一通り出張の買い物リストを買い揃えて、いつもの鞄に入れておいたわ。他に足りないものがあったら言ってね。大きいものは現地のアパートに配送を手配しておいたから。
「色々ごめんな。本当は自分でできればいいんだけど、歩みに任せっぱなしで。」
「何言ってるの? 浩一は朝から晩まで働いてるのに、出張準備までしてたら寝不足になっちゃうでしょ。私なら大丈夫だから。何でも言って。」
「ごめんな。本当に助かるよ。」
「ねえ、本当に出張先についていかなくていいの? 今でさえ激務なのに、大阪に行ったらもっと大変なことになるんじゃない?」
「だからこそ歩みについてきてもらうわけにはいかないの。俺のために色々頑張って無理するだろう。歩みの優しさに甘えることはしたくないんだ。」
「そんな夫婦なのに。」
「夫婦だからこそだよ。でもさすがにしんどい時は、二日くらいヘルプで来てくれると助かるかな。」
「当たり前でしょ。ちょくちょく様子は見に行くから。今日も遅くなるんでしょう? 夜ご飯用意しておくから。」
数日後、歩美のスマホに義母から鬼のような連絡が来た。
「ちょっと、歩美さん、あなた何考えてるの? 浩一が出張に行くっていうのに、ついていかないなんてどういうこと? 嫁としての役割も果たせないなんて、本当にダメ嫁ね。まあ、浩一もこれを機に現地でいい人を見つけて、こんな女とはさっさと離婚すればいいんだわ。あんた捨てられるわよ。」
「お母さんが浩一さんを心配に思う気持ちは分かります。でも今回の単身赴任は浩一さんからの提案です。出世のかかった大事な出張で、仕事内容も多岐に渡り激務は必至。私に負担をかけたくないから現地に残っていいって、優しさからそう言ってくれているんです。もちろん浩一さんの助けになるために、日程を細かくしてヘルプに行く予定ですよ。私たち夫婦はきちんとお互いを思って考えています。うまくいっているので、どうぞご安心ください。」
「ベラベラ言い訳していくのが面倒なだけでしょ。早く息子から離婚したって言葉を聞くのが楽しみだわ。」
一ヶ月後、義母からまた無理難題が舞い込んだ。
「ねえ、車出してくれる? 買い物行きたいから。」
「え? なんでですか?」
「なんでですかじゃないわよ。嫁っていうのはね、姑に言われたことは、はい、そうですかって二つ返事で言うことを聞くものなの。」
「そう言われても私も働いてますし、平日のこんな時間に車は出せないですよ。」
「使えないわね。じゃあ今から言うものを買って届けなさい。それくらいやってくれないと困るわよ。ダメ嫁ってことで浩一にちくったっていいんだからね。」
その日の夕方、また義母から連絡が来た。
「明日も買い物してもらうからね。」
「あの、私もそんなに暇ではないので……」
「口応えするんじゃないわよ。嫁っていうのは姑に尽くすものなの。あんたは今旦那もいないから暇でしょ。だったらその分私に時間を使うの。分かったわね。」
その後、歩美は浩一に電話をした。
「浩一、忙しいところごめんね。手が開いたタイミングでいいから、ちょっと聞いてほしいことがあって。」
「今ちょうど休憩中だよ。どうかした?」
「お母さんが急にLINEしてくるようになったの。夫がいないんだから姑に尽くして当然って。車を出せとか、これを買ってこいとか。はあ。」
「あのバ……。とりあえず今日は言う通りに買い物はしたけど、明日以降も続くと困るなと思って。」
「当たり前でしょ。そんなの一回でも無視してよかったのに。俺から言っておくから。歩美は悪くない。あの人からの連絡は全部無視していいから。なんならブロックしていいよ。」
「さすがにブロックまではしないけど。浩一が話を聞いてくれて安心したわ。忙しいところ申し訳ないんだけど、お願いね。」
三日後、義母はヒステリーを起こした。
「あんた、浩一によくチクったわね。罰として買い物に車を出しなさい。」
「あの、浩一に、もうこういうことはしないように言われなかったんですか?」
「なんで私が息子の言うことなんて聞かないといけないの? 母親の方が息子より偉いのは当然でしょ。つまり嫁のあんたは私より下なの。口応えするんじゃないわよ。」
