軽くため息をついてから、僕は書斎の扉をノックした。父の書斎ではない。僕の書斎だ。母は今日も僕の部屋の前で待ち構えていた。
「母さん、ちょっといい?」
「どうしたの? 何か困ったことでも?」
「うん。仕事は順調なんだけど、今度付き合ってる彼女と結婚しようと思ってるんだ。彩子さんって言うんだけど」
母の表情が一瞬で固まった。三秒の間をおいて、彼女は声を張り上げた。
「はあ? ちょっと待ちなさいよ。彼女? 結婚? 何も聞いてないわ。そんなことになるなんて」
「何も知らせてなかったからね」
「いきなり何言うのよ。そんなこと、私はしてないわ。言いがかりよ」
「さすがに三人続けて『あなたの母親は無理』って言われたら疑いたくもなるだろう? 母さんに紹介してない人もいたし」
「そんなの全部あなたのためなのよ。変な女やバカな女に息子が騙されないように、私が見極めてあげてるの。どれも違うと思ったから別れさせたのよ」
「いつの時代の感覚で生きてるんだよ。もう令和になって結構経つよ」
「黙りなさい。とにかく、お付き合いも認めてないのに結婚なんて絶対に認めないわ」
その日の夜、僕は彩子に電話をした。
「ごめん。母さんに話したんだけど、全然話にならなくて」
「少し落ち着いたらもう一度電話してみるから、様子を見て待ってもらってもいい?」
「私はもちろん構わないよ。悟も大変ね」
「俺との結婚、嫌にならない?」
「ならないよ。私はいつでも大丈夫だから、調整お願いします」
それから二週間が経った。母から久しぶりに電話がかかってきたのは、土曜日の昼だった。
「あなた、今お付き合いしてる人、さっさと別れたほうがいいわ」
「久しぶりに連絡してきたと思ったら、何なの?」
「探偵を雇って、あなたの恋人について色々調べたのよ。名前は彩子さん。三十歳。群馬の田舎出身。あの子、不遇の貧乏育ちだったのよ。高校もバイトしながら通ってたみたいだし。卒業したあとは地元から姿を見せなくなったって。ご近所さんから聞いたけど、父親は娘さんが自慢で『遠くの土地で大学に通って立派にやってます』とか色々濁してたみたいだけど、どうせ田舎の店員割れ寸前のFランよ。そんな女との交際なんて許しません。結婚なんて持ってのほか」
「何を言い出すのかと思えば、本当にくだらない話だな。俺は彩子のことを学歴で好きになったんじゃないよ」
「じゃあ仕事は? あの女の仕事のことも理解してるの? 吹けば飛ぶようなスタートアップ企業で、子供食堂とか儲からないボランティアをやってるのよ。あんたの資産狙いなのは見え見えじゃない。大手製薬会社の研究開発職がどれだけ女に狙われやすいか、その辺のことをあなたはしっかり認識しなさい」
僕は受話器を置き、彩子に電話をかけた。
「全然説得できなかった。もう取りつく島もない」
「そんなに引き下がらないの?」
「あの人、彩子に探偵をつけて、色々嗅ぎ回ってたみたいなんだ。ごめん」
「え? 探偵? 悟がそれで素直に言ったの?」
「どういうこと? まさか、気づいてたの?」
「地元のご近所さんだった人から連絡があったの。昔から父に何かあったとき連絡してもらえるように、時々やり取りしてたんだけど、『彩子ちゃんのことを色々聞かれた。怪しかったから気をつけて』って」
「そういうことか。本当にごめん」
「悟のせいじゃないから。それにしても、悟のお母さんがそこまで学歴とか仕事にこだわる人だとはね。家柄とか考えると、しょうがないのかしら。確か医療家系の名家なんだっけ?」
「名家なんて大げさなもんでもないよ。母さんが肩書きにしがみついて自慢してるだけ。父さんとはお見合い結婚で、父さんは四十歳くらいずっと同じ企業に勤めてる。世間体の見え張りな家計だよ」
「そのサラブレッドとして生まれたのに、悟は突然変異よね」
「突然変異に生まれて本当にラッキーだよ。まあ、反面教師にしていたってのが正しいかもな。でも、どうしようかな。無断で結婚するわけにもいかないし」
