所用で名古屋まで来たついでに、久しぶりに義母の家を訪ねた。インターホンを押すと、顔のパーツが異常に中央に寄った女性と、同じく顔のパーツが中央に寄った男の子が玄関に出てきた。驚いて、家を間違えましたと言ってすぐにドアを閉めた。
「あの、お母さん。引っ越しされたんですか?」
後で電話でそう尋ねると、義母は「はあ?」と怪訝な声を出した。
「引っ越しなんてしてないわよ」
「じゃあ、あの顔のパーツが中央に寄った女性は誰なんですか?」
「親戚の子に決まってるでしょ」
「そうだったんですか。見たことのない顔だったので驚いてしまって、挨拶もできず失礼しました」
「構わないわ。気にしないで」
「では、またお伺いします」
「できればあまり来ないで欲しいの」
「なぜでしょうか?」
「まあ、なんていうか、色々あるのよ」
「そうですか。悲しいですが、分かりました」
電話を切った数分後、義母は息子に電話をかけていた。
「まずいことになったわ。あなたの嫁が突然うちに来たのよ」
「え?まおが?なんで新幹線で1時間半もかかるのに」
「所要があるとか言ってたわ。名古屋に来るなんて聞いてないんだけど」
「もしかしてバレたんじゃないかしら」
「そんなわけないだろ。でも、とみさんが玄関先まで出ちゃったらしいの」
「大した会話はしてないみたいだし、親戚だってごまかしておいたわ」
「なら大丈夫だろ。あいつ単純だし信じてるよ。今離婚できるように準備してる最中だから、あと少しの辛抱だ」
「早くして欲しいわ。心臓がいくつあっても足りないの」
「分かってるって。堂々としてりゃいいんだからさ」
「もう来ないよう言っといてよ。あなたはまおさんの父親の会社で働いてるんだし、バレたらすぐに首にされるわ」
「あいつにバレないよ。ところで、まおさんはどうして父親の会社で働かないの?」
「仕事とプライベートは分けたいとか言って、どっかの女社長の会社で働いてるんだよ」
「変な親子ね」
「だろう?でも、そのうち俺が社長になるから、それまでの辛抱だよ」
「楽しみにしてるわ」
その頃、まおの夫はまおに問い詰めていた。
「なんで実家まで行ったんだ?」
「ちょっと仕事で用事があったのよ」
「それが何かを聞いてるんだよ」
「仕事だって言ってるじゃない」
「お前の仕事に出張なんてないだろ」
「社長にちょっとしたお使いを頼まれたの」
「さすが女社長だな。人使いが荒すぎるだろ」
「別にいいでしょ。なんでそんなに気にするの?私が義実家に行くことがそんなにダメなこと?」
「いや、いきなり行ったら母さんが驚くだろ」
「事前に連絡しなかったのは悪かったと思ってるわ。でも、お母さんだって突然東京の家に来るし。そういうの大丈夫な人なのかなと思ったのよ」
「もう二度としないでくれ。母さんの心臓が止まったら、お前に責任が取れるのかよ」
「嫁が尋ねたくらいで何をそんなに驚くことがあるの?」
「それができない心臓なんだよ」
「分かりました。いきなり尋ねるのはやめるわ」
「頼んだぞ」
一週間後、まおは義母にLINEを送った。
「お母さん、今日はご自宅にいらっしゃいます?」
「いるけど。何?」
「事前に連絡しろと言われたのでしています。今からお伺いしますね」
「え、今インターホン鳴らしたの、あなた?」
「はい」
「なんでLINEしてから3秒で来るのよ」
「3秒の女と呼んでいただいても構いませんよ」
「あのね、あまり来ないで欲しいと伝えたわよね」
「人によって“あまり”という感覚は異なりますが、私にとっては今回は“あまり”ではありません」
「いいから帰りなさい」
「なぜですか?せっかく所用のついでに寄ったのに。しかも、東京で2時間待ちの行列ができるスイーツを買ってきたのに」
「玄関先に置いといて」
「顔も見せずに土産だけ受け取ろうなんて、どちらが非常識か分かりませんね」
「あんた、しょっちゅう名古屋で何の用事があるの?」
「所用です。今は帰宅中なのです」
「今日は帰って」
まおは玄関先に目をやった。
「外に小さな補助輪付き自転車がありますが、また顔パ中親子が来てるんですか?」
「はあ?何それ?」
「毎回言うのが面倒なんで、顔のパーツが中央に寄ったを略してみました。顔パ中とお読みください」
「あんた、人の顔をディスれるほどの人間なの?」