数分後、またメッセージが届いた。
「何無視してんの? さっさと返事しなさい。今日は土曜で仕事休みなんだから、車くらい出せるでしょ。このダメ嫁。いい加減にしなさい。」
「申し訳ありませんが、私ではなくて浩一さんに連絡してください。浩一さんから対応しなくていいと言われてるので、嫁は夫の判断に従わせていただきます。」
数日後、義母が階段から落ちた。
「昨日、階段から落ちたわ。救急車で運ばれて、今は様子見で入院してるわ。」
「そんなにひどいんですか?」
「しばらく通院とリハビリが必要みたい。歩美さん、しばらく私のお世話が忙しくなるから、仕事はやめるか休むか、どうにかしておいて。」
「え、当然でしょ。通院はもちろん、家の中の移動も大変なんだから。腰と足を痛めててね。杖がないと歩けないの。座ったり立ったりするのも一人だとしんどくてね。あ、まあ、あんたダメ嫁でもいないよりマシだから。頼んだわよ。明日から。」
「とにかく一度浩一さんと相談するので待ってください。私一人ではすぐに判断がつきませんので。」
歩美はすぐに浩一へ電話をかけた。
「浩一、どうしよう。お母さんが家の階段から落ちたみたいで。病院に搬送されて、今入院中。しばらくリハビリが必要みたいで、お母さんは当然私を介護要員にカウントしてるみたいなんだけど。」
一時間後、浩一から返事が来た。
「ごめん、返事遅れた。マジかよ。ぶっちゃけ怪我したことはどうでもいいけど、歩美を介護要員になんて絶対させないから。どっか適当に施設にでもぶち込めばいいよ。」
「そう簡単な話じゃないでしょ。今私も色々調べたり、市役所に問い合わせたりしたけど、介護施設は空きがないんですって。それに病院にも話を聞きたくて電話したけど、お母さんはあくまで要支援で、要介護にはならないの。」
「なんだよそれ。マジで福祉を甘く見てんな、この国は。歩美、母さんのことは放っておいていいからな。怪我が良くなれば自力で何とかできるだろう。」
「浩一、そんな言い方しないで。お母さんだって好きで怪我したわけじゃないだろうし。でも、歩美を介護要員にして面倒見てもらおうなんて、俺は嫌だよ。普段あんなに歩美をいびってるくせに、こんな時だけ助けてもらおうなんてさ。」
「私だって心よく介護しますなんて思ってないよ。でも浩一は長男で一人っ子だし、覚悟はしてたの。それにしばらく通院すれば良くなるんだし、ずっとじゃないでしょ。だから腹をくくって頑張るよ。」
「分かった。でも嫌になったら本当に言って。俺も色々対応策を考えてみるから。」
「ありがとう。いつも浩一が味方だから頑張れるよ。」
数日後、歩美が病院に見舞いに行くと、義母はまた文句を言い始めた。
「ねえ、お昼ご飯はさっさとしてよ。本当に使えないんだから。」
「お昼は仕事中なので、ご自分で出前を頼んでください。夜ご飯は作りに戻りますから。」
「それならあんたが十二時までに出前を頼んで、家に届くようにするくらいできないの?」
「私が頼んだら好みのものにならないと思いますし。」
「ああ、もう口応えばっかりでイライラするわね。」
「お母さんも体が不自由でいらだちがあると思います。でも何でもかんでも対応はできません。すみませんが、お昼の支度は自力でどうにかしてください。」
その日の夜、歩美が介護を終えて帰ろうとすると、義母が怒鳴った。
「なんで止まって帰らないの?」
「その家から私の職場は遠いから、基本は泊まれないって話しましたよね。寝るまでの支度を整えるまでお手伝いしますって、そういう約束だったじゃないですか。」
「覚えてないわね。なんでもっと姑に尽くそうと思わないのかしら。」
「私なりに精一杯やってます。」
「足りないのよ。もっとしっかりやりなさいよ。こっちは足も腰も痛めてるんだからね。本当に使えないんだから。」
歩美は車に乗り込むと、そのまま玉城ばあさんに電話をかけた。
「玉城さん、夜分遅くにごめんなさい。今ちょっとだけいいですか?」
「あら、歩美ちゃんから連絡だなんて、緊急かしら? どうしたの?」
「お母さんのことでちょっと……。玉城さん、浩一から色々聞いてますよね。面倒を押し付けることになって申し訳ないんですけど、さすがにしんどくて。」
