土曜の午後、医師から告げられた「余命三ヶ月」という言葉が、頭から離れなかった。自宅に戻っても、妻のなみに真実を伝えられず、ただ保険金の受取人を愛子に変えるためだけに、俺は離婚届をテーブルに置いた。「なあ、話があるんだ」——その一言から始まった芝居は、あまりにも残酷だった。「は?ふざけないでよ。病気までして、何でそんなこと言うの?」なみの震える声が、今も耳に焼きついている。本当は全部嘘だ。彼女…

土曜の午後、医師から告げられた「余命三ヶ月」という言葉が、頭から離れなかった。自宅に戻っても、妻のなみに真実を伝えられず、ただ保険金の受取人を愛子に変えるためだけに、俺は離婚届をテーブルに置いた。「なあ、話があるんだ」——その一言から始まった芝居は、あまりにも残酷だった。「は?ふざけないでよ。病気までして、何でそんなこと言うの?」なみの震える声が、今も耳に焼きついている。本当は全部嘘だ。彼女...

医師の言葉が頭から離れなかった。余命三ヶ月。最初は聞き間違いだと思った。けれど、土曜の午後に妻と二人で訪れた検査室のあの静けさは、冗談では済まされないものだった。医者にそう伝えられた後も、俺は診察室の椅子に座ったまま、診察券を握りしめて動けなかった。病名を聞いてからだろう、肺に影が見つかったと聞かされてから、ずっと頭の中は真っ白だった。

家に帰ってからも、何も話せなかった。気遣うような視線を送ってくる妻・なみの顔を見ると、真実を言うのが怖くなった。三ヶ月。いや、それ以上かもしれない。医者にはそう言われたが、状態によってはもっと短いかもしれない。そうなれば、あの子に残せるものは何もない。いや、それは違う。金を少しでも多く残してやるんだ。そのためには、この結婚は終わらせなければならない。

翌朝、なみがコーヒーを淹れてくれているキッチンの方へ、俺はカバンから保険契約書を取り出しながら言った。

「なあ、話があるんだ。」

「何?改まって。すごく顔色が悪いけど、もしかして体調が悪いの?」

「いや、そうじゃない。……すぐに病院に行くことになったんだ。それで、三ヶ月って言われた。」

湯呑みを持つ彼女の手が止まる。コーヒーの湯気が二人の間にふわふわと漂った。何か言おうとしている彼女の口から出てきたのは、「嘘でしょ?」という小さな声だった。

「本当だ。このまま入院する。」そう言って、俺は前もって役所からもらっておいた離婚届の書類をテーブルに置いた。

「ちょ、ちょっと待って、何よこれ。離婚届?なんで?病気なのに、何で私が離婚することになるの。そんなこと言わないでよ。私が病院に付き添って、看病するから。だから。」

「いや、それはいいんだ。看病は金で雇う。だから、俺と離婚してほしい。」

混乱する彼女の顔を見ていると、胸が締め付けられた。けれど、ここで心を許してはいけない。俺はコップの水を一口飲み、壁に貼ってあるカレンダーを見つめた。今日の日付が、離婚届を出さなければならない期日だ。

「何言ってるの?意味が分からないよ。あなた、病気なのに、何で私と離婚するの?看病をしてくれる人がいないからじゃないの?私がいるでしょ。」

「だから、それはいいんだ。看病は別の人間にやってもらう。外国人の美人の看護師でも雇おうと思ってるんだ。」

嘘だった。全部、愛子に残す金を少しでも多くするための芝居だ。なみに内緒で、こっそり受け取り人を変更するためには、離婚するのが確実なのだ。保険金は法律上、お前にも権利がある。その手を使うことでしか、愛子に金を残してやれないのだ。

「はあ?ふざけないでよ。病気までして、何でそんなこと言うの?看護師を雇うって、あなたのお給料で払えるの?入院費もバカにならないのに。そんなことより、私が看病するから。」

