朝の食卓で味噌汁の湯気が立ち上る中、夫が突然「結婚記念日の旅行はキャンセルしておけ」と冷たく言い放った。30年連れ添った相手に「お前と行っても楽しくないんだよ」と言われた瞬間、私の世界は静かに崩れ始めた。顔もしわしわで、ケツも垂れてる——そんな言葉を浴びせられ、家を追い出されそうになった私は、娘に電話したが「韓国にいる」と言われ、ホテル暮らしの孤独な夜を過ごした。でも翌日、施設にいる義父を訪…

朝の食卓で味噌汁の湯気が立ち上る中、夫が突然「結婚記念日の旅行はキャンセルしておけ」と冷たく言い放った。30年連れ添った相手に「お前と行っても楽しくないんだよ」と言われた瞬間、私の世界は静かに崩れ始めた。顔もしわしわで、ケツも垂れてる——そんな言葉を浴びせられ、家を追い出されそうになった私は、娘に電話したが「韓国にいる」と言われ、ホテル暮らしの孤独な夜を過ごした。でも翌日、施設にいる義父を訪...

「結婚記念日の旅行はキャンセルしておけ」

朝の食卓で、夫・龍一が突然そう言い放った。テーブルに並んだ味噌汁は湯気を立てていたが、二人の間には凍りついた空気が流れていた。

「急な仕事でも入ったの?」

「いや。行く気分じゃないだけだ」

「新婚旅行でお世話になった旅館に、毎年欠かさず行ってたじゃない」

「お前と行っても楽しくないんだよ」

私は箸を置いた。30年間、この人と歩いてきた。毎年この時期になると、同じ旅館に泊まり、同じ露天風呂に入り、同じ窓辺の席で夕食を食べる。それが私たちの、唯一とも言える夫婦の習慣だった。