「告げ口みたいなことはあんまりしたくないんですけど、さすがに限界で。私も仕事をしているから完全介護は無理で、できる範囲で通いでサポートさせてもらいますって、怪我が治るまでリハビリする約束だったんです。でも朝から晩までものすごい数のLINEが来て、お昼も作りに来いって言うんですよ。自分で出前すればすぐなのに、十二時になったらお昼が届くように私に出前しろとか。」
「ちょっと待って、ちょっと待って。本気で言ってんの?」
「大真面目に言ってるっぽいです。さっきもお風呂とトイレと着替えを手伝って、寝る準備を整えて出てきたんですけど、私が車に乗った途端に、なんで泊まっていかないの? もっと姑に尽くしなさいって。今、未読四十三件、着信十四件になりました。」
「こわ。何それ? ふん。まあ、由紀子さんの性格だからね。歩美ちゃんが苦労するんじゃないかって心配は結婚前からしててね。私からも何回か伝えてたでしょう。同居は構わないけど、くれぐれもって。」
「浩一からも言われていて。昔からあんな感じなんですか?」
「癖は強かったわね。プライドが高くて他人を見下すみたいな。私だって好きなタイプじゃないわよ。」
「失礼なんですけど、なんで浩一さんのお父さんは結婚されたんですかね? 私が浩一とお付き合いを始めた時には、すでに亡くなっていましたし。」
「まあ、それは深く私から話していいか微妙なところだからあれなんだけど、うまくいっていた結婚生活ではなかったわね。その証拠に、浩一が由紀子さんを嫌いでしょ? 父親が亡くなって、あとは母親だけだっていうのにあの態度なんだから、相当ってことよ。」
「私、自分で引き受けておいて無責任だって分かってるんですけど、ちょっともう限界で。」
「当たり前よ。むしろよく今まで我慢したわね。打ち明けてくれてありがとう。歩美ちゃんじゃなくて、真っ先に私に言うべきだったのに。あの子もまとめて説教だね。玉城ばあちゃんの華麗なる人脈パワーを活用してやるわよ。」
「華麗なる人脈ですか?」
「そう。私、介護資格を持ってる知人がいるから、私が費用を出してサポートをお願いしようかと思って。」
「そんな、そこまでしていただくのはさすがに……。話を聞いてくれる人がいてくれるだけで心強いです。」
「だめだめ。歩美ちゃんはそうやって何でも抱え込んじゃうんだから。知り合いに話をつけるまでの数日だけ我慢して、その後のことは私に任せてくれたらいいわ。」
「本当に何から何までありがとうございます。あと数日なら頑張れそうです。」
二日後、退院の日。玉城さんの手配で、病院の近くまで歩美が迎えに行くことになった。
「それじゃあ十一時頃に迎えに来ますから、病院頑張ってくださいね。」
病院に着くと、義母はベンチに座って待っていた。
「ああ、退屈だわ。今日は回転寿司に行くからね。久しぶりに食べるわよ。」
数時間後、会計を終えた義母が歩美に怒鳴った。
「迎えに来ましたよ。会計終わりましたか? いつものベンチにいるけど。」
「あんた、何考えてるの?」
「え、何のことですか?」
「病院の送迎は高級車でしなさいよ。使えない嫁め。私にこの安物に乗れって言うの? なめてるの?」
「じゃあ帰るので、タクシーでどうぞ。」
「ああ、いや、何言ってんの? そんなもったいないことしないから。あそこ、ベンチに座ってるから、早く車を寄せて。回転寿司混んじゃうでしょ。」
「もういいです。このまま出します。」
「ちょっと、ちょっと何?」
歩美はそのまま病院を後にした。十分後、玉城さんに電話をかけた。
「玉城さん、どうしましょう? お母さんを病院に置いてきちゃいました。どうしよう。すぐに戻らないと。」
「いいわよ、そんなの放っておきなさい。むしろ自業自得よ。高級車で来いって、いつお嬢様キャラになったのよ。あの子、普通の庶民だから。歩美ちゃんをいびるのに必死すぎて、キャラ崩れ起こしてんのよ。」
「でもお母さん、足が悪いし、早くしないと……」
「歩かせりゃいいのよ。リハビリ、リハビリ。さて、あとは私に任せてちょうだい。姑が一番嫌がるのが、大姑ってところを見せてあげるから。」
