彼女が涙を浮かべて「お母さんが私に火傷を負わせたの。病院に行くから、このままじゃ済まないよ」って言った時、俺の世界は一瞬で変わった。あの日、母の家で起きたのは、ただの結婚の反対なんかじゃなかった。俺は生まれて初めて、母の愛が毒に変わる瞬間を目の当たりにしたんだ。しかし、彼女の次の一言が、全てをひっくり返すなんて、その時は知る由もなかった。コメント欄で、俺たちがどうやってこの闇を乗り越えたのか…

彼女が涙を浮かべて「お母さんが私に火傷を負わせたの。病院に行くから、このままじゃ済まないよ」って言った時、俺の世界は一瞬で変わった。あの日、母の家で起きたのは、ただの結婚の反対なんかじゃなかった。俺は生まれて初めて、母の愛が毒に変わる瞬間を目の当たりにしたんだ。しかし、彼女の次の一言が、全てをひっくり返すなんて、その時は知る由もなかった。コメント欄で、俺たちがどうやってこの闇を乗り越えたのか...

「母さん、今ちょっといい?」
「どうしたの? 何か困ったことでも?」
「うん。仕事は順調なんだけど……今度、付き合ってる彼女と結婚しようと思ってるんだ。彩子って言うんだけど」
「はあ? ちょっと待ちなさいよ。彼女? 結婚? 何も聞いてないわ。なんでそんなことになるの?」
「何も知らせてなかったからね。母さん、今まで俺が彼女だって紹介した人とか、付き合ってるって人から聞いた時、いつも相手を追い詰めて別れるようにし向けてただろう」
「いきなり何言うのよ。そんなことしてないわ。言いがかりよ。なんでそんなこと言うの?」
「さすがに3人続けて『あなたの母親は無理』って言われたら、疑いたくもなるよ。母さんに紹介してない人もいたし」
「そんなの全部あなたのためなのよ。変な女やバカな女に悟が騙されないように、私が見極めてあげてたの。どれも違うと思ったから別れさせたんだ」
「いつの時代の感覚で生きてるんだよ。もう令和になって結構経つよ」
「黙りなさい。とにかく、お付き合いも認めてないのに、結婚なんて絶対に認めないわ」

数日後、悟は彩子に電話を入れた。
「ごめん。母さんに連絡したんだけど、全然話にならなくて。少し落ち着いたらもう一度電話してみるから、様子見で待ってもらってもいい?」
「私はもちろん構わないけど、悟も大変ね。私との結婚、嫌にならない?」
「ならないよ」
「私はいつでも大丈夫だから、調整お願いします」

それから2週間後、悟の母・千枝から久しぶりに連絡が来た。
「あなた、今お付き合いしてる人、さっさと別れた方がいいわ」
「久しぶりに連絡してきたと思ったら、何なの?」
「探偵を雇って、あなたの恋人について色々調べたの。名前は彩子さん。30歳。群馬の田舎出身。あの子、貧乏育ちだったのよ。高校もバイトしながら通ってたみたいだし。卒業した後は地元から姿を見せなくなったって。ご近所さんから聞いたけど、父親は娘さんが自慢で『遠くの土地で大学に通って立派にやってます』とか色々濁してたみたいだけど、どうせ田舎の店員割れ寸前のFランよ。そんな女との交際なんて許しません。結婚なんて持ってのほかよ」
「何を言い出すのかと思えば、本当にくだらない話だな。俺は彩子のことを学歴で好きになったんじゃないよ」
「じゃあ、仕事は? あの女の仕事のことも理解してるの? 吹けば飛ぶようなスタートアップ企業で、子供食堂とか儲からないボランティアをやってるのよ。あんたの資産狙いなのは見え見えじゃない。大手製薬会社の研究開発職がどれだけ女に狙われやすいか、その辺りのことをあなたはしっかり認識しなさい」
「このままじゃ結婚の挨拶も難しいね。彩子については、一度直接話をしよう。LINEじゃ埒が明かないし」
「ふざけないで。私は結婚なんて認めないって言ってるのよ。話し合いなんて応じないから、破局の報告だけ持ってきなさい」

