あの、ちょっと待って。28年前に私から夫を奪った張本人が、いきなり目の前に現れた。久しぶりね、なんて軽く言うから、一瞬、頭が真っ白になった。あの日、私はリビングで一人、涙をこらえながら娘を抱いていた。なのに今、あの女は「風の噂で聞いたんだけど、あんた、バリバリ働いて調子に乗ってるんだって?うちの息子の方がよっぽど優秀だって言いに来たのよ」と笑った。「は?何でそうなるのよ」と私が言い返すと、彼…

あの、ちょっと待って。28年前に私から夫を奪った張本人が、いきなり目の前に現れた。久しぶりね、なんて軽く言うから、一瞬、頭が真っ白になった。あの日、私はリビングで一人、涙をこらえながら娘を抱いていた。なのに今、あの女は「風の噂で聞いたんだけど、あんた、バリバリ働いて調子に乗ってるんだって?うちの息子の方がよっぽど優秀だって言いに来たのよ」と笑った。「は?何でそうなるのよ」と私が言い返すと、彼...

あの、ちょっと待って。28年前に私から夫を奪った張本人が、よくもまあずいぶんと久しぶりね。元気にしてた? 私、あなたに用があって来たんだけど。

何よ、いきなり。こっちからの連絡を全部無視してたくせに、どの面下げて接触してきたわけ? あんたが私にしたこと、忘れたの?

あー、やめてよ。何十年前の話を引きずってるんだよ。さすがに根に持ちすぎでしょ。私はね、無駄話をしに来たわけじゃないんだ。

はあ? じゃあ何の用? まさか、今さら謝罪ってわけ?

そんなわけないだろ。風の噂でさ、あんたがバリバリ働いて調子に乗ってるって聞いたんだよ。うちの息子の方がよっぽど優秀だって、ちゃんと言っておきたかっただけ。目を覚まさせてやるんだから、感謝しなよ。

……何がしたいのか、さっぱり理解できないんだけど。私が働いて何が悪いの? 調子になんて乗ってないし、誰にも迷惑なんてかけてないわよ。ほんと、大きなお世話よ。

いいや、人様の忠告は聞いておくもんだよ。それに、うちの息子は今日からメガバンクに勤務なんだ。勝ち組でごめんね? お姉さんよりきっと出世するだろうから、でかい態度は取れないね。

あ、そう。それはおめでとう。……うちの息子もよ。

は? 何言ってるの? あんたの息子は、確か就職先が決まらないって嘆いてなかった?

だから、それが決まったのよ。ララインバンクに。

……は? ララインバンクって、あの大手の?

そうよ。お姉さんも知ってるでしょ? メガバンクの。

え、まじで? ちょっと待って、それって、もしかして……関係者なわけ?

まあね。少しはね。

え、うそ、まじで? じゃあさ、頼めるだろ? うちの息子の出世を手伝ってくれよ。親戚なんだし、便利を図ってくれてもいいだろ? 関係者なら、それくらいできるだろ。

はあ? 何でそうなるのよ。そんな不正、できるわけないでしょ。できたとしてもお断りよ。

何でだよ、冷たいな。いいじゃんか、ちょっとしたコネくらい。ほら、昔の夫婦なんだし、少しは協力しろって。

は? ふざけんなって言ってるのよ。その夫婦関係を終わらせたのは、あんたの方でしょ。28年前にいきなり離婚を言い出して、『リナの方が好きだから』って浮気してたクセに、今さら何様のつもり?

まだそんな昔の話を引っ張るのかよ。いい加減許せよ。

ふざけんじゃないわよ。私を怒らせたわね。どれだけ人をコケにしたら気が済むの? もう二度と連絡してこないで。

その日の夕方。

ねえ、お母さん。さっきシンタ君のお母さんから連絡があったんだけどさ。息子君、本社に呼ばれたんだって? すごいじゃん。

は? 何言ってるの?

