「初日から遅刻か。話にならないな。即刻解雇だ」——東銀行梅丘岡支店の店長・昼間孝介の冷たい声が、朝の応接室に響き渡った。目の前に立つ二十四歳の女性、霧島りんかの肩がかすかに震える。児童養護施設で育ち、何年もアルバイトを掛け持ちしてようやく掴んだ銀行の正社員という切符。それが、たった五分の遅刻で音を立てて崩れていく。「申し訳ございません。来る途中に駅前で人が倒れていて」と言いかけた彼女の言葉を…
初日から遅刻か。話にならないな。即刻解雇だ。 東銀行梅丘岡支店の店長、昼間孝介の冷え切った声が響き渡った。目の前に立つ若い女性の肩がかすかに震えた。彼女の名前は霧島りんか。二十四歳。児童養護施設で育ち、高校卒業後は何年もアルバイトを掛け持ちしながら、ようやく掴んだ銀行の正社員という切符だった。 「申し訳ございません。実は来る途中に駅前で人が倒れていて」 「言い訳はいい」 りんかが口を開きかけた瞬間、昼間の冷たい声が遮った。昼間は机の上に置かれた履歴書をちらりと見下ろし、嘲笑うような薄笑いを浮かべた。 「高卒、施設出身。その経歴を確認した瞬間から、この男の中で私の処遇は決まっていたんだ」 初日から遅刻。言い訳をするようでは人としての教養がなっていない。即刻解雇だ。 「えっ」 りんかの拳がスカートの布地をぎゅっと握りしめた。昼間は書類を差し出しながら、事務的に続けた。 「ここにサインして退出しろ」 りんかは差し出された書類を、震える手でゆっくりと受け取った。ペンを握り、ゆっくりと署名した。そして深く頭を下げた。 「お世話になりました」 「ふん。初日から遅刻するからだ」 たった五分の遅刻は、りんかを切り捨てるための口実に過ぎなかった。しかし昼間は知らなかった。彼女が駅前で助けた人物の正体を。そして、この後銀行全体に波紋を齎すことになる人物の存在を。人を見下した傲慢な男は、やがて悲惨な末路を辿ることになる。 春の朝だった。梅丘駅に向かう並木道を、黒いセダンが静かに走っていた。桜の花びらがアスファルトの上をくるくると舞い、朝の柔らかな光が住宅街の屋根を照らしていた。 「アルバイト帰りだなあ」 後部座席での外を眺めている男の名は、霧島達也。五十六歳。東ファイナンシャルグループの実質的なオーナーであり、海外の投資ファンドを通じて数千億円規模の資産を運用する人物である。しかし、その外見からそれを想像できる人間はまずいない。くたびれたベージュのジャケットに、色褪せたスラックス、安物の革靴。白髪交じりの髪をそのままにした、どこにでもいるリタイア世代の冴えない中年男。すれ違う誰もが、定年を迎えた普通の老人だと思って通り過ぎていく。それは偶然ではなく、霧島が意図して選んだ姿だった。飾りを纏った人間には、飾りに向けた言葉しか集まらない。ありのままの姿でいれば、ありのままの現実が見える。それが霧島の信念だった。 「霧島様、本日の予定ですが」 運転手の霧谷誠一がバックミラー越しに静かに告げた。四十二歳。二十年以上に渡って霧島に仕え、その人となりを誰よりも深く理解している秘書である。 「午前中は梅丘岡支店の定期確認。午後からは本部との定例会議でございます。支店には例によって事前連絡は入れておりません」 「それでいい。連絡を入れた途端、あいつらは全力で取り繕い始める。抜き打ちで見るのが一番正直な姿が見える」 窓の外では、出勤途中のサラリーマンたちが駅へと急ぎ、黄色い帽子をかぶった小学生の集団が横断歩道を渡っていた。パン屋の焼きたての香ばしい匂いが車内にまで漂い、コーヒーショップの前には出勤前の長い列ができていた。 「いい街だ。飾らない等身大の暮らしが息づいている。だからこそ、この支店に資産を預けているわけだな」 「はい。なお、現店長の昼間孝介は着任して三ヶ月です。まだ霧島様との面識はございません」 「そうか。ならちょうどいい。