「反対されても顔を見て挨拶するのが大事なのよね」
「そうだね。挨拶した事実が大事なら、お母さんが在宅してる時にゲリラ的に行くしかないんじゃないかしら」
「あ、お父さんも一緒に在宅の時がいい? 父さんは今海外出張中なんだよ。って言っても、あんまり子供のことに興味ないから、母さんが認めるならOKって感じだったよ」
「なるほどね。了解。やれるだけやってみましょうか」
結婚の挨拶の当日。母は玄関のドアを開けた瞬間、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「ちょっと、何考えてるの? いきなり押しかけてくるなんて非常識だわ」
「こうでもしないと、母さん対応してくれないだろう。顔を見て挨拶するだけだから、入れてくれ」
「もう来ちゃったものはしょうがないけど、せめて色々支度をさせてちょうだい。女はね、支度に時間がかかるの。一時間後に出直してきていいわね。そうだわ、念のため彩子さんの連絡先を教えて」
「んで、何でもいいから早くして」
一時間後、僕と彩子は再び母の家を訪ねた。玄関には母が仁王立ちしていた。
「初めまして。悟の母の千恵です。所用がありますので、一時間後に出直してください」
彩子は静かに頭を下げた。
「こちらこそ急に押しかけてしまい、申し訳ありません。一時間後の訪問、承知いたしました」
さらに一時間半後。リビングのテーブルに着いた瞬間、母は立ち上がり、手に持っていたお茶を彩子の顔面に浴びせた。
「うちの息子と結婚しようなんて考えるからよ。バカな女だからって、席に座った途端お茶をかけるなんてありえませんよ。明らかに私に怪我をさせようとしましたよね。今、病院に向かってますけど、多分火傷してます」
「は? うちの息子に手を出した罰よ。T大卒のエリート息子を低学歴の女と結婚させるわけないでしょ。悟は小さい頃から優秀で、うちの大事な宝息子なの。もちろん働きだけの宝じゃないわよ。私の家は明治から続く医療関係の家柄だし、夫だって大手企業の役員よ。悟は大手製薬会社のエリートコース、出世街道まっしぐらなの。その息子の嫁があんたみたいな女じゃ、不釣り合いどころの話じゃないわ。やっぱり恋愛結婚なんてだめね。私とお父さんでしっかり相手を選ばないと。というわけで、Fラン台の低能はこの家からとっとと出ていって」
彩子はタオルで顔の湯気を拭い、ゆっくりと立ち上がった。そして、少しだけ首を傾げて言った。
「あの、ハーバード大Fランって、どの世界線の話をされてるんですか?」
「え? いや、何言ってるの? なんでここでハーバード大学が出てくるのよ。あなたみたいな人には一番縁がない名前でしょ」
「ちゃんとハーバード大学のMBAを卒業してます。必要な書類を提示して欲しいならしますけど」
「MBA? 何それ? 聞いたことないんですけど。もっとマシな嘘をつけないわけ?」
「ああ、ハーバード大学の大学院で、ハーバード・ビジネス・スクールという正式な一部門なんですが。高学歴にこだわる割に、そんなこともご存知ないんですか? 今その手に持ってるスマホで、サクっと調べたらどうですか?」
数分後。母はスマホの画面を凝視したまま、青ざめた。
「嘘よ。嘘、嘘。だって、あんたの地元でちゃんと聞き込みしたんだから」
「地元では、自分のことについて何も話してませんから。昔お世話になってきた、ごく信頼できる人にだけ、話せる範囲のことは話しましたけど。父にも、必要以上に私の話をしないように頼みました」
「なんで? わざわざそんなことするから、何かやましいことがあるから言えなかったんでしょ」
「違います。色々邪魔されたくなかったんですよ。日本は高学歴が好かれる場合と嫌われる場合が、ものすごく極端なので。ちなみに私は国立大に進学し、卒業後に国内で実務経験を積んで、二十四歳でMBAに入り、二十六歳で課程を終了。帰国して法人向けの準備を進めて、二十八歳の時にやっと色々スタートさせたんです。資金集めやら何やら、大変でしたよ」
