娘が今日、内定祝いの高級寿司屋に行くことになった。妻のひろこさんは、義母からの誘いの連絡を見て、ため息をついた。
「ひろさん、今日の集まり、本当に行くのか? 」
「行くわよ。呼ばれたんだもの。それに、あれはお祝いの席なんでしょ。行かなきゃ失礼でしょ。」
「でも、お前の家族は……なんていうか、いつもひろさんにきつく当たるじゃないか。俺も一緒に行けなくて、本当にごめん。」
「気にしないで。あなたは仕事でしょ。それに、何かされても、いつも通り言い返すから大丈夫よ。」
「本当に強いよな、ひろさんは。その強さに甘えてしまって、申し訳ないよ。」
「私が強く出られるのは、あなたが味方でいてくれるって分かってるからよ。じゃあ、行ってくるわ。そっちは焦らなくていいからね。」
「ああ、分かった。なるべく早く仕事を終わらせるよ。」
ひろこさんが家を出てから、1時間が経った。高級店の入り口に立つと、義母がにこやかな笑顔で出迎えた。
「あら、やだわ。ひろこさん、本当に来るなんて。」
「来いと言われたので来ましたが。何なんですか? まさか、店から追い出されるとは思いませんでしたよ。」
「そりゃあ、あなたに来る資格がないと思ったからよ。どうせ、この店の雰囲気を壊すだけでしょう。あなたの分なんて予約していないわ。」
「呼んだのはそちらですよね。なぜ呼んだんですか? 『夫婦で来てください』って言ったのはそちらでしょう。私と夫は結婚しているので、夫婦で間違いないですよね。」
「夫婦?

ああ、そうね。でも、中卒の嫁を連れて、私たちだけの家族でお祝いしたかったのよ。あんたの席はないから、帰ってちょうだい。伝わらなかったかしら? 」
「いつも『お祝いしたいから夫婦で来て』って言ってるじゃないですか。ちょっと何言ってるんですか? あれは社交辞令よ。普通、嫁は来ないものよ。中卒には、そんなことも分からなかったみたいね。」
「そうですね。私の中の常識とは違いました。ですが、『夫婦』という言葉は、夫と妻の2人を指す言葉です。言葉をそのまま受け取るのが、中卒の私にはできませんでした。言葉の奥深さを教えてくれてありがとうございます。」
「お前、よくそんなに舐めた口がきけるわね。やっぱり中卒は人間の言葉を理解する知能がないのね。日本語の奥深さを学び直してきなさい。」
「お母さんこそ、人としての奥深さを学んだ方がいいと思いますけど。そんなオウム返しみたいなことしかできないのも、中卒だからですかね。」
「何ですって! よくもそんなことが言えるわね。中卒のくせに、この高級店に来るなんて恥ずかしくないの?
」
「じゃあ、呼ばなければよかったんじゃないですか? でも、呼んだのはそちらです。これで用事は終わりですか? 帰っていいですか? 」
「ええ、早く帰ってちょうだい。あなたが座ってると、お寿司がまずくなるわ。」
「分かりました。ちょうどよかったです。わざわざ指名されたので来ましたが、今後は『夫婦で来て』と言われても、私はこの家の行事には一切参加しないことにします。」
「あら、よく覚えられたわね。中卒のくせに。せいぜい自分の教養のなさを呪いなさい。」
「ええ、よく覚えました。それでは、ごちそうさまでした。お母さんも、どうかお元気で。」
ひろこさんは、背筋を伸ばして店を出た。店を出た瞬間、ひろこさんはスマホを取り出して、夫に連絡をした。
「もしもし、ひろさん。どうした?