「まあ確かに、顔のパーツが神の采配によって無作為に配置されたお母さんと夫に言えるほど整った顔をしてるわけじゃありませんが、ここまでコケにされたなら多少の権利はあるかと」
「誰が神の采配だって。というか、いつ誰があんたをコケにしたって?」
「だって、愛人と隠し子を飼ってるでしょ?」
「は?」
「普通は“たまには実家に帰ってきなさいね”というところですが、お母さんがしょっちゅう東京に来てたのはこれを隠すためだったんですね」
「ちょっと、何を言ってるのか分からないわね」
「もしかして私の勘違いでした?」
「当然よ。隠し子なんているわけないでしょ」
「ですよね。ありえないし、最低ですよね」
「そりゃそうよ。息子はそんな野暮なことしないわ」
「だったら安心しました。いつ来ても顔パ中親子がいるので、もしかしてとつい疑っちゃいました」
「あんた、ちなみにうちを尋ねたのは何回目?」
「5回くらいでしょうか?」
「そんなに来てたの?どうしてわざわざ名古屋まで?」
「所用です」
「その中身を言いなさいって言ってるのよ」
「とにかく安心しました。隠し子疑惑が晴れてすっきりです。味噌カツ食べて帰ります」
数分後、義母はまた息子に電話をかけていた。
「また来たわ。あんたの嫁よ」
「また?なんで所用としか言わないんだ」
「あの女、隠し子って言ってたわ。気づいてるのよ」
「あいつに分かるわけない」
「でも、すでに5回はうちに来てるって言ってたわ。嘘でしょ?」
「あれは確実に私たちを疑ってるわ。もう潮時なのかもしれない」
「困ったなあ」
「でも、目的はまだ達成してないんでしょ?」
「仕方ない。諦めよう。次のターゲットが見つかれば、そっちに乗り換えればいいし」
「そんなに簡単に見つかればいいけど」
「俺、こう見えて意外とモテるんだぜ」
「そういえば、あの女、私たちの顔を“神様のいたずら”とか言ってバカにしたのよ」
「言ったのか?あの野郎、性格が悪いな」
「そうなの?あれ、性格が悪いの?」
「そうとしか思えないだろ。じゃなきゃ、あんなに整ってるはずがないし」
「そうよね。これで納得したわ。また突撃されてごまかすのも疲れただろう」
「そうなのよ。毎度どぎまぎしちゃって」
「もういいよ。多分、あいつも気づいてるからこういうことしてるんだろうし、俺は認めるわ」
「でも、そんなことしたら慰謝料どうのこうの言われない?」
「言わせないよ」
「そんなことが可能なの?」
「俺に任せておけって」
翌日、まおは夫に言った。
「お前、最近よく名古屋に行ってるらしいな。社長もお使いさせないか?」
「あんた、所用が多くてまいっちゃう」
「見たんだろ」
「何を?」
「女と子供」
「ああ、顔面にパーツが寄った親子のことね。何とでも言え」
「そうやって何かをディスってないと平常心を保てないんだろう。名前を知らないから特徴を言ってるだけよ」
「実家に元カノと隠し子がいたの。ショックだったか?」
「あれ、元カノだったんだね。でも、こっちが本当の家族だから、両親も公認済みだし」
「もちろん、全部知ってたよ」
「は?」
「明らかに名古屋出張が多いし、最初から変だなとは思ってたけど、確信したのは2年前くらいかな」
「バレるはずないと思ってたのに。なぜ分かった?」
「あなたの出張鞄の中に、おしゃぶりが入ってた」
「子供持ちの女と浮気してんのかなと思ったけど、そういう浮気だったら悪いから、しばらくは放置してたの」
「そんな鞄ねえよ。あれはカイトのだ」
「あの子、カイト君って言うんだ。母親そっくりね。見た感じ3歳くらいだったけど。あの女の人は、いつから義実家に住んでるの?」
「確か5年くらい前だったかな。うちらが結婚した年じゃないの」
「俺が結婚するって知った元カノが、復縁要請をしてきたんだ。俺が他の人のものになると思ったら、いても立ってもいられなくなったんだってさ。可愛いやつだろ」
「うん。可愛いね。地獄の沙汰みたいで可愛い」
「東京で社長秘書やってたんだけどさ、社長と揉めて退職したらしくて、住むところもなかったから。名古屋の家に住ませてたら、子供ができたってわけ」
「ご両親は何も言わなかったの?」
「父さんは入院してて、そのままぽっくり行ったし。母さんはミサのこと気に入ってたから、むしろ喜んでたな」
「なんで私との結婚を取りやめなかったのよ」
