「お母さん、暇でしょ?」
いきなり何なの、と思った。義理の母・みわさんが、にこやかな顔で私のリビングに座っている。夫のまさは仕事でいない。孫の陸は部活だ。この家には、私とみわさんだけがいる。
「お父さんが亡くなって、生きがいがなくなったでしょ? ボケる前に、私たち夫婦が同居してあげましょうか?」
遠回しに、でもはっきりと、みわさんは言った。私のことを「老い先短い老婆」だと思っているのだろう。確かに夫は昨年亡くなった。寂しくないと言えば嘘になる。でも、私は私のペースで暮らしている。
「みわさん、お気遣いありがとう。でも大丈夫よ。確かに寂しいけど、お仏壇に向かって話してると、意外と気が紛れるの」
「嫁として、お母さんのことが心配なんです」
「お気持ちだけ受け取っておくわね」
「遠慮しないでください」
「いや、本当に大丈夫なの。一人の生活にも、随分と慣れてきたから」
「そんなのいつまでも続きません。寂しさで押しつぶされちゃいますよ」
「友達とお茶したり、旅行したりで気を紛らわすわ」
「頑固ですね。人の好意くらい、素直に受け取れないんですか?」
「私の都合も考えてほしいだけ。今は一人がいいの」
するとみわさんは、息を吸って、言葉を変えてきた。
「じゃあ、言い方を変えます。お願いですから、同居させてください」
「え、どうして?」
「借金返済のために、お金を浮かせたいんです」
「借金? いくら?」
「500万ほど」
「どうしてそんな大金が必要になったのよ」
「それはちょっと、陸の名誉に関わることなので、今はまだ言えないんです」
「なんなのよ。気になるわね」
みわさんは続けた。今住んでいる賃貸マンションに月12万も払うのがやっとで、生活が苦しいのだと言う。
「そんな状況なら、一緒に住むのは構わないけど」
「本当ですか?」
「ただ、私は私の生活を優先するわよ」
「もちろんです。お互い線引きは必要だと思ってますので。しっかりルールを作って、守ると約束するなら、いいわ」
「もちろんです!」
「だったら、仕方ないわね。孫が苦労するのは私も悲しいし。陸もおばあちゃん好きだから、喜ぶわ」
「ありがとうございます」
約束をした。自分たちの家事は自分たちでやる。それが最初に決めたルールだった。
一ヶ月後。
「話が違うわね」
「何がですか?」
「家事も育児も、全部私に丸投げじゃないの」
「仕方ないじゃないですか。私も仕事を始めましたし。お互い協力し合わないと」
「あなた、せめて陸のお弁当やご飯くらい作ったらどうなの?」
「夜遅くまで働いてるせいで、朝起きられなくて」
「毎晩お酒の匂いをさせて帰ってきてるけど、どんな仕事をしてるの?」
「接待とか付き合いとか、色々あるんですよ」
「あなたが頼み込んできたから同居したのに。これじゃ当初の話と全く違うわ」
「何でしたっけ? もう忘れちゃいました」
「自分の家族の家事は自分たちでする、っていうルールでしょ」
「え? お母さんは、夫も孫も家族だと思ってないんですか?」
「そういう意味じゃないでしょ。陸の部活の洗い物がたくさんあって、洗濯物も多いし、四人分の食事を作るのも大変なの。その上お弁当まで作ってたら、倒れちゃうわ。少しくらい手伝ってくれないかしら?」
「ええ、無理です。大体、無職で一日中家にいるんですから。そのくらいのことはやってもらわないと」
「友達とお茶する時間もないわよ」
「する必要あります? 明日生きてるかも分からないような人と会っても、仕方ないでしょ」
「なんてことを言うの?」
「じゃあ、そういうことなんで、引き続きよろしくです」
みわさんは自室に戻っていった。私は台所に立ち、溜め息を吐いた。もう限界だ。
まさが帰ってきた。もう我慢できない、と私はまさに言った。
「同居してから家事が増えて、疲れてるの」
「仕方ないだろう。協力し合わないといけないんだから」
「みわさんも、最初に言ってたことと随分違うことばかり言うし」
「年寄りのくせに、わがまま言うなよ」
「はあ? なんて言い方よ」
「残りの人生を孫と暮らせることを喜べよ。会いたくても孫に会えない年寄りが多いって聞くぞ」