「大学病院の個室に入るんだ。金がかかる。俺の貯金を崩せば何とかなる。それに、あいつは病院に連れて行くことはできないし、家では面倒を見られないって言うから。」

「あいつ?あいつって、誰のこと?」

「俺の彼女だ。愛子っていうんだ。同僚で、とても大事な部下でもある。勿体ぶって言うまでもないけど、愛子にはもうプロポーズしてる。ハリー・ウィンストンの指輪をプレゼントしたんだ。」

嘘を重ねることを、ずっと心の中で謝りながら。それでも、彼女を本気で憎んでくれないと、この計画は成立しない。愛子を本当に悲しませる前に、俺は男としての役割を果たすべきなんだ。

「……何なの、その話。誰と話してるの?あんた、まさか、浮気してるの?病気なのに?」

「まあ、そう聞こえても仕方ないな。ただの浮気ではない。出会うのが遅かっただけだ。真実の愛だ。」

「真実の愛?ふざけんな!私はあんたのために仕事も半分に減らしたんだぞ。病気になるって聞かされて、どれだけ不安だったか分かってるのか?」

彼女の声援が部屋中に響く。引き出しから、以前、パソコンの写真がぶつ切りにして入れてあった、二人で撮った写真を取り出して、彼女に投げ渡す。その写真には、病気になる前の今頃の二人が写っていた。

「俺は病気になっても、お前にはもう何も期待してない。余計な手出しはしないでくれ。看護は俺が金を払って人にやってもらうから。すまないと思ってる。感謝もしてる。ただ、愛子と結婚するために、どうしても離婚が必要なんだ。」

「ふざけんな!何で私がそんな話を聞かされて、素直に離婚できないんだよ。お前が病気で、これから死ぬっていうのに、何でいきなり離婚なんだ。おかしいだろうが!」

机にあった書類を手で払いのけて、彼女は椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がった。初めて見せる取り乱しようの真剣さに、心臓がドキドキと脈打つのを感じる。

「あんた、気でも狂ったのか?病院に連れて行くべきだな。医者に診せるか、精神病院にでも入院させてやるべきだ。」

「気の狂った愛人を養えるほど、体は若くないんだよ。頼むから、この離婚届に判を押してくれ。そして、この家からも出て行ってほしい。荷物は向こうでまとめて送る。」

「は?なんで家から出て行かなきゃいけないんだ。元々、私が借りた家だぞ。家賃だってちゃんと半分払ってるだろうが。」

「その家賃は、保険金を貯めるために残してるんじゃなかったのか?病気になって、三ヶ月の命と言われている男の家に、女の義理もないだろうが。」

「だったら、お前一人で生きていけばいいだろうが!金を失ったくらいで、そんなに何もかも失うことになるんだな。分かったよ、離婚してやるよ。その代わり、看護はちゃんとプロの人が面倒を見てくれよ。そして、葬式は盛大にやらせてもらうからな!」

「ああ、任せろ。葬式は立派にやる。俺が事故で死んだって言えば、亡くなった人間は何も言えなかろうが。」

彼女との結婚生活は、もう終わる。そう思うと、自分でも驚くくらい涙は出てこなかった。帰り際、玄関で靴を履きながら、彼女が冷たい声で言った。

「で、受け取り人は誰にする気だ?新しくできる女か?」

「ああ、そうだ。愛子にする。」

「やっりな。分かったよ。全て思い通りにしてやるから、後悔するなよ。一度出て行ったら、二度とこの家には戻れないからな。私の人生では、もう男を作ることもできずに一生を終えるより、あんたのことは綺麗に忘れる。」

そう言って、玄関の鍵をそっと閉めた。後は、病院に行くだけだ。入院の手続きを、そして、葬式の段取りを決めるために。「なあ、最後に一つ聞いてもいいか?」

振り返ると、なみがドアの影からこちらを見ていた。

「本当に、浮気をしたのか?」

「それはお前がどう思うかだ。」

「……分かった。もう、いい。」

彼女は結構バタンと扉を閉めた。それが彼女との最後の会話になるとは、この時は思ってもいなかった。病院に行ったら、担当医から正確な余命宣告と、退院までの治療計画について説明を受けた。その間に、なみから別れの連絡も来た。何を思ったのか、離婚届はすぐに役所に出したらしい。

