「こんな服、下品すぎて吐き気がするわ」 母のその一言で、私は凍りついた。タートルネックに膝下スカートなのに。両家の顔合わせの席で、彼の母は私が親なしで兄に育てられたことを知るなり、顔色を変えた。 「親がいないでしょ。常識がないのも当然ね。猿以下よ」 その言葉に、私は声を震わせた。 「私のことはいくら言われても構いません。でも、兄を悪く言うのはやめてください」…

「こんな服、下品すぎて吐き気がするわ」 母のその一言で、私は凍りついた。タートルネックに膝下スカートなのに。両家の顔合わせの席で、彼の母は私が親なしで兄に育てられたことを知るなり、顔色を変えた。 「親がいないでしょ。常識がないのも当然ね。猿以下よ」 その言葉に、私は声を震わせた。 「私のことはいくら言われても構いません。でも、兄を悪く言うのはやめてください」...

「不合格よ」

母のその一言に、私は一瞬言葉を失った。夏から同じ銀行の女性と結婚する予定だと聞いていた。私はてっきり、今日の顔合わせが成功するものだと思っていたのだ。

「お母さん、どうしてですか?」
「そんなことも言われないと分からないの?これだから親なしは……」

その言葉に、私はぐっと言葉を飲み込んだ。

「望んで親がいなくなったわけではありません。それに、それがそんなに悪いことでしょうか?」
「だって、しつけてもらってないってことでしょ。やってはいけないことや社会の常識を教えてもらえなかったんじゃないの?」

「いえ、兄にしっかり教えてもらいました。兄のおかげで今の私があるんです」

「いいえ、全然なってなかったわ。あんたはあまりにも常識がなさすぎて、猿以下よ」

私は深く息を吸った。悔しさで胸が詰まりそうだったが、ここで感情を爆発させるわけにはいかない。

「具体的に教えていただけますか?私としても、ダメなところがあるなら直したいので」

「服装よ。両家顔合わせという大事な場面だってのに、あんな露出の激しい服、下品すぎて吐き気がしたわ」

「そうでしょうか?タートルネックで長袖、スカートも膝下でしたが……」

「足が見えてたでしょうが。あれは非常識よ」

「そんな無茶を言わないでください」

「あんたの兄も、男らしくなくて格好悪かったわ。三十六歳だっけ?だから未だに結婚できないのよ」

そこまで言われて、私は我慢の限界を超えそうになった。私のことは何と言われても構わない。しかし、兄のことを悪く言われるのは我慢ならなかった。

「私のことはいくら馬鹿にしても結構です。ですが、兄を悪く言うのはやめてくれませんか?顔合わせの時は、場所が場所だからと我慢しました。でも、私たちに両親がいないと分かると、お母さんは顔色を変えましたよね」