「それはこっちのセリフよ。いつも不機嫌そうにしてるのはあなたでしょ」

「じゃあなんで毎年行きたがるんだよ」

「結婚前っていうだけで、主婦にとっては魅力なの」

「じゃあ一人で行け」

「どうしちゃったのよ。いつも嫌々ながらでも行ってたじゃない」

龍一は味噌汁を一口すすると、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。

「30年もお前と暮らして、もううんざりしてるんだよ」

「え?」

「顔もしわしわで、ケツも地面につきそうなほど垂れてるし」

「何?」

「自分は二十代のままだって言いたいのか? 俺も年を取ったさ。でも、化け物みたいなお前を見てると虚しくなるんだ」

「ちょっと、言いすぎじゃないかしら」

「ずっと考えてたんだ。もうすぐ六十になるのに、このまま染みったれたばあさんと暮らすのは辛い」

私は自分の耳を疑った。三十年間、家事も育児も、彼の親の介護も、全部やってきた。その私に向かって、この仕打ちはないだろう。

「言いたい放題ね」

「冗談じゃない。このまま老後も一緒とか無理だから、今すぐ離婚してくれ」

「はあ?」

「子供たちも育ったんだ。もういいだろ」

「この年で家を追い出されて、どうしろって言うの?」

「それは知らん。自分で考えろ」

「それはあまりにも無責任すぎない? 三十年もこの家や家族のために尽くしてきたのに、身一つで追い出すっていうの?」

「親父がそのうちあの世に行くだろう。その時はいくらかくれてやる」

「なんて不謹慎なことを言うのよ」

施設に入っている義父に、ほとんど会いに行っていない龍一。そのことを指摘すると、彼はまた苛立った。

「うるさい。変に顔を見せて元気になられちゃ困るんだよ」

「そんなこと、自分の子供に言われたら悲しいわ」

「成人するまで育てたら親の役目は終わりだ。あとはお互い迷惑をかけずに生きていくのが筋だ」

「支え合って生きていくものだと私は思うけどね」

「お前とは価値観まで違うな。やっぱり俺たちは離婚すべきだ。出ていってくれ」

私は膝の上で強く拳を握った。涙がにじんでくるのを、必死にこらえた。

「はい、わかりました」

「二度と連絡しないでくれ。貯金から半分はくれてやる」

「だめだ。通帳も印鑑も隠してある。お前が持っていっていいのは、臭い服と今月の生活費だけだ」

「あんまりよ」

「子供たちには円満離婚だと言っておけ。俺の好感度が下がるのは困る」

「最低すぎて、言葉もないわ」

「なんとでも言え。離婚が決まって最高の気分だ。さようなら」

龍一は乱暴に立ち上がり、食卓を離れた。私は一人、冷めた味噌汁を見つめたまま、しばらく動けなかった。

一時間後。私は娘のアミに電話をかけた。

「あみ、今日泊めてくれない?」

「お母さん、どうしたの?」

「ちょっと色々あってね」

「お父さんと喧嘩でもした?」

「まあ、そんな感じ」

「泊まるのは全然いいんだけど、今日本にいないんだよね」

「そうなの?」

「友達と韓国に来てるの」

「旅行中だったのね。ごめん、急に言って」

「勝手に使ってほしいけど、鍵も渡してないし」

「いいの。今日はホテルにでも泊まるわ」

「大丈夫? 今まで喧嘩したって、家を出るなんてなかったから」

