「それじゃあかずや、明日の昼休憩にでも出してくるわね。離婚届け」
「好きにしろ」
「好きにしろって。急に離婚を突きつけてきたのはそっちなんですけど」
「お前も納得した上での離婚だろう。財産分与の話もあったし、慰謝料はなし。今さらガタガタ言うな」
「まあそうだけど、正直離婚まで発展したのは意外だったのよね」
「何が意外だ。俺はお前との生活には飽き飽きしてたんだよ。お前は仕事ばっかりの仕事人間だし、休みが一緒でもつまらないし、愛もないし。正直ここまで続いたのが奇跡だと思ってる」
「確かに私は愛もないしつまらない女よ。けど、私がそういう女だってことは分かってたでしょ?」
「ここまでだとは思ってなかったんだよ」
「それで言うなら、私だってここまでだとは思ってなかったわ」
「はあ? 何がだ?」
「急な飲み会で帰ってこないわ、家事も一切やらないわ、お母さんが子供子供ってうるさいわ。あなたの言い分と何か違うところある?」
「それは……」
「ああ、やっぱりダメね。これから離婚しようって時に、夫婦で言い争ってたら埒が明かないわ」
確かに私とあなたは部署は違っても同じ会社の同僚。円満とはいかなくても、悪い形で離婚はしたくない。それはお互いに共通してるわよね。
「分かってる。変に突っかかるようなことを言って悪かった」
「私も意地悪な言い方だったわ。ごめん」
「これでお互い様ってことで終わりにしよう」
「分かった。水に流すのはやめる。ていうか、LINEはこのままでいいんだよな? 一応同じ職場の同僚でしょう」
「私たちが直接連絡を取り合うことはもうないと思うけど、念のため連絡先は残しておいた方がいいわね」
「了解」
「にしても、あれね」
「あれって?」
「悪いことは重なるって言うじゃない。今度うちの後輩も退職するって言うし、人が離れるタイミングも重なるものなのね」
「後輩? もしかして前に企画書が被ったとか言ってた?」
「そうそう。私と似たような企画書を出しててね。被ったのは偶然だろうけど、これからって時に退職するのはもったいないわ」
「何か事情があるんだろう」
「最近体調を崩しがちだったから、病気かもしれないって。仕事中も体調が悪くて席を外すことが多かったのよ。確か年配の女性の方が何か気づいてたみたいだったけど」
「おい、やめろよ、そういうの」
「何? 急に何か気に触るようなこと言った?」
「変な噂を流すような真似をするなと言ってるんだ。俺たちの離婚だって、変な噂を流されたら嫌だろう」
「それはそうだけど、過剰に反応しすぎじゃない?」
「いいから、そういうのはやめろ」
「分かったわ。確かに噂なんて所詮は噂だしね」
「そういうことだ。マジで気をつけろよ」
「せっかく円満に離婚したんだから、大丈夫よ。それじゃあさようなら、かずや」
一月後。
「ちょっとかずや、あの件やめてくれる?」
「何がだ?」
「今日の昼休憩中に、うちの部署に乗り込んできたでしょ?」
「お前がさっさと電話に出ないのが悪いんだろう」
「そうじゃなくて。あのせいで噂になってるんだけど」
「どんな噂だ?」
「離婚のことでかずやが納得してないとか、大げさな話になってるの。もっと穏便に済ませたいって話があったよね?」
「ならさっさと電話に出ればよかったんだろう」
「ああ、だからそういうことじゃないって。というか、あんなに慌てて来て、結局何の用だったの?」
「そうだよ。そのことだ」
「どんなことよ?」
「お前、慰謝料を払え。二百万だ」
「はあ? なんで? 慰謝料はなしって話だったよね」
「気が変わった」
「はあ? 寝言は寝てから言ってくれる? そもそも請求される理由がないでしょ。私、何もしてないよね?」
「自分で言ってたじゃないか。クソつまんない女だから離婚されても仕方ないって」