数分後、悟は再び彩子に謝った。
「彩子、ごめん。全然説得できなかった。もう取りつく島もない。しかも……ドン引きすると思うけど、あの人、彩子に探偵をつけて色々嗅ぎ回ってたみたいなんだ」
「え? 悟が素直に言ったの?」
「どういうこと? まさか気づいてたの?」
「地元でご近所さんだった人からね。一応父に何かあった時連絡してもらえるように、時々やり取りしてたんだけど。『彩子ちゃんのことを色々聞かれたんだけど、怪しかったから気をつけてね』って」
「そういうことか。本当にごめんね」
「悟のせいじゃないから。それにしても、悟のお母さんがそこまで学歴とか仕事にこだわる人だとはね。家柄とかを考えるとしょうがないのかしら。確か医療家系なんだっけ?」
「大げさなもんでもないよ。母さんが肩書きにしがみついて自慢してるだけ。父さんとはお見合い結婚で、父さんも40代くらいずっと同じ企業に務めてる。世間体ばかりの見えっ張り家系だよ」
「そのサラブレッドとして生まれたのに、悟は突然変異よね」
「突然変異に生まれて本当にラッキーだよ。まあ、反面教師にしていたってのが正しいかもだけど。にしても、どうしようかな。無断で結婚するわけにもいかないし」
「反対されても、顔を見て挨拶するのが大事なのよね」
「そうだね。挨拶した事実が大事なら、お母さんが在宅してる時にゲリラ的に行くしかないんじゃないかしら」
「お父さんも一緒に在宅の時がいい?」
「父さんは今、海外出張中なんだよ。って言っても、あんまり子供のことに興味ないから、母さんが認めるならOKって感じだったよ」
「なるほどね。了解。やれるだけやってみましょうか」

結婚の挨拶当日。
「ちょっと何考えてるの? いきなり押しかけてくるなんて非常識だわ」
「こうでもしないと母さん、対応してくれないだろう。顔を見て挨拶するだけだから、入れてくれ」
「もう来ちゃったものはしょうがないけど、せめて色々支度をさせてちょうだい。女はね、支度に時間がかかるの。1時間後に出直してきていいわよ。そうだわ、念のため彩子さんの連絡先を教えて」
「んで、何でもいいから早くして」

数分後、彩子が一人で訪ねてきた。
「初めまして。悟の母の千枝です。所用がありますので、1時間後に出直してください」
「こちらこそ急に押しかけてしまい申し訳ありません。1時間後の訪問、承知いたしました」

1時間半後、彩子が再び訪れると、千枝は玄関先で待ち構えていた。
「うちの息子と結婚しようだなんて、よくもまあ考えたわね。バカな女だからって、挙げ句の果てに、席に座った途端にお茶をかけるなんてありえませんよ」
「は? 何言ってるの? いきなりお茶をかけてきたのはあなたでしょう。明らかに私に怪我をさせようとしましたよね。今、病院に向かってますけど、多分火傷してます」
「うちの息子に手を出した罰よ。T大卒のエリート息子を、低学歴の女と結婚させるわけないでしょ。悟は小さい頃から優秀で、うちの大事な跡取り息子なの。もちろん財産ばかりの跡取りじゃないわよ。私の家は明治から続く医療関係の家柄だし、夫だって大手企業の役員よ。悟は大手製薬会社のエリートコース、出世一直線なの。その息子の嫁があんたみたいな女じゃ、釣り合いどころの話じゃないわ」
「やっぱり恋愛結婚なんてだめね。私とお父さんでしっかり相手を選ばないと。というわけで、Fラン出身の低能はこの家からとっとと出ていって」
「あの、ハーバード大のFランって、どの世界線の話をされてるんですか?」
「え? いや、何言ってるの? なんでここでハーバード大が出てくるのよ。あなたみたいな人には一番縁がない名前でしょ」
「ちゃんとハーバード大のMBAを卒業してます。必要な書類を提示して欲しいならしますけど」
「MBA? 何それ? 聞いたことないんですけど。もっとマシな嘘をつけないわけ?」
「ああ、ハーバード大学の大学院で、ハーバード・ビジネス・スクールという正式な一部門なんですが。学歴にこだわる割に、そんなこともご存知ないんですか? 今その手に持ってるスマホでサクッと調べたら、いかがですか?」