「いずれ分かることだから言っておくわね。お父さんから、離婚を切り出されたの」

「はあ?」

「お尻の垂れたおばさんは嫌なんだって」

「何それ? 自分だって頬っぺたがブルドッグくらい垂れまくってるくせに」

娘の怒り方が、少し滑稽だった。でも、その言葉に救われた。

「確かに三十年も支えてもらってて、マジで何なの? あのじじい、許せないんだけど」

「私より怒ってくれてありがとう」

「明日帰る予定だから、今日だけどうにかする」

「あんなじじいのところに戻ることなんて、もうないからね」

「うん」

「じゃあ今日は久しぶりに外食して、ホテルを楽しむわ」

「独身の私が保証するけど、お一人様って最高だよ」

「なんだかワクワクしてきたわ」

「お土産、いっぱい買ってくるね」

翌日、私は義父の入所している施設を訪れた。受付で名前を伝えると、職員の方が慌てた様子で出てきた。

「みよこさん、申し訳ありません。今日、明日と面会は無理そうなんです」

「どうされたんですか?」

「昨日から発熱しておりまして」

「ああ、大丈夫ですか?」

「ただの風邪だとは思うんですが」

「どうかお大事になさってくださいね」

「ありがとうございます。ところで、何の要件でしょうか」

「本来ならお伺いして言うべきなんですが……龍一さんと離婚することになりました」

「はあ?」

「これから先、私のような年寄り女と一緒に暮らすのはうんざりだそうです」

「なんだと? あのバカ息子め。俺が叱り倒してやるわ」

「落ち着いてください。言われた時は確かにショックでしたけど、今はそうでもないんですよ」

「そんなわけがあるか」

「しばらくは娘の家に世話になりますが、一人で自由に生きていくのも楽しみなんです」

「それはそうかもしれないが、金はちゃんともらったんだろうな」

「いえ、もらえませんでした」

「なんて奴だ。我が子とは思えん」

「私にも生活がありますし。さすがに納得がいかないので、弁護士さんにお願いしようとは思ってます」

義父は深く息を吐いた。

「これだけみよこさんに世話になっておいて、なんという恩知らずな不義理か。本当に申し訳ない」

「何をおっしゃいますか。お父さんのせいではありませんよ」

「でも俺の育て方が悪かったせいで……」

「お父さんは優しい方です。私、ちゃんと分かってますから」

「みよこさん……」

「お父さんが私に介護の負担をかけたくなくて、まだまだお元気なのに施設に自ら入所なさったこと。ちゃんと分かってますよ」

「あれは、骨折して動けなくなったから、この機会にと思っただけだ。骨なんて三ヶ月もあればくっつく」

「近距離なんだし、私は通いでお世話する気だったのに、早々に決めてしまうんですもの」

「ただでさえ世話の焼けるアホ息子で手一杯なのに、俺まで迷惑をかけるわけにはいかないだろう」

「そのお心遣いができるお父さんは、本当にお優しい方です」

「みよこさん、本当にすまん」

「もうやめてください。私は前を向いてますから」

その場を辞する際、義父が言った。

「世話になった。今後の人生を十分楽しんでくれ。俺からみよこさんの幸せを願ってるから」

「なんかお別れみたいなことを仰いますね。うちの子たちにとっては大事なおじいちゃんですよ。今後も今まで通り面会には行かせていただきますし、娘と息子も連れて行きます」