「そ、そんなこと、一言も聞いてない。そんなにすごい人なら自慢するはずだわ」
「悟は、よくも悪くも、私の学歴や仕事内容に興味がありません。悟が偶然お昼に入った定食屋さんが支援している子供食堂の一つで、そこで出会いました。大人には普通の食堂、子供には無償で提供。そのスタイルに興味を持って、色々質問してくれました。私の子供を支援したいという気持ちを応援してくれて、お店に通ってくれるようになって、それで付き合うことになったんです。でも、仕事の話を自分から聞いたり、首を突っ込むこともしません。悟自身も自分の仕事の話はしません。私がプライベートでゆっくりできるように、あえてそうしてくれています。悟のそういう優しくて賢いところが好きなんです」
「本当になんでこんな毒親から、悟みたいな無欲な人が生まれたのか。世界の七不思議ですね」
「この生意気な。いつの時代の人間ですか? とにかく、今から病院で診断書をもらってきます。場合によっては訴えるなど、しかるべき措置を取らせてもらいますので、そのつもりでいてください」
数時間後、母は何度も電話をかけてきた。僕は出なかった。LINEも無視した。三回目の着信で、ようやく受話器を取った。
「お願いよ。一度話をさせて。LINE無視しないで。電話に出て」
「母さんが話したいことって何?」
「今日のことはやりすぎたわ。謝るから。彩子が思ってた以上にすごい人だったから」
「それはそれとして、訴えられたら立場が悪くなるからでしょ」
「今のところ父さんには黙ってるけど、訴えられるとなったら話は別だもんね。むしろご近所中に広まるかもしれない」
「実の母親を脅そうって言うの? ひどいわ」
「ひどいのはどっちだよ。彩子は火傷したんだよ。立派な傷害だ」
「そんなオーバーに。昔はこれくらい」
「昔じゃなくて現代の話をしてるんだよ。いい加減アップデートしてくれない?」
「さっきから母親に対して、なんて態度なの? この親不孝者。母親を一番大事にしなさいよ」
「俺はもう三十三歳の独立した人間だよ。いつまでも俺を小さい息子だと思って扱うのはやめてくれ」
その夜、母は姉の愛花に電話をかけていた。
「あいか、久しぶりね。元気にしてた?」
「母さん、いきなり何? お父さんに何かあった? それとも、お母さんに病気とか?」
「そんなんじゃないわよ。もっと大変よ。悟の連れてきた女が、まあ最低な女で。こっちがちょっとお茶をかけただけで、訴えるだの慰謝料だの、信じられないでしょ」
「そうなの?」
「何の仕事してる人なの? 金にならなそうなボランティアよ。一応会社は経営してるみたいだけど、それもよくあるスタートアップ企業。どうせ潰れるのが目に見えてるわ。悟とうちの資産が目当てなのはお見通し。なんとしても結婚は阻止してやらないと。あいかもなんとか言ってよ。悟は騙されてるの。このままじゃ悟の経歴に傷がついちゃうわよ」
「そうなの? 分かったわ。とにかく一度、悟と話してみるから。お母さんはちょっと落ち着いて。相手にお茶をかけて怒らせただけなんでしょ? 怪我をさせたとか、まあ、ちょっと暑かったのかもね」
「火傷しただの騒いでたわ。本当今時の子は大げさよね」
「そっか、分かった」
「やっぱり愛花は私の味方よね。こういう時は女同士のほうが話が早いわよね。娘を産んでおいてよかったわ」
数分後、僕のスマホが鳴った。
「悟、お母さんから連絡があったわよ。あなたが悪い女に騙されてるから、結婚をやめるように説得しろって」
「一度電話させてくれない? 俺も電話で話して頭を整理したいから」
「分かった。いいわよ」
三日後、母のスマホに一通のメッセージが届いた。
「ちえさん、本当にごめんなさい。これからあなたに対して訴えを起こしますし、息子さんとはこのまま入籍して住所も教えないまま新居に引っ越します。もう二度と会えなくなりますので、先に謝っておきますね」