「そこまで自分を卑下したつもりはないけど、似たようなことは言ったわね。でもあの時は『こちらにも非はあるけど、そちらにもあるよね』って言ったはずよ」
「俺は認めてない」
「子供の喧嘩じゃないんだから、そんな理由で請求できるわけないでしょ」
「お前、確か今の仕事は学生の頃からの夢だって言ってたよな」
「急に何?」
「この会社に入るために随分と努力したんだろう」
「だからそれが何? 今はそのこととは関係ないでしょ」
「退職はしたくないよな?」
「そりゃそうでしょう」
「じゃあ慰謝料を払え」
「意味が分からないんだけど。あなたが原因で離婚したんでしょ?」
「そうだなあ。例えば、お前が不倫してたとか。それとも家事もせずに文句ばっかりだったとか」
「さっきから何の話?」
「そういう噂を流すこともできるって言ってるんだ」
「はあ? ふざけるのも大概にしてよ」
「それが嫌なら慰謝料を払え。今すぐだ」
「そんなことで払うわけないでしょ。というか、何をそんなに焦ってるの?」
「焦ってる? 何のことだ?」
「だってそうでしょ? 慰謝料二百万? そんな自分の立場も悪くするような噂を流してまで、どう考えても割に合わないでしょう。確かに今すぐ二百万もらえるなら私だって欲しいけど、そのために今の職場での立場を悪くする? あなたは別に業績も悪くないはず。二百万のためにキャリアを捨てる気?」
「こっちだって切羽詰まってるんだよ」
「切羽詰まってる? 何か急にお金が必要になったってこと?」
「お前には関係ないことだ」
「ねえ、かずや。確かにあなたは嫌なところはあるけど、そこまで考えなしの人じゃないでしょ」
「お前には関係ないと言ってるだろう。とにかくさっさと二百万払え」
「理由も分からない金は払えません」
「じゃあ、噂を流すだけだ」
「勝手にどうぞ。そんな噂程度で立場をなくすほど、私の人望は薄くないから」
翌日。
「あやかさん、あんた慰謝料を払うんでしょ?」
「おや、お母さん」
「正確には元姑よ。面倒だからお母さんって呼んでいいわよ」
「あんたに母って呼ばれる筋合いはないけどね」
「お母さん以外だと、態度だけは大きいクソババア、とかになりますけど」
「はあ?」
「嫌そうなので、お母さんでいきますね。それで、何の用ですか? 頭でも打ちましたか?」
「売ってないわよ。本当に可愛くない女ね」
「お母さんに見せる可愛げは売り切れましたから」
「いいから、私にも慰謝料を払いなさい」
「なぜですか?」
「あんたが私を傷つけた罰よ。そうね、月に百万円上乗せで勘弁してあげる」
「あの、なんとなくで喋るのはやめてください」
「なんとなくって何よ」
「月に百万ってことは、継続的に払えってことですよね? そんな慰謝料の形態はほとんど聞いたことがありません。しかも百万って、きりのいい数字だから百万にしたんですか? バカ丸出しですね」
「なんですって?」
「そもそも傷つけたって、具体的にお願いします」
「あんたが嫁の頃から、私を見る目が気に食わなかったの」
「見る目ですか?」
「そうよ。私を馬鹿にしたような目で見て。しかも何かあるとすぐに正論。繊細な私の心がどれだけ傷ついたか」
「繊細って、お母さんとは対局の言葉ですよ」
「はい?」
「あと、お母さんが訳の分からないことばかり言うからです。何でしたっけ? 『子供を産めない女に用はないから離婚して消えろ』」
「言ったわよ。事実だもの」
「それを聞いてかずやがため息をついてましたけど」
「それが何?」
「呆れてたんですよ。私たちは別に、子供欲しさに結婚したわけじゃなかったんで」
「そんなの関係ないわ。嫁は子供を産むための機械みたいなものよ。なのに子供が産めない女はクズ。間違ってないわ」