「そう言ってもらえると、どれだけありがたいか」

「今は早く風邪を治してくださいね。娘の韓国土産を早くお持ちしたいので」

「おお、アミは相変わらず旅行が好きだな」

「はい。亡くなったお母さんにそっくりでしょう?」

「だな。楽しみに待ってるよ」

翌日、龍一は息子のジキの家に呼び出された。ジキは開口一番こう言った。

「おい、父さんかよ。何やってんだよ」

「なんのことだ」

「みよこさんと離婚するって、本当か?」

「あいつ、もうお父さんに言ったのか。口の軽い女め」

「夫婦のことに口を挟む気はない。ただ、男としてしっかり責任は果たしておけよ」

「何のことだ」

「金だよ。十分暮らしていけるくらいの金を渡すんだ」

「はあ? 冗談じゃない。三十年も俺はあいつに飯を食わせてきてやったんだぞ」

「その飯を作ったのは誰だ? みよこさんだが。材料費は父さんの金だとしてもだ」

「俺が快適に暮らして通勤できたのは、誰のおかげだ」

「家庭の女がってことが言いたいんだろうけど、そんな昭和初期の考え方は古いんだよ」

「なんだと?」

「夫婦ってのはお互い様なんだよ。分かるだろ?」

「だとしても、立場が弱いのは女性だ。今まで仕事もせず家庭に尽くしてきたんだぞ。いきなり社会に放り出されて生きていけると思うのか」

「それこそ皿洗いでも料理でも何でもできるだろう」

「家を売れ。ローンは終わってるだろ」

「じゃあ俺はどこに住むんだよ」

「俺の家をくれてやる」

「え、本当か?」

「施設に入る前にリフォームしてるから綺麗だし、広さだって今の家の三倍はあるぞ」

「そこで育ったんだから知ってるよ。実家くれるなら、そんなに嬉しいことはないけど」

「立地もいいし、高く売れるぞ」

「だよな。あそこなら数千万は下らないよな」

「家も土地も売って、みよこさんに全額渡すんだ」

「はあ? 半分でいいだろう」

「どうせ築三十年の家に対した価値はつかない。でも全部は多すぎないか?」

「退職金と預貯金はお前が全部取ればいいじゃないか。二束三文でしか売れない家で我慢してもらうんだよ」

「なるほど。そういう考え方もあるか」

「財産分与を主張されれば、どうせお前は負けるぞ。裁判になっても泥仕合になるだけだ」

「そうだな……分かった。家は売って、みよこさんに金を渡す」

「子供たちだって、お前の行動は見てるぞ。母親を見捨てた親父で終わっていいのか」

「それはよくないな。俺も一応孫は見たいし」

「だったら俺の言う通りにしろ」

「分かったよ」

数日後、私は再び義父に電話をかけた。

「お父さん、夫から連絡がありました。家を売ったお金を全額私にくれるって」

「そうか。それは良かった」

「実家に住むって言ってましたけど、お父さんが説得してくれたんですよね」

「大したことは言ってない」

「本当にありがとうございます。弁護士さんに頼むお金すらなくて困っていたところだったんです」

「借金なら貸してやるから、いつでも言いなさい」

「ありがとうございます。でも大丈夫です」

「無理をするんじゃない」

「違うんですよ。私、仕事を見つけたんです」

「早いなあ」

「ハローワークに行かなくても、スマホですぐに見つかるよって、娘が教えてくれまして」

「時代なんだな」

「はい。時給も結構高いんですよ」

「それはすごい。どんな仕事だ?」

「家事代行です。いわゆる家政婦さんのようなものですね」

「おお。みよこさんにぴったりの仕事だな」

「家事しかしてこなかった私が、誰かのお役に立てるなんて、こんな嬉しいことはありません」

「明日そちらに伺った際に、また詳しく話しますね」

「面会なら、二週間後にしてくれないか?」

「どうしてですか?」

「その頃に見せたいものが出来上がってるはずだ」

「何でしょう?」

「その時に話をしよう」

二週間後、私は義父の施設を訪れた。すると、面会室には龍一もいた。義父が私たちを呼び寄せたのだった。

「久しぶりだな。近況報告はいいから、さっさと離婚届に判を押せ」

龍一は軽く笑いながら言った。

「入金を確認したらな」

「誰の入れ知恵か知らんが、調子に乗りやがって。家は売れたのか?」

「相手は見つかったが、入金がまだだ」

「そう。実家への引っ越しは明日だよ。だからバタバタしてるんだ」

「悪いけど、今伝えないといけないことがあるの」

「なんだよ」

「今日、お父さんの施設に行ってきた。ある資料を頂いた」

「別れる旦那の父親に、なんか会う必要があるのか?」

「子供たちにとっては、ずっとおじいちゃんなの。今後もお付き合いは続けるつもりよ」

「ねえ、親父がどうした? 余命宣告でもされたか?」

義父は静かに口を開いた。

「探偵の調査報告書だ」

「は?」

龍一の顔が強張った。私はバッグから封筒を取り出した。

「あなたが不貞を働いていたなら、話は変わってくるわ」

「まさか慰謝料とか言い出すんじゃないだろうな」

「請求する権利はあるわ」

「お前さ、どれだけ金に汚いんだよ。家を売った金をもらっても、まだ足りないのかよ」

「あなたが痛い思いをするなら、いくらだって欲しいわね」

龍一は頭を抱えた。

「俺自身に愛想が尽きたなら、仕方ないって諦めもついた。でも、若い女性に乗り換えるために捨てられたんだとしたら、さすがの私も腹が立つ」

「一緒のことだろう。俺に愛想が尽きたから浮気したんだ。順番はどうであれ、結末は同じだ」

「私にだってプライドはあるの」

「いい年したババアが、何を言ってるんだか」

「二十歳でも六十歳でも、浮気されれば傷つくのよ」

「黙れ。お前が見にくい生き物に成り下がったのがいけないんだ」

「何それ。あんまりだわ。安い化粧水だけど毎日欠かさずつけて、あなたに恥をかかせないよう美容室にも通ったわ。下手だけど必ず化粧して外に出た。それを見にくい生き物だなんて、よくも言えたわね」

