「稽古、今月の支払い、まだだろう。十二万、早く振り込んでくれよ。約束したはずだ」
電話の向こうで、元夫の浩史が苛立った声を出す。私はスマホを耳に当てたまま、冷めた目でキッチンの時計を見上げた。
「は? 何の話?」
「とぼけんなよ。母さんの生活費だよ。お前、子供いないんだから、その分、俺の母親の面倒を見るって約束したじゃないか」
「してないけど。ていうか、離婚したよね」
「離婚したからって、同情的責任が消えるわけないだろう。六年も一緒にいたんだぞ」
「同情的責任って、それをあんたが言う?」
「なんだよ、その態度。こっちは真剣に話してるんだ」
「真剣にね。じゃあ聞くけど、結婚前の借金三百万隠してたのは、真剣だったの?」
「それは昔の話だろ。今は母さんが困ってるんだ」
「昔? 三年前だけど」
「過去の話を持ち出すな。今は俺たちが生活できないんだよ。母さんを路頭に迷わせる気か」
「路頭に迷わせる? お母さん、パートしてるでしょう」
「パートだけじゃ足りないんだよ。お前、年収六百八十万もあるくせに、十二万も出せないとか、人としてどうなの?」
「人として。じゃあ聞くけど、私の父が危篤の時、帰らせてくれなかったよね」
「それとこれとは関係ないだろう」
「めっちゃ関係あるけど」
「お前さ、もっと優しくできないわけ? 冷たすぎるんだよ」
「優しさ。六年間であんたに使った金、いくらか知ってる?」
「知らないし、興味もない」
「千二百万円」
「それ持ってるだろ?」
「持ってないよ。領収書、全部あるから」
「領収書? お前、何のために取ってたんだよ」
「念のためね」
「気持ち悪いな。とにかく今月中に振り込めよ。じゃないと給料差し押さえるから」
「給料差し押さえ? あんた、法律知らないでしょ」
「知ってるし。ネットで調べたから」
「へえ、どこに書いてあったの?」
「とにかくできるんだよ。で、それ差し押さえてどうすんの? お前の給料、多いだろ。薬剤師なんだから余裕あるはずだ」
「余裕とか関係なくない?」
「関係あるだろう。俺は被害者なんだよ。お前が俺を追い詰めたから、ギャンブルに逃げるしかなかったんだ」
「被害者? パチンコで三百万溶かした被害者。新しいジャンルだね」
「笑うなよ。お前がもっと優しければ、俺だって変わってた」
「え? 全部私のせいなんだ」
「そうだよ。だから償えって言ってんの。十二万くらい払えるだろ」
「払わない。一円も払わない」
「ふざけんな。じゃあ法的措置を取るからな。弁護士も雇うし」
「どうぞご自由に。あなたなんかに負けてたまるか」
「後悔すんなよ」
電話は一方的に切られた。私はため息をついて、受話器を置いた。胸の奥で何かが冷たく固まっていくのを感じた。六年間、我慢してきたことの全部が、今、堰を切ったように溢れ出そうとしていた。
翌日、職場に元義母の啓子から電話がかかってきた。
「稽古さん。息子から聞いたんだけど、まさか約束を破るつもりでいるの?」
「約束なんてしてません」
「したでしょう。あなたには子供がいないんだから。私の老後を見るのは当然の義務だと思わないの?」
「義務? 離婚したのに?」
「離婚したからって、人としての責任が消えるわけじゃありません。私は今、パートで月六万しか稼げないのよ。それで生活できると思ってるの?」
「年金もあるんじゃないですか?」
「年金だけじゃ足りないのよ。あなたは薬剤師で高給取りなのに、困ってる家族を見捨てるっていうのね」
「家族じゃないです」
「冷たい。あなた、本当に冷たいわ」
「息子があなたと結婚したせいで、人生めちゃくちゃになったのに」
「めちゃくちゃ? 具体的に教えてください」
「仕事も続かないし、お金もないし、全部あなたのせいです」