「まあ、それは色々って感じで」
「もしかして、父のことと関係がある?」
「さすが、よく分かったな。このまま一緒にいれば、いずれ社長の椅子に座れるかと思ってたけど、お義父さんピンピンしてるし、無駄に長生きしそうだから諦めることにするわ」
「うちの父は健康診断オールAだからね」
「社長の娘と結婚したからって、いずれ社長になれる保証なんてないのに。そうなんだよ。それに気づくのがちょっと遅かった」
「お父さんも、俺のことあまり可愛がってくれないしさ」
「あなたが食事の誘いを全部断るからでしょ」
「年寄りとの飯より、だるいもんはないからな」
「ま、そういうわけなんで、離婚の方向でよろしく」
「そんな風に簡単に逃げられるほど、大人の世界は甘くないの、知ってるでしょう」
「慰謝料とか言い出すんだろ」
「そりゃ、これだけ長い時間騙されてたわけだし、それなりの誠意は見せていただかないと」
「お前にそんなことを言う権利も資格もないと思うけどな」
「どういう意味?」
「俺はお父さんの会社に入ってから、ある秘密を握ってしまったんだよ」
「は?業務上知り得たってやつ?」
「何よそれ」
「お前は別の会社だから知らないだろうけど、あの狸親父はとんでもないぞ」
「父はそんなことする人じゃない」
「いくら社長だからと言って、会社の金を自由にしていいわけじゃないんだよ。俺はその証拠を握ってるんだぞ。お前が慰謝料請求してきたら、同時に警察に行くからな」
「脅してるの?」
「交渉だ。俺には確かに隠し子がいるが、犯罪ではない。でも、お前の親父は捕まる。どっちが悪人か分かるだろう」
「その証拠を見せなさい」
「やだね。でも、本物だぞ」
「もういい。慰謝料は請求しないから、余計なことをしないで」
「最初からそう言えばいいんだよ。じゃあな」
翌日、まおは父に言った。
「お父さん、私、離婚することになったから」
「そうだろうと思った」
「なんで?」
「タケル君から退職届が届いたんだ」
「もう、まるで準備してたみたいね」
「おそらくそうだろうな」
「お父さんの会社に入れてもらったのに。ごめん。最後の挨拶なしに退職届を送りつけるなんて、非常識にもほどがある」
「魔王の旦那だからと特別扱いはしてないぞ。入社も一応試験は全てパスしてきたわけだし、決して無能というほどでもなかった。まあ、人間性に問題はあったらしいがな」
「え、何があったの?」
「“黙っておけ”と言ったのに、社長の息子だとか、自分が次期社長だとか言って回ってたらしい」
「あ、アホすぎる。社員も俺の身内ってことで、なかなか言い出せず困ってたらしいんだ」
「迷惑かけたね」
「俺は構わないが、社員には申し訳なく思ってるよ」
「本当にごめん」
「ところで、何があったんだ?浮気でもされてたか?」
「実は、あの人、愛人と隠し子がいたみたいなの」
「はあ。なんてけしからん奴だ」
「しかも、実家でお母さんがかまってたみたい」
「親までグルなのか。とんでもない家族だな」
「義実家まで行って本人たちの顔も見たし、証拠も抑えたんだけど、全然悪びれる様子がなくて」
「なんでだよ」
「さっさと慰謝料もらって別れればいいだろう」
「それが、お父さんの横領の証拠を握ってるから、慰謝料請求なんかしたら告発するって言ってるのよ」
「おいおい、何の冗談だ?」
「分からない。確実な証拠を持ってるって言ってた」
「魔王は、父さんがそんなことをするように見えるか?」
「見えないよ。おそらくデマか虚偽だろうとは思ってる。でも、この世の中、全て真実が勝つとは限らないじゃない」
「そうだな。それでも、自分が正しいと胸を張って言えるぞ。父さんは何も悪いことはしてないだろ?」
「曲がったことは大嫌いな人だもんね」
「おう。20年社長やってるんだぞ。舐めるなよ」
「お父さんのことを信じるよ。私は堂々と慰謝料請求して、権利を主張してやる」
「このこと、母さんにはまだ言うな」
「なんで?」
「名古屋まで飛んで行って暴れるに違いないから」
「あり得る」
数日後、タケルがまおに詰め寄った。
「俺の言ったことが理解できなかったか。慰謝料請求なんかして、無事で済むと思ってんのかよ」
「うん。だって、父は潔白だから」
「ふざけんな。役員報酬とは別に3000万振り込まれた形があるんだよ」