「本当のことを言って何が悪い」

「相手の女性は三十五歳ですって? よくもこんな、たるみだらけのじじいと一緒になってくれたわね」

「お前な……女の人は見てられないな」

「でも何より恐ろしいのは、女の嫉妬よ」

「怖いこと言うんじゃねえよ」

「二人の幸せを願ってるわ」

「不気味だな」

その会話から数日後、龍一から電話がかかってきた。

「ちょっと、冗談でしょ。着信五百件って。何の嫌がらせよ」

「お前こそふざけんな。俺を嵌めやがったな」

「何の話?」

「俺らが引っ越してきた途端に、親父が戻ってきたんだよ」

「え? 骨折の経過も順調だし、あとは家で療養するって、勝手に退所してきたんだと」

「なんで怒ってるの? いいことじゃない」

「どこがだ? さっちゃんがじいさんと暮らすなんて絶対に嫌だって怒ってるんだ」

「ああ、浮気相手のこと? 今はそうだが、近々正妻になる人だぞ」

「ご実家は広いんだし、別にいいでしょう」

「それがよくないんだ。この家に住むなら、自分の介護をしろって言い出してさ」

「まあ、そうでしょうね。おかしくないわ」

「骨はくっついたんだろう? 神経障害が残ってるらしいんだ」

「聞いてないぞ。病院にも施設にもお見舞いに行かないからよ」

「お前が教えてくれたらよかっただろう」

「食事中にじいさんの話をするな。飯がまずくなる」

「そういえば、そう言ったのは忘れたの? お父さんの話なんて興味ないと一切聞かなかったのは、あなただからね」

「……それはそうだが」

「でも良かったわ。あなたの言う通り施設は退屈だし、認知症が進むこともあるって言うから、心配してたの。実家なら穏やかにのんびり暮らせるし」

「介護要員まであなたが連れてきてくれて、お父さん喜んでるわね」

「さっちゃんに介護なんかさせない」

「だったら、出ていくしかないんじゃない? 引っ越し終わったばかりなのに大変ね。ご苦労様」

「お前、何勝ち誇ってるんだよ」

「別に。ただあなたが一人で勝手に慌てふためいてるのが面白いだけ」

「性格の悪い女だな。だから俺から捨てられたんだぞ」

「だったら良かったわ。今の生活、本当に快適だから」

「主婦しかしたことないくせに、何を偉そうに言ってるんだ」

「あなたこそ実家を手に入れたと思って、絵に浸ってたじゃない。まあ、私は内心、お父さんの介護を誰がやるんだろうってずっと思ってたけど」

「お前、親父が戻ることを知ってたのか?」

「知ってたというか……いずれは施設を出てもらおうと考えてたわ」

「なんでだよ。せっかく厄介払いできたのに、わざわざ呼び戻す必要なんてないだろう」

「お父さんは私に迷惑をかけたくなくて、自ら施設に行かれたのよ。私はお世話するつもりだったのに、お父さんは甘えてくださらなかった」

「それでいいんだよ」

「でもきっと今頃、喜んでるでしょうね。念願の自宅で生活できるんだもの」

「頼む。お前が説得して、親父を施設に戻してくれ」

「他人の頼みを聞く筋合いはないわ」

「まだ夫婦だろう」

「昨日入金を確認したから、離婚届を出しておいたわ。今日現在、私とあなたは赤の他人よ」

「そんな……」

「じゃあ、介護頑張ってね。力を合わせればできるわよ」

「冗談じゃない。俺は絶対にやらないからな」

翌日、義父は久しぶりの自宅で目を覚ました。

「やっぱり自分の家が一番だな」

「父さん、大丈夫ですか? 龍一とあの女にひどいことされてませんか?」

「追い出されるのが嫌で、今のところ言うことを聞いてくれてるよ」

「だったらいいんですが」

「大して行きたくもないトイレで何度も呼び出して、飯は三回作り直させてやったぞ」

「お父さんたら……」

「しかし龍一は、あのサチ子という女のどこがいいんだか。探偵さんの撮った写真しか見てないが、厚化粧すぎる。香水もきついし、体系だってよく言えば豊満、悪く言えばデブだ」

