?」
夫は完全に言葉を失いました。正明も呆然として言いました。
「……どういうこと?」
私は夫を見つめ、静かに言いました。
「自分がついた嘘の代償を、最後まで払ってもらいます。」
合格通知を前に、私は夫に入学金を請求しました。夫は震える手で通帳を差し出しました。その中には、リカに送り続けていた金額と同じ額が、しっかりと記録されていました。
「これを、正明の学費に充ててください。」
私は冷たく言い放ちました。
「あなたは、これからも正明の父親として、その嘘を背負って生きていくのよ。そして、私はあなたの妻として、あなたの嘘の代償を、最後の一滴まで搾り取ってやる。」
夫は何も言い返せませんでした。正明は、真っ青な顔で私を見つめていましたが、何も言いませんでした。ただ、その瞳には、理解できない現実に対する恐怖と、そして、これまで信じてきた家族の形が崩れていく悲しみが浮かんでいました。
私は正明の手を握りました。
「正明。お前は何も悪くない。お前は、私の誇りよ。これからも、お前のことを大事に思っている。ずっと、お前の母よ。」
正明は、何も言わずにうつむきました。その肩は、わずかに震えていました。
翌朝、私は夫に離婚届を差し出しました。夫は、それを受け取らずに、机の上に置かれたままの通帳を見つめていました。
「これは、何だ?」
「あなたがリカに送っていた金額の記録よ。今までに送った総額は、あなたが家計から捻出した額と一緒。これを、私の慰謝料としてもらうわ。それで、正明の学費を支払ってください。」
「……正明は、俺の息子だぞ。」
「あなたの息子よ。でも、私の夫は、もう終わりよ。」
私はそう言って、部屋を出ました。後ろで、何かが崩れ落ちる音がしました。振り返りたくはありませんでした。
それから、私は弁護士を通じて、手続きを進めました。夫は、リカとの関係を妻に隠し、養子として迎えた我が子を育てさせ、さらには、そのことで私を騙し続けていた。その事実は、離婚裁判で明らかになりました。夫は、私に対して、財産分与と慰謝料を支払うことになりました。そして、正明の親権は、私が持つことになりました。夫は、それに対して、何の反論もできませんでした。ただ、正明に対する思いは捨てきれず、賠償金を支払う代わりに、正明との面会を求めましたが、私はそれを拒否しました。
「正明は、あなたの子供です。でも、私が育てます。あなたは、もう会わせることはできません。」
私はそう言い切りました。それが、私なりの復讐でした。夫が、私から奪おうとした、親としての幸せ。それを、私は最期の瞬間まで守り抜く。
正明は、戸惑いながらも、次第に現実を受け入れ始めました。時々、夫にそっくりな表情を見せることがあります。そんな時は、胸が痛むこともあります。でも、私は母です。正明のことは、これからもこの手で守り続けます。そして、遼も守らなければなりません。
あれから数年が経ちました。正明は、大学を見事に卒業し、今では立派な社会人になりました。時々、私を食事に連れて行ってくれます。その度に、彼がこう言うのです。
「母さん、いつもありがとう。下の名前で呼んでもいい?」
私はただ、何度も何度も、うなずきました。彼の成長を見てきた時間は、何よりも大切な私の財産です。夫の嘘なんかに負けず、私は家族を守り抜いた。今は、そう胸を張って言えます。
あの時、夫のタブレットを見つけなかったら、私は今でも嘘の家族の中で生きていたのかもしれません。でも、私は見つけた。そして、立ち上がった。自分の人生を、取り戻すために。
夫は、あの裁判の後、私と正式に離婚し、リカと再婚したようです。リカのところに、最初から夫がいたのは私ではなく、リカだった。そう思うと、少しだけ滑稽です。自分が愛した相手の本性を、私は身に染みて思い知りました。
正明は、今でも私を「母さん」と呼びます。昨日、初めて私に言いました。
「母さん、俺の本当の母さんは、今でも母さんだよ。」
その言葉を聞いた時、私は、あの日、初めて正明を抱きしめた時のことを思い出しました。小さな小さな手が、私の指を握った。あの時、私は確かに母になっていた。たとえ血がつながっていなくても、たとえ夫が裏切っていても、私は正明の母であり、正明は私の息子です。
その思いは、夫の嘘に負けることなく、これからも生き続けるのです。