数分後、千枝は震える声で言った。
「嘘よ。嘘、嘘。だって、あんたの地元でちゃんと聞き込みしたんだから」
「地元で自分のことについては、何も話してませんから。昔お世話になってきた、ごく信頼できる人にだけ話せる範囲のことは話しましたけど。父にも必要以上に私の話をしないように頼みました」
「なんで? わざわざそんなことするなんて。何かやましいことがあるから言えなかったんでしょ」
「違います。色々邪魔されたくなかったんですよ。日本は高学歴が好かれる場合と嫌われる場合が、ものすごく極端なので。ちなみに私は国立大に進学し、卒業後に国内で実務経験を積んで、24歳でMBAに入り、26歳で課程を終了。帰国して企業に向けた準備を進めて、28歳の時にやっと色々スタートさせたんです。資金集めやら何やら、大変でしたよ」
「そんなこと、悟から一言も聞いてないわ。そんなにすごい人なら自慢するはずだわ」
「悟はよくも悪くも、私の学歴や仕事内容に興味がありません。悟が偶然お昼に入った定食屋さんが支援している子供食堂の一つで、そこで出会いました。大人には普通の食堂、子供には無償で提供。そのスタイルに興味を持って、色々質問してくれました。私の『子供を支援したい』という気持ちを応援してくれて、お店に通ってくれるようになって、それで付き合うことになったんです。でも、仕事の話を自分から聞いたり、首を突っ込むこともしません。悟自身も自分の仕事の話をしません。私がプライベートでゆっくりできるように、あえてそうしてくれています。悟のそういう優しくて賢いところが好きなんです」
「本当になんで、こんな毒親みたいな親から、悟みたいな無欲な人が生まれたのか。世界の七不思議ですね」
「この生意気な……。いつの時代のステレオタイプですか? とにかく今から病院で診断書をもらってきます。場合によっては訴えるなど、しかるべき措置を取らせてもらいますので、そのつもりでいてください」

数時間後、悟の元に千枝から電話がかかってきた。
「悟、お願いよ。一度話をさせて。LINE無視しないで。電話に出て。お願いよ」
「母さんが話したいことって、何?」
「今日のことはやりすぎたわ。謝るから。彩子が思っていた以上にすごい人だったから。それと……訴えられたら立場が悪くなるから」
「今のところ父さんには黙ってるけど、訴えられるとなったら話は別だもんね。むしろご近所中に広まるかもしれない」
「実の母親を脅そうって言うの? ひどいわ」
「ひどいのはどっちだよ。彩子は火傷したんだよ。立派な傷害だ」
「そんなオーバーな。昔はこれくらい……」
「昔じゃなくて、現代の話をしてるんだよ。いい加減アップデートしてくれない?」
「さっきから、母親に対してなんて態度なの? この親不孝者。母親を一番大事にしなさいよ」
「俺はもう33歳の独立した人間だよ。いつまでも俺を小さな息子だと思って、干渉するのはやめてくれ」

数分後、千枝は電話を切り、別の番号をかけた。
「あいか? 久しぶりね。元気にしてた?」
「母さん、いきなり何? お父さんに何かあった? それともお母さんに病気とか?」
「そんなんじゃないわよ。もっと大変よ。悟の連れてきた女が、まあ最低な女で。こっちがちょっとお茶をかけただけで、訴えるだの慰謝料だの、信じられないでしょ」
「そうなの?」
「何の仕事をしてる人なの?」
「金にならなそうなボランティアよ。一応会社は経営してるみたいだけど、それもよくあるスタートアップ企業。どうせ潰れるのが目に見えてるわ。悟とうちの財産が目当てなのはお見通し。なんとしても結婚は阻止してやらないと。あいかもなんとか言ってよ。悟は騙されてるの。このままじゃ悟の経歴に傷がついちゃうわよ」
「そうなの? 分かったわ。とにかく一度、悟と話してみるから。お母さんはちょっと落ち着いて。相手にお茶をかけて、怒らせただけでしょう?」
「怪我をさせたとか、まあちょっと熱かったのかもね。火傷しただの騒いでたわ。本当今時の子は大げさよね」
「そっか、分かった。じゃあ、また連絡する」
「やっぱりあいかは私の味方よね。こういう時は女同士の方が話が早いわよね。娘を産んでおいてよかったわ」

