午後六時を過ぎたオフィスで、また課長の声が響いた。田中さん、今日も入力ミスが多かったよね。
すみません。確認したつもりだったんですが。
確認したつもりじゃ困るんだよ。あと、その資料の紙面、もう少しどうにかならないかな。
周りの視線が一斉に私へ向いた。お客様がどう思うか、考えたことある?誰かが小さく笑うのが聞こえた。田中さんって、いつも暗いよね。彼氏とかいなさそう。私は聞こえないふりをした。でも、聞こえていた。
そんなことは分かっている。私がしっかりしていないから悪い。仕事も遅いし、周りにも気を遣えていない。こんな扱いには、もう慣れていた。昔からそうだった。何か言おうとすると声が小さくなる。頑張ろうとしても、結局いつも空回りする。だから、なるべく目立たないようにしてきた。誰にも迷惑をかけないように。
定時を過ぎたオフィスには、もう人影はなかった。私は鍵を閉め、誰もいないエレベーターに乗り込んだ。はあ、今日もコンビニか。この街はキラキラしているのに、私の周りだけは暗かった。
コンビニの横の飲食店の入り口に、誰かが座り込んでいた。スーツ姿の男性だ。こっちを見ている。ネクタイは緩み、片方の靴は汚れている。どこかで見たことあるような気がする。関わらない方がいい。そう思って、私はコンビニに入った。
ラッキー。これ半額だ。弁当とお茶を手に取り、レジに向かう。会計をしようとした瞬間、横から缶コーヒーが一本置かれた。
これも一緒で。
驚いて顔を上げると、さっきの男性が隣に立っていた。ちょ、ちょっと待ってください。何ですか?
男性は千円札を出し、私の弁当代まで払ってしまった。慌てて外へ追いかける。
困ります。知らない人に払ってもらう理由なんてありません。
理由はあります。男性は私をまっすぐ見た。今日だけ、止めてくれませんか?
頭が真っ白になった。は?一晩だけでいいんです。
無理です。知らない男性を家に止めるなんて。
知らないとは、失礼な。男性は小さく笑い、コンビニの前にしゃがみ込もうとした。じゃあ、今日はここで寝ます。
いや、こんなところで寝られるわけないでしょう。
慣れてますから。
その言葉に、胸が引っかかった。普通の人は、そんなことを軽く言わない。どうせ家には帰れないんだ。私は何度も断ろうとしたのに、汚れた靴と、今にも消えそうな横顔が頭から離れなかった。
今日だけですからね。
こうして私は、見知らぬ男性を家に止めることになった。
古いワンルームのドアを開けた瞬間、我に返った。何をしているんだろう。知らない人を部屋に入れるなんて。
意外と綺麗なんだな。
物が少ないだけです。
それは、ちゃんと片付けてる人の言い訳です。
そんな風に言われたのは初めてだった。神谷さんと名乗った男性は、酔っ払って大騒ぎして、家に帰る気力がなくなったらしい。本当かどうかは分からない。でも、不思議と嘘には聞こえなかった。
私はベッドで寝ます。神谷さんは床でお願いします。
もちろんです。止めてもらえるだけで十分です。
朝、目を覚ますと、テーブルに朝食が並んでいた。焼いた卵、味噌汁、温めたご飯。何日もまともに作っていなかった朝食だ。しかも身なりを整えた神谷さんは、驚くほどイケメンだった。
昨日、コンビニで弁当買ってましたよね。あれが夕飯なら、朝くらいちゃんと食べた方がいい。
一口、味噌汁を飲む。温かさが胸に広がった。美味しい。
それなら良かった。
慌てて時計を見る。やばい、会社。椅子にかけていたブラウスを取ろうとして、私は固まった。綺麗にアイロンがかけられている。ジャケットまで整えられていた。
まさか、これ?
ああ、時間があったので。余計なお世話です。
でも、みんな重要って上司に言われなかったんですか?
