「ねえ、本当に出張先についていかなくていいの?」夫のその言葉が、私の人生を根底から覆すなんて、あの時は知る由もなかった。大阪での単身赴任生活が始まってから、義母からの電話が止まらない。「ついていかないなんてダメ嫁ね。捨てられるわよ」って言われた時も、車を出せと命令された時も、必死に耐えてきた。でも「高級車で迎えに来なさいよ」って言われた瞬間、私は病院に義母を置き去りにしてきた。心臓はバクバク…

「ねえ、本当に出張先についていかなくていいの?」夫のその言葉が、私の人生を根底から覆すなんて、あの時は知る由もなかった。大阪での単身赴任生活が始まってから、義母からの電話が止まらない。「ついていかないなんてダメ嫁ね。捨てられるわよ」って言われた時も、車を出せと命令された時も、必死に耐えてきた。でも「高級車で迎えに来なさいよ」って言われた瞬間、私は病院に義母を置き去りにしてきた。心臓はバクバク...

高一の出張準備を済ませて、いつもの鞄に買い揃えたものを詰め込んだ。大きな荷物は現地のアパートへ配送の手配もしてある。本来なら自分でやるべきことなのに、いつもあゆみに任せっぱなしで申し訳ないと思っていた。

「本当は全部自分でやれたらいいんだけどな。あゆみに頼りっぱなしでごめん」

「何言ってるの? 高一は朝から晩まで働いてるのに、出張準備までしてたら寝不足になっちゃうでしょ。私なら大丈夫だから。何でも言って」

「ごめんな。本当に助かるよ」

あゆみは少し間を置いて、心配そうな目を向けた。

「ねえ、本当に出張先についていかなくていいの? 今だって激務なのに、大阪に行ったらもっと大変なことになるんじゃない? 」

「だからこそ、あゆみについてきてもらうわけにはいかないんだ。俺のために色々頑張って、無理をするのが目に見えてる」

「そんな夫婦なのに」

「夫婦だからこそだよ。でもさすがにしんどい時は、二日くらいヘルプで来てくれると助かるかな」

「当たり前でしょ。ちょくちょく様子は見に行くから。今日も遅くなるんでしょう?

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夜ご飯用意しておくから」

そう言って笑う妻を見て、高一も頷いた。これから始まる出張が自分にとって大きなチャンスであることを、二人とも分かっていた。

数日後、あゆみが電話に出ると、受話器の向こうから義母の鋭い声が飛び込んできた。

「ちょっと、あゆみさん、あなた何考えてるの? 高一が出張に行くっていうのに、ついていかないなんてどういうこと? 嫁としての役割も果たせないなんて、本当にダメ嫁ね。まあ、高一もこれを機に現地でいい人を見つけて、こんな女とはさっさと離婚すればいいんだわ。あんた捨てられるわよ」

あゆみは一度深呼吸して、冷静に言葉を選んだ。

「お母さんが高一さんを心配に思う気持ちは分かります。でも今回の単身赴任は高一さんからの提案です。出世のかかった大事な出張で、仕事内容も多岐に渡り激務は必至です。私に負担をかけたくないから現地に残っていいって、優しさからそう言ってくれているんです。もちろん高一さんの助けになるために、二日とか数日を細かくしてヘルプに行く予定ですよ。私たち夫婦はきちんとお互いを思って考えています。うまくいっているので、どうぞご安心ください」

「ベラベラ言い訳していくのが面倒なだけでしょ。早く息子から離婚したって言葉を聞くのが楽しみだわ」

その言葉を聞いて、あゆみは何も言い返せなかった。無理に反論すればするほど、義母の機嫌を損ねるだけだと分かっていたからだ。ただ、胸の奥で嫌な予感が膨らんでいくのを感じていた。

一ヶ月後、あゆみが仕事の準備をしていると、義母から電話がかかってきた。

「ねえ、車出してくれる? 買い物行きたいから」

「え?