「それは、役員貸付金だね」
「はあ?」
「返済契約書もあるし、利息も払ってる。取締役会も承認済みらしいわよ」
「なんだそれ?3000万だぞ。大金だぞ」
「祖父が亡くなって、他に多額の相続税がかかったのよ。銀行に借りるより手続きが早いから、貸付を利用したの」
「そんな素敵なことに使っていいわけないだろ」
「問題ないからやってるし、返済計画書もあるから。税務的にも何の問題もないの」
「マジかよ」
「それだけで父を刑務所にぶち込もうと思ってたの?」
「他にもある。会社名義の別荘を、自分の別荘として使ってた」
「それは会社の福利厚生として、他の社員も利用できるわ。当然社長である父にだって使う権利はある」
「そうなのか」
「これだけ?他にもあるはずだが、今は証拠がない。後で出す」
「何を掘り下げても無駄よ。父はクリーンだから」
「うるさい。人間は叩けばホコリが出るんだよ」
「あなたみたいに」
「俺の家族はホコリじゃない」
「ホコリの方がまだマシかもね」
「なんだよ。どういう意味だ?」
「そのうち、全て分かると思うよ。じゃあ、離婚の手続き進めるわ。慰謝料よろしく」
「ふざけんな。俺は絶対に金なんか払わないぞ」
三日後、義母からタケルに電話が入った。
「大変よ。ミサさんが捕まったわ。突然警察が来て、連れて行かれたの」
「何の容疑で?」
「窃盗だって。万引きか?」
「違う。前職の時に、社長さんの貴金属やバッグを2億円分くらい盗んで逃げたらしいのよ」
「ミサは東京の会社で秘書してたみたいなんだ」
「だからって、人のものを盗むなんて。秘書なら社長に一番近いし、盗みやすいわね」
「カイトは大丈夫?」
「ママはお出かけしたのって、よく分かってないみたい」
「俺も、まおとの離婚で少し揉めて、弁護士とやり取りしたりで、今週は帰れない。カイトのこと、よろしく頼む」
「それは構わないけど、不安だわ。逃げてた期間長いし、執行猶予にならないかしら」
「その時は、母さんに育児を頼むしかない」
「はあ?あんた、帰ってこれないの?まおさんのお父さんの会社は辞めたんでしょ?」
「そうだけど、俺は名古屋より東京の水が合ってるし」
「何言ってんの?子供がいるのよ。そもそも、俺の子かどうかも怪しいよな。あまりにも俺に似てないし」
「今まで可愛がってたじゃない」
「それはたまに会うから可愛いんであって、毎日ってなるとちょっときついよ」
「なんて親なのよ。私だってリスクを犯して、この子を守ってきたのよ。あんたが“いつまでももう少し待って”って言うから待ってたのに、最後は押し付ける気?」
「うるさいな。孫なんだから、面倒見れるのは嬉しいだろう」
「元気に走り回る3歳児を追いかける体力はない」
「じゃあジムでも行けばいいだろ。金なら出すよ」
「ふざけてないで、一度帰ってきなさい」
「いいや」
数日後、タケルがまおに言った。
「お前、子供欲しがってたよな」
「数日後に離婚が成立する夫婦の会話じゃないわね」
「俺の息子の世話してみないか?」
「ちょっと飲みに行かないか、みたいな感覚で言わないで」
「そんくらい軽く考えてくれたらいいんだよ」
「母親が逮捕されたからって、私に押し付けるのは筋違いなんじゃないの?」
「なんでお前がそのこと知ってんだよ」
「通報したの、私だから」
「はあ?」
「言ったでしょ。所用で名古屋に出かけてたって」
「どういうことだ?」
「社長のお使いって言ったわよね」
「は?まさか、ミサが秘書してた会社の社長が、今の会社の社長ってこと?」
「そう。そんな偶然あるんよね。私も驚いたわ。社長は警察に被害届も出してたけど、全然見つからなかったみたいなの。それで痺れを切らして探偵を頼ったら、見つかったのよ」
「マジかよ」
「それで、所在確認をしてきて欲しいって頼まれて、その住所に行ってみたら、まさかの義実家なんだもん」
「そういうことだったのか。お前がいきなり実家に行くなんて、変だと思ったんだ」
「一度目はたまたまかと思ったけど、数回尋ねてるうちに、この親子は一緒に住んでるんだって確信した。それで社長と警察に報告して、任務完了ってわけ」
「なんで会ったこともないお前が、元秘書だって分かるんだよ」
「社長曰く、顔のパーツが中心に寄ってるから、一目見れば分かるって言われたの」
