朝の五時半、誰もいないオフィスで、私は三十年かけて築き上げた三千億円の契約書を仕上げていた。中卒の私が、必死に這い上がって手に入れた居場所だった。でも、その日、新任のエリート部長が私のデスクに来て、こう言った。「中卒の契約社員が、三千億円規模の案件を担当している。これは由々しき問題ですね」。私は必死に説明しようとした。「私は三十年以上の実績で…」。でも彼は私の言葉を遮り、こう宣告した。「今後…
朝の五時半、まだ外は薄暗い。オフィスビルの一画に、ぽつんと明かりのついた部屋があった。株式会社劇場エンタープライズの海外事業部だ。その片隅のデスクで、パソコンの画面に向かう男の姿があった。柊誠一郎、五十四歳。白髪の混じった短髪を整え、くたびれたスーツを着た彼は、三十年余りの間、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く帰ることを繰り返してきた。画面に映し出されているのは、アラビア語で書かれた契約書の草案だ。 「よし、これで先方も納得してくれるはずだ」 俺は中卒だった。高校に進学する金がなく、十五歳で社会に出た。だが、それを言い訳にしたことは一度もない。独学で英語を学び、中国語を修得し、さらにはアラビア語まで身につけた。学歴がない分、人の三倍は努力してきた自負がある。デスクの隅に置かれた写真には、笑顔の妻と幼い娘が写っていた。妻の秋子は、五年前に病気でこの世を去った。最後の言葉は、こうだった。 「美月のことをお願い。あの子の夢を叶えてあげて」 娘の美月は、今は医学部の六年生だ。私立の医学部は学費が高い。だからこそ、俺はどんな理不尽にも耐え、この会社にしがみついてきた。俺の仕事は、中東の石油関連企業との取引を担当すること。年間三千億円という会社の売上の大半を占める巨大な契約だ。その全てを、俺一人で管理している。だが、そのことを知る者は、社内にほとんどいない。俺は目立つことが嫌いだった。学歴コンプレックスもあり、自分の成果を誇ることに抵抗がある性格なのだ。ただ黙々と仕事をこなし、成果だけを残してきた。 窓の外が白み始めた頃、オフィスに一人の女性が入ってきた。木原だ。四十八歳になる二十年来の同僚であり、この会社で唯一、俺の本当の仕事を理解してくれている人物だ。 「柊さん、また早いですね。ちゃんと寝てるんですか」 「ああ、問題ない。いつものことだ」 俺は苦笑いを浮かべながら首を振る。彼女は俺のデスクにコーヒーを置くと、心配そうな表情で言葉を続けた。 「今日から、新しい部長が来るそうですよ。何でも、ハーバード大学卒のエリートだとか」 「そうか」 「柊さん、気をつけてくださいね。最近の若い幹部は、学歴ばかり重視する人が多いから」 その言葉に、俺の胸がわずかにざわつく。学歴という言葉を聞くたびに、十五歳で学校を去らざるを得なかった自分の過去が蘇る。だが、それでも俺は三十年かけて、学歴では測れないものを築き上げてきたはずだ。コーヒーを一口飲むと、苦味が口の中に広がった。木原が入れてくれるコーヒーは、いつも少し濃いめだ。彼女は俺の好みを知っている。二十年間、同じ部署で働いてきた仲間だからだ。俺がどれだけの仕事をこなしてきたか、彼女だけは知っている。 窓の外では通勤ラッシュが始まっていた。スーツ姿のサラリーマンたちが足早に歩いている。若い頃は、学歴がないことを恥じ、目を避けるようにして会社に通っていた。だが今は違う。俺には、胸を張って歩けるだけの実績がある。少なくとも、そう信じていた。 午前十時、海外事業部に新任の部長が着任した。神宮寺竜二、四十二歳。高級スーツに身を包み、持ち前の笑みを浮かべた男が、部署の入り口に立っている。その胸には、金色に輝くハーバード大学の卒業バッジが、誇らしげに光っていた。 「皆さん、初めまして。本日付で海外事業部長に就任した神宮寺です」 彼は胸を張って続けた。 「ハーバード大学でMBAを取得し、グローバルビジネスの最前線で戦ってきました。これから皆さんと一緒に、この部署を改革していきたいと思います」 「ハーバードですか? すごいですね。さすがエリートは違いますね」 周囲の社員たちが感心したように囁き合う。彼は自己紹介の冒頭から学歴を強調し、その後も「ハーバードでは」「アメリカのビジネススクールでは」という言葉を何度も繰り返した。俺は自分のデスクで静かに仕事を続けながら、その様子を横目で見ていた。 着任初日から、神宮寺は「改革」と称して様々な指示を出し始めた。まず槍玉にあげられたのは、ベテラン社員たちの仕事のやり方だ。 「これまでのやり方は非効率すぎる。全てをシステム化し、数値で管理していく」 「でも、取引先との関係もありますし」 「関係? 感情論は不要です。ビジネスは数字が全てです」 長年の経験に基づいた慎重な取引先との関係構築を「非効率」と切り捨て、全てをシステム化しようとする。そして、彼は社員一人ひとりの経歴をチェックし始めた。 昼過ぎ、俺のデスクに神宮寺が近づいてきた。 「柊さんでしたか? あなたの最終学歴は? 」 周囲の社員たちの視線が、一斉に俺に注がれるのを感じた。俺は静かに答えた。 「中学卒業です。中卒です」 「なるほど」 その瞬間、神宮寺の目に明らかな軽蔑の色が浮かぶ。彼は俺の担当業務を確認すると、信じられないという表情で首を振った。 「中卒の契約社員が、三千億円規模の案件を担当している。これは由々しき問題ですね」 「私は三十年以上の実績で…」 「結構です。説明は不要です」 俺の言葉を遮り、彼は部下たちを集めると、大きな声で宣言した。 「今後、重要案件は私が直接管理します。学歴のない人間に任せておくわけにはいきません」 「え、でも、柊さんが」 「何か問題でも? 」 何も言えずにいると、木原が思わず声をあげた。 「部長。しかし、柊さんは長年この案件を…」 「坂木原さん、あなたは黙っていなさい」 彼の鋭い視線が、それを封じ込めた。俺は黙って自分の仕事に戻った。娘の学費のためだ。ここで仕事を失うわけにはいかない。美月のためだ。あと一年。あと一年耐えれば。 三十年かけて築いてきた信頼関係も、この男にとっては「中卒の仕事」でしかないのだろう。胸の奥で、静かな怒りが燃え始めた。 その翌週、神宮寺は俺の担当している契約の一つを、勝手に打ち切る通知を出した。アル・ファイサル電界との取引だった。俺はその通知を見た瞬間、血の気が引くのを感じた。あの契約は、こちらの誠意と長年の関係構築があってこそ成り立っている。機械的に「打ち切り」と通知すれば、一瞬で崩壊しかねない行為だった。 俺は神宮寺のオフィスに向かい、初めて明確に異を唱えた。 「部長、アル・ファイサル電界への通知は、撤回していただけませんか」 「撤回? なぜです? 」 「あの方との取引は、単なるビジネスではありません。人間としての信頼関係の上に成り立っているのです」 … Read more