「ちょっと待ちなさいよ。一体何を言ってるの? 意味が分からないわ。なんで? なんでそんなことになるの? 電話に出なさい。返事をしなさい。あんたみたいな女に邪魔させないわよ。悟は誰にもやらないわ。聞いてるの? 答えなさいよ」
母は急いで愛花に電話をかけた。
「悟も愛花ねえ、どうなってるの? あの女を説得してくれたんじゃないの?」
「はい、しっかりお話しましたよ」
「だったらなんとかしてよ。あの女、本当に許せないわ。会社が潰れるくらい追い込んでやる。もちろん協力してくれるわよね。娘なんだから」
「きちんとお話をお伺いした結果、説得は不要と判断しました」
「はあ? 何言ってんのよ」
「改めまして。彩子さんから正式に依頼を受けたので、弁護させていただくことになりました。鳳羽法律弁護士事務所の、彩愛花です」
「弁護士? あんたが? 冗談でしょ。大して勉強もできなかったくせに」
「そういえば、今あなたが何してるか聞いてなかったわね。本当は何してるの? ていうか、あなたも三十五歳なんだから、いい加減結婚しないと行き遅れだわ。私がいい人を探してきてあげるから」
「本当、お母さんは私のことを都合のいいアクセサリーにしか思ってないんだね」
「いきなり何言うのよ」
「まあ、私のことなんて何も知らないわよね。大学卒業して以来、一切連絡取ってなかったんだから。むしろよくこんな話を私にしてきたもんだよね。なんで味方してもらえると思ったの? 百パーセント、お母さんが悪いでしょう」
「なんですって?」
「私とのLINEのやり取りだけでも、十分に過失が証明できます。彩子さんから遊木千恵さんに対して、治療費と慰謝料三十万円の支払いを要求します。応じない場合は、傷害罪で訴えを起こすと同時に、父にも連絡を入れさせていただきます」
「いや、あの人には何も言わないで。お願い、花。だって分かってるでしょ。私がひどい目に遭ってもいいの?」
「すでにひどい目に遭ってる被害者の味方なので、加害者のことまで配慮できませんね」
「なんでなの? 私はただ悟を守りたいだけなのに。どうして娘なのに助けてくれないの? この恩知らず」
「そりゃ恩知らずでしょう。受けた恩なんて、一つもないんだから。お母さんは何も覚えてないわけ? うちは何でも長男優先。女はその下。勉強も家のこともやって当たり前。食事はお父さんが食べるまで食べられない。おかずはお父さんと悟がいいものを食べて、私はおまけ。お母さんはお友達と高級ランチで十分。じゃあ、私は? 私は何だったの?」
「ちょっと落ち着いてよ。別にそんな大したことないでしょうよ。それにあなたと悟じゃ、食べる量も違ったし」
「じゃあ量を変えればよかったんじゃないの? 今でも覚えてる。お父さんたちにはいいお寿司を取ってたのに、私にはコンビニ弁当。なんでわざわざそんなことしたの?」
「生魚は好きじゃないかと思って」
「お母さんの機嫌が悪い時は、私に当たり散らして。父は声を荒げたことも手をあげたこともなかった。父親は子育てには無関心。親の顔色を伺いながら生きることが、どれだけ子供に悪影響か分からないの」
「もういい加減にして。そんなことしてない。覚えてないわよ」
「加害者側はいつだって『覚えてない』っていうのよね。それで終わりにできると思ってるから、世の中から毒親が消えないのよ。だから私はしっかり肩書きをつけられる弁護士になったの。今回の弁護を引き受けたのは、悟だけは私の味方でいてくれたから。私が高校や大学に進学する時、費用を一切出さないとごねたあなたたちを、さりげなく説得してくれた。家を出る時、一人暮らしの物件探しも悟がついてきてくれた。そうすれば反対されないからって。あの子は視野が広い。俯瞰で物事を見られる優しい子よ。それに何より、彩子さんが素晴らしいと思ったから」
「あんな嘘つき女のどこがいいのよ」