なんでですか? 」

「なんでですかじゃないわよ。嫁っていうのはね、姑に言われたことは、はい、そうですかって二つ返事で言うことを聞くものなの」

「そう言われても私も働いてますし、平日のこんな時間に車は出せないですよ」

「使えないわね。じゃあ今から言うものを買って届けなさい。それくらいやってくれないと困るわよ。ダメ嫁ってことで高一にちくったっていいんだからね」

あゆみはその日の夕方、義母に言われた品物を揃えて届けた。次の日も同じだった。義母はさらに要求をエスカレートさせていく。

「明日も買い物してもらうからね」

「あの、私もそんなに暇ではないので……」

「口応えするんじゃないわよ。嫁っていうのは姑に尽くすものなの。あんたは今旦那もいないから暇でしょ。だったらその分私に時間を使うの。分かったわね」

あゆみは何も言えずにうつむいた。仕事の合間を縫って義母の要求に応える日々が続き、疲労はどんどん溜まっていった。ついに彼女は、高一に電話をかけた。

「ごめん、忙しいところ。手が開いたタイミングでいいから、ちょっと聞いて欲しいことがあって」

「今ちょうど休憩中だよ。どうかした? 」

「お母さんが急にLINEしてくるようになったの。夫がいないんだから姑に尽くして当然って。車を出せとか、これを買ってこいとか」

「はあ。あのバ……とりあえず今日は言う通りに買い物はしたけど、明日以降も続くと困るなと思って」

「当たり前でしょ。そんなの一回でも無視してよかったのに。俺から言っておくから。あゆみは悪くない。あの人からの連絡は全部無視していいから。なんならブロックしていいよ」

「さすがにブロックまではしないけど。高一が話を聞いてくれて安心したわ。忙しいところ申し訳ないんだけど、お願いね」

それから三日後、義母はさらに怒りを募らせてあゆみの家に電話をかけてきた。

「あんた、高一によくちくったわね。罰として買い物に車を出しなさい」

「あの、高一に言われなかったんですか? もうこういうことはしないようにって」

「なんで私が息子の言うことなんて聞かないといけないの?

母親の方が息子より偉いのは当然でしょ。つまり嫁のあんたは私より下なの。口応えするんじゃないわよ」

あゆみは電話を切った後、震える手で高一にメッセージを送った。数分後、また義母から連絡が来た。

「何無視してんの? さっさと返事しなさい。今日は土曜で仕事休みなんだから車くらい出せるでしょ。このダメ嫁、いい加減にしなさい」

「申し訳ありませんが、私ではなくて高一さんに連絡してください。高一さんから対応しなくていいと言われてるので、嫁は夫の判断に従わせていただきます」

そう言って、あゆみは電話を切った。しかし数日後、状況は一変する。義母から高一に電話が入った。

「昨日、階段から落ちたわ。救急車で運ばれて、今は様子見で入院してるわ」

「そんなにひどいんですか? 」

「しばらく通院とリハビリが必要みたい。あゆみさん、しばらく私のお世話が忙しくなるから、仕事はやめるか休むか、どうにかしておいて」

「え? 当然でしょ。通院はもちろん、家の中の移動も大変なんだから。腰と足を痛めててね。杖がないと歩けないの。座ったり立ったりするのも一人だとしんどくてね。ああ、まあ、ダメ嫁でもいないよりはマシだから頼んだわよ。明日からするから」

あゆみは戸惑いながらも、すぐに高一と相談すると約束した。慌てて彼女は電話をかけた。

「高一、どうしよう。お母さんが家の階段から落ちたみたいで。病院に搬送されて、今入院中。しばらくリハビリが必要みたいで、お母さんは当然私を介護要員にカウントしてるみたいなんだけど」

一時間後、高一から返事が来た。

「ごめん、返事遅れた。マジかよ。ぶっちゃけ怪我したことはどうでもいいけど、あゆみを介護要員になんて絶対させないから。どっか適当に施設にでもぶち込めばいいよ」

「そう簡単な話じゃないでしょ。今私も色々調べたり、市役所に問い合わせたりしたけど、介護施設は空きがないんですって。それに病院にも話を聞きたくて電話したけど、お母さんはあくまで要支援で要介護にはならないの」

