あの日、高級料亭の個室に怒鳴り声が響いた。「車椅子が邪魔なんだよ」。中央銀行の頭取・高森聡史が、私の孫娘・千鶴を睨みつけた。千鶴は生まれて初めて行きたいと願った店で、自分の存在そのものを「迷惑だ」と言われ、膝の上で拳を握りしめていた。私は静かに言った。「この子に謝っていただけませんか」。高森は鼻で笑った。「は? 謝る?…
車椅子が邪魔なんだよ。もう少しで足に引っかかるところだったぞ。 高級料亭の個室に、男の怒鳴り声が響き渡った。中央銀行の頭取、高森聡史。三十六歳の若さでその座に就いた男の唇が、不快そうに歪んでいる。彼の視線の先には、上品な着物を身につけた年老いた男と、車椅子に座る幼い少女の姿があった。 車椅子で高級料亭に来るのはどうなのかね。うちの銀行の窓口でも迷惑しているんだ。ここまで来て気を使わせるなよ。周りの客だって迷惑だろう。一流料亭の品格が下がるんだよ。 私、迷惑なの? その声は、消えてしまいそうなほど小さかった。車椅子の少女、千鶴は、目の縁を真っ赤にしながら、自分の膝の上で小さく握りしめた拳を見つめている。その姿に、祖父である柊蒼介の胸は、針で刺されたように痛んだ。今日は特別な日だった。孫娘の千鶴が生まれて初めて行きたいと願った店。その店で、自分の存在そのものを迷惑だと言う大人がいる。蒼介はゆっくりと息を吐き、静かだがはっきりとした口調で言った。 この子に謝っていただけませんか。 は? 謝る? なんでだよ。本当のこと言っただけだろう。 千鶴はこらえきれずに涙をこぼし、蒼介の腕にしがみついた。 おじいちゃん、もういい。帰ろう。帰ろうよ。 蒼介は震える孫娘の頭をそっと撫で、その細い体を抱き寄せた。そして、高森の目をまっすぐに見据え、静かに口を開いた。その瞳には怒りの色はなく、全てを見定めたかのような覚悟の光が宿っていた。 高森さん。あなたはその傲慢さで、この先どうなっても知りませんよ。 はっ、俺はこの銀行の頭取だぞ。何を言われたって痛くも痒くもねえよ。やれるもんならやってみな。 その言葉を聞いた瞬間、蒼介の目がわずかに細くなった。そして、手に持っていた古びた杖の先で、何の脈絡もなく畳の目を軽く二度叩いた。澄んだ音が個室に響いた。その音を合図にしたように、蒼介はゆっくりと立ち上がり、内ポケットから一枚の名刺を取り出した。それは、この銀行の最高顧問を務めた人物だけが持つ、特別なものだった。 ならば、その言葉を後悔させてあげましょう。 蒼介は名刺をそっと畳の上に置いた。そこに刻まれていたのは、かつてこの国の経済界を震撼させた伝説の財閥の家紋と、柊グループという文字。高森の顔から、一瞬で血の気が引いていくのを、蒼介は見逃さなかった。 そ、その名刺は……まさか、あなたは…… 私の孫娘を泣かせた代償を、しっかりと受け取りなさい。 その後、全てが速かった。高森が口を開くよりも先に、蒼介は千鶴の車椅子を押して個室を後にした。廊下には、茫然自失となった高森の背中を追うように、どこからか現れた背広姿の男たちが静かに続いた。蒼介は振り返ることなく、ただ優しい笑みを千鶴に向けた。 さあ、帰ろう。桜でも見に行こうか。千鶴の好きな場所で、甘いもんでも食べよう。 その日の夕方、中央銀行の本店に激震が走った。何者かによって、頭取の高森聡史は、役員会の場で即座に解任された。そして、その翌朝、高森は自宅の豪邸から姿を消した。使用人によれば、夜中に慌てた様子で電話をかけ、何やら悲鳴に近い声を上げていたとのこと。高森は、自分が誰に声をかけてしまったのかを、その時初めて理解したのだ。 この六十年で、柊蒼介の裁量で潰れてきた企業は数知れない。この日本に、彼の前で身分を晒すことのできない男は、未だに少なくない。傲慢に生きた男の、その後の消息を、正確に知る者はいなかった。 あれから数日後。天気の良い午後、桜の花びらが舞い散る公園のベンチで、千鶴は嬉しそうに桜色の花びらを手のひらで包んでいた。 