「誰もが孫命だと思ったら大間違いよ」
「こうするしかなかったんだから、我慢してくれよ」
「大体、500万なんて大金を、どうして借りたの?」
するとまさは、声を潜めて言った。
「……陸が自転車で、人を跳ねてしまったんだ」
「え?」
「部活帰りの夜道だったから、見えなかったらしくて。相手の方は八十過ぎの高齢者で、骨折したらしい。うちの陸は、自転車保険に入ってなかったんだよ。義務化されてるのは知ってたけど、家の前に買った自転車だったから、無保険のまま乗り続けてたんだ。まさか子供が事故を起こすなんて、思いもしなくて」
「それで500万を請求されたってこと?」
「そう。貯金もないから借金したんだけど、金利ばっかり払って、元金は減らないし」
「事情は分かったし、同居が助けになるなら構わない。ただ、最低限、最初に決めたルールは守ってほしい」
「分かった。俺からもみわに言っておくよ。ただ、俺らも年寄りと暮らすのはストレスがかかるし、年金はできれば全部よこせよ」
「は? 何言ってんの?」
「母親ならそのくらいしたらどうだ?」
「どういう理屈よ?」
「頑固だなあ。母さんも年取ったね」
「そういう問題じゃない。ちゃんとみわさんと話して」
「分かったよ」
さらに一ヶ月後。
「いつになったら心を入れ替えてくれるのかしら」
「は? ルールを守ると約束したわよね。まさからも話があったはずよ」
「あー、なんか言ってたね。あなたがうちに来てから、洗濯機を回したのは一度だけよね」
「だから何?」
「洗い物も掃除も、一度もやってない」
「うん。あんたんちだからね。あんたがやればいいじゃん」
「ちょっと、何その言い方?」
「もう一緒に住んでるんだし、家族でしょ。夫も孫も、あんたには敬語使わないのに、なんで私だけ気を使わなくちゃいけないわけ?」
「敬語を使えとは言わないけど、最低限の礼儀はあるでしょ」
「年上ってだけで、尊敬するところ一つもないし」
「はあ……」
「大体、文句ばっかり言ってくるけど、同居してやってんだし、家事育児は全部やるのが当然よね。はい」
「何言ってるの? あなたが頼み込んできたから、こうなったんでしょ?」
「年寄りが一人で暮らしてたら危ないと思って、一緒に住んでやることにしたんじゃん。ご近所さんにも言われたのよ。優しいお嫁さんがいて安心ね、って。そうやって周りから固めてるんでしょ」
「なるほど。そういうことね」
「同居したくてもできない息子は山ほどいるのよ。あんたは幸せな方だと思うけど」
「私が望んでいたなら、そうかもしれないわね。でも違う。私は一人で暮らすことに、何の不自由もなかった」
「でもこの間、夜中に火をかけたまま忘れてたよね。あれ消したの私だけど」
「それは……たまたま」
「何が一人で大丈夫だよ。笑わせんじゃないよ。火も消せないほどボケてんのに、強がんなつうの」
「一度だけじゃない。それに自動で消えるコンロだから、大丈夫なの」
「この話、お隣さんが知ったらどう思う? 火の管理もできない年寄りが隣にいたら、怖くてたまんないよね。だって火事になったら、自分ちも被害に遭うかもしれないし」
「なっ……そうやって近所に言いふらしてるの?」
「私たちみたいな若夫婦がいるってだけで、周りの人は安心するものなの。年寄りがいくら強がっても、信用されないってこと」
「あなたね……」
「というわけで、今後は私に逆らったり説教したりしないで。ああ、年金も全額ちょうだいね」
「なんでよ」
「嫌なら出てって」
「分かったわ。もう出ていきますよ」
「はあ。出てったところで、どこに住むのよ。強がっちゃって。ろくに働いたこともないくせに」
「そうね。不安しかないわ。でも、嫁にここまでコケにされて、厄介者のように扱われる人生なんて嫌よ」
「人生って、残りわずかのくせに。ひどい人」
「こんなのと結婚した息子が情けないわ」
「あんたの息子も、稼ぎの少ないポンコツだけどね。それを選んだのは、あなたでしょ?」
「うん。すっごく後悔してる」
「じゃあ、さっさと出てってね」
