「お母さん、今度の旅行なんですけど、温泉ってどうなんですか?」
「温泉? なんでまた急に。私はもっとこう、パーっと行きたいのよ。せっかくの旅行なんだから、ありきたりな場所は嫌なの」
「ダメっていうか、地味っていうか……普通じゃないですか。せっかくなら目新しい場所がいいなって」
「目新しい場所ねえ……それで、誰が決めるの?」
「私が決めたら意味がないでしょ。お母さんの期待があるなら、ちゃんと聞いてから決めたいし」
「あんた、嫁でしょ。義母の考えくらい察しなさいよ」
「私、エスパーじゃないんですけど」
「ああ言えばこう言う! 全く、このダメ嫁が!」
そう言ってお母さん、つまり義母のけい子さんは、立ち上がって台所を出て行こうとした。ひなはため息をついた。いつものことだ。何を言っても、最後は決まって「ダメ嫁」のレッテル貼りで終わる。
翌日、今度は家の中がさらに険悪になっていた。台所でお茶を淹れていると、とんとんと軽い足音がして、義理の姉であるひなが入ってきた。いや、正確には、ひなの夫・裕介の兄の妻、つまり義理の姉になる女性だ。彼女はひなたよりずっと穏やかで、思いやりがある。ひなはその姉にずっと助けられてきた。
「お姉さん、助けてください」
「どうしたの? また何かされた?」
「ええ、もう……お母さんが勝手に私の服を着たんです。しかも、私が大事にしてるスカートを。ウエストもだるだるに伸ばしちゃって、最悪です」
「ちゃんと注意したの?」
「行っても無駄ですよ。絶対聞かないし、自分は正しいって顔してるだけですから」
「分かったわ。今度は私から言ってみる」
「ありがとうございます。お姉さんしか勝たん、って思いますよ。本当に憧れます」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、私が言っても効果があるかは分からないわよ」
「ありますって。お姉さんはお母さんに物を投げられたりしませんし、きちんと話を聞いてもらってるじゃないですか。私なんか、怒る理由もなく『顔が気に食わない』って怒られて、しまいには杖で叩かれましたよ」
ひなの姉、つまり裕介の姉のひな子は、その言葉に複雑な表情を浮かべた。
「お母さん、昔はあんなじゃなかったんだけどね」
「え? 本当ですか? 今のあの人からは想像できませんよ」
「無理もないわ。ひなちゃんが来る前、あなたと裕介が結婚する前は、少なくとももっと穏やかだったの。少なくとも、少し前まではね」
「でも、お姉さん、お母さんってずっとあんな感じじゃないですか?」
「いや、違うの。お父さんの葬式の後、お母さんはすっかり落ち込んじゃって、それからかな。寂しさからか、周りに当たるようになって……今に至るって感じよ」
「でも、私にまで当たるのはおかしいですよ」
「もちろん、おかしいわ。でも、あの人は悪い人じゃないの。ただ、寂しがり屋で、自分が面倒を見てもらえてないって思うと、周りを困らせることでしか自分を認めてもらえないと思う人なの」
「じゃあ、どうすればいいんですか? このままだと、私、家にいられなくなりそうです」
「大丈夫よ。今回の旅行で、何か変わるかもしれないから」
「旅行? あの温泉旅行のことですか? あれ、お母さんが断ったでしょうよ」
「そうなんだけど、実はね、あの旅行、裕介からの提案なのよ」
「裕介が? え? 何で?」
「お母さんももういい年でしょ。私たち夫婦は、お母さんと距離を置いてきたけど、このままじゃずっと関係が悪いままなのよ。だから、たまには家族で旅行して、仲直りのきっかけを作ろうって。裕介も、あなたとお母さんの関係がぎくしゃくしてるのが心配みたいなの」
「でも、お母さん、あれから孫にもお茶をいれてもらっても『まだ熱い』って怒鳴るし、私が作った料理も全部『まずい』って言うんですよ。どうにもできないんです」
「分かってる。でも、お母さんも人間だから、少しは話を聞く耳を持つかもしれない。旅先に来るってことは、少なくとも一歩踏み出したってことだから」
「……そうですね。じゃあ、私はおとなしく従うしかないかな」
「そうしてくれると助かるわ。ありがとう、ひなちゃん」
数週間後、旅行当日。朝の6時、ひなが用意をして玄関で待っていると、二階から物音がして、けい子が降りてきた。だが、手に旅行カバンはない。代わりに、口をへの字に曲げた真っ赤な顔があるだけだ。完全に怒りを爆発させる直前の、あの顔だ。
「お母さん、おはようございます。そろそろ出発ですよ」
「……行かない」
「え?」
「だから、行かないって言ったの。そんな場所、行けるわけがない」
「どうしてですか? せっかく裕介もお兄さんもみんなで予約したんですよ」
「あんたに言われたくないわよ。この旅行、あんたが全部仕切り始めたんでしょ?」
「私が? そんなこと……」
「嘘をつくな! ひかりから聞いたわよ。ホテルは高くて、私はなんかボロい旅館に一人で追いやるとか言ってるんでしょ! アンタ、私を仲間外れにする気でしょ? 私だけが居場所がないように仕向けて!」
「何を言ってるんですか、それ。確かに、お母さんは温泉旅館で、私たちはリゾートホテルに泊まることはあります。でも、それは……お母さんが『温泉旅館じゃなきゃいやだ』って言ったから」