「そりゃそうでしょ。聞いてた話と違うもの」

「夏さんから何も聞いていなかったんですか?」
「『絶対に気に入ると思うから』としか聞いてないわよ」

「ああ、そうでしたか……」

「事故だかなんだか知らないけど、兄に育てられた家庭環境って、あまり良くなさそうよね」

「それは偏見です。兄はしっかりしています」

「でも高卒なのよね。それは、やっぱり常識がないんじゃない?」

「確かに最終学歴は高卒です。でも、大学には合格していたんです」

「あんたを育てるために辞退したんでしょ?じゃあ、高卒なのはあんたのせいじゃないの?」
「それは、そうですが……」

「やっぱり親がいないと、まともな判断もできなくなるのね。こんな頭のおかしい人たちと身内になるなんて、とんでもないわ」

「そこまで言う必要はありますか?」
「何よ、本当のことでしょうが。親がなくて兄に育てられたとか、飛んだ底辺ね」

「これから身内になるのに、そんなことを言わないでください」

「は?なんで結婚する気満々なのよ。エリート銀行員の息子との結婚は認めないわよ。残念だったわね。ってことで、婚約破棄。さようなら」

母はそう言い残すと、席を立ち、足音高く去っていった。

その日の夜。私はスマホの画面を見つめていた。彼からのLINEが届いていたのだ。

「母さんに婚約破棄って言われたんだけど」

「ああ……まあ、そうなると思ってたよ。親なしで兄に育てられたって話を聞いた時、嫌な予感はしてたんだ」

「じゃあ、私がお母さんにそのことを伝えなかったのは?」
「あ、バレた?」

「……なんで黙ってたの?絶対に反対するって分かってたんでしょ?」

「だって、ひまわりと本当に結婚したいと思ったんだよ」

「なら、どうして助けてくれなかったの?お母さんに色々言われた時、あなたは黙ってたじゃない」

「母さんの言う通りだなと思って、何も言えなかった」

「……ひどい。それでも婚約者なの?」

「大事な人だからこそ、間違いに気づかせようとしたんだよ」

「親なしと言ったり、底辺と言ったり……」

「ああ、そう。あと非常識ってこともな。顔合わせでそんなことを言う方が、よっぽど非常識だと思うけどな。母さんがそう言うなら、そうなんだろう」

彼はため息をついた。

「ああ、それにしても、またダメか」

「また?実は、決まりで五人目なんだ」

「どういうこと?」

「歴代の元カノたちでも全部ダメだったってこと。みんな顔合わせまではしたんだけどさ、やっぱり母さんがなかなか気に入ってくれなくて……」

「女性を何だと思ってるの?みんなあなたのことが好きだったでしょう。よくそんな人を振り回すようなことができるね」

「仕方ないだろう。結婚は二人だけの問題じゃない。家と家の問題なんだから」

「だとしても、そんな簡単に別れるなんて。結局、その程度の気持ちだったってことだよね」

「俺だって心苦しいに決まってるんだ。残念だけど、今回は縁がなかったってことで」

「私とも別れるってこと?」
「そうだよ。じゃあ明日からは他人な。銀行で会っても話しかけるなよ」

「分かった。というか、そもそも部署が違うしね」

「ああ。やっぱり恋愛なんてやめときゃよかった。じゃあな」

彼からの連絡はそこで終わった。私はスマホを置き、しばらくその場で立ち尽くしていた。

次の日の朝。私は兄に会いに行った。

「お兄ちゃん、昨日は顔合わせに来てくれてありがとう」

「ああ、お前のためなら、いくらでも仕事は休むよ」
「それは普通に困るけど……。でも、ごめん。私、婚約破棄されちゃったんだ」

「はあ?何それ?どういうこと?」

「なんか、私はお母さんのお眼鏡にかなわなかったみたい」

「何か言われたのか?」
「それはちょっと言えない」

「……俺が原因なんだろ?俺はいいぜ。ひまりがいくら言われても構わない。それより、お前が悪く言われることの方が、俺にとっては苦痛なんだ」

「お兄ちゃんてば、自分のことも大事にしてよ」
「それはひまりもだろ。とにかく、何があったか正直に教えてくれよ」

私は、昨日の出来事をすべて話した。母が私の服装を下品だと罵ったこと。親なしで育ったことを底辺だと言ったこと。そして、最後に「頭のおかしい人たちと身内になりたくない」と吐き捨てたこと。

兄は最後まで黙って聞いていた。

「本当にそんなこと言われたのか?」
「うん……」

「そうか。なら、銀行員一家全員、首だな」

「え?一体何をする気なの?」
「まあ、俺の超能力でな」
「もう、わけの分からないことを言わないで。ちゃんと教えてよ」

「とにかく、ひまりは俺が守る。それだけは確かだから」

兄は昔からそうだった。何も言わず、いつの間にか私を助けてくれる。それが兄としての役割だと言って、家族のためにすべてを捧げてきた。

「でも、お兄ちゃんは現役で南関大学の進学が決まってたのに、それを蹴ってまで、十歳も下の妹を養うなんて。私だったら、そんな決断はできないよ」

「だって、泣いてるひまりを放っておけなかったんだよ」
「そんな理由で……」
「ひまりが親戚に預けられたら、俺たち家族はバラバラになっちゃうだろう。それは俺が嫌だったんだ」