「なんだよそれ。マジで福祉を甘く見てんな、この国は。あゆみ、母さんのことは放っておいていいからな。怪我が良くなれば自力で何とかできるだろう」

「高一、そんな言い方しないで。お母さんだって好きで怪我したわけじゃないだろうし。でも、あゆみを介護要員にして面倒見てもらおうなんて。俺は嫌だよ。普段あんなにあゆみをいびってるくせに、こんな時だけ助けてもらおうなんてさ」

「私だって心よく介護しますなんて思ってないよ。でも高一は長男で一人っ子だし、覚悟はしてたの。それにしばらく通院すれば良くなるんだし、ずっとじゃないでしょ。だから腹くくって頑張るよ」

「分かった。でも嫌になったら本当に言って。俺も色々対応策を考えてみるから」

「ありがとう。いつも高一が味方だから頑張れるよ」

数日後、あゆみは義母の家で昼食の準備をしていた。しかし義母は不満げに顔を歪めた。

「ねえ、お昼ご飯はさっさとしてよ。本当に使えないんだから」

「お昼は仕事中なので、ご自分で出前を頼んでください。夜ご飯は作りに戻りますから」

「それなら、あんたが十二時までに出前を頼んで家に届くようにするくらいできないの?

」

「私が頼んだら、好みのものにならないと思いますし」

「ああ、もう口応えばっかりでイライラするわね」

「お母さんも体が不自由で苛立ちはあると思います。でも何でもかんでも対応はできません。すみませんがお昼の用意は自力でどうにかしてください」

その日の夜、あゆみが寝るまでの支度を整えて帰ろうとすると、義母が車を降りる直前になって文句を言い始めた。

「なんで止まって帰らないの? 」

「その家から私の職場は遠いから、基本的には泊まれないって話しましたよね。寝るまでの支度を整えるまでお手伝いしますって、そういう約束だったじゃないですか」

「覚えてないわね。なんでもっと姑に尽くそうと思わないのかしら」

「私なりに精一杯やってます」

「足りないのよ。もっとしっかりやりなさいよ。こっちは足も腰も痛めてるんだからね。本当に使えないんだから」

あゆみは運転席に座ったまま、義母には聞こえないように深くため息をついた。もう限界だった。帰宅する車の中で、彼女はたまきばあちゃんに電話をかけていた。高一の祖母であり、あゆみが最も信頼している人物だった。

「たまきさん、夜分遅くにごめんなさい。今ちょっとだけいいですか? 」

「はいはい。たまきばあちゃんですよ。緊急かしら? あゆみちゃんからの連絡だものね」

「お母さんのことで、ちょっと……」

「高一から一通り聞いてるよ。面倒を押し付けることになって申し訳ないね」

「あの……迷惑かけてるんじゃないでしょうか。告げ口みたいなことはあんまりしたくないんですけど、さすがにしんどくて。私も仕事をしているから完全介護は無理で、できる範囲で通いでサポートさせてもらいますって、怪我が治るまでリハビリする約束だったんです。でも朝から晩まですごい数のLINEが来て、お昼も作りに来いって言うんですよ。自分で出前すればすぐなのに、十二時になったらお昼が届くように私に出前しろとか」

「ちょっと待って、ちょっと待って。本気で言ってんの?

その嫁は」

「大真面目に言ってるっぽいです。さっきもお風呂とトイレと着替えを手伝って、寝る準備を整えて出てきたんですけど、私が車に乗った途端に、なんで泊まっていかないの? もっと姑に尽くしなさいって、ぶち切れが止まらなくて。今未読四十三件、在着信十四件になりました」

「こわ。何それ? ふん。まあ、ゆき子さんの性格だからね。あゆみちゃんが苦労するんじゃないかって心配は結婚前からしててね。私からも何回か伝えてたでしょう。最初は断っていいよって」

「はい。それは高一からも言われていて……昔からあんな感じなんですか? 」

「癖は強かったわね。マウントで他人を見下すみたいな。私だって好きなタイプじゃないわよ。こいっちゃなんですけど、なんでお父さんは結婚されたんですかね?