入院の手続きを終え、病室のベッドで保険の支払いと葬式の段取りを考えながら、俺は一人、静かに笑った。長い間、妻だった女性に、こうして嘘を通し続けている。あの日の必死のたきぎれのような怒鳴り声が、頭の中でしつこく甦る。それも、今日で最後だと願いたい。

病室に、愛子は現れなかった。いや、本当は病院に来るはずがなく、来ることもできないと電話で言われていた。正体を隠すことなく、会社の最寄り駅のトイレで、こっそりと電話で話をした。ひどく緊張しているような声だった。

「もしもし、奥様?」

「違うよ。もう離婚したから。」

「……そうですか。それはご愁傷様でした。で、連絡をした用件とは?」

「保険金の受け取り人の変更に協力してほしいんだ。書類が届いたら、サインをしてくれるか?役場に出す前に、中を見たことを教えるようにはしない。」

「分かりました。そうしてくれるなら、淡雪のためなら何でもします。それがプロポーズの返事になるなら、喜んで。」

「助かるよ。あんたには、迷惑ばかりかけるな。すまないと思ってる。」

「いえ、私たちは同志ですから。あなたが決めた道なら、娘と一緒に進みます。」

受話器を置くと、病室は消毒液の匂いだけが残る静けさに包まれた。天井を見つめて、思う。

保険金は、きっといくらか手続きを進めれば、愛子が受け取れるだろう。いや、実際には手続きを進めるべきだったんだ。なみには、本当に申し訳ないことをした。しかし、あの取り乱する様は見事だった。こっちが泣きそうになるくらいだ。往年の元気な姿に、少し安心したくらいだ。

葬式の準備はもう整っている。遺影に使う写真も、こっそり自撮りしたものをコンビニのプリントで用意した。病室の小さな机の上に、保険の書類と遺影写真が置いてある。

枕もとにスマホを置いて、呼吸を整える。肺の痛みは続く。あと、何日もつだろう。医者は残念そうに「家で過ごすことはできませんか」と言った。残り少ない日々を病院で過ごすのは、少し寂しい気もするが、病室の窓から見る綺麗な夕日は、これまで働き続けてきた自分へのご褒美のように感じられた。

目を閉じると、浮かぶのは、愛子の顔ではなく、昔、海に遊びに行った時のなみの笑顔だった。あの時は、まさか、こんな形で終わるとは思ってもいなかった。

入院して一週間が過きたある日の深夜、見舞い客がいるとは思えない時間帯に、病室の扉をノックする音が聞こえた。どうぞ、と返事をすると、顔をのぞかせたのは、保険の担当者だった。

「こんばんは。夜分にすみません、奥様ですか?」

「いや、あんたは保険会社の塩田さんだな。どうしたんだ、こんな時間に。書類の不備か?」

「いえ、そういうわけでは。実は、お見舞いに参りまして。」

風呂敷包みを手に、保険の担当者は病室に上がり込んできた。てっきり、保険金の受取人がなみから愛子に変更されたことを心配しているのかと思いきや、彼は申し訳なさそうに視線を落とした。

「奥様からですね。先ほど、お電話をいただきまして。私どもの保険金の受取人の件で、話が違うとのお叱りを受けました。」

「は?」

「妻の書類を見ると、受取人が別人になっていると。それで、ちゃんと説明を求めているそうです。奥様は、『納得がいかない』とお怒りでした。こちらからも、奥様に一生懸命説明したのですが、どうにも。」

嫌な予感がした。頭を抱える。まさか、なみが保険会社に連絡するとは。離婚した後の事を考えれば、こっちの負けだとは分からなかったんじゃないか。いや、気付かないはずがない。

「事務的に見ますと、受取人の変更手続きには、旧受取人である奥様の同意書もしくは、本人の印鑑証明が必要になる手続きがございます。ただ、無断で変更されたのであれば、一旦、書類を戻す必要がございますが、いかがなさいますか?」