「嘘よ! あんたが私の部屋を取らなかっただけじゃない!」
「違います! 私、ちゃんと予約の確認を―― 」
「あんたは私がバカにされてるって思ってるんでしょ! 長男の嫁だからって、自分がお姉さんより上に立ってるつもりでいるんでしょ! もういい、あんたは一人で行きなさい!」
どん、と壁を叩きながら、けい子は叫んだ。ひなは唇を噛んだ。涙がこぼれそうになるのをこらえて、声を絞り出す。
「……分かりました。じゃあ、お母さんはここに残ってください。私たち夫婦だけで行きますから」
「何よ、その言い草! 私を置いていく気!? 」
「お母さんが行かないって言ったんですよ」
「あんたが言わせてるんだろうが! この出来損ないの嫁め! ああ言やこう言や、まったく……旅行は全部あんたのせいで台無しよ!」
バタンと大きな音を立てて、けい子が二階へと戻っていく。ひなは玄関のたたきに座り込み、膝を抱えた。涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
そこへ、車を回してくれていたはずの裕介が玄関を開けて顔を出した。
「どうした? お母さんは?」
「…… 出発できないよ。お母さん、行かないって」
「はあ? なんでだよ」
「なんでって……行かないんだって。自分が仲間外れにされたって、怒ってるの」
「何でまたそんなことに……」
「分からない。私が何か言ったのかもしれないけど、もう何を言っても耳を貸してくれない」
裕介は大きなため息をついて、携帯を取り出した。
「ちょっと待ってろ。兄貴に連絡して、少し遅れるって伝えるわ。……って、あれ?」
「どうしたの?」
「ひな子姉さんから、さっき着信だ。出てくれる?」
ひなが電話に出ると、受話器の向こうから、息を切らした義理の姉の声が聞こえてきた。
「ひなちゃん! ごめん、今どこにいる!? お母さん、大丈夫!?」
「お姉さん? 何が大丈夫なの? 私、今玄関にいるけど……お母さんは二階にいます。出てきてくれないんです」
「まさか……やっぱりあの言葉が本気だったの?」
「何の話ですか?」
「ちょっと、そのまま動かないで! 今すぐそっちに行くから、何があってもお母さんを二階から下ろさないで!」
30分も経たないうちに、ひな子はタクシーで駆けつけてきた。そして、二階を指さして、声を潜めた。
「ひなちゃん、今のうちにおばあちゃんの部屋に行って、俺の話を聞いてほしい。というか、お母さんに言ってほしいの」
「何をですか?」
「あの旅行の話、全部白紙にしなさい」
「え?」
「お母さん、さっき電話で『あんな女と一緒の旅行には行かない』って、私に何度も怒鳴ってきたのよ。だけど、もっとやばいことが分かったの」
「どういうことですか?」
「あのね、お母さん、旅行の日程を間違えてたのよ。一日早く家を出るって思い込んでて、しかも、その日に自分の部屋の電気ポットを会社に置いてきちゃったって言うの。だから、話を聞いてる間に、『それ、全部おかしいよ』って教えたの。そしたら、お母さん、急に黙り込んじゃって」
「それって……」
「うん。多分だけど、お母さん、もともと行きたくなかったんだと思う。自分が参加する気がないのに、みんなと話がしたいだけ。それで、変な言いがかりをつけて、自分が正しいことにしたがってるんだよ」
「じゃあ、どうしたらいいんですか? そんなお母さんを説得する方法なんて、私には」
「簡単よ。旅行を全部やめるって言えばいいの。そしたら、お母さんも『やっぱりやめておけばよかった』って言うかもしれないし、逆に『やっぱり行く!』って言うかもしれない。どっちにしても、お母さんが自分で決めたって気になるから、こっちから動かないの」
「でも、それじゃあ、せっかくの家族旅行が……」
「今はそれを言ってる時じゃないの。ほら、とにかく私が言う通りに、お母さんに『今日の旅行はキャンセルします』って伝えて。それで、理由を聞かれたら、『お母さんが行きたがってないみたいだから』って言いなさい」
ひなは少し迷ったが、頷いた。そして、二階のけい子の部屋の前まで行き、ノックをした。
「お母さん、話があります」
「何よ。あんたから聞くことはないわよ!」
「いえ、聞いてください。今日の旅行は、全部キャンセルにします」
シン、と静寂が部屋を包んだ。しばらくして、がちゃりと鍵の回る音がして、けい子が半分だけ顔を出した。
「……何って言った?」
「キャンセルします。お母さんが行きたがってないみたいですから、もういいです。うちの家族だけで行くのはやめました」
「……………………。」
「だから、準備しなくて大丈夫です。それだけです」
ひなが背を向けて階段を降りようとすると、後ろから「ちょっと待ちなさいよ」と鋭い声がかかった。
「何なのよ、それ。急にどうしたって言うの」
「どうしたもなにも、お母さんが行きたくないって言ったんじゃないですか」
「それは、あの、その……」
「私が怒らせたんだと思ってるでしょう? 違いますよ。もういいんです。お母さんの顔色をうかがってばかりいるのにも疲れました。だから今日で最後です。旅行の計画も、ホテルの予約も、全部キャンセルします。二度と私から誘いませんから」
「ちょっと、待ちなさい! あんた、それはどういう意味!?