大丈夫か? 」
「ええ、まあね。追い出されたわ。」
「は? やっぱりそうなったか。今から行く。」
「いいわよ、来なくて。もう帰るところだから。お母さんに追い返されたの。私の分は予約していなかったらしいわ。っていうか、はなから呼んでなかったのね。」
「ひどいな。わざわざ呼びつけておいて。」
「ほんとよ。『社交辞令』って言ってたわ。『中卒のあんたが来ると思わなかった』って。私が本気で来ると思わなかったんでしょうね。高級なお寿司を食べたかっただけなんじゃない? 」
「それはないだろ。きっと、今日は俺が行けないのをいいことに、ひろさんに嫌味を言いたかったんだよ。俺のことは、まあ、きっと揚げ物にされるような気がする。」
「あはは、何それ。その例え、笑っちゃったじゃない。でも、おかげで少し元気出たわ。」
「それならよかった。こっちこそ、嫌な思いをさせてごめんな。」
「気にしないで。予想はしてたし。それに、あんな嫌味を言われながらお寿司を食べる気にはならなかったわ。ああ、そうだ。まだ夕食食べてないんでしょ?
回転寿司、行かない? 」
「お前、高級寿司の口だけど、よく回転寿司いけるな。」
「だって、今の流れだと、無性にタコの唐揚げが食べたくなったんだもん。」
「ははは、俺がタコに見えるのか? 」
「え? あ、違うわよ!
そういう意味じゃなくて! もう、やめてよ。笑っちゃったじゃない。」
「ごめんごめん。じゃあ、今から車で迎えに行くよ。回転寿司、行こう。」
「ありがとう。待ってるわ。ねえ、本当に気にしないでね。あっちはあっちで好きに言ってればいいのよ。むしろ、これからあの行事に顔を出さなくて済むと思えば、これ以上嬉しいことはないわ。」
「それもそうだな。気が楽になっただろ? 」
「うん。じゃあ、また後で。」
ひろこさんは携帯を切ると、軽い足取りで駅へと向かった。予想はしていたが、まさかここまでとは思わなかった。義母は、ああして自分の方が上だと思いたい人なのだ。
一方、その頃、高級寿司店の中では、義母と、夫の兄夫婦が昼食をとっていた。
「全く、ああいうのがいるから、この店の格が下がるわよ。」
「お母さま、もうおやめください。せっかくの美味しいお寿司ですから。それに、これで向こうから縁を切ってくれたんだと思えば、こちらとしては好都合ですよ。」
「そうですよ。ああいう場違いな連中を家族に持つと、私の立場もあったもんじゃないですしね。」
「あら、あなたたちはよく分かってるわね。そうよ、あの程度の人間は、家族とは呼べないわ。せいぜい、自分の身の程をわきまえることね。」
翌日、ひろこさんのスマホに、義母から長文のメッセージが届いていた。内容を見て、ひろこさんは呆れを通り越して笑ってしまった。
「昨日の件で思ったのだけど、あなたは文脈を理解できていないわね。知的に、多分理解ができていないのでしょう。自分が理解していると思い込んで話していたから、きっと困惑したと思うわ。ねえ、困惑しています? 」
「はあ、何が言いたいんですか?
」
「こんなにすっごく遠回しな罵倒は初めて見ました。悪い意味での日本語の奥深さを存分に発揮していて、さすがはお母様ですね。学歴にはできない芸当です。」
「ん? ああ、その返信ね。昨日の続きってところかしら。本当に、あの人の頭の中は『嫌味』って文字だけで一杯なんじゃないかしら。」
横でメッセージを見ていた夫が、思わず吹き出す。
「ははは、よくやくもあそこまで遠回しに言えるもんだな。でも、いいんじゃないか? ああいう返信が返ってくるってことは、向こうも実は楽しんでるんじゃないか? 」
「ええ、きっとそうよ。『オウム返ししかできない』って言われたのはちょっと腹が立ったけど、『学歴にはできない芸当』って言い返せたのは、我ながら痛快だったわ。」
「それで、お母さんからの最後の一言は?