「お兄ちゃん、本当にありがとう」
「気にすんな。妹の幸せが俺の幸せだ」

「シスコン、シスコン」
「で結構。今日はもう遅いから、もう寝な。寝不足は美容の大敵だぞ」

「はいはい。じゃあまたね。おやすみ」
「おう、明日」

次の朝、私は出勤前に、彼の母のもとを訪ねていた。彼女は嫌そうな顔で玄関に現れた。

「朝から誰かと思えば、親なし高卒底辺の元カノの兄じゃない?朝から何の用よ。あんたから連絡が来るなんて、迷惑でしかないんだけど」

「すみません。何かあった時だけ連絡するつもりでしたが、どうしてもお聞きしたいことがあって。すぐに終わらせます」

「早く終わらせてよね」

「妹から、婚約したと聞きましたが、それは本当のことでしょうか?」

「ああ、本当よ。だって、あんたらなんかと身内になったら、うちの由緒正しき家柄が汚れるじゃない。うちはね、銀行員一家なのよ」

「夏君のお姉さんもお父さんも銀行員でしたっけ?それはとてもご立派ですね」
「そうでしょ?あんたらとは違うのよ」

「妹も同じ銀行で働く行員のはずですが。でも、高卒じゃない。うちはみんな大卒よ。よくその学歴で銀行で働けるわね」

「お言葉ですが、大学新卒よりも高卒の方が倍率が高いんですよ」

「はあ?何?どういうこと?」

「つまり、高卒の採用は、それだけ厳しいということです。にも関わらず、妹は見事に採用されました。これは優秀な人材である証明になると思うのですが」

「高卒であることに変わりはないでしょうが。学歴は大事よ。社会的地位にもつながるんだから」

「それも間違いではありません。では、お母さんはどうなのですか?」

「あら、言ってなかった?私はね、国立大学を出て、その後はメガバンクで働いてたの。二年目で夫と結婚して、今はみんなを支えてるのよ」

「そうでしたか。それはとても素晴らしいですね」
「でしょ?あんたの妹にそれができるとは思えないのよね」

「では、今のご自分はどうなのでしょう?」

「だから、私は大学を出てるって言ってんでしょ?」
「僕は今の話をしてるんです。お母さんのそれは、過去の栄光ですよね。その教養は、今に生かせてるんですか?」

「家事に生かしてるわよ。もちろん、主婦だってとても大事な仕事よ」

「でも、世代も生き方も違うんだから、妹を否定する権利なんてありません」

「何よ、偉そうに。年上の人を敬えないなんて、やっぱり育ちが分かるわね」

「なら、相応の対応をさせていただきます」
「相応の対応って何よ。はっきり説明しなさい」

「詳しいことは、夏君に直接連絡しますので、後で夏君に聞いてください」

私はそう言って、その場を辞した。十分後、彼からLINEが届いた。

「日向さん、何ですか?今更どのようなご用件ですか?」

「そんな冷たい言い方はないだろう。ひまりから聞いてないのか?俺たち、結婚するのやめたんだよ」

「ああ、聞きましたよ。残念ですね。ようやく全員の予定が合って顔合わせができて、あとは式を挙げるだけだと思ってたのに」
「仕方ないじゃないですか」
「それを『仕方ない』で済ませるというのか?」
「だって、母さんが決めたことだし」
「君は自分の意見がないんだね」
「母さんの意見を尊重したんですよ」