数分後、玉城さんは由紀子に電話をかけた。
「由紀子さん、退院はどう? 浩一から、怪我して入院してリハビリが必要って連絡を受けたんだけど、生活は大丈夫なの?」
「お母さん、聞いてくださいよ。あの嫁、私のことを病院に置いていったんですよ。ありえなくないですか? 介護も適当だし、手抜きだし。失礼にも程がありますよ。」
「あら、そうなの。」
「私は立ち上がったり座るだけでも大変なのに。仕事があるからってお昼は作らないし、泊まりもしないでさっさと帰るし。何かあれば浩一が来るんですよ。本当に悪い嫁ですよ。お母さんからも何か言ってやってください。」
「じゃあとりあえず迎えを出してあげるから、うちでじっくり話を聞いてあげるわね。」
「本当ですか? ありがとうございます。」
十分後、由紀子は玉城さんの車で、見知らぬ集合住宅に連れてこられた。
「お母さん、ちょっと、ちょっと待ってください。これどうなってるんですか? 何? 誰? 誰って? 私の知り合いだけど、もちろん介護資格を持った人たちだから。そういう話じゃなくて、黒塗りで怖いんですけど。しかも何ですか? ここ、全然知らない集合住宅なんですけど。」
「そこは要支援の人が暮らしてる集合住宅で、半分は介護資格を持った人が暮らしてるの。介護施設に入るほどでもないし、そもそも空きがなくて入れない人たち向けね。買い物とか散歩とか、あとはお風呂とか、色々日々のサポートが受けられるってわけ。入居にかかる費用は浩一が支払ってくれたから、良くなるまでそこで暮らすといいわよ。」
「待ってくださいよ。いきなりそんなこと言われても困ります。こんなところで暮らしたくないわ。家に帰りたい。なんでこんな目に遭わないといけないの?」
「そんなの全部自業自得でしょう。大体私はあんたの小賢しさにはうんざりしてたんだ。」
「何、急に?」
「自覚がないの? それも問題だね。息子があんたと結婚したのは、子供ができたから責任を取るため。あんたは経済的に息子に依存していたから、離婚にならないように言うことを聞いていたんでしょ。全部わかってるんだよ。」
「いきなりそんなこと言われても。夫が死んで、離婚に気を使う必要もなくなったわ。それで気を使わない自分の本性を全開にしたってのは、まあいいわよ。でもあんた、浩一に仕送り頼んだりしてたんでしょ。それなのに大事な嫁をいびるなんて、ちょっと頭が足りてないんじゃない?」
「余計なお世話よ。あんただって私をいびってたくせに。」
「私が覚えがないね。」
「やれ無駄遣いするなだの、言葉遣いに気をつけろだの。口うるさいババアだっただろうが。」
「それはいびりじゃなくてね、躾っていうの。大人として必要最低限の常識でしょ。それもかなり控えめに行ったつもりなんだけど。」
「うるさい。やった方は覚えてないもんね。じゃああんたが歩美さんをいびったのは、自分がやられた返しのストレス発散ってこと? 嫌なら嫌って言えばいいのよ。言い返さない。そっちが悪いの。私のせいじゃないから。」
「あ、そういうところが小賢しいって言ってんのよ。話のわかんない子だね。」
「うるさい。とにかく、こんなところ出ていくから。」
「あんたがどういうつもりで歩美ちゃんをいびっていたかなんて、私にはどうでもいいことだよ。大事なのは、歩美ちゃんが私にSOSを出したこと。大事な孫嫁を傷つけたこと。百年の恋も冷めさせてやるから覚悟しなさい。なんてね。」
その後、玉城さんは浩一にも電話をかけた。
「あんた、何を考えてるの? 歩美ちゃんが断れないことくらい分かってるのに、あんな姑のリハビリをやらせるなんて。歩美ちゃんがやるって言っても、やらせない。それが旦那であるあんたの仕事だろうが。これはね、世の中では離婚案件って言うんだよねえ。歩美ちゃんに言ってやりなさい。」
「ごめんなさい。俺が甘かったです。全面的に俺が悪かったです。これから本当に頑張るし、改めるから、嫌いにならないでほしい。離婚しないでほしい。お願いです。」
「そんな風に謝らないで。私は浩一に感謝してるし、不満もないよ。それに今回のことは、私の意志の弱さが改めて良くないって感じる出来事だったよ。私だけじゃなくて、浩一や玉城さんを巻き込んで、迷惑をかけて。」