「すごいですね、その発想。逆にそんな発想ができるの、尊敬しますよ」
「なんだその態度は。親戚中に言いふらしてやるからね。あなたがどんな人間か」
「じゃあ、勝手にすればいいじゃないですか」
「本当にいいのね。覚えてなさい」
電話が切れた後、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。六年前、純粋に幸せな家庭を築けると思っていた。けれど、結婚生活は借金隠しから始まり、義母の過剰な要求、夫のギャンブル、そして私の父の死に目さえも奪われた。もう我慢する必要はない。そう決心した。
その日の夜、私は弁護士事務所にメールを送った。数日後、桜井法律事務所を訪ねた。
「初めまして。ホームページを見てご連絡しました」
「桜井法律事務所の桜井です。どのようなご相談でしょうか?」
「元夫から金銭請求されてて」
「詳しく教えていただけますか?」
「離婚したのに、子供がいないから親の面倒を見ろって。月十二万請求されてます」
「それ、完全に違法ですね」
「やっぱりそうですよね」
「逆に、あなたから慰謝料請求できる可能性があります」
「え、私が?」
「はい。元夫に何か問題行動は?」
「昔、借金隠してました。結婚前から三百万」
「それは大きいですね。証拠はありますか?」
「ダンボール三箱分あります」
「三箱ですか?」
「捨てられなくて、貧乏症なんです」
「いいえ、それは武器です。明日、写真を送っていただけますか?」
「分かりました」
翌日、私はダンボールの中身を写真に撮って送った。消費者金融の明細書、パチンコ店の会員カード、競馬の外れ馬券、そして六年間の振り込み明細。すべてが証拠になった。
「これ、完璧ですね」
「本当ですか?」
「消費者金融の明細、パチンコ店の会員カード、競馬の外れ馬券。さらに六年間の振り込み明細、全部取ってました。几帳面ですね。薬剤師さんらしい」
「ただの貧乏症です」
「その貧乏症が、今回は正義です。これを証拠にします。で、これを見る限り、慰謝料二百五十万は請求できます」
「二百五十万も」
「借金隠しだけで十分です。あと、気になる記録があるんですが」
「何でしょうか?」
「あなたのクレジットカードの利用明細なんですが、知らない請求が結構あるんです。パチンコ店とキャバクラですね。合計百八十万円」
「私、キャバクラなんて行ったことないです」
「カード会社に確認しましたか?」
「はい。防犯カメラに元夫が映ってました」
「それ、不正使用で刑事告訴できますよ。これは詐欺罪に当たります」
「じゃあ、あの人、犯罪者ってことですか?」
「法律的にはそうなりますね」
「なんか、すっきりしました」
「あともう一つ、確認したいんですが」
「何ですか?」
「元義母の収入、把握してますか?」
「パートで月六万って言ってました。それだけじゃ生活できないって援助を求められて」
「なるほど。では、市役所で戸籍と年金記録を取り寄せましょう」
「え、そんなことできるんですか?」
「正当な理由があれば可能です。少し予感がありまして」
「予感?」
「はい。確認してみないと分かりませんが」
「分かりました。お願いします」
数日後、浩史からまた電話がかかってきた。
「おい、稽古、振り込まれてないぞ」
「あ、ごめんなさい。忘れてたわ」
「忘れた? ふざけんな。いい加減にしろよ」
「すみません。今月中には振り込めるかと」
「今月中? 今週中って言っただろ?」
「お金の準備が」
「準備? お前、六百八十万も稼いでるくせに、十二万の準備って何だよ」
「色々出費があって」
「色々って何だよ。俺たちより大事なもんがあるのか?」
「そういうわけじゃ」
「じゃあ払えよ。これ以上待てないから」
「だから、少し待ってって」