私が高一とお付き合いを始めた時にはすでに亡くなっていましたし」

「まあ、それは深く私から話していいか微妙なところだからあれなんだけど、うまくいっていた結婚生活ではなかったわね。その証拠に、高一がゆき子さんを嫌いしてるでしょ。父親が亡くなって、あとは母親だけだっていうのに、あの態度なんだから相当ってことよ」

「なるほど。私自分で引き受けておいて無責任だって分かってるんですけど、ちょっともう限界で……」

「当たり前よ。むしろよく今まで我慢したわね。打ち明けてくれてありがとう。あゆみちゃんじゃなくて、真っ先に私に言うべきだったのに。あの子もまとめて説教だね。たまきばあちゃんの華麗なる人脈パワーを活用してやるわよ」

「華麗なる人脈ですか? 」

「そう、私、介護資格を持ってる知人がいるから、私が費用を出してサポートをお願いしようかと思って」

「そんな、そこまでしていただくのは……話を聞いてくれる人がいてくれるだけで心強いです」

「だめだめ。あゆみちゃんはそうやって何でも抱え込んじゃうんだから。知り合いに話をつけるまでの数日だけ我慢して、その後のことは私に任せてくれたらいいわ」

「本当に何から何までありがとうございます。あと数日なら頑張れそうです」

あゆみは心の中で小さく息を吐いた。数日なら、気持ちに余裕を持って乗り切れるかもしれない。しかし、事態は思ったより早く動き出した。

二日後、あゆみは義母の退院の日に病院へ迎えに行った。車を止めて、会計を済ませたあゆみがベンチで待っている義母の元へ歩み寄ると、義母は突然声を荒げた。

「あんた、何考えてるの? 」

「え、何のことですか? 」

「病院の送迎は高級車でしなさいよ。使えない嫁め。私にこの安物に乗れって言うの。なめてるの?

」

「じゃあ帰るので、タクシーでどうぞ」

「ああ。いや、何言ってんの? そんなもったいないことしないから。あのベンチに座ってるから早く車を寄せて。回転寿司混んじゃうでしょ」

「もういいです。このまま出します」

「ちょっと、ちょっと何? 」

十分後、あゆみは義母を病院のベンチに置いたまま、駐車場を後にした。心臓がバクバクと鳴っていたが、不思議と後悔はなかった。すぐに彼女はたまきばあちゃんに電話をかけた。

「たまきさん、どうしましょう? お母さんを病院に置いてきちゃいました。どうしよう。すぐに戻らないと」

「いいわよ、そんなのほっておきなさい。むしろ自業自得よ。高級車で来いって。いつお嬢様キャラになったのよ。あの子、普通の庶民だから」

「でもお母さん足が悪いし、早くしないと……」

「歩かせりゃいいのよ。リハビリよ。さて、あとは私に任せてちょうだい。姑が一番嫌がるのが大姑ってところを見せてあげるから」

数分後、たまきばあちゃんから義母に電話が入った。

「ゆき子さん、状況はどう?

高一から怪我して入院してリハビリが必要って連絡を受けたんだけど、生活は大丈夫なの? 」

「お母さん、聞いてくださいよ。あの嫁、私のことを病院に置いてったんですよ。ありえなくないですか? 介護も適当だし、手抜きだし。失礼にも程がありますよ」

「あら、そうなの」

「私は立ち上がったり座るだけでも大変なのに。仕事があるからってお昼は作らないし、泊まらないでさっさと帰るし。何かあれば高一が来るんですよ。本当に毒嫁ですよ。お母さんからも何か言ってやってください」

「じゃあとりあえず迎えを出してあげるから、うちでじっくり話を聞いてあげるわね」

「本当ですか? ありがとうございます」

十数分後、迎えの車は義母をある集合住宅の前で降ろした。義母は車を降りて、辺りを見回しながら不満そうに口を開いた。

「あの、ちょっと待ってください。これどうなってるんですか?

」

「何が? 」

「誰? この人たち。怖いんですけど」

「誰って? 私の知り合いだけど、もちろん介護資格を持った人たちだから」

「そういう話じゃなくて、屈強で怖いんですけど。しかも何ですか?