私は固まった。え?なんでそのこと知ってるんですか?
なんででしょうね。それより、会社の時間、大丈夫ですか?
駅までの道を、二人で歩いた。昨日とは違う神谷さんが隣にいる。ちゃんとしたら、こんなにイケメンなんだ。改札の前で、彼は足を止めた。
止めてくれて、ありがとうございました。
もう大丈夫なんですか?
はい、多分。
多分って。田中さんも、ちゃんと朝ご飯を食べてください。
そう言って、彼は人混みに消えていった。もう二度と会うことはない。そう思った。
でも、その日、会社で小さな変化が起きた。田中さん、今日なんか雰囲気違うね。この資料、見やすくなったね。いつもは突き返される書類も、すぐに通った。たった一枚のアイロンのかかったブラウス。たった一杯の味噌汁。それだけで、少しだけ何かが変わった。
仕事帰り、私はコンビニに寄った。昨日と同じ場所に神谷さんがいた。
またですか?
はい、またです。
家、ないんですか?
神谷さんは少し黙って、小さく頷いた。帰りたくても、帰れないんだ。
それ以上は聞かなかった。誰にでも、聞かれたくないことはある。
今日だけですからね。私はそう言った。けれど、その「今日だけ」は、何日も続いた。私と一緒にいても、悪い気はしなかった。
神谷さんは私の生活を少しずつ整えていった。朝食を作る。靴を磨く。人と話す前に、まず深呼吸することを教える。ある夜、神谷さんは言った。
田中さんは、仕事ができないんじゃありません。自分を責めてるだけです。ミスばかりなら、ミスを直す仕組みを作ればいい。自分を責める必要はありません。
私はずっと、仕事の失敗を自分の価値の失敗だと思っていた。でも、違った。私は、壊れた人間なんかじゃなかった。
数週間後、私は大きな案件の資料作成を任された。田中さん、この資料、見てくれない?いつもより複雑だけど、行ける?
以前の私なら、逃げていた。でも、今回は逃げなかった。はい、やってみます。自分を責めないこと。そう思うと、仕事はスムーズに進んだ。
結果、資料は部長に褒められた。田中さん、最近すごくいいね。その言葉を聞いた時、私は泣きそうになった。今度、幹部も参加する会議に出てほしい。この資料を作ったのは、田中さんだからね。
その帰り道、神谷さんの好きなチーズケーキを買って帰った。少し、心があった。今日はちゃんとお礼を言おう。神谷さんがいなかったら、きっと褒められることもなかった。そう思っていた。
ドアを開けた瞬間、違和感があった。玄関に神谷さんの鞄がない。携帯も置いてない。リビングの電気も消えている。テーブルの上に、メモが一枚置いてあった。
「ありがとう。元気で」
それだけだった。私はその場に立ち尽くした。コンビニから帰ってきた途端、いきなり雨が降り出した。今日は持ってよかった、と思う。傘を差しながら、足を踏み出す。昨日の神谷さんは、明日は本当に来ないんだろうか。そんなことを考えても、どうしようもないけれど。
家に帰ると、アパートの前に人影があった。壁にもたれて、体育座りをしている。髪がびっしょり濡れている。傘も差さずに。
神谷さん。
あ、おかえり。
なんで、傘を差さないんですか。風邪引きますよ。
いや、本当は傘、持ってたんだけど。コンビニで見つけた猫が、雨宿りしてて。なんだか介抱したくなって、ずっと見てた。で、気づいたら雨に濡れてた。
想像したら、なんだか可笑しくなった。教会の前にいる神谷さんも、コンビニの前でしゃがみ込んでた神谷さんも、今の神谷さんも、全部変わらない。迷子のままで、滅多に誰も拾わない。拾われたとしても、置いていく場所に困る。犬の散歩がてら、拾ってほしい。
そんなふうに生きてきたんだ。