数分後、悟のスマホに姉の愛花からメッセージが届いた。
「悟、お母さんから連絡があったわよ。『あなたが悪い女に騙されてるから、結婚をやめるように説得しろ』って」
「一回電話させてくれない? 俺も電話で話して、頭を整理したいから」
「分かった。いいわよ」

3日後、愛花が千枝に電話を入れた。
「千枝さん、本当にごめんなさい。これからあなたに対して訴えを起こしますし、息子さんとはこのまま入籍して、住所も教えないまま新居に引っ越して、もう二度と会えなくなりますので、先に謝っておきますね」
「ちょっと待ちなさいよ。一体何を言ってるの? 意味が分からないわ。なんで? なんでそんなことになるの? 電話に出なさい。返事をしなさい。あんたみたいな女に邪魔させないわよ。悟は誰にも渡さないわ。聞いてるの? 答えなさいよ」
「もう、そういうことですから」
「悟もあいかも、どうなってるの? あの女を説得してくれたんじゃないの?」
「はい、しっかりお話ししましたよ」
「だったら、なんとかしてよ。あの女、本当に許せないわ。会社が潰れるくらい追い込んでやる。もちろん協力してくれるわよね。娘なんですから」
「きちんとお話をお伺いした結果、説得は不要と判断しました」
「はあ? 何言ってんのよ」
「改めまして。彩子さんから正式に依頼を受けたので、弁護させていただくことになりました。鳩場法律事務所の幸愛花です」
「弁護士? あんたが? 冗談よしてよ。大して勉強もできなかったくせに」
「そういえば、今あなたが何してるか聞いてなかったわね。本当は何してるの? ていうか、あなたも35歳なんだから、いい加減結婚しないと生き遅れだわ。私がいい人を探してきてあげるから」
「本当にお母さんは、私のこと都合のいいアクセサリーにしか思ってないんだね」
「いきなり何言うのよ」
「まあ、私のことなんて何も知らないわよね。大学卒業して以来、一切連絡取ってなかったんだから。むしろよくこんな話を私にしてきたもんだよね。なんで味方してもらえると思ったの? 100%お母さんが悪いでしょう」
「なんですって?」
「私とのLINEのやり取りだけでも、十分傷害の過失だと証明できます。彩子さんから、遊木千枝さんに対して治療費と慰謝料30万円の支払いを要求します。応じない場合は、傷害罪で訴えを起こすと同時に、父にも連絡を入れさせていただきます」
「いや、あの人には何も言わないで。お願い。花だって分かってるでしょ。私がひどい目に会ってもいいの?」
「すでにひどい目に会ってる被害者の味方なので、加害者のことまで配慮できませんね」
「なんでなの? 私はただ悟を守りたいだけなのに。どうして娘なのに助けてくれないの? この恩知らず!」
「そりゃ恩知らずでしょう。受けた恩なんて、一つもないんだから。お母さんは何も覚えてないわけ? うちは何でも長男優先。女はその下。勉強も家のこともやって当たり前。食事はお父さんが食べるまで食べられない。おかずはお父さんと悟がいいものを食べて、私はおまけ。お母さんはお友達と高級ランチで十分。じゃあ、私は? 私は何だったの?」
「ちょっと落ち着きなさいよ。別にそんな大したことないでしょう。それに、あなたと悟じゃあ、食べる量も違ったし」
「じゃあ、量を変えればよかったんじゃないの? 今でも覚えてる。お父さんたちにはいいお寿司を取ってたのに、私にはコンビニ弁当。なんでわざわざそんなことしたの?」
「生魚は好きじゃないかと思って」
「お母さんの機嫌が悪い時は、私に当たり散らして。お父さんが私に声を荒げたことも、手をあげたこともなかった。父親は子育てには無関心。親の顔色を伺いながら生きることが、どれだけ子供に悪影響か分からないの」
「もういい加減にしなさい。そんなことしてないわ。覚えてないわよ」
「加害者側はいつだって『覚えてない』っていうのよね。それで終わりにできると思ってるから、世の中から毒親が消えないのよ。だから私は、しっかりケツを拭ける弁護士になったの。今回の弁護を引き受けたのは、悟だけは私の味方でいてくれたから。私が高校や大学に進学する時、費用を一切出さないとごねたあなたたちを、さりげなく説得してくれた。家を出る時、一人暮らしの物件探しも悟がついてきてくれた。『そうすれば反対されないから』ってね。あの子は視野が広い。俯瞰で物事を見られる優しい子よ。それに何より、彩子さんが素晴らしいと思ったから」
「あんな嘘つき女のどこがいいのよ」
「不遇な家庭で苦労されて、自分と同じ思いをする子供を減らしたいと、自分でバイトして学費を貯めて国立大に進学して、日本企業に務めてからハーバードのMBAに入るなんて、並大抵のことじゃないわ。あの年齢で教育支援プラットフォームを運営。子供食堂と企業の在庫連携アプリ開発も手掛けている。よっぽど優秀で根性のある人じゃないとできないことよ。あなたなんかより、社会的にずっとずっと立派な志を持った女性なの。そんな女性を、息子可愛さに傷つけたこと、絶対に許しませんからね」