数日後、陸が私のアパートに現れた。
「おばあちゃん、どこにいるの? 大丈夫?」
「陸、心配かけてごめんね」
「俺のせいでごめん」
「どうしてあなたのせいなのよ」
「俺の部活のことで、ばあちゃんに無理させたから出てったんだよね」
「何を言ってるのよ。そんなんじゃないわ」
「でも母さんにはそう言われたよ」
「違う。陸のせいじゃない」
「俺、部活やめようと思ってる」
「どうして? 朝も毎日行って、頑張ってたじゃない」
「サッカーは、入会とかあって金がかかるからやめろって、前から言われてたんだ」
「お金がないのは聞いてるけど、家賃が浮いた分、生活は楽になったはずよ」
「え? どういうこと?」
「母さんはばあちゃんに家賃を入れてるって言ってたよ」
「はあ。私、一円ももらってないけど」
「嘘だろ? 小遣いまでくれてやってるから、生活が全然楽にならないって言ってたのに」
「小遣い? あの人が?」
「ありえないわ。賠償金の借金で首が回らないのに、そんな余裕はないでしょう」
「賠償金って何?」
「あなたの自転車事故のことよ」
「……自転車事故?」
「保険に入ってない親が悪いんだから、あなたが気にすることはないの」
「ちょっと待ってよ。事故って何? お年寄りを怪我させたんじゃないの?」
「してないよ。試合に出場停止になるから、事故だけは気をつけてるんだ」
「じゃあ、嘘だったってこと?」
「そうみたいだね」
「ありえないわ。そのせいでお金がないから同居させてくれって言われたのに」
「そうなの。俺には、ばあちゃんから『家事も育児も全てやるから同居して』と土下座されたって言ってたよ」
「何それ?」
「なるほど……そういうことか。母さんは俺にもばあちゃんにも、嘘をついてたんだな」
「そうみたいね」
「陸、ご飯はちゃんと食べてる?」
「まあ、カップラーメンとかだけど」
「は? 食事も作ってくれないの? お昼のお弁当は?」
「ないよ。お金もくれないから、友達に分けてもらったり」
「そんな……ごめんなさいね。ばあちゃんが出てったせいで、そんな思いをさせちゃって」
「いいんだよ。引っ越してくるまでは、ずっとそうだったから」
「そうなの?」
「俺が高校に入ったくらいだから、ここ二年ちょっとかな。母さんは、家のことを何もやらなくなった。家の中はゴミだらけで、家賃も滞納してたから、大家に出ていけって言われてたみたい」
「それでうちに住みたかったのね」
「父さんも家には帰らなくなったし。この家族はもう終わるんだろうなって思ってたよ。でも、ばあちゃんちでうまい飯食えて、幸せだったんだ。迷惑だっただろうけど」
「そんなことないわ。もっと文句言わずにしてあげるんだった。本当にごめんなさい」
「謝らないでよ。……あーちゃんのところに来る?」
「あ、いいの?」
「その代わり、お母さんたちにはちゃんと言うのよ。心配して探すと困るから」
「うん。分かった。きっと俺がいない方が、喜ぶよ」
「そんなことないわよ。じゃ、待ってるわね」
数日後。まさとみわさんが、どやどやと私の家に押しかけてきた。
「陸、いるの?」
「もちろん。ちゃんと預かってるわ」
「まさか、河川敷のビニールハウスにいるんじゃないよね」
「さすがにそこまではひどくないけど。実は私、もう一つ家を持ってるのよ」
「は? 聞いてないんだけど」
「言ってないから当然ね」
「お父さんは知ってるの?」
「言ってないわ」
「どうせ中古のボロ屋なんでしょ」
「まあ、人によってはそういう人もいるかも。お父さんの遺産を隠してたのね。卑怯なババーだわ」
「だからそっちの家は、あなたたちにあげるわ」
「へ? いいの?」
「もちろんよ。遠慮なく受け取って」
「え、めっちゃラッキーなんだけど」
「さっさと名義変更してよ」
「構わないわ。知り合いの司法書士の先生に頼んでおく」
「やった! ババーは消えたし、家も手に入っちゃった」
「あなた、陸の心配をしてたんじゃないの?」
「そっちで世話してくれるなら、そのままよろしく」
「我が子が心配じゃないの?」