「……いや、構いません。もう、こちらはどうとでもなります。」

「そうですか。まあ、奥様も怒るのも無理はないですがね。ご主人の命がかかってるというのに、愛人に受け取り人を変えたとなれば、そりゃあね。」

ニヤリと不気味に笑う保険会社の男。こうなれば、こっちがどれだけ嘘を突き通しても、その態度だけであいつは動く。俺の予想通り、なみは俺のことを恨んでいる。

「塩田さん、ひとつ、言う通りに聞いてもらえるか?」

「何でしょう?」

「差し出がましいことは承知でお願いします。もし、未来に俺が死んだ時、なみに本当のことを話してほしい。浮気してたのも、あんな女はいない。ずっと、やり直せる相手はずっと前から決まってたんだって。」

「それは、つまり、どういうことで?」

「この保険金はな、なみに残すための金なんだ。しかし、正直に言って、あの馬鹿は、絶対に俺の金を受け取らないだろうな。あれで頑固だから。だから、形だけでも憎まれたかったんだ。」

「よく分かりませんが、奥様も、悪い方には見えませんでしたがな。」

「そうであってほしいんだがな。」

塩田さんが帰った後、病室には静けさが戻ってきた。天井を見つめる。どうやら、自分の計画通りには進まないようだ。それならば、もう一つのプランに切り替えるだけだ。枕の下に忍ばせておいた封筒を取り出す。そこには、なみ宛ての遺書が入っている。これが、俺の本当の最後の仕事だ。

入院から三週間後、あっさりと、その時はやってきた。朝方、急に胸の痛みが強くなり、そのまま意識が遠のいた。ああ、このまま死ぬんだな。そして、病院の先生が、最後の時間か確認をしようとした時、病室の扉が開き、なみが息を切らせて駆け込んできた。彼女は白い顔をして立ちすくむと、声をひどく震わせた。

「洋介!馬鹿!ふざけんな!生きろ!死んだら、私が何のために離婚を承諾したか分かっているのか!?」

なみの叫び声は、途切れ途切れの記憶の中でこだました。

その半年後、休職していた保険会社のオフィスに、一人の女性が訪ねてきた。なみだ。彼女は、静かな面持ちで、一枚の書類をカバンから取り出した。それは、私あてに書かれた、保険金の受取人を変更するための書類だっと。

「これを、正式な手続きをしてください。私があの人の受取人です。」

そう言って出したのは、彼が遺した遺書のコピーだった。

「ご自宅に書類が届いたため、僕から妻と連絡を取りました。この書類のことを知っていますか。全く、最後まで人を困らせる男だな。」

秘書の女性は、じっくりと書類を眺め、彼の受取人がなみと聞き、少しだけ微笑んで頬を濡らした。あの日、病室のベッドで必死に託したこの手紙。それがようやく、なみの元へたどり着いたのだ。

「そうだったのか、ようやく分かった。あんた、なかなか分かってるわ。おめでとう、なみちゃん。よく頑張ったわね。」

「有り難うございます。あなたも、お元気で。社長さんは、愛子さんとお幸せにね。」

そう言って、なみは部屋を出ていった。帰り際、受付の大きな窓には、彼と歩いた道々の景色が、春の陽射しの色に染まっていた。財布の中には、彼が遺してくれた、小さなノートが一枚。そこには、こう書いてあった。

『なみへ。嫁にもらってくれてありがとう。お前を誰よりも大切だと思ってた時期も、何より惜しかった。だが、俺は弱い人間だ。お前を守ることより、お前を困らせることを選んだ。このすまなさは、一生かけて償っても足りない。しかし、お前にだけは知っておいてほしい。俺は最後まで、お前のことが好きだったって。じゃあな。そして、永遠の幸せを。』

涙で文字が歪んで、これ以上は読めなかった。なみは、保険会社の大きな階段の前に立ち、思わず空を見上げた。窓から差し込む春の光が、まぶしかった。

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