「何言ってんの? 迷惑かけてるのはこっち。身内の問題に、お嫁さんを巻き込むなんて。今後、どうよ。分かってんだろうね。」
「はい。二度とこのようなことにならないように、身の丈に合った対応をさせていただきます。」
数日後、由紀子から歩美に、悲痛なメッセージが届くようになった。
「助けて、もう無理。限界。もう耐えられない。誰も私の話を聞いてくれないのよ。信じられないでしょ。お昼の買い物は強制的に歩かされるし、家でじっとしてようもんなら、リハビリですよって動かされるし。こんなの刑務所と一緒だわ。もういいや。もう二度と歩美さんをいびったりしないから、助けに来てよ。お願い。今すぐ。」
さらに数日後、今度は浩一に電話がかかってきた。
「ねえ、歩美さんが無視するんだけど、どうなってんの? 浩一、助けて。お願い。もう無理。ここにいたらストレスで早死にする。」
「悪いけど、しばらく母さんとは話したくない。歩美に対してどれだけ失礼なことを言ってきたか、俺が知らないって本気で思ってんの?」
「それは姑からの躾であって……」
「ばあちゃんは母さんにそんなことしたの? してないと思うけどね。それに俺は母さんが人として嫌いだ。いつも父さんを見下してバカにして、そのくせ父さんが離婚だって言えば、泣いて喚いて暴れまくるし。本当に自分勝手でわがままでヒステリー。俺にとって最悪の女性像は母さんだよ。」
「なんでそんなひどいこと言うのよ。たった一人のお母さんじゃないの。」
「それが母さんだっていう事実が、俺の人生最大の汚点だよ。反省する気持ちがあるなら、元気になるまでそこで過ごすんだな。」
数日後、由紀子はアパートに戻ってきた。
「ねえ、なんで歩美さんが留守なのよ。今日は日曜日でしょ。おかしいわ。あんたの単身赴任の隙を盗んで浮気してるんじゃないの? まさかアパートを逃げ出したのか。呆れたな、本当に。もう足も痛いし、腰も痛いし、動けないわ。ねえ、お願いよ。歩美さんに連絡して、家に入れて。」
「その家に歩美が帰ることはないよ。週末には業者に頼んで綺麗にしてもらうし、今月末には解約するから。」
「はあ? 何言ってんのよ。冗談でしょ?」
「冗談じゃないよ。歩美は俺の単身赴任先に来てるから、母さんと会うことは二度とないんだよ。いい加減、諦める気になった。お願い。一度でいいから。歩美さんと話をさせて。お願いよ。」
「ちゃんと連絡して、回収の車を呼んだよ。二度とアパートの人に迷惑をかけるなよ。」
翌日、由紀子から歩美にメッセージが届いた。
「ごめんなさい。ちょっと意地悪してみたかっただけで、歩美さんがいてくれないと困るわ。ここから出して、もう辛いのよ。」
さらに翌日。
「歩美さんがどれだけ私に尽くしてくれていたか、失って気がついたわ。もう二度とひどいことは言わないから。歩美さんに面倒を見てもらいたいの。一度でいいから返事をちょうだい。お願い。」
数日後、歩美がアパートに荷物を取りに来た。職員に挨拶をしていると、由紀子が叫んだ。
「歩美さん、私に会いに来てくれたのよね。今アパートの外に車が見えたわ。ねえ、そうでしょ。ねえ。ああ、やっと待ってたわ。」
「え、まさか。これから単身赴任先に行くので、アパートに細かい荷物を取りに来たついでに、職員さんたちに挨拶に来ただけです。」
「なんでそんなこと言うの? 私も連れてってよ。お願い。もうわがまま言わないから。意地悪も言わない。いびらない。約束する。」
「お母さんに何を言われても、ずっと我慢してました。でももう限界です。安物の車に乗れとか、使えないダメ嫁とか。そんな言葉を何度も言われて、それでも一生懸命やってきたんです。」
「だって歩美さんだって言い返さなかったし、拒否されなかったから、嫌がってないのかなって。」