」
「『あなたみたいな学歴のない人がいると、まゆみが恥ずかしい思いをするかもしれないじゃない。現に昨日も高級店で中卒が入って店の雰囲気を壊したし。呼んだのはそっちでは? 普通は来ないものよ。とにかくあなたは存在自体が迷惑。これからは家族行事は遠慮してちょうだい』だって。」
「はあ、相変わらずだな。それで、何て返したんだ? 」
「それが、良い返しを思いついちゃってね。」
ひろこさんは、スマホを手に取り、義母からのメッセージに返信を打ち始めた。
「『遠慮します。いえ、遠慮させていただきます。だって、毎回毎回嫌味を言われて面倒だったんです。これで心置きなく行事を断れます。本当に、お母さんとご一緒する行事は時間の無駄でしかなかったので、正直助かりました。』」
「おいおい、それは思い切りよく切り返したな。」
「これで縁を切れるなら、安いもんよ。さて、これで心置きなく、私たちの生活に集中できるわね。」
「そうだな。……で、その後の返信は? 」
「『あら、やだ。ごめんなさいね。中卒さんには、その言葉の意味も分からなかったかしら?
』ですって。相変わらず、『中卒』って言葉を連呼しないと気が済まないみたいね。」
「本当に、あの人には『学歴』っていう一点でしか人を見れないんだな。悲しい人間だよ。」
「ええ、本当にね。でも、もう何を言われても気にならないわ。だって、あの人たちと関わらなくていいんだもの。すっきりしたわ。」
「そう言ってくれると、俺も安心するよ。本当に、いつも辛い思いをさせてごめんな。」
「だから、謝らないでって言ってるでしょ。私が選んだ道よ。それに、結果的にああなって、むしろ清々してるの。さあ、気を取り直して、今日は何を食べようかしら。」
「今日は、何が食べたい?」
「そうねぇ、最近あんまり食べてなかったから、お肉が食べたい気分。」
「いいね、じゃあ、今夜は焼き肉にしよう。」
「本当?やった!じゃあ、帰りにスーパーに寄って、いいお肉を買っていきましょう。」
「そうしよう。……あ、そうだ。今日のうちに、母さんたちに挨拶に行かなくて大丈夫か?」
「いいえ、もう行かなくていいわ。あちらが私を呼ばないって決めたんだもの。それなら、それでいいのよ。私たちは私たちの生活を大事にするわ。」
ひろこさんは、もう二度と義母の顔色を窺うことはないのだと思うと、心が軽くなった。あの家族の一員でいることに、ずっと息苦しさを感じていたのだ。
最近、義理の家族から解放されて夫と二人の生活は、何をするにも楽しかった。心から笑えるのは、この人の前だけだと思った。
その夜、焼き肉を食べながら、夫が言った。
「なあ、ひろさん。今日のこと、本当にありがとな。俺の家族のせいで、嫌な思いをさせてばかりで。」
「だから、そんなこと言わないの。私はあなたの味方よ。それに、今回のことで、あっちももう私たちに関わってこないでしょうね。あれだけはっきり言ったんだから。」
「そうだといいんだけどな。あの人のことだから、何か言ってくるかもしれないぞ。」
「言ってくればいいじゃない。今度こそ、はっきり言い返すから。私だって、もう中卒だと馬鹿にされる謂れはないんだから。」
「俺は、ひろさんが中卒だってことは、誇りに思ってるよ。別に恥ずかしいことなんて何もない。」
「あ……ありがとう。あなたにそう言ってもらえるだけで、私は救われるわ。」
「それなら、これからもずっと言い続けるよ。お前は俺の自慢の妻だってな。」
「もう、そんな恥ずかしいこと言わないでよ。お肉、焼けたわよ。どうぞ。」
「お、さんきゅ。……でも、本当に、その言葉が一番嬉しいんだ。」
ひろこさんは、焼き肉を口に運びながら、そっと微笑んだ。あの時、義母に心無い言葉を言われた時も、夫の優しい言葉が何よりの支えになった。この人のために、もっと強くなろう。ひろこさんは心の中で、静かに誓ったのだった。