だから、本社に呼ばれたんでしょ? 明日、行くんだって言ってたよ。

……ああ、そう。それで?

お母さん、何か知らないの? 連絡先を交換したから、何かあったら教えてくれるって言われたんだけど。

ああ、そういうことね。……ちょっと待ちなさい。

翌日。

ねえ、お姉ちゃん、さっきシンタから連絡があったんだけどさ。本社に呼ばれたって言うのよ。まさか、あんたが何かしたんじゃないでしょうね?

ええ、したわよ。あんたの息子さんが『内定者なのに今日から勤務する』って言い出したから、間違いがないように、私が本社に連絡しておいたのよ。

は? 何言ってるの? あんた、いったい何を——

まあ、おかげで、あんたの息子さんも正式に採用されることになるわよ。『遠取り』の私が、ちゃんと口をきいてあげたんだから。

……は? 遠取り? あんたが?

そうよ。驚いた? もう一度言うわよ。私が、その遠取りよ。

冗談はよしてよ。いくら何でも、そんなわけないでしょ。遠取りなんて、簡単になれるもんじゃないんだから。

そうね。大抵は、一族や親族が継ぐものよね。

だったら、なおさらよ! あんたみたいな、ただのバリバリ働くおばさんが、なれるわけ——

あら、言ってなかった? 私、離婚して生きる希望を失ってた時、遠い親戚が銀行をやってたのよ。その人が体調を崩した時に、私が一時的に経営を任されたのよ。結果を出したから、後を継がせてもらえることになったの。『実力』ってやつよ。

……そんなの、嘘よ。だって、あんた、低学歴で——

まあ、そう思いたいなら、思ってなさいな。でも、事実は事実よ。

数時間後。

あ、もしもし。お姉ちゃん? さっきはどうも。ちょっとお願いがあってさ。うちのシンタのことなんだけど、やっぱり本社に行く前に、もう一度、仕事のことを色々と聞きたいみたいでさ。よかったら、直接会って話を聞いてもらえないかな?

あら、しつこいわね。さっき、あれだけ話したでしょ。もう用は済んだんじゃないの?

いや、それがさ、息子が『やっぱり不安だ』って言っててさ。お前が何か知ってるんじゃないかって。ほら、昔の夫婦だし、情もあるだろ?

私、あんたと『昔の夫婦』だったこと自体が、今はもう過ぎたことだと思ってるわ。それに、こうしてる間にも、あんたの息子さんはきちんと手続きを進めてるんだから、余計な口出しは無用よ。

冷たいなあ。じゃあ、せめて、うちのシンタの出世について、何かアドバイスでも——

いいえ、結構よ。私はあんた達に関わる気は、最初からないの。

そう言わずに。ねえ、昔のことなら、謝るからさ。

何を今さら。あんたが私から夫を奪ったあの日から、あんた達と私は赤の他人よ。もう二度と連絡してこないで。

本当に、心が狭いんだから。

心が狭いのは、どっちよ。28年間、一度も謝罪の一つもなかったくせに、都合が悪くなったら『昔の夫婦』? 笑わせないで。

……まあいいや。とにかく、シンタのことはよろしく頼むよ。

あんたに頼まれる筋合いはないって、言ってるでしょ。

その後の電話。

ねえ、お母さん、さっき、シンタ君のお母さんから電話があったんだけど、『ありがとうございました』って言ってたよ。本社の偉いさんに、ちゃんと取り次いでもらえたんだって。

ああ、そう。それはよかったわね。

うん。それでさ、シンタ君が『おばさんにもお礼が言いたい』って言ってたんだけど、今度、一緒に食事でもって言われたんだけど……。

……お断りしておきなさい。

え、なんで?

だって、あの親子は、そういう人なのよ。近づかないのが一番なの。

そ、そうなの? 何か、悪いことでもしたの?