「もう我慢の限界なんだよ。本当に法的措置を取るから、覚悟しとけよ」
「やってみれば?」
「お前、なんか変わったんじゃないか」
「何も変わってないよ」
「まあいい。とにかく今月中に振り込めよ。じゃないと弁護士使うからな」
電話を切った後、私は弁護士に送る書類をまとめた。翌日、啓子からまた電話があった。
「息子が怒ってたんだけど」
「すみませんね」
「すみませんね、じゃないでしょ。私たち、本当に困ってるの。身にしみて分かってる?」
「分かってます」
「分かってないでしょ。分かってたら、すぐ払うはずでしょ。あなた、薬剤師でしょ。すぐ用意できるんじゃないの?」
「はい」
「本当に親戚中に言いふらしてやるわよ。あなたがどんな人間か」
「言いたければ、もう勝手にどうぞ」
「何、その態度? 生意気になったわね」
「すみません。でも、もう疲れました」
「疲れた? 私たちの方が疲れてるわ。毎日お金の心配して」
「本当にあなたって人は」
「お母さん、何よ。まだ何かあるの?」
「大変ですか?」
「大変に決まってるでしょう。もう六十二歳なのに、働かなきゃいけないなんて」
「そうですよね。年金だけじゃ生活できませんもんね」
「だから、あなたにお願いしてるの」
「はい。分かりました」
数日後、私は浩史に電話をかけた。
「おい、稽古、今月もう終わりだぞ。振り込み、まだか? いい加減にしろよ」
「ああ、それなんだけどさ」
「それなんだけどじゃねえよ。早く払えよ」
「ちょっと確認したいことがあって」
「確認? 何を?」
「あんたが言う約束って、いつ、どこで、誰としたの?」
「何言ってんだ? お前と俺で約束しただろう」
「証拠ある?」
「証拠? 口約束に決まってるだろう」
「そっか。じゃあ、私からも確認ね。離婚調停で決まった内容、覚えてる?」
「ああ、財産分与しないって話だろ」
「それ以外にもあるよ。あんたが私に払う慰謝料、二百五十万円」
「慰謝料? 何の話だよ?」
「調停調書に書いてあるけど」
「そんなの聞いてねえぞ」
「調停には出席したよね」
「したけど、あんたが寝てただけでしょ」
「寝てねえし」
「じゃあ、覚えてないんだ。とにかく、そんなの払う義務ねえから」
「あるよ。あんたが私に約束って言ったよね」
「言ったけど」
「じゃあ、私も言うわ。慰謝料二百五十万円、今月中に一括で払って」
「ふざけんな。そんな金ねえよ」
「じゃあ、分割でもいいよ。ただし、延滞金十四・六パーセントね」
「延滞金?」
「あんたが言ったんじゃん。遅れたら法的措置って」
「それはお前に言ったんだよ」
「私も同じこと言う権利あるけど」
「権利とか、お前、変わったな」
「変わってないよ。我慢するのやめただけ」
「我慢? お前が何を我慢したんだよ」
「六年間、全部我慢した。あんたの借金三百万、私が返したよね」
「それは感謝してる」
「一度も言われてないけど」
「言っただろ」
「じゃあ、証拠は? 言ってない。細かいんだよ、お前」
「細かくて結構。ちなみに、あんた給料差し押さえるって言ったよね」
「言ったけど」
「私もそうさせてもらうわ」
「は?」
「あんたの給料、月十八万でしょ?」
「なんでそれ知ってんだよ」
「調べた。中古車販売店勤務、手取り約十八万円」
「勝手に調べんな」
「そこから毎月五万円、差し押さえるね」
「五万じゃ生活できねえだろ」
「私も月十二万払ったら、生活できなかったけど」
「それとこれとは違うだろう」
「同じだよ」
「違う」
「じゃあ聞くけど、あんたが慰謝料払う理由、知りたい? 借金隠し。結婚前から消費者金融五社、合計三百万。全部証拠あるから。明細書も、パチンコの会員カードも、競馬の外れ馬券も、全部取ってある」
「お前、いつから?」
「離婚準備始めたの、二年前から」
「二年前から?」