「なら、私が言った正論とやらも間違ってないのでは? お母さんが傷ついたって言ったら傷ついたの?」
「黙って慰謝料を払いなさい。支払い期限は来週までよ」
「来週? 来週に何かあるんですか?」
「え? 一体何のことかしら?」
「お母さん、本当に何よ?」
「何でもありません。そういえば、ずっと気になってたことがあるんです」
「何?」
「私とかずやが離婚する三ヶ月くらい前でしたか? 私のUSBが紛失しましたよね」
「ああ、確か私が泊まりに行った時のことだったでしょ」
「そうです。あの後数日して、お母さんが見つけてくれました」
「いいことじゃない。もう終わった話でしょ」
「なんでお母さんがUSBを見つけられたんですか?」
「はい? どういうこと?」
「あれは私が仕事を家に持ち帰った際に使うUSBです。企画書を書いていて、そのデータが入ってました」
「そうだったの? 知らなかったわ」
「そのUSBがうちで見つかるなら分かりますけど、どうして帰った後のお母さんが見つけることができたんですか?」
「それは、その……あれよ。私の荷物に紛れ込んでたのよ」
「ええ、初めて聞きました」
「今言ったでしょ。もういいでしょ。よりも慰謝料よ。慰謝料」
「払いません」
「は?」
「明確な理由を提示してくださるまで、払う気はないと言ってるんです」
「あんたの言葉で私が傷ついたのよ。精神的な苦痛を受けました」
「私はお母さんの言動で、それ以上に苦痛を感じましたけどね」
「弁護士に相談したら、慰謝料が取れるって言ってたの」
「だったら、その弁護士が適当なことを言ってるだけですね。他の弁護士に相談することをお勧めします」
「私の知り合いを馬鹿にするの?」
「知り合いなら、お母さんに気を使ったんですね」
「なんでそうなるのよ?」
「現状、特に証拠もないんですよね。それでもらえるほど、慰謝料は簡単じゃありません。お金が欲しいなら、他を当たってください」
数日後。
「なんで慰謝料を払わないの? 早くしてくれないと困るわよ」
「困るのはこっちのセリフです。私、今は勤務中なんですけど」
「そっちの都合なんて知らないわよ。それよりも早く入金しなさい」
「もう銀行も終わってますよ。この間も思いましたけど、かずやもお母さんも、何をそんなに焦ってるんですか?」
「あんたには関係ないでしょ」
「そうですね。関係ありません。関係ないので、慰謝料うんぬんも払う必要ありませんよね」
「それはそれはこれよ。何でもいいから急いでちょうだい」
「そっちの都合なんて知りませんけど」
「もう減らず口ばかり。ならこうしましょう」
「どうしましょう?」
「かずやは慰謝料二百万って言ったのよね。お母さんは月に百万の上乗せって言ってましたね」
「そのうち百万だけでいいわ。先に百万だけ払ってちょうだい」
「これは百万で手を打つって意味ですか?」
「じゃなくて、百万だけ先払いしろってこと。その代わり、残りは少しだけ待ってあげる」
「却下です」
「なら五十」
「これ以上は無理ですよ。ここはデパートですか?」
「ここまで譲歩してるのに、なんでダメなのよ」
「なんで? それはこっちのセリフですが。私はあなたのせいで傷つきました。繊細な私が心に傷を負ったのよ。慰謝料を払うべきでしょ」
「証拠もなしに、本気で慰謝料が取れると思ってたんですか? 慰謝料というのはお小遣いじゃないんですよ。駄々をこねればもらえるってもんじゃありません」
「なんですって?」
「というか、そんなに繊細なら、『要介護』の札くらい首から下げておいてください」
「冗談じゃないわ」
「というかですね。慰謝料を払うのは、あなたたちの方ですよ」
翌日。
「昨日の話は母さんから聞いた。その上で言うが、もうこっちも手段は選んでられない」
「手段を選んでられない? 最初から選んでないように見えるけど」