おじいちゃん、桜ってなんで咲くと嬉しいの? そうだな。花が綺麗だからじゃなくて、花を一緒に見られる誰かがいるからじゃないか。千鶴と見られるから、嬉しいんだ。 そう言って笑う蒼介の目に、うっすらと涙の膜が張っているのを、千鶴は見事に見逃さなかった。その日を境に、千鶴は少しだけ深く眠れるようになった。夜になると時々、自分のことを“お荷物”だと思うことがあったから。 「ふるさと、あの駅前の商店街に、シンイチという男の影を見かけた。そこでようやく、かつて高森を破滅させた男の物語が、多くの人の記憶の中で薄れていきますようにと、ニュースを見ながら願ったのは…… その朝、蒼介はもう一つの小さな仕事を終えていた。近所の桜並木の下で、車椅子を押しながら、千鶴が愛した歌を口ずさんでいた。すると、遠くから元気な声が届いた。 おじいちゃーん! おじいちゃーん! 振り返ると、千鶴が両手を大きく振って、杉野という若い銀行員の手を引いて歩いてくる。杉野は真っ赤な顔で、恥ずかしそうにペコリと頭を下げた。 あの、先日はどうも。 杉野くんか。千鶴に何かあったのか? いえ、駅前で会いまして。本当に偶然で。その……弟の彼女と、おじいちゃんに会えないかって言ったら、銀行の前でって言うので。 千鶴はニコニコしながら蒼介の顔を見上げた。蒼介は、呆れたような、そして何かを悟ったような顔で、杉野を見つめた。 銀行には、まだ行くところがあるのかい? 実は……おばあちゃんが、銀行の帰りに絶対に寄るようにって。この店で食べなさいって、こういうことらしいです。 杉野が震える手で差し出したのは、一軒の焼きたてパンの店の紙袋だった。千鶴のお気に入りの店。蒼介が手を伸ばしてそれを受け取ると、杉野はほっと胸をなで下ろし、そして、肩の力を抜いて、んんっ、と一度だけ咳払いをした。そして、まっすぐに蒼介の目を見た。 あの! また……また、ときどきでいいので、千鶴ちゃんと会ってもらえませんか! それと……その、もしご迷惑でなかったら、月に一度、こうして銀行で振り込みの手続きを教えてもらえませんか! 面倒をおかけするかもしれませんが、一から学びたいんです! この町の、一番の銀行員になります! 正直に言うと、銀行には、まだたくさんわけの分からないことがあるんです。でも! 確かに今日の太陽は、あの日、蒼介が電車の中で見つけた未来よりも、ずっと温かい光に溢れていて誰さ……。 昼ごろ、自宅の和室で一人、蒼介は箪笥の一番奥から、結び目の固まった古い通帳を取り出した。表紙には何の変哲もない印が一つ。それは、かつて慈善活動として行っていた、あの銀行の口座だった。彼は電話を一つ、二つ、三つと掛け、今日まで何十年も開いたことのなかったその手続きを取る。窓口のスピーカーが、名乗り出た中年の女性に声をかけた。 ――はい、春川でございます。 新しく出来た、NPO法人へ。そして、ここから十年分の管理手数料を引いた残金全額を入金してもらいたい。 用意した紙に震える指で数字を書いた。声の向こうで、女性が息を呑んだ。すぐに、ええ、少々お待ちください、と微かに鼻を鳴らした。わずか十秒ほどの静寂の後、絞り出すような声で、確認が取れました、とだけ返ってきた。 ――ありがとうございます。確かに、手続きを承りました。また、何かお力になれることがありましたら……。 それは孫の理屈の通らない苛立ちに、そっと頷くための、老人の契約の結び直しだった。 数週間後、日曜の昼下がり。土曜の夜に突然の雨で、一週間ほど中止になっていた公園の桜は、既に葉桜へと変わっていた。それでも千鶴は、新しい友達の後ろを道具の入った重そうなバッグを提げて、嬉しそうに歩いていた。 「ねえ、聞いて、おじいちゃん。今度の文化祭で、僕たちのチームは優勝するんだよ!」 「優勝か。それは楽しみだな。」 … Read more