さあね。もう、昔のことよ。……それより、今日の晩ごはん、何がいい? 私は、ちょっと贅沢に、ステーキなんてどうかしら。

え、本当? 何で?

だって、今日は、私が仕事で結果を出した日だからね。……まあ、そんなところよ。

お母さん、なんか、すごく楽しそうだね。

そうかしら。……さあ、どうかしらね。

お母さん、ちょっと、待ってよ。なんで、笑ってるの?

笑ってなんかないわよ。

……まあ、いいけど。

うん。

しばらくして、玄関のチャイムが鳴った。出てみると、そこには、見覚えのある、いや、まさか、と目を疑うような人物が立っていた。

「……久しぶりね。元気?」

そこに立っていたのは、28年前に私の夫を奪った、あの女、リナだった。しかも、一人じゃない。後ろには、私の元夫も、そして、若い男の姿もある。

「……何の用?」

「あら、冷たいわね。ちょっと、話があって来たんだけど。……上がらせてもらえる?」

「あんた達と、話すことは何もないわ」

「あら、そう? じゃあ、せめて、この人だけでも中に入れてくれないかしら? 本当は、私たちだけで話したいんだけど、どうしてもって言うから」

そう言って、リナは後ろにいる元夫を一瞥した。元夫は、気まずそうに視線を落とす。

「……リナ、俺から話すよ」

「あら、いいわよ。でも、手短にね」

元夫が一歩前に出る。そして、言った。

「……悪かった。昔のこと、全部。俺が悪かった。お前にひどいことをした」

その言葉を聞いて、私は思わず笑ってしまった。

「今さら、何を言ってるのよ。気が違ったんじゃないの?」

「違うんだ。ただ、リナと子供が、お前とちゃんと話したいって言ってて」

「話したい? 私と? 何の話?」

リナが口を挟む。

「こういうことよ。あなた、うちの息子の就職の件、色々と世話になったんでしょ? 聞いたわよ。ララインバンクの『遠取り』までしてるんですって? すごいじゃない。これからは、うちの息子がお世話になる立場なんだから、そういうことよ」

「……何が言いたいの?」

「単刀直入に言うわ。これからは、私たちの息子を、あなたのコネで支援してほしいの。昔のことは、全部水に流してさ」

私は、目の前の光景が信じられなかった。28年間、私を傷つけ続けてきた張本人が、今度は息子の出世のために、私のコネを利用しようとしている。あまりにも、図々しい。頭の血管が切れるとは、まさにこのことだった。

「……あんた達、本気で言ってるの?」

「本気も本気よ。あなた、こっちがどれだけ恥を捨てて頼んでると思ってるの? シンタだって、あなたの血を引いてるんだから、当然でしょ?」

「私の血? ふざけるな!」

私は、声を荒げていた。

「あんたの息子は、私の血なんて、一滴も通ってないわよ! あんたが、あの時、私の夫を奪って産んだ子でしょ!」

「奪った? 失礼な言い方ね。愛があって、私たちは一緒になったのよ。あんたみたいな、仕事ばかりの女に、最初から男の心が離れてたって言うのよ」

「あんた……!」

「おい、二人とも、やめろよ。子供の前で、そんなみっともない話は」

元夫が間に入る。リナは、ふんと顔を背けた。

「……とにかく、私はこの話をしに来たの。あんたに、決して迷惑はかけない。ちゃんと、筋を通すから。ね?」

リナは、息子の背中を押した。若い男は、気まずそうに、しかし、はっきりと私の目を見た。

「……お願いします。母が、世話になったって聞いて」

私は、目の前の親子を見て、深く息を吐いた。28年前のあの日、私の人生から消え去った人たち。もう、二度と会うことはないと思っていた。

「……上がりなさい。長い話になるから」

私は、玄関の鍵を開けた。

居間で、お茶を出すと、リナはやはり、という顔をして、部屋を見渡した。

「ふうん。思ったより、狭いところに住んでるのね。まあ、あんたの実力なら、そんなものか」

「本題をどうぞ。何の用?」

「単刀直入に言うわ。うちのシンタに、今度、ララインバンクでプロジェクトが始まるらしいのよ。そこの責任者にしてほしいの。あなたが推薦してくれれば、すぐに決まるんでしょ?」