「なら、俺の意見も尊重してくれるね」
「何ですか?」
「婚約破棄の慰謝料を支払ってほしいんだ」

「はあ?なんで俺がそんなものを払うんですか?」

「両家の顔合わせも、知人たちへの報告も済んでいた上に、式場の準備まで進めてたんだ。払うのは当たり前だと思うんだが」

「結婚できなくなったのは、ひまりのせいでしょう。母さんに気に入られなかったんだから」

「俺はひまりのやりたいことを、何でも応援したよ。君のお母さんは、そうしてくれないんだね」

「その話は、今関係ないだろ。いくらなんだよ」

「まず、式場のキャンセル料が百五十万円。婚約したのは二週間前だろう?」
「二週間前だと、見積もり金額の五十パーセントがかかるそうだ」
「ああ、ちくしょう……」

「プラス、ひまりへの精神的苦痛で二百万円。合計三百五十万円の慰謝料を請求する」

「それは話が違くないですか?」
「君は、ひまりが診断書を出してることを知らないのかな?」
「ああ……あいつ、見かけないと思ったら、サボってるのか?」

「サボりじゃない。君に婚約破棄されたことで精神的なショックを受けて、心療内科に通院してるんだ」

「そういう風には見えなかったけどな」

「今の君に気を許すわけないだろう。顔合わせを先延ばしにしながら、式の準備も進めてたのに。この仕打ちは、あんまりじゃないか」

「それは、日向さんの予定がなかなか合わないから、仕方なく式の準備を先に進めてたんじゃないですか?一番の原因は、君のお父さんとお姉さんじゃないのか?何日か挙げて日を提案したのに、そのすべてを無理だと断ったじゃないか」

「予定があったんだから、仕方ないだろ」
「それは両家の顔合わせより大事な予定かな?お父さんはゴルフで、姉の七海さんは彼氏とデートだったっけ?」
「本人たちにとっては大事な用事だったんでしょう」
「普通の人は、顔合わせの方を優先すると思うけど」

「もう過ぎたことだ。いつまでもネチネチと言うな」
「日向さんも、しつこいですね。そんなんだから、モテないんですよ」

「俺がモテないことと、慰謝料の話は関係ないだろう。それとも、待たされた分を慰謝料として上乗せしてもいいのかな?」

「分かった、分かった。払えばいいんだろ」

「たく、これだから親なしの底辺は」
「仮にそうだとして、君たちに何か迷惑をかけたか?」

「親がいない低学歴は、社会に不要なんだよ」
「俺とひまりは、こうして働いてる。それは、社会に必要とされているということじゃないのか?」

「表向きは優しくしてやってるだけさ。裏じゃ邪魔物扱いだよ」
「残念だよ。弟ができるのを楽しみにしてたんだけどな」
「俺より学歴の低い下民が義兄とか、無理すぎる」
「これまた、なかなかひどい言い方だね。とにかく、慰謝料はしっかり準備してほしい。よろしく頼むよ」

「いいぜ。それくらい、俺は余裕で払えるから。じゃあな」

そう言って、私は通話を切った。会話を盗み聞きしていたのか、彼の母が私に話しかけてきた。

「ねえ、ひまりの馬鹿兄が、婚約破棄の慰謝料を払えって言ってきたんだけど」
「え?慰謝料ってどういうこと?」
「なんか、式場のキャンセル料だの、顔合わせ済ませたからだの、とにかく金金金うるせえんだよ」
「まあ、やっぱりそういう家庭だと、お金もないのね。だから家柄が落ちるんだわ」
「母さんの言う通りだと思う。まあ、俺は優しいから払ってやろうと思うんだけど、三百万円立て替えといてくんない?」

「あんた、お金ないの?自分の銀行で投資信託とか、いろいろやってるって言ってなかった?」
「いや、まあ……今ちょっと都合が悪くてさ」
「じゃあ、お父さんに頼んだら?あの人、貯金好きだから、相当ため込んでるはずよ」
「いや、父さんに頼むのは、俺が絶対怒られるやつじゃん」
「じゃあ、どうするのよ?」
「俺に考えがあるから、心配しなくていい」