「あんたが捨てたゴミ、全部写真撮ってた」
「気持ち悪い」
「どうしたの? お酒飲みすぎて二日酔いかな?」
「ふざけるなよ」
「あとね」
「まだあんのかよ」
「あんた、私のクレカ使ったよね」
「使ってねえよ」
「嘘つけ。こっちには利用明細あるんだけど。私が知らないパチンコとキャバクラ、合計百八十万円」
「それは仕事の一環で行っただけで、必要経費だ」
「仕事? カード会社に問い合わせて、防犯カメラも確認した。あんたが楽しんでる証拠、完璧に揃ってるよ」
「ちょっと待てよ。家族なんだから、示談にしよう」
「もうとっくに離婚したけど」
「でも、使った時は結婚してただろう」
「私の許可なく使ったよね。これさ、刑事告訴できるんだってさ」
「刑事告訴?」
「弁護士にもう確認済み」
「弁護士? お前、弁護士雇ったのかよ」
「当たり前じゃん」
「金の無駄だろ」
「無駄じゃないよ。必要経費だから」
「ふざけるな。俺も反省してる。やり直せないか?」
「やり直す? 面白いこと言うね」
「マジだって」
「じゃあ、条件出すわ」
「条件?」
「借金隠し分の三百万円。カード不正使用分の百八十万円」
「ちょ、ちょっと待って」
「合計七百三十万円。今月中ね」
「そんな金あるわけないだろ」
「ないの?」
「あるわけねえだろ」
「じゃあ、給料から差し押さえ」
「生活できねえって」
「私も月十二万払ったら、生活できなかった」
「何度も同じこと言わせないでくれる?」
「だから、お前、昔は優しかったのに」
「優しかったんじゃない。我慢してただけ。あんたたちが、私の優しさを弱さだと勘違いして、好き放題した」
「好き放題? そんなこと思ってるわけないだろう」
「じゃあ、何だって言うの? 私はもう、あんたたちのATMじゃない」
「ATMって、そんな」
「六年間で千二百万以上援助したよね。でも、あんたたちはありがとうの一言もなかった。あんたは私に同情的責任って言ったよね」
「言ったけど」
「じゃあ聞くけど、結婚の誓い。病める時も健やかなる時も支え合うって、破ったのは誰?」
「それは」
「私の父が危篤の時、見舞いに行かせなかったのは誰? 同情的責任があるのは、どっち?」
「俺も辛かったんだよ」
「辛い? パチンコで三百万溶かして、辛い?」
「私の父の最後に立ち会えなかった気持ち、分かる?」
「ごめん」
「謝って済むなら、警察はいらない」
「じゃあ、どうすればいいんだよ」
「慰謝料七百三十万払って」
「無理だって言ってるだろ」
「じゃあ、強制執行。給料の差し押さえ、会社に連絡するね」
「待ってくれ。会社にばれたら、首になる」
「それ困るな。差し押さえる給料がなくなるし」
「お前、マジで変わったな」
「だから、変わってないって。我慢しないだけ。母さんには内緒にしてくれ」
「無理。お母さんにも用事がある」
「用事って、何の用事だよ。まさか」
「色々話すことあるから」
「何を話すんだよ」
「それは直接話す。じゃあね」
数日後、私は啓子に会いに行った。
「子から聞きました。慰謝料だなんて、あんまりにもひどいんじゃないの?」
「ひどい? 借金隠して結婚した方が」
「それは家族なんだから、助け合うのは当然でしょ」
「離婚したから、他人ですよ」
「血は繋がってないけど、情があるでしょ」
「情? 父の危篤の時に、帰らせてくれなかった人が、よく言いますね」
「お母さん、ちょっと改めて確認したいんですけど、今どういう収入で生活してるんですか?」
「だから、パートって言ってるでしょ。月六万くらいかしら」
「それだけですか?」
「それだけじゃ生活できないわ。だから、あなたに支援を」
「へえ。じゃあ、これ何ですか?」
「何よ?」
「市役所から取り寄せた書類です。あなた、まさか」