「噂を流すというのは、今まではただの脅しだった。だが、この状況で慰謝料が払われないなら、その手段とやらをもう選べないわよ」
「は? どういうことだ?」
「あなたが不倫して、しかも相手を妊娠させていたから」
「何を言ってるんだ? そんなこと俺はしてない」
「最初の違和感は、あなたと離婚についてLINEした時よ」
「本当に何を言ってるんだ?」
「あの時のLINEのどこに違和感があった? 私は後輩が退職するとしか言ってないのに、私の企画書と被った後輩のリンコが退職する、ってなんで分かったの?」
「それは、なんとなく言っただけだ」
「あれだけならそうなんでしょうね。実際、我が家でもよく名前を出してた後輩だし」
「だったら」
「次の違和感は、リンコが体調不良じゃないか、って言った時のあなたの過剰な反応。人の体調の噂なんて軽々しくしない方がいいのは分かる。でも、あなたが過剰に反応したのは、私が『何か気づいてる様子の同僚がいた』と言った後だったわよね」
「それが何だ?」
「つまり、何か不都合なことがあったということじゃない?」
「バカバカしい。そんなことで俺が不倫してるだの言ってるのか?」
「違和感はまだあるわ。次は、急な慰謝料の請求。あなたは請求できると思ってない。勢いで行けると思ってる。お母さんとは違ってね」
「なんでそう思うんだ?」
「無茶な手段で請求しても払われない。そう思ってるから、柄にもなく脅してきたんでしょ。前にも指摘したけど、あなたはバカじゃない。こんな無茶な方法で慰謝料を請求して、会社で噂が立てばどうなるか理解してる。二百万と今後の職場での立場、どう考えても釣り合わない。それでもやったのは、直近でまとまったお金が必要だから」
「違う……」
「名探偵気取りか? 言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「あなたは私と離婚して、リンコと再婚する気だった。大方、妊娠したことでお母さんが乗り気になったんでしょ? けど、それができなくなった」
「なんでそう思う?」
「再婚できるなら、別に私に慰謝料を請求する必要はない。リンコが退職したのは、再婚のためよね。不倫して妊娠したのがバレれば面倒だから」
「やっぱり隠し通せるわけないよな」
「認めるのね」
「お前のことだ。もうすでにある程度の裏は取ってあるんだろう。体調不良の原因に気づいてた同僚から話は聞いた。リンコから相談されてたそうだ。妊娠した時の体調不良の隠し方を」
「お前には悪かったと思ってるけど、こっちにも事情があったんだ」
「不倫するのに事情もクソもないでしょ。まあ、他にも気になる点はまだあるけど、それはあなたに聞くことじゃないわね」
「母さんか」
「理解が早くて助かるわ。じゃあ、これからどうされるかも分かるわよね?」
「慰謝料を請求するって話だろう。いくらだ?」
「三百万」
「三百万? 不倫の相場よりだいぶ高いだろう」
「ただの不倫じゃないからでしょ。不倫相手が妊娠してる。しかも、同じ職場の後輩が。よりによって」
「くそ……こっちはそんなことに金を使ってる場合じゃないのに」
「ああ、それとなんだよ」
「あなたの首は、明日までよ」
翌日。
「あんたのせいで。あんたのせいで、私たちはもう終わりよ!」
「あの、せっかくの休日に何ですか? 元嫁と元姑が、こんな頻繁に連絡を取り合うものでもないでしょう」
「うるさいわね! あんたがさっさと慰謝料を払ってたら、こんなことにはならなかったんだから!」
「そうですかね」
「そうよ!」
「まず、認識が間違ってます」
「は? 何が?」
「軽く整理しますけど、元を辿れば、かずやが不倫しなければ。そして何より、お母さんが余計なことをしなければ、ここまでこじれることもなかったと思いますよ」