翌日。私は彼に直接会って話をしようと、彼の仕事帰りを待っていた。

「ひまり、連絡してくれなかったじゃないか」
「心療内科で、あなたと話すだけで具合が悪くなるの。もう連絡してこないで」

「頼む、話を聞いてくれ。慰謝料のことで相談があってさ。やっぱり三百五十万円は高すぎるだろ?減額してくれないか?せめて百……いや、五十万円で」

「馬鹿にしないでくれる?私だけならまだしも、たった一人の家族である兄を侮辱したことを、私は絶対に許さないから」

「本当のことを言っただけだろうが。何を勝手に被害者ヅラしてるんだよ」

「あなたが加害者だからに決まってるでしょう。私は婚約破棄という被害を受けた。従って、三百五十万円の慰謝料を請求します」

「納得いかねえ」

「今後のやり取りは、弁護士を通してください。では」

そう言って、私はその場を離れた。彼はその後も何度も連絡を送ってきたが、私は一切無視した。

家に帰ると、兄がソファに座ってスマホを見ていた。

「ねえ、兄さん。私の連絡、見てくれてなかった?」
「ああ。なんて冷たい女なんだ、ひまりは。やっぱり母さんの言う通り、あの女と結婚やめてよかったわ」
「そうでしょ。母さんの言うことは、いつだって正しいんだから」

「三百五十万円、請求されたけどね」
「私のせいだって言いたいの?」
「いやいや、別に母さんを責めてはいないよ。ただ、もっと違う結末があったんじゃないかな、とは思うけど」

「まさか請求してくるとは、思わなかったでしょ。それより、どうするの?まさか借金なんて真似はしないわよね」
「こうなったら、職場で調達してくるよ」
「銀行でどうやるの?」
「まあ、俺に任せて」

一週間後。彼の母は焦り始めていた。

「ダメだ。頑張って営業したのに、どこも融資を受けてくれない」
「借りてもらうことが、慰謝料の支払いにつながるのよ。融資額を多めに申告するんだよ。で、その差額を俺がもらうんだ」
「なるほどね。お前、頭がいいじゃない」
「でも、どこもダメだった。それじゃあ、慰謝料が払えないじゃないか……どうしよう」
「仕方ないわね。一旦、結婚を許すわ」
「え?今更、なんで?」
「そうしたら、慰謝料請求をなかったことにできるでしょ」
「母さんも頭がいいな。ただし、すぐに離婚することよ」
「分かった」

翌日。彼から久しぶりにLINEが来た。

「ひまり、やっぱりお前と結婚したい」

「連絡しないでって言ったよね。頭痛と吐き気がするの」
「そんなこと言わないでくれよ」
「今後の連絡は弁護士を通じてって言ったよね」
「そうなんだけど、これだけはどうしても俺の口から伝えたくて。……口っていうか、LINEだけど」

「ひまり、俺と結婚してください」
「お母さんが許さないんでしょ」
「今なら、母さんも許してくれるって」
「どういう根拠なのか知らないけど、一度婚約を破棄したという事実は消えないよ」

「人間、一度くらい過ちはあるものだ。だから、それくらい多めに見てくれよ」

「謝罪しても許されないこともあるんだよ。何より、お兄ちゃんにひどいことを言った。お兄ちゃんが許しても、私は絶対に許さないから」

「怒った顔も可愛いよ」
「気持ち悪いことを言わないでくれる?」
「本心だよ。ひまりは、今までの彼女の中でも一番だ」
「誰かと比べられるのは、好きじゃないんだよね」
「またそんなこと言って。本当は嬉しいんだろ?いい加減、素直になれよ」
「あんまりしつこくすると、警察に相談するよ」

「そんな行き過ぎたツンツンも可愛いよ」
「本当に嫌いなんだってば」
「ああ、どうしたらまた好きになってくれる?」
「もう好きになることはないんだけどね」
「そんなこと言わないで、チャンスをくれよ」
「ちゃんと慰謝料を払ってくれたら、少しは見直すかもしれないけど。絶対に好きにはならないけどね」