ここ全然知らない集合住宅なんですけど」

「そこは要支援の人が暮らしてる集合住宅で、半分は介護資格を持った人が暮らしてるの。介護施設に入るほどでもないし、そもそも空きがなくて入れない人たち向けね。買い物とか散歩とか、あとはお風呂とかいろいろ日々のサポートが受けられるってわけ」

「ちょっと待ってくださいよ。いきなりそんなこと言われても困ります。こんなところで暮らしたくないわ。家に帰りたい。なんでこんな目に会わないといけないの? 」

「そんなの全部自業自得でしょうよ。大体私は、あんたの小悪さにはうんざりしてたんだ」

「終わるっていきなり何ですか? 」

「自覚がないの? それも問題だね。息子があんたと結婚したのは、子供ができたから責任を取るため。あんたは経済的に息子に依存していたから、離婚にならないよう弱みを握って物分かりよくしてたんでしょ。全部わかってるんだよ」

「いきなりそんなこと言われても……」

「夫が死んで、離婚に気を使う必要もなくなった。それで気を使わない自分の本性を全開にしたってのは、まあいいわよ。でもあんた、高一に仕送り頼んだりしてたんでしょ。それなのに大事な嫁をいびるなんて、ちょっと頭が足りてないんじゃない?

」

「余計なお世話よ。あんただって私をいびってたくせに」

「私が? 覚えがないね」

「やれ無駄遣いするな、だの、言葉遣いに気をつけろ、だの。口うるさいババアだっただろうが」

「それはいびりじゃなくて、躾っていうの。大人として必要最低限の嗜みでしょ。それもかなり控えめに行ったつもりなんだけど」

「うるさい。やった方は覚えてないもんよね」

「じゃああんたが、あゆみさんをいびったのは自分がやられた返しのストレス発散ってこと? 」

「嫌なら嫌って言えばいいのよ。言い返さない。そっちが悪いの。私のせいじゃないから」

「あ、そういうところが小悪だって言ってんだよ。話のわかんない子だね」

「うるさい。とにかく、こんなところ出ていくから」

「あんたがどういうつもりであゆみちゃんをいびっていたかなんて、私にはどうでもいいことだよ。大事なのは、あゆみちゃんが私にSOSを出したこと。大事な孫嫁を傷つけたこと。百万倍返ししてやるから覚悟しなさい。なんてね」

数分後、高一一がたまきばあちゃんから電話を受けた。彼は妻の頑張りを軽く見ていた自分を恥じた。義母からの介護の要求に、あゆみがどれだけ耐えていたか。それを思うと、申し訳なくてたまらなかった。

「高一、何を考えてるの? あゆみちゃんが断れないことくらい分かってるのに、あんな毒を吐くような介護をやらせるなんて。あゆみちゃんがやるって言ってもやらせない。それが旦那であるあんたの仕事だろうが」

「はい。申し開きもありません」

「これはね、世の中では離婚案件って言うんだよねえ。あゆみちゃんに言ってやりなさい」

「ごめんなさい。俺が甘かったです。全面的に俺が悪かったです。これから本当に頑張るし、改めるから。嫌いにならないでほしい。離婚しないでほしい。お願いです」

あゆみは首を横に振った。

「そんな風に謝らないで。私は高一に感謝してるし、高一に不満もないよ。それに今回のことは、私の断れなさが改めて良くないって感じる出来事だったよ。私だけじゃなくて、高一やたまき様まで巻き込んで迷惑をかけて……」

「何言ってんの?

迷惑かけてるのはこっち。身内の問題にお嫁さんを巻き込むなんて、今後どうこうする」

「分かってんだろうね」

「はい。二度とこのようなことにならないように、全身全霊で対応させていただきます」

数日後、義母は集合住宅の一室でスマホを見ながら叫んでいた。

「助けて。もう無理。限界。我慢できない。誰も私の話を聞いてくれないのよ。信じられないでしょ。お昼の買い物は強制的に生かされるし、家でじっとしてようもんなら、これでリハビリですよって動かされるし。こんなの刑務所と一緒だわ。もういいや。もう二度とあゆみさんをいびったりしないから、助けに来てよ。お願い。今すぐ」