「不遇な家庭で苦労されて、自分と同じ思いをする子供を減らしたいと、自分でバイトして学費を貯めて国立大に進学して、日本企業に勤めてからハーバードのMBAに入るなんて、波乱万丈のことじゃないわ。あの年齢で教育支援プラットフォームを運営。子供食堂と企業の在庫連携アプリ開発も手掛けている。よっぽど優秀で根性のある人じゃないとできないことよ。あなたなんかより、社会的にずっとずっと立派な志を持った女性なの。そんな女性を、息子可愛さに傷つけたことは、絶対に許させてやるからね」
数日後、母は泣きながら僕に電話をかけてきた。
「助けて。お父さんからも連絡が来たわ。愛花が告げ口したのよ。信じられない」
「ちなみに、なんて来たの?」
「『俺の顔に泥を塗るな。離婚だ』って。私のことを捨てようとしてるの。お願い助けて。両親が離婚なんて嫌でしょ」
「別にそれも仕方ないんじゃない? 全部自分で巻いた種じゃないか」
「そんな冷たいこと言わないで。お願いよ」
「そんなことになっても、母さんは自分のことしか考えられないんだね」
「だって私はいじめられてるのよ。愛花もどうかしてるわよ。あんなに可愛がって育てて、いい大学にも入れてあげたっていうのに。誰のおかげで弁護士になれたと思ってるの?」
「それは他ならない姉さんの努力だろう。そもそも二人だって、最初は姉さんの進学先を変更するように詰め寄ってたじゃないか。学歴主義のくせに、外で稼ぐ姉さんには四年制じゃなくて短大の私立女子大に行けって。お見合いの受けを考えて学校を選びなさいって。あれはさすがにドン引きしたよ。家柄にこだわるなら、いい大学に行く姉さんを応援すべきなのに。なんくせつけて姉さんに嫌がらせしたかったわけ?」
「そんなこと言ったかしら? 覚えてないわよ。私が大学に行ったのだって、結婚する時にある程度箔がつくところを親に選んでもらったのよ。賢すぎてもしょうがないじゃない」
「もういい。分かった。どうしても間に入ってほしいなら、とにかく一度彩子に謝ってほしい。被害者である彩子が許すなら、取り持つよ」
「本当に良かったわ。ありがとう」
数分後、母は彩子に電話をかけた。
「彩子さん、この度はごめんなさいね。言われた通り、誠意を尽くしてあげるから。今回のことは綺麗さっぱり水に流して、忘れてちょうだい。私は母親として、息子にいい結婚相手を選んであげようと思っただけなの。親じゃないあなたには、この気持ちわからないでしょうけどね」
「親の子供を思う気持ちは分かりませんが、子供が親の行動で苦しむ気持ちは分かります」
「なんですって?」
「私の母親も、自分の機嫌次第で子供をコントロールしようとする人でした。挙げ句の果てに父を傷つけ、裏切って、家のお金を持ち逃げして、他の男と蒸発。父が私を一人で育てるためにどれだけ苦労したか、思い返すだけで胸が痛みます」
「そんなの私には関係ないでしょ。大体、私はそんな不貞行為してないわ。ちゃんと立派に子供を育ててきた、いい母親よ」
「いい母親かどうかは、それは母親が決めることじゃありません。子供が決めることですよ。あなたのお子さんたちは、あなたをいい母親だと、あなたの目を見て言ってくれますかね?」
「何が言いたいのよ、失礼な女ね」
「私が今の仕事の原動力にしていることは、この世から毒親に苦しむ子供、そして経済的に苦しむ子供が一人でも減ることです。それは大人になっても変わりません。愛花さんと悟は、立派な毒親の被害者です」
「私は毒親なんかじゃない。こんなに子供を愛してきたのに。何も知らないよそ者のくせに、勝手なことしないで。私の幸せを壊したくせに、何なのよ」
「そうですね。それが毒親なんですよね。最後まで自分が何をしてきたのか理解できない。みんなそう口を揃えて言うんですよ。『子供のためにやったのに』『私はこんなに頑張ってるのに』『誰も私を認めてくれない』『私が私が私が』。気持ち悪いですよ。徹底的に戦いますから、覚悟してくださいね」
翌日、彩子から愛花に連絡が入った。
「連絡が遅くなってしまい申し訳ありません。滞りなく進めてるので安心してください」
