知らなかった。あの日、三田さんが倒れるまでは。寒い冬の朝、道端でうずくまる三田さんを見つけたのは近所の主婦だった。でも誰も動けなかった。あの怒鳴るおじいちゃんに近づいたらまた怒られる、って。なのに貞子さんだけは迷わず駆け寄った。「転んだだけだ。大げさにするな」と三田さんは言った。でも立てなくて、貞子さんが助けを呼んで。そんな時、三田さんがポツリと言ったんだ。「わし、あんたに嫌われとると思っと…
しばらくして、三田さんは小さな声で言った。わし、あんたに嫌われとると思っとった。 貞子さんは少し驚いた顔をした。どうして? いつも怒鳴っとるからな。あんたにも、町の連中にも。 貞子さんはふっと笑った。嫌いと見捨てるは別ですよ。 その一言に、周りにいた人たちは何も言えなくなった。三田さんは泣きそうな顔で目をそらした。そうか。 私たちの地元には、少し有名なおじいちゃんがいた。名前は三田さん。白髪で、背中は少し曲がっていて、いつも古い帽子をかぶっていた。ただ、有名と言ってもいい意味ではない。三田さんはとにかくよく怒鳴る人だった。公園で子供たちが遊んでいれば怒鳴る。ゴミ出しの日を守れと言っているのに、と朝のゴミ捨て場の前でも怒鳴る。挨拶くらいまともにできんのか。そういう割に、自分が挨拶されてもほとんど返さない。 町内会でも同じだった。最近の若いもんは何も分かっとらん。昔はもっとちゃんとしとった。この町も変わってしまったわい。三田さんが口を開くと、場の空気が少し重くなる。誰かが小さくため息をつき、誰かが目をそらす。正直、町内の人たちから三田さんは少し嫌われていた。子供たちは三田さんを見かけると道を変えた。若いお母さんたちはなるべく関わらないようにしていた。町内会でも、三田さんの隣の席だけいつも少し開いていた。 でも、そんな三田さんになぜか普通に話しかける人が一人だけいた。近所に住む貞子さんというおばあちゃんだった。貞子さんは七十代半ば。いつも背筋が伸びていて、買い物帰りには近所の子供にあめを配るような、柔らかい人だった。三田さんが公園で怒鳴っている時も、貞子さんだけは平気な顔で近づいていく。 三田さん、今日も元気ね。 元気じゃないわ。うるさくて叶わん。 耳がいい証拠ですよ。 おい、皮肉か。 褒めてますよ。 三田さんはいつも不機嫌そうにそっぽを向く。でも貞子さんは笑っていた。 ある日、若いお母さんが不思議そうに聞いた。貞子さん、怖くないんですか? 三田さん、いつも怒ってるじゃないですか。 すると貞子さんは少しだけ首をかしげていった。怒ってる人ってね、たまに寂しい人なのよ。 その言葉の意味を、その時の私たちはまだ分かっていなかった。 それは冬の入り口のような、寒い朝だった。空はどんより曇っていて、風が冷たかった。町内の細い道を歩いていた人がふと足を止めた。道端に三田さんが倒れていたのだ。 最初に見つけたのは近所の主婦だった。 三田さん! 三田さんは道路の端で横向きに倒れ、片手で膝の辺りを抑えていた。顔色は悪い。帽子は少し離れたところに落ちていた。何人かが足を止めたけれど、誰もすぐには近づけなかった。普段怒鳴られている相手だったからだ。 大丈夫かな? 救急車呼ぶ? でもまた怒られたら。そんな空気が流れた。誰かがスマホを取り出した。でもその指は少し迷っていた。 その時だった。 ちょっと何してるの? 小さな体でまっすぐ三田さんに駆け寄った人がいた。貞子さんだった。買い物袋を地面に置き、膝をついて三田さんの顔を覗き込む。 三田さん、聞こえる? 三田さんは目を細めた。貞子か。何してんの? こんなところで寝てたら風邪引くよ。その声は、怒っているようで優しかった。 三田さんはかれた声で言った。転んだだけだ。大げさにするな。 転んだだけなら立てるでしょ。 いや、もう立てん。 ほら、やっぱり。 貞子さんは近くにいた人たちへ振り返った。救急車お願いします。あと毛布か何か持ってきてくれる人いる? その声で、周りの人たちはようやく動き出した。 私、救急車呼びます。 うち近いんで毛布持ってきます。 車通らないように見てます。 さっきまで戸惑っていた人たちが一斉に動き始めた。貞子さんは三田さんの落ちた帽子を拾い、そっと胸元に置いた。 寒いでしょう。 いいや、要らん。そんなに震えません。 三田さんは黙った。 しばらくして、三田さんは小さな声で言った。わし、あんたに嫌われとると思っとった。 貞子さんは少し驚いた顔をした。どうして? いつも怒鳴っとるからな。あんたにも、町の連中にも。 貞子さんはふっと笑った。嫌いと見捨てるは別ですよ。 その一言に、周りにいた人たちは何も言えなくなった。三田さんは泣きそうな顔で目をそらした。そうか。 救急車のサイレンが、遠くから近づいてきた。 三田さんは、幸い命に別状はなかった。膝を強く打って、しばらく入院することになった。 その日の夕方、町内会長が貞子さんに言った。貞子さん、本当にすごいですね。私たち、すぐに動けなかった。 貞子さんは静かに首を振った。私もね、昔なら動けなかったかもしれません。 え? 貞子さんは少し遠くを見るような目をした。三田さんの奥さん、覚えていますか? … Read more