このご時世、熊が出たとか言われる。人が自分の驚きを説明しているんだが、あまり納得しなかった。挨拶しても、返ってこない。
貸してもらって、ありがとな。
神谷さんが家に入る準備をしている。私は早足でアパートへ向かう。明日が休みじゃないのが、心底悔しい。
ばいばい。
ドアを閉めて、鍵をかける。ずぶ濡れの神谷さんを置いてきてしまった。風邪を引かせないだろうか。あのまま神谷さんをコインランドリーに連れて行くことは、普通の人にはできないだろう。私もしてあげたいけど、それは神谷さんが許してくれない。
神谷さん、本当に敵わない。酔っ払って、行ったところで、あの静けさがかっとするのも愛しい。
その日から、私は変わり始めた。外に出る時は髪をセットする。誰かに挨拶されたら、ちゃんと目を見て笑い返す。仕事が終わったら、コンビニでおにぎりを買う。都市の餌付けさえ、私には特別なことに思えた。
数日後、神谷さんはまた会いに来た。今夜も会社で徹夜のようで、疲れ果てていた。私は何も言わずに家へ招き、コーヒーを淹れる。気づけば、同じ時間を共有したいと思うようになっていた。
ある夜、神谷さんが教えてくれた。仕事とか、住む場所とか、お金のこと。最近、神谷さんの周りだけ、やけに真っ直ぐで、まるで上司みたいな口調だ。気持ちに火が付くから、そっちの方が嬉しい。そう言った。
神谷さんはない。やっぱり、仕事のできる人だ。目から鱗だったみたい。
ねえ、人間ってさ、一回でも変われたら、次から気楽になるんだよ。
そう言って、神谷さんは手を伸ばした。自分の苦しみを一粒、手のひらにのせ、それを捨てるように。
十日目、私は前から怖いと思っていた取引先との会議を乗り切った。大きなミスもなく、冷や汗をかいたが、最後まで話せた。あの日、コンビニで缶コーヒーを買わなかったら、今頃どうしていただろう。神谷さんと出会わなければ、私はずっと自分を責め続けていたかもしれない。
部屋に戻ると、けれど神谷さんの様子がおかしかった。ソファに座ったまま、何も言わない。
神谷さん?どうかした?
しばらく沈黙が続いた。呼吸も浅い。やがて、震えながら神谷さんは言った。海外赴任が決まったんだ。来週、ロンドンへ。
言葉が出なかった。それだけではない。これで、この部屋とのお別れだと思うと、無性に切なくなった。
帰るたびに、電気が付いている。確かに私は、それだけで安心していた。
翌朝、私は神谷さんの背中を道まで見送った。改札で振り返り、最後に見せた笑顔は、あの日コンビニで見た、消えそうな横顔とは全然違って、ちゃんと決まっていた。
私は、よくやった。一人でここまでやってきた。
でも、その夜、布団の中で泣いた。取り返しのつかないことをした。これからどうする向かしこのまま、何もなかったように働いて、何を楽しみに生きればいいんだ。
まるで、私だけが置いて行かれたみたいだった。
数日後、課長に呼ばれた。田中さん、今日から一週間、休みなさい。うってつけの休暇だ。
机の上には、神谷さんが忘れていったのだろう、一枚の写真が置いてあった。コンビニの前で、恥ずかしそうにピースをしている私。あの頃、私は決して暗くなかった。
私は、その写真をそっと鞄にしまった。そして携帯を手に取り、壁に登った。調べたサイトの広告には、小さく『ありがとう』と書いてあった。
神谷さんは、会った瞬間から分かっていたのだろう。ずっと、私が迷子になってることに。だから、私も迷子にならないように、教え続けよう。そうしよう。
外は、雪が降り始めていた。リビングのカーテンを開け、冷たいガラス越しに外を見る。コンビニの明かりが、いつまでも目に焼き付いていた。もう、あの日々には戻れない。だけど、明日もどうにか生きていく。残された私は、少しずつでも、前に進んでみる。そう思える朝だった。