「お父さん、七年前に亡くなってますよね?」
「そうだけど、何かおかしいことでもあるの?」
「でも、死亡届が出てないですよ。遺族年金、今も振り込まれ続けてますよね。月十五万円、七年間で千二百六十万円」
「それは」
「どこで? 市役所で正式に取り寄せたんですよ。あなたと違って、合法な手続きだから安心してください」
「でも、これは手続きが遅れただけで」
「七年遅れ? それってギネス級じゃないですか? パート六万、年金十五万、月二十一万じゃないですか?」
「それでも足りないのよ」
「足りない? 生活費、振り込んだら私よりもらってますよ」
「生活費はとにかくかかるのよ」
「何にですか? 具体的に教えてください」
「食費とか」
「食費で月二十一万? 毎日お寿司ですか?」
「他にもあるわよ。例えば」
「例えば?」
「色々よ」
「色々。色々って便利な言葉ですね。ああ、そうだ。しかも、私から月十二万ももらってましたね。月三十三万の収入。貧乏アピール、上手ですね」
「貧乏アピールなんて」
「宝くじより当たってますよ。七年間で千二百六十万円。お母さん、これ、年金不正受給って言うんです。弁護士に確認したら、詐欺罪だって。懲役刑もあり得るって」
「懲役?」
「副作用、すごいですよね。年金詐欺って副作用。ああ、薬剤師の癖で。効果、月十五万円ゲット。副作用、懲役刑の可能性って感じですか?」
「冗談言ってる暇なんてないでしょ」
「冗談じゃないですよ。千二百六十万円の返還命令も出るらしいですし」
「そんな金ないわよ」
「私も月十二万払う余裕なかったですよ」
「それとこれとは違うでしょう」
「じゃあ聞きますけど、お母さん、同情的責任って言いましたよね。七年間、死んだ夫の年金を不正に受け取り続けた同情的責任」
「それは」
「子供も産まない嫁のくせにって、罵倒しながら私の金を搾取し続けた同情的責任」
「それはあなたのためよ」
「私のため? よく言いますね」
「本当よ」
「じゃあ聞きますけど、父の最後に立ち会えなかった私、どう思いますか? 泣いてる暇があったら夕飯の支度してって言ったの、覚えてますか?」
「ごめんなさい」
「今さら? 六年遅いですよ」
「本当にごめんなさい」
「お母さん、私に恩知らずって言いましたよね」
「言いました」
「六年間で千二百万以上援助して、毎週末、用事と介護に通った私に、一度でもありがとうって言いました?」
「言ったはずよ」
「覚えてないけど。記憶障害なら、病院紹介しますよ。薬剤師だから、専門外だけど紹介できますよ」
「言われたのは一度もないくせに、もっとちゃんとやってばっかりだった」
「今の若い嫁は」
「ごめんなさい」
「人の心がないのは、どっち? 恩知らずは、どっち?」
「私です」
「そう、分かってるじゃないですか」
「お願いします。許してください」
「無理です」
「何でもしますから」
「何でも?」
「はい」
「じゃあ、まず千二百六十万返して」
「そんな金ないわよ」
「あれ? 何でもするって、今言いましたよね。嘘つき?」
「嘘じゃないわよ」
「じゃあ、返して」
「でも」
「ほら、何でもしないじゃん」
「分割でお願いできませんか?」
「分割ね。私も月十二万を分割で払うって選択肢、あったかな?」
その夜、浩史の家では言い争いが起きていた。
「母さん、何か言ってきた?」
「浩史、年金のことバレたのよ」
「年金? お父さんの遺族年金、七年間もらい続けてたの、それやばくない?」
「やばいわよ。だから、千二百六十万返せって」
「千二百六十万? 俺に聞くなよ。母さんが勝手にやったんだろ」
「あんたのためでもあったのよ」
「俺のせいにすんな。あんたがギャンブルやめないから、お金が必要だったのよ」
「それとこれとは関係ないだろう」