「ま、いつ音を上げて出ていくかな」

「あまり無理なさらないでくださいね。何かあればすぐに駆けつけますから」

「ありがとう」

一ヶ月後、龍一から電話があった。もう元妻と呼ぶべき相手に、彼は愚痴をこぼしていた。

「無理だ。もう限界だよ」

「元妻に愚痴を吐かないでくれない? 私も忙しいんだけど」

「親父は夜中に何度もトイレに行くんだ」

「年だから近いのは仕方ないわ」

「その度に起こされるんだぞ」

「大変ね」

「この前はトイレに間に合わず、廊下でやらかした」

「そういうこともあるでしょう」

「汚いし、もう限界だよ」

「あなた、小さい頃はお父さんにおむつを替えてもらったんでしょ? 恩返しだと思って頑張りなさい」

「お前はいいよな。両親とも健在なんだから」

「いいことなんてないわ。孫の顔を見せたかったし、話したいことも山ほどある。今でも会えるなら会いたいもの」

「助けてくれよ。二日に一度でいいから、手伝いに来てくれ」

「私が行けば、愛しいサチちゃんが嫌がるんじゃないかしら」

「あいつなら昨日出てった」

「たった一ヶ月で逃げたの?」

「介護なんて冗談じゃないって切れて、結婚もパーになった」

「薄っぺらい愛情だったのね」

「今になって分かったよ」

「ああ、やめて。今から『お前の存在がどれだけ大事だったか』みたいなこと言いそうだったから、事前にストップかけたわ」

「その通りだ。言わせてくれ」

「無理無理。今さら何を言われたって無駄よ」

「確かに俺はひどいことを言った」

「もういいってば」

「なんでだよ。謝罪くらいさせろ」

「結構です。そんなものいらないわ。お金はちゃんといただいたし、離婚届も出した。どこの誰だか分からない他人になったのに、これ以上のやり取りが必要?」

「そんなこと言うなよ」

「あなたが向き合うべきは、今そばにいるお父さんよ」

「こんなじじいなんか知らん。俺は今日家を出る。お前が住んでる家なら、俺はジキのところに世話になるぞ」

「息子に迷惑をかけるつもり? 子供が親の面倒を見るのは当然のことだろ?」

「すごい。これが特大ブーメランってやつなのね。今あなた自身が言ったのよ。親の面倒を見るのは当然のことだって」

「それとこれは話が違うだろう」

「どう違うのか、私には分からないわ」

「うるせえ奴だな。もういい。誰にも頼らん」

数時間後、義父は私に電話をかけてきた。

「龍一が出ていったよ。私の予想は三日でしたから、意外と長く持ちましたね」

「家の空気が良くなりました。何がいいって、香水の匂いがなくなったことだ」

「それは何よりです」

「これで明日から、やっとゴルフに行けるぞ」

「歩けないふりをするなんて、お父さんも人が悪いですね」

「あいつらの本性を見抜くためだ」

「でも、実際にそういう状態になった時、同じことをするんでしょうね。良かったのかもしれません」

「俺もそう思う」

「仕事は順調なのか? 金には困ってないか?」

「龍一から十分なお金をいただきました。家も借りましたし、いまは楽しんでやってます」

「それは何よりだ」

「ただ、週に何度かは様子を見に行きますよ。大事な家族に会いに行くだけです」

「俺は一人で大丈夫だと言ってるだろう」

「一人暮らしだと、ついおかずを作りすぎちゃうんです。お裾分けさせてください」

「助かるよ。ありがとう」

「ゴルフ、無理しすぎないように楽しんでくださいね」

翌日、龍一は再び私に電話をかけてきた。今度はさすがに、弱っていた。

「ジキは引っ越したのか。アミも電話に出ないし」

「昨日ホテルに泊まったのよ。行く当てもないって、切ないでしょう」

「ジキはどこにいるんだ?」

「転勤で九州にいるらしいけど」

「はあ? なんで俺に報告がないんだよ」

「私があんな捨てられ方をしたもんだから、アミもジキも怒っちゃってね。だから言うなと言ったのに」

「子供たちと向き合って、大事に育ててきてよかった。こういう時ちゃんと味方になってくれるし、心の支えにもなってくれるんだもの」

「俺の金で育ったんだろうが」