もしかして、またひな子に何か言われたの? あの子、私の悪口ばっかり言ってるんでしょ! あの女、前から私のことを……」
「お母さん!」
その瞬間、ひなは初めて、はっきりとした言葉で言い返した。
「お姉さんは、お母さんのことをずっと心配してるんです! あなたが前みたいに元気になるまで待ってるって、そう言ってました! なのに、なんでそうやって、自分から全部を壊そうとするんですか!」
けい子は、口をぽかんと開けたまま、何も言えなくなった。数秒の沈黙の後、ひな子が階段の下から静かに声をかけた。
「お母さん、聞こえた? ひなちゃんが『もういい』って言ったら、本当に行かなくなるよ? 私は構わないけど、もう二度と、みんなで旅行に行くことなんてできなくなるよ」
「そんなこと……」
「できるよ。だって、お母さん、さっき『お姉ちゃんは俺に何も言ってこない』って言ったけど、実際に声を上げてくれてるのはひなちゃんだけだもん。あなたのために、本気で怒ってくれる人は、もうひなちゃんしかいないの」
けい子は、よろりと壁に手をついて、その場にしゃがみ込んだ。唇を震わせ、しばらくすると、ぽつりとつぶやいた。
「……ち、違うのよ。違うんだよ、ひなちゃん。私は、私なんて、一緒に旅行に行ったって、みんなに迷惑をかけるだけだと思ったんだ。足が悪いから、ゆっくりしか歩けないし。みんなみたいに、温泉にも長く入れないし。私なんて、私なんて……」
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「もう年だからね。若い子たちの楽しみを、邪魔しちゃいけないと思ったんだよ。そしたら、なんか、どんどん悲しくなっちゃって。余計なことばかり考えて……それで、あなたに当たってばかりで……ごめんね、ひなちゃん。お母さんが悪かった……ごめんね……」
ひなは、しゃがみ込んだまま泣きじゃくるけい子を見て、ゆっくりと近づき、そっと肩に手を置いた。
「……行きましょう、お母さん」
「え?」
「今日の旅行です。誰が何と言っても、私は行きますよ。お母さんが一緒じゃなくても構わないって思うなら、私はそれでもいい。でも、もしお母さんが『行きたい』と思うなら、ゆっくりでいいし、無理もしなくていいから、一緒に行きましょう」
「ひなちゃん……」
「だって、お母さん、あの温泉旅館、露天風呂がすごくきれいで、絶対お母さんに気に入ってもらえると思うんです。ね? 行きましょう?」
けい子は、涙でくしゃくしゃになりながらも、こくりと頷いた。
旅行から帰ってきた後、ひな子はけたけ散に連絡を寄越してきた。
「ねえ、どうだった? お母さん、大丈夫だった?」
「ええ、本当にすごかったですよ。お母さん、露天風呂に入って、初めて『気持ちいい』って笑ったんです。それから、ずっと旅館の料理を褒めてくれて……信じられます?」
「はは、そりゃよかった。ていうか、あれ? お母さん、もう『ダメ嫁』って言わなくなったんじゃない?」
「ええ、旅行中から何も言いませんね。むしろ、すごく優しいです。何だか心配になるくらい」
「それはよかった。やっぱり、お母さんも本当は寂しかったんだよ。誰かにそばにいてほしかったの。ひなちゃんが気づいてくれて、本当によかった」
「いえ、お姉さんがちゃんと教えてくれたからですよ。ありがとうございます。私、まだまだこれからです。少しずつ、お母さんと向き合います」
「うん。焦らなくていいよ。ゆっくりやればさ」
電話を切った後、リビングからは、けい子が小さな声で歌を歌っているのが聞こえた。昔、よく口ずさんでいた、なつかしい鼻歌だった。ひなは、そっと目を閉じて、その歌を最後まで聞いていた。旅先での何気ない会話、沈黙、一杯の湯気の向こうで、二人の間にくすぶっていたわだかまりは、少しずつ消えていく予感がしていた。完全に氷が溶けたわけじゃない。でも、背伸びをしなくてもいい場所を見つけた瞬間が、確かにそこにあった。