「分かったよ。払うから、またやり直そう」
「やり直しません。これから病院だから、もう連絡しないで」

一時間後、また彼からLINEが来た。

「おい、既読がつかないんだけど」
「なんか用事か?」
「連絡が来るまで待ってるからな」

その次の日には、彼の母からLINEが届いた。

「ちょっと、あんた連絡無視しないでよ」
「もう婚約者じゃないので。何より、私の精神衛生上、不要なやり取りはしたくありません」
「結婚なら許してあげるから。だから、お兄さんに伝えてちょうだい。慰謝料をなかったことにしてって」

「もうそういう問題じゃないんですよ。私から言えることは、慰謝料をお支払いください、それだけです」

「ずっとそんな態度なら、こっちにも考えがあるわ。あんたの夫が銀行の役員であることは、知ってるわね」
「存じてますが」
「うちの夫も七海も、人事に関しては権限があるの。あんたと結婚しないのなら、あんたを辞めさせるわよ」

「なら、私はしかるべきところに相談しますね」
「どこに相談するのよ?」
「銀行の誰に相談してもいいけど。役員の夫には誰も逆らえないんだからね」
「いえ、財務局の局長に相談します」

「なんで、そこが出てくるのよ?」
「お母さんも元行員だとお聞きしましたけど、何も知らないんですね。金融庁の立ち入り検査のことをご存知ですか?役員の家族が融資の不正や横領をしていたら、どうなるでしょうか」

「あんた、私を馬鹿にしないでくれる?」
「知らないんだな、と思っただけですよ。馬鹿にはしてません」
「ほら、馬鹿にしてる。ああ、こんなのが嫁にならなくてよかった」
「私も、お母さんがお姑さんにならなくて良かったです。お母さんとのやり取りはスクリーンショットを撮って、兄に見せますね」

「こんな時までお兄ちゃんに泣きつくの?ブラコじゃない。結婚できない理由がよく分かるわ」

「兄の幸せは、お母さんに関係ないですよね。その後の対応は、兄の方から連絡が来ると思います。なので、私はこれで失礼します」

「全く意味不明だわ」

一週間後、彼の母から電話がかかってきた。声は上ずっていた。

「ちょっと、ちょうど本日、あなたの家族が勤める銀行に立ち入り検査の通知書が届いたのよ」
「はあ。え?立ち入り検査?何それ?」
「金融機関が健全に業務を運営しているか、顧客を適切に保護しているかの調査ですよ」
「はあ?あんた、何の仕事をしてるの?」
「顔合わせの時にご説明したはずですが、ちゃんと聞いてくださらなかったんですね」
「いいから、さっさと教えなさいよ」
「金融で、公認会計士をやっています」
「え?あんた、高卒のくせに金融なの?」
「本当は監査法人に勤める公認会計士ですが、出向で今は金融にいるんですよ」

「あ、そう。で、立ち入り検査をしたら、どうなるのよ?」
「今はまだ具体的な内容は明かせませんが、ご主人と七海さんと夏君に、懲戒処分が下されるとだけお伝えしますね」

「さては、私にひどいことをされたから、こんな嘘をついてるんでしょ?信じないからね」
「どうぞ。僕は確かに伝えたので」

二ヶ月後。彼の母から、また電話がかかってきた。今度は泣きそうな声だった。

「あんた、何かしたでしょう!」
「いきなり、何でしょうか?」
「夫も七海も、夏夫もみんな解雇されたのよ。しかも警察にまで連れて行かれたの。あんた、前に立ち入り検査がどうたらこうたらって言ってたわよね」
「立ち入り検査の結果、様々な不正が発覚したので、それを報告しただけです」
「絶対に、あんたのせいじゃない!なんてことをしてくれたのよ!」