「それは確かにそう。でもその押し付けが過ぎると、子供たちは感謝すらしたくなくなるものよ」

「だからって、俺だけのけ者なんて」

「最初に誰が誰をのけ者にしたのか、よく思い出してね」

「しつこいなあ」

「裏切りをあっさり忘れる女性は、この世にいないわ。覚えておきなさい」

「くそ」

数日後、龍一は娘のアミに電話をかけた。

「アミ、パパだよ」

「何?」

「ジキが九州に転勤したことを知らなくてさ。アミしか頼れる人がいないんだ。ホテル代ももったいないから、泊めてくれないかな」

「無理。部屋が腐る」

「おいおい、そんなこと言うなよ。昔は毎日風呂に入れてやっただろ」

「気持ち悪いこと言わないでくれる?」

「毛布一枚あれば床で我慢するから」

「当たり前でしょ。ベッドなんか貸すわけないし」

「アミはどこまで知ってるんだ?」

「浮気してお母さんを裏切った挙げ句、じいちゃんの家と土地に目がくらんで女と一緒に住み始めたけど、じいちゃんが戻ってきたら介護に耐えきれず、あっさり逃げたことくらいだけど」

「全部だな」

「私たち子供ですら、お母さんには感謝してもしきれないのよ。よくもまあ、こんな仕打ちができたよね」

「すまなかった」

「私じゃなくて、お母さんに謝りなさいよ。でも、受け付けてもらえないだろうね。謝られたところで許せるわけないし」

「アミ、パパはどうしたらいい?」

「その『パパ』ってのやめてくれる? 私、五歳以降呼んでないんだからさ」

「すまん。俺はこれからどうすればいいんだろう。お前たちが育った家も売ってしまった。盆や正月に集まる家もなくして、済まないと思ってる」

「別にいいよ。私たちはじいちゃんちに行くから。それはちょっと違うんでしょ? パパは自分から逃げ出して、後ろめたくて二度と帰れなくなっただけなんだから。私もお兄ちゃんもお母さんも、頻繁に顔出すもんね」

「俺も部屋が決まったら連絡するから、たまに顔出してくれよ」

「ねえ、気づいてる? あなたは家族を失ったんだよ」

「え?」

「もう父と呼ぶのも嫌なくらい無理だし、お兄ちゃんに至ってはブロックと着信拒否してるから」

「だからずっと話中だったのか」

「私たち女性だけじゃなく、人間は必ず老いるのよ。それを笑ったり貶したりする人とは、親子でも絶縁する」

「悪かった。本当に反省するよ」

「大体、自分だって顔も体もたるんだるんのくせに、よく人の姿にどうこう言えたわね」

「はい、おっしゃる通りです。でも、こんなに反省してるんだから、許してくれたっていいじゃないか」

「一人で生きていくには、残りの人生長すぎるわよ。俺だって孫の顔も見たいんだ」

「合わせるわけないじゃん」

「そんなこと言わないでくれよ。お前らは俺に何の借りもないだろう。子どもが何かしてあげたくなる親でいろって話よ。悪いけど、あんたには金も時間も使いたくないの」

「そんなパパを見捨てないでくれ。アミ、頼むよ」

「私たち家族に、二度と連絡しないでください」

娘に強烈なダメ出しを食らい、龍一はさすがに何かを感じたらしい。その後、彼は誰にも連絡をせず、一人で生きていく決心をしたようだ。

小さなアパートを借りたという話だったが、定年まであと五年。それ以降は孤独との戦いになりそうだ。料理をしたことがないので、何度か体調を崩したとも聞いた。自分はどうなってもいいが、人様にだけは迷惑をかけないでほしいものだ。

一方、私はというと。不倫の慰謝料として、龍一がいくらか振り込んでくれた。彼の残った貯金が二百八十万だったので、そこから出したのだろう。サチ子にも請求したが、一向に払う気配がないので、訴訟も視野に入れている。大手上場企業に勤めるサチ子なら、きっと払ってくれるはずだ。

息子のジキは転勤先で結婚相手を見つけ、娘のアミも長く付き合ってきた彼と結婚を決めた。おめでたいことが続いて、嬉しい限りだ。

義父も元気にゴルフ三昧の日々を送っているようで、私も最近パソコン教室に通い始めた。世界中の人と繋がっていると思うと、寂しくない。

今日も明日も、大事な家族が笑って過ごせますように。

Thumbnail