「お前のせいで、息子は母親と引き離された。母さんは今更、一人で育児をしなきゃならないんだぞ」
「何言ってんの?あんたの子でしょうが」
「お前こそ何言ってんだ?俺は男だぞ」
「だから何?」
「子供の世話なんかしたことない。たまに遊ぶ程度のことしかしたことないんだよ」
「何を堂々と恥ずかしいこと言ってんのよ。あんたが作った子なんだから、あんたが育てるの」
「母さんは了承してくれた」
「今、カイト君連れて東京に来たわよ」
「は?」
「さっき新幹線に乗って帰ってった」
「カイトも一緒だよな」
「いいえ、置いてったわ」
「なんでだよ」
「今は私が見てるけど、早く交代して」
「無理、無理。俺には絶対に無理」
「今ここで投げ出したら、あんたは保護責任者遺棄で捕まるわ」
「だって、ミサが逮捕された。今、この子が頼れるのは、あなただけなのよ」
「母さんの方がよっぽどマシだろ」
「一緒になって私を騙してたお母さんを擁護するつもりはないけど、子育てを終えて孫を可愛がっていればいいだけの老後だと思ってたのに、全責任がかかるとなれば、さすがに嫌になるんじゃないかな」
「俺が育てるの?マジで?」
「うん。手伝ってくれる?」
「無理。離婚するから」
「何すればいいの?」
「ネットにでも聞いたら、何でも教えてくれるよ」
「助けてくれよ」
「しかし、この子は元気があり余ってるわね。リビングのソファーはもうクレヨンでぐちゃぐちゃよ」
「はあ?止めろよ。俺はまだそこに住むんだぞ」
「ご飯を食べさせてくれる?」
「ダメが通じないんだから、仕方ないじゃない」
「躾がなってないんだ。誰が育てたんだか」
「あんた、いい加減にしなさいよ。作る時だけ優しくしといて」
「産んだら産んだで、育児も手伝わず可愛がるだけかよ。その上、躾がどうとか言える立場じゃないだろ」
「だったら、てめえが一から躾けてみろよ」
「子供なんて、思ったように育たないもんだろうが」
「どうした?」
「なんか無性にイラついた。この世の育児しない全男性にムカついたの」
「子供もいないくせに、よく怒れるな」
「そうね。こんなやんちゃな子でも、クレヨンで落書きされてもいいから、欲しかったよ。でも、どうやってもできないから諦めた」
「だったら、カイトはどうだ?」
「まだそんなこと言ってんの?いい加減にしなよ」
「すみません」
「お母さんからノートを預かってる。この子の好きなメニューとか、遊びとか、寝る時間とか、やること全部書いてあるから、頑張って」
「どんだけやることがあるんだよ」
「一瞬たりとも目を離せないわ」
「信じられん」
「でも、すごく可愛い」
「だから、頑張りなさい」
数日後。タケルは泣き言をこぼした。
「母さん、助けてくれないかな?なんで子供ってこんなに元気なんだよ。なんでLINE既読にもならないの?母さん、限界だよ。和室の畳もボロボロだ。保育園も見つからない。待機児童問題って、俺にも関係あったんだね」
「目をちょっと離したら、ガスコンロの火をつけて遊んでたんだ。本当に一瞬も目を離せないなんて思わなかった。地獄だ。どうしたらいいんだ?助けてくれよ」
ミサの母親が窃盗で逮捕されたことは不幸だが、カイト君はそんなことは知らず、やんちゃっぷりを発揮しては家の中をめちゃくちゃにしている。賃貸の退去時にどうなることやら。名古屋の義母は、息子からのヘルプ要請を無視して老後の人生を謳歌しようと思っていたそうだが、孫を見ているからともらえていた仕送りがストップしてしまい、結局は年金で細々と暮らす毎日なのだとか。息子が次期社長だと言いふらしていたせいで、外にも出づらくなったそうだ。
ミサは裁判の結果、懲役3年となった。秘書への信頼を裏切った罪は重いと判断されたようだが、宝石などは一部返却したため、この年数になったらしい。出てくる頃にはカイト君は小学生。そこまでタケルがしっかり育てていればいいのだけれど。しかし今のところ、定時で帰れる仕事に就いて、ボロボロになりながらも、ミサが3年後に出てくるまではと、どうにかギリギリのところで育児をしているそうだ。
子供は作ったら終わりじゃない。そんな当たり前のことが分からない人間が多すぎる。今頃タケルは、それを突きつけられていることだろう。私もやんちゃな可愛い子に会えるよう願いつつ、今は仕事に打ち込もうと思う。