「相応の処分では?」
「どこがよ!懲戒解雇って、一番重い処分でしょ!」

「ご主人は融資を本来の金額より水増し申請して、その分を持ち逃げしたので、懲戒解雇となりました」

「七海と夏夫が、悪いことするわけないわ!」
「七海さんは、金庫から金塊や現金を持ち出して、彼氏に渡していたようですね」

「嘘よ!あの子は賢い子。そんなバカな真似をするはずない!」
「夏夫君は、出張による経費の横領、そして女性の同僚に対する不必要な不快発言。理由はどうあれ、皆さんがしたことは犯罪です」

「冤罪よ!ニュースにもなって、ひどいったらありゃしない」
「前代未聞の横領劇ですよ。しかも一家そろって」
「これは何かの間違いだわ!ありえないわ!」
「ありえません。しっかり調査した上での結果です」
「お願い!夫だけでも銀行に戻して!みんなやめさせられたら、うちは食べていけないわ!」

「認められません。各々がしっかりと自分の罪に向き合ってください」
「待って!何でもするから、みんなをお返しして!」

五分後、今度は彼から直接、私に連絡があった。

「ひまりさん、顔合わせの時のことを謝るから。だから、あんたからお兄さんに伝えてちょうだい。みんなを銀行に戻してくれって」

「私は一介の銀行員です。そんな権限はありません」
「何かしら方法があるでしょ。あんたが役員に頭を下げるとか」
「どうして身内でもない私が頭を下げるんですか?何より、私は心療内科に通っているので、無理です」
「婚約者だからよ」
「ですから、婚約は破棄しましたよね?」

「許すって言ったでしょうが。兄と一緒で、融通が利かないバカね」
「前にも言いましたけど、兄のことを馬鹿にするのはやめてください。私にとって、兄は父であり母なんです」
「だから何よ?」
「お母さんだって、家族を馬鹿にされたら嫌でしょ?」
「当たり前でしょ。だからこうして必死にお願いしてるんじゃないの?」
「お願いする人の態度ではありませんよね。というか、そもそも無理なので」
「本当に使えない兄妹ね」
「兄は仕事も家のことも、何でもできますよ。何より、私という一人の人間を育て上げてくれました」
「私だって、二人の子供を育て上げたのよ」
「その結果がこれですか?子育てができていなかったのは、お母さんの方でしたね。兄はしっかり教えてくれましたよ。嘘をついて、人の大切なものを取ってはいけないって」
「何よ、それ!私への当て付けか!」
「そんなんじゃないです。兄のおかげで今の私がある。だから私は兄を誇りに思っています。そんな兄を馬鹿にする人は、たとえ誰であろうと許しません」
「お願い!もう本当に馬鹿にしないから!だから、みんなを元に戻して!」
「無理です。もう連絡してこないでください。さようなら。元銀行員一家のお母さん」

その後のことだ。懲戒解雇された夫と七海と夏夫は、みんな仲良く刑務所の中にいる。横領罪には罰金がないので、全員が懲役刑となった。

銀行員一家そろって横領罪を犯すという失態。世間を揺るがす前代未聞の事件は、大ニュースになった。一人残された彼の母のもとには、たくさんのバッシングが飛び交った。SNSはもちろん、近所からも煙たがられ、地元にいられなくなった彼の母は、遠い場所へ引っ越していった。

しかし、どこへ逃げようとも、銀行から請求された損害賠償と、私が請求した慰謝料からは逃げられない。朝から晩まで働き詰めの毎日を送っていることだろう。お金を扱う仕事をしていた元エリート一家が、今度はお金に振り回されている。なんて皮肉なことか。

私はというと、無事に心療内科を退院し、職場に復帰した。そしてなんと、窓口で特殊詐欺を防ぐことができたのだ。その功績を称えられ、警察から感謝状を送られた。

兄は相変わらず仕事一筋だが、最近ようやく、気になる女性ができた様子だ。兄には幸せになってほしいので、全力で応援しようと思う。

私自身はというと、恋愛は、しばらくはいいかな。今は一人前の銀行員になれるよう、しっかり頑張るつもりだ。

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