膝をつけ。自分のミスを認めろ。それができないなら、明日から来なくていい——その声が会議室に響いた瞬間、すべてが止まったように感じた。日本橋の支店、午後三時。事務机の上では、まだ湯気の立つ湯のみが揺れていた。「私はやっていません」と震える声で言った瞬間、熱いお茶が頭から降ってきた。白いブラウスがみるみる茶色に染まっていく。誰も助けてくれない。涙で前が見えなかった。その時、廊下から足音が近づき、…
膝をつけ。自分のミスを認めろ。それができないなら、明日から来なくていい。 抵当銀行日本橋支店の会議室に、冷え切った空気が満ちていた。上座に座るのは、支店長の徳倉明彦。この支店に赴任してから三ヶ月、その冷淡な手口で既に何人もの行員を追い詰めてきた。 「私はやっていません」 床に両手をつき、震えながら俯く若い女性、璃花。彼女は顧客の笑顔のために懸命に働き続けてきた銀行員だった。机の上の湯のみが彼女の視界の端に映る。まだ湯気が立っていた。 「言い訳はいい。お前の名前で出した書類だ。責任はお前にいる。これが組織ってもんだ。身を持って覚えろ」 次の瞬間、熱いお茶が容赦なく璃花の頭から振り注がれた。 「う、熱い…。誰か、助けて」 首筋を伝い、白いブラウスを染めていくお茶。璃花は肩を震わせた。涙が止まらない。ずっと一人で耐えてきた。もう限界だった。 その時だった。廊下から大きな足音が近づいてくる。そして次の瞬間、ドンッという音とともに会議室の扉が勢いよく開いた。 どこにでもいそうな中年の男が一人、立っている。しかし、その目だけが会議室の空気を一瞬で塗り替えた。 「俺の娘に何をした」 「な、なんだあんた? 部外者は立ち入り禁止だ。警備を呼ぶぞ」 しかし、この男が本当に怖いのは怒鳴り声ではない。静かに告げた次の一言だった。 「五秒でこの銀行を沈める」 「はあ?」―直後、銀行が機動隊で埋め尽くされた。 竹下は56歳。都内の閑静な住宅街にある一軒家に暮らし、毎朝6時に起きて自分で味噌汁を作る。着ているスーツは量販店の規制品で、腕時計も1万円程度の国産品。近所では、地味で堅実なお父さんとしか見られていない。どこにでもいる普通の父親に見えた。 しかし、この男には誰も知らない顔があった。竹下が代表を務める「アーク・ファクトリー」。表向きは従業員わずか5名の小さな投資顧問会社だ。しかし、その実態を知る者は、業界全体でも片手で数えるほどしかいない。 どれだけ事業に成功しても、竹下の生き方の軸は、亡き妻から受け継いだ一言だった。 「強さは振りかざすものじゃない。守る時にだけ使うものよ」 妻が倒れたのは、一人娘の璃花がまだ中学生の頃だった。それ以来、竹下は男手一つで璃花を育ててきた。毎朝欠かさず弁当を作り、週末には必ず顔を出した。不器用ながらも、娘のそばにいることだけは一度も怠ったことがない。ある朝の食卓、竹下が作った卵焼きを頬張りながら璃花がにっこり微笑んだ。 「お父さんの卵焼き、やっぱり世界で一番美味しい」 「毎回同じこと言うな。そんなに上手いか?」 「美味しいよ、本当に。お母さんも絶対そう言ったと思う」 竹下は照れ臭そうに味噌汁の椀を持ち直した。言葉は少ないが、二人にはこの食卓を囲むことが、家族としての幸福の時間だった。 璃花は27歳。抵当銀行日本橋支店に務める入行5年目の行員だ。璃花が銀行員を志したのは、母が旅立つ前に残してくれた言葉がきっかけだった。 「璃花、人の役に立てる仕事をしなさい。誰かに寄り添える人間になりなさい。それがあなたの強さになるから」 「うん。私もそういう人になる。お母さんみたいに」 「それから、お父さんをよろしくね。あの人、不器用だから」 「わかった。約束する」 その約束を胸に、璃花は銀行の窓口に立ち続けてきた。顧客一人ひとりの名前と顔を覚え、丁寧な言葉を積み重ねる日々。窓口に立つ璃花の周りには、いつも顧客の笑顔があった。 「今日も来ちゃった。あなたの笑顔が見たくてね」 「まあ、嬉しいです。今日はどうされましたか?」 「あなたとお話しするのが楽しみで来てるのよ」 「そんな、困りますよ。でも、ありがとうございます」 入行5年目にして窓口業務のエースと呼ばれ、顧客満足度の社内表彰を2度も受けている。娘が自分の力で社会に根を張っていく姿は、竹下にとって何よりの誇りだった。 穏やかだった日常が、ほろぼろと崩れ始めたのはその頃からだった。抵当銀行日本橋支店に、一人の男が赴任してきたのだ。徳倉明彦、43歳。本部の企画部門でキャリアを積んできたエリートが、異例の支店長として着任したのだ。 スーツの仕立てから靴の磨き方まで隙がなく、顎を上げて歩く姿には、どこか人を寄せつけない冷たさがある。着任初日、朝礼の場で徳倉は腕を組んだまま宣言した。 「今日からこの支店は変わる。数字を出せない人間に、ここに居場所はない」 そして徳倉は、着任後すぐに窓口業務のエースである璃花に目をつけた。 「橋詰か。顧客満足度で社内表彰とは、くだらんな」 「はい…」 「いいか? 俺は結果だけを見る。過去の実績も勤務年数も一切関係ない。分かったか?」 璃花は沈黙したまま頷いた。しかし、徳倉の視線がまっすぐに璃花に向いていたことに、周囲は気づいていた。徳倉の目には、璃花が5年かけて築いてきた顧客との信頼関係など映っていなかったのだ。 その日の帰り道、璃花は一人で呟いた。 「数字だけが全てなの? お客様の笑顔は、何の価値もないっていうの…」 最初の変化は些細なものだった。朝の挨拶をしても、徳倉は書類から目を上げることすらない。 「おはようございます」 「ふん」 さらに、璃花が会議で発言しようとすると、徳倉は露骨にため息をついた。 「先日の顧客の件ですが、改善案として…」 「ああ、その話は後でいい。次、まゆ」 それだけではなかった。璃花が5年間かけて関係を築いてきた担当顧客が、理由もなく他の行員に振り替えられた。代わりに押し付けられたのは、誰も手をつけたがらない不良債権案件の事務処理の山だ。 … Read more