「私、夫と結婚して幸せでした。私がいろんな人に仕事を押し付けられて断れないでいるところを見て、相手にも私にも怒ってくれた人なんです。父に厳しく、というか理不尽にしつけられて、自分の意見を言うことができない。人から言われたことに抵抗できない。私はそんな人間でした。夫はそんな私に、されるがままになるな。自分の意見を我慢することになるなって、まっすぐな目で言ってくれたんです。そういう人だから結婚しようと思えた。守ってもらえるし、自分自身も変わることができるかもって。でもお母さんのせいで、幸せな結婚生活が台無しになりました。それなのに、どうしてお世話してもらえると思えるんですか。笑わせないでくださいよ。」
「でも辛いのよ。私も辛いの。息子以外、頼れる人がいないんだから。嫁に頼るのは当然でしょ。」
「辛いんですよね。帰りたいんですよね。私もずっと辛かったんです。浩一と玉城さんがいつも気にかけてくれていたから、なんとか頑張れていましたけど、限度がありますよ。お母さんは助けてくれないどころか、私を苦しめて楽しんでいたんですから。ストレス発散だったんですもんね。玉城さんへの愚痴、全部知ってるんですよ。」
「それは謝るから。お願い、私を連れてってよ。」
「ああ、そういえば高級車じゃないと乗れないんでしたっけ? 私は貧乏臭い軽自動車しか持ってないので。今度こそ、本当にさようならです。さようなら。」
一ヶ月後、玉城さんが歩美に会いに来た。
「歩美ちゃん、久しぶり。そっちの生活はどうかしら?」
「すごく楽しいです。関西の人たちって勢いがすごくって。言いたいことはちゃんと言いなよって、ご近所さんが背中を叩いてくれるから。私、こんなに自分の意見を言う生活は初めてで、毎日新鮮です。」
「まあ、いいわね。歩美ちゃんが楽しくやってくれてるのが、何より嬉しいわ。それでちょっと報告があるんだけど。」
「え、何かあったんですか?」
「それがね、由紀子さんなんだけど、歩美ちゃんが単身赴任先に行ったから、由紀子さんも追いかけようとしたみたいで。一応こっちは止めてるのよ。体が弱ってるのは事実だからね。でも介護施設と違って二十四時間監視はできないとなると、完全ガードは無理なのよ。」
「じゃあ新幹線に乗って、こっちに向かってるとか?」
「それだったらまだマシだったんだけど、もう一度階段から落ちちゃってね。すぐに救急車で運ばれたんだけど、下半身を複雑骨折しちゃって。リハビリ次第で歩けるようになるかもだけど、年齢や性格的なことを考慮しても、絶望的ね。本格的に車椅子生活になっちゃった。」
「そんな。どうしよう。私のせいで。」
「間違っても自分のせいなんて言わないで。完全に自業自得だから。今、浩一と施設費用について話し合ってるんだけど、これがまたびっくりなんだけどね。あの人、息子が残した遺産にも手を出してたらしくって、まとまったお金が残ってなかったのよ。」
「どこまでとんでもない人なんですか。ちょっとでも同情した私の気持ちを返してほしいです。」
「本当よね。でも浩一も念のため、由紀子さんが相続した遺産の半分は介護資金として管理してたらしくて、施設費用はそれでなんとか賄えそうよ。」
「本当ですか? だったらよかった。でも私、こんなに大事な話なのに、浩一から何も聞かされてなくて、玉城さんから教えてもらうまで何も知りませんでしたよ。」
「これ以上、歩美ちゃんに由紀子さんのことで心を痛めてほしくなかったのよ。歩美ちゃんは優しいから。そんなことはないです、って言うけど、それも根底にあるのは歩美ちゃんの優しさだから。そしてあれはあの人の自業自得。気に病まないでね。」
その後、義母は施設に入り、一人寂しく暮らしている。施設のスタッフには「そんな嫁いびりみたいな発言をしないでください」と厳しく叱られ、大人しくなっているのだとか。そもそもその介護施設は玉城さんの知り合いが営んでいる場所なので、玉城さんがそういう風に対応するように伝えてくれたらしい。
歩美は単身赴任先で新しい生活を始め、今までのように他人の指示に負けず、自分の意見を言って、人に流されずに生きていく練習をしている。優しさに弱いことが必ずしも悪いというわけではないが、自分と、自分を大事に思ってくれる人のために強くなることも大事だと学んだ一件だった。
玉城さんがこっちに遊びに来てくれる時、少しでも変わったねと言ってもらえるように、歩美は今日も頑張っている。