私は、持っていたカップを、ゆっくりとテーブルに置いた。

「……よく、言えるわね。あなたの息子に、その資格があるの?」

「あるから、聞いてるんでしょ。うちの息子は、優秀よ。あんたみたいに、親のすねをかじってた落ちこぼれとは、出来が違うわ」

私は、笑った。

「親のすねをかじってた? あんたの息子は、今、誰の世話になってると思ってるの?」

「あんたのよ。だから、頼んでるんでしょ」

「違うわ。あんたの息子は、私のコネで採用されたのよ。つまり、私の足元にも及ばないってこと。それなのに、その私に、そんな口のききようをされると思ってるの?」

「……何よ、やっぱり、根に持ってるのね。あれから、何十年も経ってるのに」

「根に持つも何も、あんたは、私に謝罪の一つもしてないでしょ。28年間、ずっと無視し続けておいて、今さら『助けて』? ふざけるのも、大概にしなさい」

リナは、唇を噛んだ。元夫が、助けを求めるように、息子を見る。若い男は、何かを決意したように、口を開いた。

「……おばさん。すみませんでした。母が、無礼を言いました」

「シンタ!」

「黙っててください、母さん。……おばさんの言う通りです。僕は、おばさんのコネで、今の立場があります。それなのに、図々しいのは、僕の方でした。すみません」

若い男が、頭を下げる。その姿に、私は少しだけ、気分が和らいだ。

「……頭を上げなさい。あんたは、あんたの親とは、違うみたいね」

「ありがとうございます」

「でも、推薦はできないわ。それは、あんたが一番分かってるでしょ?」

「はい。……すみません、無理を言いました」

「いえ。……二人とも、帰ってちょうだい。今日は、もう疲れたの」

私は、立ち上がった。リナも、渋々ながら、立ち上がる。

「……本当に、心が狭い人ね」

「心が狭くて結構。私は、あんたのことを、これっぽっちも許すつもりはないから」

「まあ、いいわ。自分で何とかするから。……さあ、あなた達、行くわよ」

リナは、息子を連れて、足早に去っていった。元夫だけが、立ち止まり、何か言いたげに、私を見ていた。

「……何?」

「……すまなかった。俺が、全部、悪かったんだ。リナは、ああ言うけど、本当は、お前に会いたかったんだと思う。辛かったんだ、謝れないまま、ここまできて」

「……だから、それがどうしたのよ」

「……いや。何でもない。……元気で」

そう言って、元夫は、静かにドアを閉めた。私は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。

……何が、『元気で』、だ。

28年間の空白を、たった一言で埋められると思っているのだろうか。あの日々の苦しみも、悲しみも、何もかも、なかったことにできると思っているのだろうか。

私は、深く息を吐き、リビングに戻った。すると、娘が、心配そうな顔で、立っていた。

「……お母さん。大丈夫?」

「何が?」

「だって、泣いてる」

言われて、私は、自分の頬に手をやった。確かに、濡れていた。

「……違うわよ。何か、目に入っただけ」

「そっか。……今日の晩ごはん、ステーキでしょ? 私、お手伝いするよ」

「……ありがとう」

私は、娘の頭を撫でた。

そして、窓の外を見た。もう、あの日の私は、どこにもいない。

「……さあ、料理、しょ。お腹、空いちゃったわね」

「うん!」

夕暮れのオレンジ色の光が、リビングに差し込んでいた。私の人生は、あの日の続きなんかじゃない。私は、私の人生を、ちゃんと歩いてきた。

これから先、あの親子に、何を言われようと、揺るぎはしない。私は、もう、負け犬なんかじゃないのだから。

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