「改めて、母が迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「とんでもないです。愛花さんがいてくださったおかげで、色々なことがスムーズに進みましたから。彩子さんには本当に感謝しています。悟が実家を離れる決心をしてくれることを、私もずっと望んでましたから」
「そうだったんですね。実の親から離れる選択をするのって、他人が思うより難しいことですもんね」
「はい。しかも私が先に絶縁してしまったので、悟には苦労をかけてしまいました。だからこの件は全力で対応させてください。絶対、慰謝料を支払わせます」
「頼もしいです。よろしくお願いします」
数日後、僕は会社の受付から呼び出された。母が会社に押しかけたのだ。
「今日、母さんが俺の会社に突撃してきて。それで騒動になって、警察に連行された」
「え? 嘘。何? どういうこと?」
「もうすごかったよ。受付の人に怒鳴り込んで、『悟を出せ』って。受付の人が何を聞いても、『悟を出せ』しか言わなかったらしくて。『すぐそこに働きに来た、ちえさんです。働かせてください』って」
「まあ、追い詰められてたのかもね。このままじゃ訴えられるし、負けは確実。探偵を雇ったって言ってたでしょ」
「そうね。そういえば探偵を雇って、結構お金かかるわよね。日数や内容によるだろうけど。多分、母さんが月に自由にできるお金を使い切っちゃったんだと思う。これ以上慰謝料にお金を出せなくて、追い詰められて突撃してきたのかなって。全部予想でしかないけど」
「これから警察に行くところなんだ。だから帰りは遅くなる。ごめんね」
「私のことなんて、もはやどうでもいいから。そうなると、お父さんは今海外なんでしょ? 全部悟が対応するの?」
「母さんが警察沙汰を起こしたって連絡したら、今日の便で帰国するってさ」
「すごい行動力ね」
「あの人にとっては、自分の社会的信頼が損なわれる一大事だからね。一応電話でも話したけど、彩子のことも説明して、平謝りされたわ。お父さんはお母さんほどひどい人じゃないの?」
「とにかく世間体を悪くしたくないんだよ。一応、大手の役員だし。親戚もそういう人ばっかりだから、間違っても妻がそんなことになったら、想像するだけでね」
「オッケー。もうそういうもんだと思うことにする」
「助かります。だから、慰謝料も治療費もすぐ一括で支払ってくれたよ」
「なるほど。でも、お父さんの世間体が分からないお母さんでもないでしょうに。悟を取られるのが、そんなにショックだったのかしら」
「そうじゃない。俺としては、やっと解放されると思って安心してるけど」
「お父さんたち、離婚になったりしないよね」
「世間体としてどっちを取るかだろうけど、正直もう関係ないよ。彩子と結婚するなら、今の仕事をやめて彩子の仕事を手伝うのもいいと思ってるし」
「そんな簡単に?」
「本気だよ。母親に文句をつけられない仕事として選んだだけだから。俺だって毒親の被害者なら、彩子のところで働く資格はあると思うよ」
「そうね。じゃあ、まずは面接からにしましょうか」
結果として、義両親は離婚しないことを選択した。しかし、毎日のように悟を求めて泣き続ける義母には、療養という名目で実家に送り返した。実家には義母の姉夫婦が住んでいて、片身の狭い思いをしている様子だ。一切返信していないが、義母から毎日のようにLINEが届くので、悟と愛花にはブロックしてもらって、彩子が状況を確認するために残している。
この人が本当の意味で悔い改めることはないだろう。それも仕方がない。大事なのは、悟と愛花がこの人から解放されることだ。
今、悟は製薬会社をやめて、彩子の会社で働きながら、子供の社会復帰を後押ししたり、勉強を教えたり、子供食堂でボランティアをしたりと、生き生きと仕事をしている。母のこともあって誰とも結婚できないと思ってたけど、悟とならきっとこれからもいいパートナーでいられる。そんな気がする。