数時間後、あゆみのスマホに義母からの着信記録が何件も残っていた。あゆみはそれらを全て無視した。やがて高一のスマホにも同じように着信が入った。

「ねえ、あゆみさんが無視するんだけど、どうなってんの? 高一、助けて。お願い。もう無理。ここにいたらストレスで早死にする」

「悪いけど、しばらく母さんとは話したくない。あゆみに対してどれだけ失礼なことを言ってきたか、俺が知らないって本気で思ってんの? 」

「それは姑としてのしつけであって……」

「ばあちゃんは母さんにそんなことしたの? してないと思うけどね。それに俺は母さんが人として嫌いだ。いつも父さんを見下してバカにして、そのくせ父さんが離婚だって言えば泣いて喚いて暴れまくるし。本当に自分勝手でわがままでヒステリー。俺にとって最悪の女性像は母さんだよ」

「なんでそんなひどいこと言うのよ。たった一人のお母さんじゃないの」

「それが母さんだっていう事実が、俺の人生最大の汚点だよ。反省する気持ちがあるなら、元気になるまでそこで過ごすんだな」

一週間後、義母はまた電話をかけてきた。

「ねえ、なんであゆみさんが留守なのよ。今日は日曜日でしょ。おかしいわ。あんたの単身赴任の目を盗んで浮気してるんじゃないの?

まさかアパートを逃げ出したのか。呆きれたな、本当に。もう足も痛いし、腰も痛いし動けないわ。ねえ、お願いよ。あゆみさんに連絡して、家に入れて」

「その家にあゆみが帰ることはないよ。週末には業者に頼んで綺麗にしてもらうし、今月末には解約するから」

「は? 何言ってんのよ。冗談でしょ? 」

「冗談じゃないよ。あゆみは俺の単身赴任先に来てるから、母さんと会うことは二度とないんだよ。いい加減諦める気になった」

「お願い。一度でいいから。あゆみさんと話をさせて。お願いよ」

「ちゃんと連絡して、回収の車を呼んだよ。二度とアパートの隣人に迷惑をかけるなよ」

翌日、義母はあゆみのLINEに長文のメッセージを送っていた。

「ごめんなさい。ちょっと苛めてみたかっただけで、あゆみさんがいてくれないと困るわ。ここから逃がしてもう辛いのよ」

さらに翌日。

「あゆみさんがどれだけ私に尽くしてくれていたか、失って気がついたわ。もう二度とひどいことは言わないから。あゆみさんに面倒を見てもらいたいの。一度でいいから返事をちょうだい。お願い」

数日後、義母はアパートの外に一台の車を見つけた。あゆみの車だった。義母は慌てて外に出て、あゆみに声をかけた。

「あゆみさん、私に会いに来てくれたのよね。今アパートの外に車が見えたわ。ねえ、そうでしょ。ああ、やっと待ってたわ」

しかしあゆみは、車の横で職員たちと話をしていた。

「え、まさか。これから単身赴任先に行くので、アパートに細かい荷物を取りに来たついでに、職員さんたちに挨拶に来ただけです」

「なんでそんなこと言うの? 私も連れてってよ。お願い。もうわがまま言わないから。意地悪も言わない。苛めない。約束する」

あゆみは静かに首を振った。

「お母さんに何を言われてもずっと我慢してました。でももう限界です。安物の車に乗れって、使えないダメ嫁って。そんな言葉を何度も言われて、それでも一生懸命やってきたんです。だって、あゆみさんだって言い返さなかったし……拒否されなかったから、嫌がってないのかなみたいな」

「だって、私……」

「私、夫と結婚して幸せでした。私がいろんな人に仕事を押し付けられて断れないでいるところを見て、相手にも私にも怒ってくれた人なんです。父に厳しくというか理不尽にしつけられて、自分の意見を言うことができない。人から言われたことに抵抗できない。私はそんな人間でした。夫はそんな私に、誰かに言われるままになるな。自分の意見を我慢することになるなって、まっすぐな目で言ってくれたんです。そういう人だから結婚しようと思えた。守ってもらえるし、自分自身も変われるかもって。でもお母さんのせいで、幸せな結婚生活が台無しになりました。それなのに、どうしてお世話してもらえると思えるんですか?