「関係あるわよ」
「もういい。俺、知らないから」
「逃げるの?」
「逃げるよ。俺まで巻き込まれたくないし」
「ひどい。あんたって人は」
翌日、私は浩史から電話を受けた。
「お母さんから聞いたよ。親子喧嘩してたでしょ」
「あんたのせいじゃない。勝手にやったって。お母さん、泣いてたよ」
「仲良し親子だと思ってたのに、残念だね」
「お前が余計なこと言うから」
「事実を言っただけだけど」
「ねえ、喧嘩してる場合なんだよ。千五百十万円のこと、忘れてない? 慰謝料二百五十万プラス年金返還千二百六十万。合計千五百十万」
「あ、そうだ」
「まだあんのかよ」
「親戚に言いふらすって言ったよね。薬剤師会にも連絡するって」
「それはもう送ったよ」
「は?」
「親戚の人たちに、この六年間の真実を書面で送った。ごめん。振り込み記録と日記のコピー付き。丁寧でしょう」
「日記?」
「六年間の記録、全部書いてある。上司と理事にも全部話した」
「おい、それマジかよ」
「あんたの借金隠し、不正使用。お母さんの年金不正受給。全部ね。ああ、業務妨害で告訴もできるらしいよ」
「くそ」
「で、脅迫したよね。あんた、人でなし、無情って言ったよね。その言葉、返すね。六年間尽くした私を罵倒し続けたあんたたちこそ、人でなし。父の死に目に合わせてくれなかったあんたたちこそ、無情。年金不正受給、慰謝料から逃げようとするあんたたちこそ、犯罪者。弁護士から通知届くから、楽しみにしてて」
「待ってくれ」
「何?」
「本当に許してくれないのか?」
「許さない」
「即答かよ」
「当たり前じゃん。じゃあね」
「待って」
「もう連絡しないで。次は弁護士通すから」
数日後、今度は啓子から電話がかかってきた。
「浩史から聞きました。母さんが勝手にやったって言ってましたよ」
「あの子、親子喧嘩してる場合じゃないですよ。千五百十万円、どうやって返すんですか? そんな金、ないですよね」
「知ってます。分割でもいいですよ。優しいでしょう」
「ああ、でも利息つくけどね。法定利率で」
「当たり前ですよ。借金なんだから」
「お願いします。許してください」
「無理です」
「何でもしますから」
「でも、千二百六十万は返せないって言いましたよね。嘘つき?」
「嘘じゃありません」
「じゃあ、何でもじゃないじゃん」
「最後に一つだけ」
「何ですか?」
「六年間、本当にありがとうございました」
「は?」
「あんたたちのおかげで、人を見る目が養われました。もう二度と、こんなクズ家族に引っかかりません」
「クズって」
「クズですよ。自覚ないんですか? これからはクズ同士で、仲良く暮らしてください。あんたたちは家族だから、助け合うのは当然ですよ」
その後、浩史は慰謝料の支払いができず、勤務先の給料を差し押さえられた。さらにクレジットカード不正使用で告訴され、執行猶予付きの有罪判決を受けた。この前科により転職もできず、今は日雇いバイトで月収十二万円程度の生活をしている。
啓子は年金不正受給が発覚し、千二百六十万円の返還命令と罰金を科された。分割返済で月八万円の支払いが始まり、パート代のほとんどが消える毎日だ。親戚には息子を甘やかして嫁を虐げた挙げ句、犯罪まで犯したと噂され、誰も助けてくれない。近所では年金泥棒と影口を叩かれ、完全に孤立した。
一方、私は新しい職場でリーダー薬剤師に昇進し、年収も八百三十万円に上がった。週末は趣味のガーデニングと読書を楽しみ、最近は婚活パーティーで出会った誠実な公務員の男性と交際を始めた。彼は私の過去を全て聞いた上で、「これからは僕が支えます」と言ってくれる、本当に優しい人だった。
ある日、亡き父の仏壇の前で、私はそっと手を合わせた。
「お父さん、やっと自分の人生を取り戻せました」