「そりゃ年寄りとボロ屋暮らしなんてかわいそうだと思うけど。もう高校生だし、親にべったりって年でもないから、どっちでもいいわ」
「なんて親なのよ」
「じゃあ陸は、引き続きこのままうちで面倒見るわ。なんならそのままもらっちゃってよ」
「はあ?」
「養子でも何でも入れてくれて構わないから」
「本気で言ってるの?」
「だって、ババーに無理させてまで大学に行きたいなんて言わなくなるでしょう?」
「あなた、進学させないつもりだったの?」
「だって、下手なサッカーを続けるより、働いて家にお金を入れてくれた方がマシだもん」
「子供の夢も応援できないのね。いいわ、私が面倒を見る」
「子育て終わった。家ももらったし、超最高。良かったわね」
「マジ最高」
翌月。みわさんから電話が来た。
「家の名義変更、終わったから」
「そう。こちらも養子縁組が終わったわ」
「へえ。陸は、うちの子じゃなくなったんだ」
「大事に預からせてもらいます」
「そんなもん、どうでもいいわ。これでこの家は、正式に私のものよ」
「え? まさの名義じゃなくて、あなたなの?」
「そりゃそうでしょ。夫はあんたが死んだら、他の資産を相続できるんだから。家は私がもらうことにした」
「……いいの?」
「何が? そんな家で十分でしょ。多少古いけど広いし。リフォームすれば、全然住めるわ」
「中途半端なリフォームじゃ、どうにもならないと思うけど」
「あ? どういう意味?」
「白蟻に相当やられてるのよね。だから私は、家を解体して、土地をお返しする予定だったのに。あなたたちが押しかけてきたから、計画が延期になったのよ」
「お返しって何?」
「その土地は借地よ」
「どういうこと?」
「夫が知り合いから土地を借りて、家を建てたのよ」
「何それ? そんなことできるの?」
「珍しい話じゃないわ。ただ、借地契約が切れたら、更地にしてからお返ししないといけないけどね。でも私に名義変更したわ」
「建物の名義は確かにあなたよ。でも土地は、更地にしてお返ししないといけない約束なの」
「何なのよそれ! 私、そんな説明は受けてないんだけど」
「特に説明する義務はないそうよ。建物の名義変更を頼んだんだから、仕事はちゃんとしたでしょ」
「確かにそうだけど……絶対、わざと隠してたよね」
「土地のことを聞いてくれてたら、教えてたわよ」
「普通はセットだと思うでしょうが!」
「そういえば、借地は年末が更新時期じゃなかったかしら」
「はあ! あと三ヶ月しかないじゃん! 延長すればいいのよね!」
「それは地主さん次第だわ。夫の親友で、私にもよくしてくれた方だから。私が住んでいない以上、更新してくれないかもね」
「ちょっと、冗談きついんだけど!」
「更地にするの意味、分かるわよね。建物は全て解体するのよ。数百万かかるらしいけど、頑張って」
「無理に決まってんでしょ! 夫はこのこと知ってたの?」
「知るわけないでしょ。私が住んでる限り、ずっと使っていい契約だったし、言う必要もなかったもの」
「あんたからその地主に頼んでよ!」
「いやよ。あなたのために頭を下げるなんて、ごめんだわ」
「じゃあ、こっちに戻ってきていいから、名義も戻して!」
「どんなボロ屋か知らないけど、そこよりこっちの方がマシでしょ」
「私は今の家を気に入ってるし、陸ともトレーニングジムがあるし。タワマン最高って喜んでるから、結構よ」
「は? タワマン? なんで貧乏老人がそんなとこ住んでんの?」
「十年前だったかしら。夫が亡くなってから、不動産デベロッパーが実家の土地にタワマンを建築したいから、売って欲しいと言ってきたの。惜しかったけど、家が二つあっても管理しきれないし。最上階の部屋をもらう条件で売ったのよ」
「陸が今住んでるのはタワマンなの?」
「そうよ」
「ずるい! 私はそっちの家が良かったわ!」
「私は、夫の思い出も詰まってるし、地域の皆さんともずっと仲良くやってきたからね。あのタワマンは賃貸に出して、家賃収入を得てたけど。たまたま空きが出たタイミングと、あなたに追い出されたタイミングが同じだったのよ」