笑わせないでくださいよ」

「でも辛いのよ。私も辛いの。息子以外頼れる人がいないんだから。嫁に頼るのは当然でしょ」

「辛いんですよね。帰りたいんですよね。私もずっと辛かったんです。光一とたまきさんがいつも気にかけてくれていたから、なんとか頑張れていましたけど、限度がありますよ。お母さんは助けてくれないどころか、私を苦しめて楽しんでいたんですから。ストレス発散だったんですもんね。たまきさんへの愚痴、全部知ってるんですよ」

「それは謝るから。お願い、私を連れてってよ」

「ああ、そういえば、高級車じゃないと乗れないんでしたっけ? 私は貧乏臭い軽自動車しか持ってないので。今度こそ本当にさようならです。さようなら」

そう言ってあゆみは車に乗り込み、そのまま走り去った。義母はその後ろ姿を見ながら、何も言えずに立ち尽くしていた。

一ヶ月後、あゆみとたまきばあちゃんが電話で話していた。

「あゆみちゃん、久しぶり。そっちの生活はどうかしら? 」

「すごく楽しいです。関西の人たちって勢いがすごくって。あんた、言いたいことはちゃんと言いなって、ご近所さんが背中を叩いてくれるから。私、こんなに自分の意見を言う生活は初めてで、毎日新鮮です」

「まあ、いいわね。あゆみちゃんが楽しくやってくれてるのが、何より嬉しいわ。それでちょっと報告があるんだけど」

「え、何かあったんですか? 」

「それがね、ゆき子さんなんだけど、あゆみちゃんが単身赴任先に行ったから、ゆき子さんも追いかけようとしたみたいで」

「え?

」

「一応こっちは止めてるのよ。体が弱ってるのは事実だからね。でも介護施設と違って二十四時間監視はできないとなると、完全ガードは無理なのよ」

「じゃあ新幹線に乗って、こっちに向かってるとか? 」

「それだったらまだマシだったんだけど、もう一度階段から落ちちゃってね。すぐに救急車で運ばれたんだけど、下半身を複雑骨折しちゃって。リハビリ次第で歩けるようになるかもだけど、年齢や性格的なことを考慮しても絶望的ね。ほぼ車椅子生活になっちゃった」

「そんな……どうしよう。私のせいで……」

「間違っても自分のせいなんて言わないで。完全に自業自得だから。今、高一と施設費用について話し合ってるんだけど、これがまたびっくりなんだけどね。あの人、息子が残した遺産にも手を出してたらしくって、まとまったお金が残ってなかったのよ」

「どこまでとんでもない人なんですか」

「ちょっとでも同情した私の気持ち。本当よね。でも高一も、念のためゆき子さんが相続した遺産の半分は老後資金として管理してたらしくて、施設費用はそれでなんとか賄えそうよ」

「本当ですか? だったらよかった。でも私、こんなに大事な話なのに、高一から何も聞かされてなくて。たまきさんから教えてもらうまで何も知りませんでしたよ」

「これ以上あゆみちゃんにゆき子さんのことで心を痛めてほしくなかったのよ。あゆみちゃんは優しいから。そんなことないです。断れないだけですよ」

「それも根底にあるのは、あゆみちゃんの優しさだから。そしてあれはあの人の自業自得。気に病まないでね」

その後、義母は施設に入り、一人寂しく暮らしているという。たまきばあちゃんの知り合いが営むその介護施設では、義母が「そんな嫁いびりみたいな発言をスタッフにしないでください」と厳しく怒られて、大人しくなっているらしい。たまきばあちゃんが「こんなことなら離婚だね。施設に入れてくれただけ感謝しなさい」ときつく言ってくれているとのことだった。

あゆみは単身赴任先で新しい生活を始め、今までのように他人の指示に負けず、自分の意見を言って人に流されずに生きていく練習をしていた。断れないことが必ずしも悪いというわけではないが、自分と自分を大事に思ってくれる人のために強くなることも大事だと学んだ一年だった。たまきばあちゃんが遊びに来てくれる時、少しでも変わったねと言ってもらえるように、あゆみはこれからも頑張りたいと思っていた。