数日後、千枝から悟に泣きつく電話が来た。
「助けて。お父さんからも連絡が来たの。愛花が告げ口したのよ。信じられない」
「ちなみに、なんて来たの?」
「『俺の顔に泥を塗るな。離婚だ』って。私のこと、捨てようとしてるの。お願い、助けて。両親が離婚なんて、嫌でしょ」
「別に、それも仕方ないんじゃない。全部自分で巻いた種じゃないか」
「そんな冷たいこと言わないで。お願いよ」
「そんなことになっても、母さんは自分のことしか考えられないんだね」
「だって、私はいじめられてるのよ。愛花もどうかしてるわよ。あんなに可愛がって育てて、いい大学にも入れてあげたっていうのに。誰のおかげで弁護士になれたと思ってるの?」
「他ならない姉さんの努力だろう。そもそも二人だって、最初は姉さんの進学先を変更するように詰め寄ってたじゃないか。学歴主義のくせに、外に働きに出る姉さんには『4年生じゃなくて、短大の私立女子大に行け』って。お見合いの受けを考えて学校を選びなさいって。あれはさすがにドン引きしたよ。家柄にこだわるなら、いい大学に行く姉さんを応援すべきなのに、なんで文句つけて姉さんに嫌がらせしたかったわけ?」
「そんなこと言ったかしら? 覚えてないわよ。私が大学に行ったのだって、結婚する時にある程度格好がつくところを親に選んでもらったのよ。賢すぎてもしょうがないじゃない?」
「もういい。分かった。どうしても間に入ってほしいなら、とにかく一度彩子に謝ってほしい。被害者である彩子が許すなら、取り持つよ」
「本当に良かったわ。ありがとう」

数分後、千枝は彩子に電話を入れた。
「彩子さん、この度はごめんなさいね。言われた通り、謝罪に応じてあげるから。今回のことは綺麗さっぱり水に流して、忘れてちょうだい。私は母親として、息子にいい結婚相手を選んであげようと思っただけなの。親じゃないあなたには、この気持ちは分からないでしょうけどね」
「親が子供を思う気持ちは分かりませんが、子供が親の行動で苦しむ気持ちは分かります」
「なんですって?」
「私の母親も、自分の機嫌次第で子供をコントロールしようとする人でした。挙げ句の果てに父を傷つけ、裏切って、家のお金を持ち逃げして、他の男と蒸発。父が私を一人で育てるためにどれだけ苦労したか、思い返すだけで胸が痛みます」
「そんなの、私には関係ないでしょ。大体、私はそんな非道なことはしてないわ。ちゃんと立派に子供を育ててきた、いい母親よ」
「いい母親かどうか。それは母親が決めることじゃありません。子供が決めることですよ。あなたのお子さんたちは、あなたをいい母親だと、あなたの目を見て言ってくれますか?」
「何が言いたいのよ。失礼な女ね」
「私が今の仕事の原動力にしていることは、この世から毒親に苦しむ子供、そして経済的に苦しむ子供が一人でも減ることです。それは大人になっても変わりません。愛花さんと悟は、立派な毒親の被害者です」
「私は毒親なんかじゃない。こんなに子供を愛してきたのに。何も知らないよそ者のくせに、好き勝手しないで。私の幸せを壊したくせに、何なのよ」
「そうですね。それが毒親なんですよね。最後まで自分が何をしてきたのか理解できない。みんな、そう口を揃えて言うんですよ。『子供のためにやったのに』『私はこんなに頑張ってるのに』『誰も私を認めてくれない』。私が、私が、私が。……気持ち悪いですよ。徹底的に戦いますから、覚悟してくださいね」