「家賃収入って、タワマンの最上階なら相当高いでしょ?」
「200万くらいよ」
「それが毎月……十年近く?」
「ありえない……」
「だから陸を大学に行かせるくらいのお金はあるし、心配しないでと言ってるの。もっとも、そもそも心配なんかしてないか」
「騙したわね」
「何が?」
「あの家の存在を黙ってたことよ」
「自分が住むつもりはなかったし、あなたが欲しがったのはあっちの家でしょ? 願いが叶ったってのに、これ以上何の文句があるの?」
「文句しかないわよ! ふざけんな! 金持ちばあさんだと知ってたら、もっと優しくしてたわ」
「お金のあるなしで態度を変えてくれるの? 当たり前でしょ。だったら、いないと思われてよかったわ。おかげで、あなたの本性が知れたから」
「別にいいわよ。あんたが死ねば、夫が相続する。そうすれば、そのタワマンも私のものよ」
「婚姻関係が続いていれば、でしょ」
「続くに決まってんじゃない」
「浮気がバレても、息子はあなたと一緒にいるかしら?」
「え?」
「陸に話を聞いて、おかしいと思ったのよ。自転車事故の件も嘘だったし。生活が苦しくなったのも、ここ一年ちょっとの話でしょ? 何か変化があったんじゃないかと思ってたの」
「何もないわよ!」
「そうなの。でも探偵の調査結果では、あなたも息子も、外で浮気してたってことになってるけど」
「え……まさも?」
「二人とも外の愛人のことで忙しくて、我が子には見向きもしなかった理由が、やっと分かったわ。子供は敏感よ。親がこっちを向いてないかくらい、ちゃんと感じ取ることができる」
「私は……まさの浮気を許すしかない。じゃないと生活できない」
「あなたはそうでも、あの子はどうかしら? 男っていう生き物は、自分はいいけど女はダメ、だなんて都合のいいことを平気で言う生き物だから」
「離婚は嫌よ! だって解体費用も、全て私一人にのしかかってきちゃうじゃない! せめて息子の名義にしておけば、全部押し付けて逃げられたのにね……よくった結果がこれよ」
「笑いが止まらないわね」
「息子を返して!」
「あら、今度は陸が惜しくなったの? 返してもいいけど、これから進学費用で数百万かかるわよ」
「大学なんて行かせないわ! 今すぐに学校をやめさせて、働かせるに決まってんでしょ!」
「だったら陸の意思に任せるしかないけど。労働力にされると分かって戻るほど、私の孫は愚かじゃないわよ」
「親の権限で取り戻してやる!」
「ご存知ないようだけど、十五歳以上は自分の判断で養子縁組の意思決定ができるのよ。陸が嫌だと言えば、強制はできないわ」
「だめよ! 私の愛しい陸を返して!」
「何の冗談? 誰があなたの言葉を信じるのよ。兵器で我が子を見捨てた人が、愛なんて言葉を使わないで」
「やだ……一人になりたくない」
「彼氏がいるじゃない」
「お金も出せない私と付き合ってくれるわけないじゃない」
「そんなに貢いでたの?」
「家賃とか食費とか携帯とか、生活費まるごとじゃない!」
「彼も旦那も息子も失って、どうやって生きていけば……」
「知ったこっちゃないわ。覚えてる? あなたが自分で、全て選んだのよ」
「こうなるとは思わなかったもん……。ただせめて、陸との親子関係だけでも取り戻したいの。あの子と会えずに、このまま生きていくのは嫌なの」
「それは、本人と話しなさい」
「分かった。実の親子なんだから、必ず許してくれるはずよ」
数分後。
「陸! ……色々とごめんね。許してほしいの」
「許すかよ。ボケ」
「え?」
「タワマン暮らしが最高だとか、ばあちゃんの飯の方がうまいとか、洗濯も自分でしなくて済むとか、そういうことじゃなくて。単純に、俺のことを心から思ってくれるのが誰か、気づいたんだ」
「私よ!」
「違う。俺を産んだあんたらじゃない。本当に大事に思ってるのは、ばあちゃんだよ」
「パパも一緒よ!」
「何がママだ? 何がパパだよ。ふざけんな。俺がどんな思いでカップラーメンにお湯を入れてたか、お前らに分かるかよ」
「今度から心を込めて料理を作るわ!」