「え? 一体何のことかしら?」
「紛失したUSB。あれ、盗んだのはお母さんですよね」
「は? 何を言ってるの? そんなわけ——」
「細かいことまでは分かりませんが、お母さんはかずやがリンコと不倫してることに気づいた。そしていつまでも子供ができない私よりも、若いリンコと結婚した方が孫ができると思った」
「仮にそうだとして、USBを盗んだって話とどう関係するのよ」
「リンコは出世のために、お母さんを利用した。私の企画書を奪うためにUSBを盗ませて。もちろんお母さんは、私が邪魔なので喜んで力を貸したことでしょうね」
「言いがかりよ! そんなの事実無根だわ!」
「でも、問題が起きた」
「問題って何よ?」
「リンコの妊娠ですよ。お母さんは喜んだでしょう。かずやも再婚を決めた。でも、リンコはそうじゃなかった」
「妄想も大概にしなさい!」
「その妄想通りだと、ご自分で証明してますが」
「どういうこと?」
「私は会社に仕事を持ち帰る許可をもらってました。ですが、USBが盗まれ、その企画が通った。情報漏洩とまではいかなくても、大問題です」
「そんなの、あんたの管理責任じゃない」
「本来ならそうですね。けど、それが盗まれたのであれば、話は変わります。お母さんとかずやは、そのことでリンコに脅されてたのでは?」
「何を根拠に?」
「リンコに金銭を要求され、私への慰謝料請求で払おうとした。だから、支払いを早くしろと急いでたのでは? 『百万でも五十万でもいいから先に払え』、そう言ってたのが何よりの証拠ですよ」
「そうよ……あの女に脅されてたの。あいつ、金を払わないと会社に全部言うって」
「そうは言っても、かずやなら跳ね除けられそうなものですが。ああ、子供の認知が問題だったんですね」
「え? 何? どういうこと?」
「お母さんに配慮したんでしょう。孫を欲しがってたお母さんのために、認知は取ろうと。だから、跳ね除けられる要求を受けた」
「そうそうよ! あの女、子供の認知も盾にしてたの!」
「まあでも、安心してください。リンコはもうそんなことできませんから」
「え? 子供の認知は知りませんが、リンコはうちの会社から訴えられてます」
「そうなの?」
「私の方から、今回の件を報告しましたので」
「じゃあ、もうあの女に怯えなくていいのね。金を用意する必要もないってこと?」
「そうですよ。その代わり、お母さんも訴えられますけど」
「は? 訴えられるって、誰に?」
「うちの会社ですけど」
「はあ? なんで私が?」
「USB、盗みましたよね。この事実が原因で、あの企画は凍結となりました。結果として、我が社には一千万程度の損害が出てます」
「なんでよ! 元々はあんたの企画だったんでしょ! なら、あんたが後を引き継ぐなりすれば——」
「世の中、そんなに簡単じゃないんですよ。社内で起こったこととはいえ、盗まれた企画書です。そんな企画を通したとバレれば、信用問題になります。だから、企画は取りやめ。その損害を、私に請求するって?」
「リンコとお母さんにですよ。一千万の半額ずつ、五百万がそれぞれ請求されます」
「そんなの、私は知らないわよ! あの女に言われてやったことだから!」
「その手の言い訳が通じるのは、子供までですよ」
「あんた、仮にも一度は私の娘だったでしょ」
「義理のですけどね」
「なら、こんなことはやめさせて。お願いよ。今までのことだったら謝るから!」
「お母さん、私は『子供を産むための機械』なんですよね。そういったことも謝るから? すみません、私は人の感情とやらには疎いんで。なんせ機械ですから。情に訴えられても、理解できないんですよ」
数週間後。
「なあ、彩花。頼む。母さんを止めてくれ」
「止めるって、何を?」