あの男の素の顔が見られる」 霧谷はバックミラー越しに霧島の顔を一瞬確認し、わずかに眉を寄せた。 「お顔の色が少し優れないようですが、体調はいかがですか」 「大したことない。最近、胸の辺りが重い日が増えただけだ」 その言葉とは裏腹に、霧島の右手は無意識のうちに左胸の辺りをそっと押さえていた。霧谷はそれを見逃さなかった。 「先生が一度、精密検査をとおっしゃっていましたが」 「分かっている。だが、まだ先でいいだろう」 霧島は妻の千鶴を病で失った。気づけば十年の歳月が流れていた。莫大な資産があっても、それを分かち合う相手がいなければ、数字はただの数字に過ぎない。朝起きても「おはよう」と言ってくれる声はなく、夜帰っても温かな食事が待っているわけでもない。だからこそ霧島は現場に足を運ぶ。自分の財産がどんな人間に管理され、どんな空気の中で動いているのか。この目で確かめなければ気が済まない。それは経営者としての使命であり、一人で生きる男のささやかな生きがいでもあった。 「車を止めてくれ。ここからなら近い。健康のためにも少し歩きたい」 「承知しました。それでは三十分後に支店の前でお待ちしております」 車を降りた霧島は、駅前のロータリー付近をゆっくりと歩き始めた。朝の冷たい空気を深く吸い込むと、少しだけ胸の痛みが和らいだような気がした。しかし、その安どもつかの間だった。突然、視界が大きく歪んだ。耳の奥でキーンという金属音が鳴り響き、両足から力が一気に抜ける。 「む、胸が」 まずいと思った瞬間には、もう膝が崩れ落ち、ロータリーの冷たいタイルの上に倒れ込んでいた。周囲を歩く人々の足音が遠ざかっていく。スーツ姿の男がちらりとこちらを見たが、面倒なことには関わりたくないという顔で足早に通り過ぎた。主婦らしき女性が立ち止まりかけたが、スマートフォンの着信に気を取られて、そのまま行ってしまう。冷たいタイルが背中に張り付き、春だというのに全身が芯から冷えていく。視界がぼやけ、意識が薄れかける中で、霧島はぼんやりと思った。このまま誰にも気づかれずに終わるのか。五十六年間で築き上げた財産も、知識も、路上に転がっている自分には何の役にも立たない。通勤ラッシュの雑踏では、路上の石ころと変わらないのだ。千鶴が生きていれば、「ほらだから検査を受けなさいって言ったでしょう」と、怒った顔で叱ってくれただろう。そんな諦めと寂しさが胸に広がりかけた時、温かい手が霧島の肩にそっと触れた。 「大丈夫ですか? 聞こえますか? 意識はありますか? 」 若い女性の声だった。必死さと優しさが入り混じった、透き通るような澄んだ声。霧島が薄目を開けると、スーツ姿の若い女性が地面に膝をつき、真剣な表情で顔を覗き込んでいた。彼女は持っていた鞄を地面に放り出し、両手で霧島の体を支えていた。 「今、救急車を呼びますから、じっとしていてくださいね。絶対に大丈夫ですから」 彼女は躊躇なく自分の上着を脱ぎ、霧島の頭の下に敷いた。そして震える手でスマートフォンを操作し、一一九番に電話をかけた。 「梅丘駅のロータリーで、五十代くらいの男性が倒れています。意識は…あります。呼吸もしています。お願いします、早く来てください」 電話を切ると、彼女は霧島の手を握り、安心させるように笑みかけた。 「大丈夫ですからね。すぐに救急車が来ますから。私、ここにいますからね」 霧島は薄れゆく意識の中で、この女性の必死な姿を見つめていた。誰にも気づかれずに終わると思った。冷たいタイルの上で、誰かの温かい手が自分に触れている。その事実が、なぜだかこれほどまでに心に沁みる。涙が滲み、視界がさらにぼやけていく。しかし、その時だった。霧島の左手が、ゆっくりと彼女の手を握り返した。 「…霧島、という名前です」 掠れ声で、霧島はようやくそれだけを絞り出した。 「え? 」 「霧島達也といいます。あなたは」 「私ですか? 私は霧島りんか…あ、いえ、今は」 … Read more