「そんな汚い手で作った飯なんて、食べたくもない。今後、LINEもブロックする。いつか和解できるとか、考えるなよ」
「そんなこと言わないで……陸……」
二十分後。
「母さん、みわに聞いたけど、家を解体するんだってな。俺が何も知らない間に、勝手に話が進んでるじゃないか」
「立替えでもするの?」
「さあ。私の名義じゃないから、知らないわ」
「は? どういうこと?」
「みわさんが家をよこせって言うから、あげたの」
「何考えてんだよ。俺ならともかく、嫁にやるなんて。それを俺に何も報告せず決めるのも変だろ。しかも陸を連れて、いつの間にか出てっちゃってるし」
「今更ごちゃごちゃ言われてもね」
「何も聞かされてなかったんだよ!」
「それは夫婦の会話がないのが悪いんじゃない? お互い浮気してて忙しいから、仕方ないわね」
「は? あの女、浮気してんのか?」
「怒る立場にはないでしょ。お互い様なんだから」
「俺は男だからいいんだよ! でも女が浮気なんて、絶対にありえない! 慰謝料取って離婚してやる!」
「取ったところで、相手にも取られてトントンよ」
「そんな……家まで奪われて、金ももらえないのかよ」
「その家も、解体するはめになるんだからいいじゃない」
「それ、どういうことなの?」
「あの家は借地の上に立ってるの。借地を返す時は、上物は取り壊すことになってるのよ。知らなかった?」
「知らなかった……でも、ちょっとざまだな。手にした瞬間、壊さないといけないなんて」
「なんてアホなやつだ。喜んでるところ悪いけど、あなたも家を失うのよ」
「あ、そうだ。母さんの家に住ませてくれよ。タワマン持ってるって聞いたぞ。俺に黙ってたなんて、本当意地悪だな」
「ごめんなさいね。いくら息子とはいえ、可愛い孫が嫌ってる人間を家に入れるわけにはいかないの」
「陸が俺を……? なんでだよ! みわと違って、怒鳴ったりしたこともないぞ!」
「その無関心が問題だって、分からないの。同じ男として尊敬できない父親を、ずっと見てきたのよ」
「俺は家族のために働いてきただろう!」
「そのお金の大半を、誰に使ってきたのか。もう一度振り返れば、答えにたどり着けるはずよ。大学進学を諦めかけた陸の気持ちを考えなさい」
「だって、教育のことはみわに任せてたから……!」
「はいはい。言い訳はもう終わり」
「今更何を言ったって、家族の絆は取り戻せないの?」
「まあいい。そのタワマンだって、いずれは俺のものだ」
「残念だけど、私はまだまだ長生きするし、いずれ陸に生前贈与する予定だから、あなたには一円たりとも残さないわ」
「嘘だろ? こんなのひどすぎる!」
「私と陸は幸せよ。今日は陸のサッカー部の仲間が十人来るの。準備で忙しいから、これでブロックさせてもらうわ」
「実の息子より孫を優先するのか! あんまりだろう!」
「親だから何でも許すと思うな」
その後、みわさんは借地権の延長を認められず、家を解体することになった。その費用はなんと300万。まさに泣きつくも、「自分が勝手にやったくせに頼るな」と一蹴されたらしい。せっかく手に入れたと思ったのに、数ヶ月で解体し、借金まで背負うことになった。
まさとみわさんは当然、離婚することになった。お互い不倫していたので慰謝料はゼロのはずだが、「自分の方が傷ついた」という意味不明な根拠と、夫婦で作った500万の借金の返済をめぐって揉め、ついに泥沼裁判に突入したそうだ。
みわさんの不倫相手は会社の若い子で、その子がSNSに謝罪と二人のラブラブ写真を投稿し、上司にバレて地方へ移動になったらしい。まさは彼氏に逃げられ、今は解体費用の返済のため、大人のデリバリーの仕事をしていると聞いた。一体何を配達するのか。最近の仕事は多種多様なんだな、と思う。
陸は最近、自分で選択をし、お弁当も作っている。先日は私に煮物まで作ってくれた。今まで自分は甘えすぎていたから、やれることは時間を作ってでもやるんだ、と言っていた。あの親の元でこんなに素晴らしい子が育ったのは、単なる奇跡としか言いようがないけれど。私は陸と過ごせる残りの時間を、大切にしたいと思う。