「母さんが会社から損害賠償を請求されただろう。リンコと一緒にな。それで、リンコのやつがその金を取り返そうとして——」
「もしかして、あなたは訴えてるの? 『不倫の事実を知らなかった。これはプライバシーの侵害だ』って、慰謝料を要求してる?」
「最後まで意地汚いことで。というか、そんなの無理筋でしょ」
「無理筋ではあるし、普通にやればこっちは負けない。けど、母さんが狂い犬になってて……」
「もしかして、裁判でも始めた?」
「そうなんだよ。ただでさえ、母さんは損害賠償で五百万、俺はお前からの慰謝料で三百万請求されてるのに、こんな風に裁判なんてしたら、金がいくらあっても足りない。裁判をするのだって金がかかる。弁護士費用だって払い続けてる。俺は今、仕事も首になってるんだぞ」
「身内が盗みに加担してたんだもんね。そりゃ首ですわ」
「お前が会社に報告したせいだろう」
「逆に、私が報告しない理由がないでしょ」
「そうだけど……とにかく、今は俺と母さんで友達なしだ。二人とも、もう勝ち負けとかじゃなくて、意地になってるんだ。お前の方から、なんとか言い聞かせてくれ」
「いや、私が言っても逆効果でしょう。そもそも、なんで私が助けないといけないの?」
「なんでって……元を辿れば、お前が色々と暴露したせいだろう」
「暴露されるようなことをしてたのは、誰?」
「俺たちだけど……」
「でもでも、って何?」
「私はね、かずや。あなたとの結婚生活、意外と気に入ってたのよ」
「え?」
「前にも言ったと思うけど、多少の不満はあっても、離婚するほどじゃなかった。今の仕事だって、学生の頃からの夢だったし。同じ会社で働くあなたと悩みを共有できるのも嬉しかった。二人ともそれなりに給料は高かったから、裕福だったしね。だったら——でも、あなたのせいで全部壊れた。私の生活を自分勝手な理由で壊しといて、自分が困ったら『お前のせいだ。助けろ』? あなたのせいで失った私の生活は、そっちは無視? それは、虫が良すぎるなんてレベルじゃないわよね」
「俺は……」
「あなたに助けを求める資格なんてないわ。私はつまんない女で、愛もないけどね。あなたは、そんな女にすら見捨てられた、つまんない男よ」
「俺は、これからどうしたらいいんだ?」
「知らないわよ、そんなこと。ただ、あなたみたいな男には二度と関わりたくない。それが、あなたの言う『つまんない女』の答えです」
その後も、お母さんとリンコの無駄な意地を張った裁判合戦は続いた。どちらもかずやの意見などには一切耳を貸さず、泥沼の裁判を、お互いの資金が尽きるまで行い続けた。
それはもはや裁判というよりも、ただの喧嘩だった。自分の正当性を主張し、相手の意見には一切耳を貸さない。どちらも金銭的な事情からそうせざるを得ないのは理解できる。だが、女の悪いところを煮詰めたような争いは、見ているだけで胸焼けがするほどだった。
それを止めることもできず、ただ見ていることしかできないかずやも、同様に。結局のところ、かずやもお母さんもリンコも、三人が三人とも欲をかいた結果、自らの墓穴を掘り、この惨状を生み出した。
私と離婚しただけで満足していればよかった。弱みを握ったからと金銭を要求せず、素直に再婚しておけばよかった。孫が欲しいからと、不倫相手を担ぎ上げるような真似をしなければよかった。
ああしていれば、こうしていれば——「たら」「れば」を数え上げればキリがないが、今回の件はまさにそういう話だった。
今の選択は正しいのか。こっちの選択ならどうなるのか。今回の件を経て、私は一度立ち止まって自分を見返すことの大切さを、改めて理解したように思う。これから先、私にも色々な選択があるだろう。だが、これからは「たら」「れば」にすがらずに済むよう、納得のいく選択をしていきたいと思う。