翌日、悟の元に姉の愛花から連絡が来た。
「連絡が遅くなってしまい申し訳ありません。滞りなく進めてるので、安心してください」
「改めて、母が迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「とんでもないです。花さんが動いてくださったおかげで、色々なことがスムーズに進みましたから。彩子さんには本当に感謝しています。悟が実家を離れる決心をしてくれることを、私もずっと望んでましたから」
「そうだったんですね」
「実の親から離れる選択をするのって、他人が思うより難しいことですもんね」
「はい。しかも、私が先に絶縁してしまったので、悟には苦労をかけてしまいました。だから、この件は全力で対応させてください。絶対に慰謝料を支払わせます」
「頼もしいです。よろしくお願いします」

数日後、悟が彩子に話しかけた。
「今日、母さんが俺の会社に突撃してきて、それで騒動になって警察に連行された」
「え? 嘘? 何? どういうこと?」
「もうすごかったよ。受付の人に怒鳴り込んで『悟を出せ』って。受付の人が何を聞いても、『悟を出せ』しか言わなかったらしくて」
「……詰め詰めだったのかもね。このままじゃ訴えられるし、負けは確実。探偵を雇ったって言ってたでしょ」
「そうね。探偵を雇って結構お金がかかるわよね。日数や内容によるだろうけど、多分、母さんが月に自由にできるお金を使い切っちゃったんだと思う。これ以上慰謝料にお金を出せなくて、追い詰められて突撃してきたのかなって。全部予想でしかないけど。これから警察に行くところなんだ。だから帰りは遅くなる。ごめんね」
「私のことなんて、もうどうでもいいから。そうなると、お父さんは今海外なんでしょ? 全部悟が対応するの?」
「母さんが警察沙汰を起こしたって連絡したら、今日の便で帰国するってさ」
「すごい行動力ね」
「あの人にとっては、自分の社会的信頼が損なわれる一大事だから。一応電話でも話したけど、彩子のことも説明して、平謝りされたわ。お父さんはお母さんほどひどい人じゃないの?」
「とにかく世間体を悪くしたくないんだよ。一応、大手の役員だし。親戚もそういう人ばっかりだから、間違っても妻がそんなことになったら……想像するだけでね」
「オッケー。もうそういうもんだと思うことにする」
「助かります。だから、慰謝料も治療費も、すぐ一括で支払ってくれたよ」
「なるほど。でも、お父さんの世間体が分からないお母さんでもないでしょうに」
「悟を取られるのが、そんなにショックだったのかしら」
「そうじゃない。俺としては、やっと解放されると思って安心してるけど」
「お父さんたち、離婚になったりしないよね?」
「世間体としてどっちを取るかだろうけど、正直もう関係ないよ。彩子と結婚するなら、今の仕事をやめて彩子の仕事を手伝うのもいいと思ってるし」
「そんな簡単に決めていいの?」
「本気だよ。母親に文句をつけられない仕事として選んだだけだから。俺だって毒親の被害者なら、彩子のところで働く資格はあると思うよ」
「そうね。じゃあ、まずは面接からにしましょうか」

結果として、義両親は離婚しないことを選択した。しかし、毎日のように悟を求めて泣き続ける義母に手を焼いたのか、療養という名目で実家に送り返された。実家には義母の姉夫婦が住んでいて、片身の狭い思いをしている様子だ。義母からは今も毎日のようにLINEが届くが、悟と愛花にはブロックしてもらい、彩子だけが状況を確認するために残している。

この人が本当の意味で悔い改めることは、おそらくないだろう。それも仕方がない。大事なのは、悟と愛花がこの人から解放されることだ。

今、悟は製薬会社を辞めて彩子の会社に勤めながら、子供たちの社会復帰を後押ししたり、勉強を教えたり、子供食堂でボランティアをしたりと、生き生きと仕事をしている。母のことがあって誰とも結婚できないと思っていたけど、悟とならきっとこれからもいいパートナーでいられる。そんな気がする。

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