「慰謝料は息子だけじゃなくて、私にも払いなさいよ。お母さん。あ、違ったわね。元お母さんだったわ」
電話の向こうで、夫の母が喚き散らす声に、私は静かにため息をついた。
「一体どういう理屈なんでしょうか」
「あんたの浮気が原因で離婚したんでしょ?だったら払うのは当然でしょ!」
「私は浮気なんてしてませんけど」
「嘘おつきなさい!息子が傷ついて、私も傷ついたのよ!その賠償金を払うのは当然でしょ!」
「ずっと何をおっしゃってるのか理解できないんですが」
「とぼけないで!私、全部聞いてるんだから!はるかが裏切られたって泣いてたわ!」
「それは嘘泣きです。騙されないでください」
「ティッシュ1箱使ったのよ!」
「濡れてないはずですけど。もったいないですね」
「ばっくれる気?証拠だってあるんだからね!慰謝料300万は取れるって聞いてるのよ!」
「だからって、それをあなたが請求するんですか?」
「当たり前でしょ!嫁を失って私、精神崩壊しそうなんだから!私のやることなすこと、いつも文句ばかり言ってたけど、あれは愛情の裏返しだったのよ!」
「そんなお金をもらって、どうするおつもりなんです?」
「世界一周クルーズに行くのよ!3ヶ月後には出発なんだから!急がないとペアチケットで330万もするんだけどね。心の癒しと2人で行ってくるわ」
「呆れました。虎の威を借る狐、いや、狸の皮算用ですね。悪いですけど、一銭も払いませんよ」
「なんですって!」
「予約金で30万は入れたんだけど、残りの300万を早く払わないと予約が取り消しになっちゃうのよ。90日前ならキャンセル料はかからないけど、予約金は取られちゃうの」
「そうですか。ならどうぞ。裁判でも何でもしてください。ただし、恥をかくのはお母さんですよ」
「はあ!負け惜しみ言わないで!浮気嫁の分際で偉そうに!」
「端的に事実をお伝えしますね。慰謝料を払うのは、息子さんですよ。浮気したのは、はるかさんなんですから」
「はあ?何言ってるの?はるかが浮気するわけないでしょ!あの子は潔癖なのよ!私に嘘をつくはずがないわ!」
「信じるのは自由ですが、こちらにも証拠がありますよ」
「捏造したんでしょ!なんて汚い女なの!?」
「だったら、そちらの証拠も捏造の可能性がありますね」
「そんなわけないでしょ!あんたが私を落とし入れようとしてるだけよ!」
「そこまでおっしゃるなら、はるかさんに直接確認されたらどうですか?」
「する必要なんてないわ!鼻で笑い飛ばされて終わりよ!」
「では、私も同じように笑い飛ばしておきます。これ以上、無駄な要求をしてこないようお願いしますね」
「逃げるんじゃないわよ!絶対に払わせてやるから!」
通話を切って、私はスマホを見つめた。心臓はどくどくと脈打っているけれど、それでも冷静さは保てていた。30分後、スマホが震える。彼からの着信だ。
「さっき、母から連絡来たんだけど」
「へえ。で?」
「全部聞いた。母さんが慰謝料請求してきたんだろ。適当に交わしといてよ」
「適当に?あんた、自分が何か言われてるか分かってるの?」
「はるかと旅行中で忙しいんだよ」
「旅行?今どこにいるの?」
「みなと。新しい彼女の実家の方」
「みなと?ああ、その新しい女か」
「おい、その言い方やめろよ」
「で、母さんには何て言ったの?」
「俺が浮気したって言ったら、母さんショックで倒れるだろ?だから、お前に浮気したってことにした」
「はあ!?私が浮気したってことにしたの?あんたの母親を追い詰めるために、私が平気な顔して責められてるってわけ?」
「大丈夫だって。ある程度騒いだら落ち着くから。はるかはメンタル強いし」
「なら、あなたの浮気で離婚したって言えばよかったじゃない」
「母さん、俺のこと出来合いだと思ってるしさ。正直に言ったら悲しませるだろ?親を想っての優しい嘘ってやつ」
「自分の保身のための最低な嘘でしょ。それに、あなた、お母さんと一緒にクルーズに行くことになってるわよ。次の彼女と、私と3人で」
「はあ?何言ってるんだよ」
「本当よ。お母さん、もうクルーズ予約済みよ。330万のペアチケットで。支払い期限は今日中」
「マジかよ…。母さん、行動力ありすぎだろ…」
「あなたも行くのよ」
「無理だろ!母さんと2人で海の上なんて、地獄すぎる。直接言ってくれない?」
「私が言うわけないでしょ。もう家族じゃないんだから、私を巻き込まないで」
「頼むよ。話すと長いんだよ。面倒なんだよな」
「どうするのよ。3ヶ月後には出発でしょ」
「…財布、空だな。誕生日旅行で散財したし、明日からブランド品店巡りするから、金がないんだよ」
「そんなお金があるなら、はやく慰謝料払ってよ」
「優先順位ってものがあるだろ」
「じゃあ、事実を全部お母さんに話すわ。あなたが今誰と、何をしてるか含めてね。あと、不倫の証拠写真も送っておく」
「待てよ!なんでそうなるんだよ!」
「あなたが自分の嘘で自分の首を絞めてるのよ。私が浮気したって嘘をつき続けるなら、私も戦うだけよ。電話もLINEも無視するなら、証拠を送るから」
「おい、待てって!」
通話を切って、私は深く息を吐いた。そして、翌朝。
「おはよう、はるか。今日もエステ?」
「うん。1時間後に予約してる。あっちで結合う?」
「いいね。俺は温泉入って、休憩所でビール飲んでるわ」
「分かった。30分くらい遅れるかも、フットマッサージも入れちゃったから」
「了解。ゆっくり綺麗になってきなよ」
「ねえ、元の奥さんからまだ連絡来てるけど、うざくない?」
「うわ、ホント?別れたのに未練たらたらで重いな。30代のおばさんって、必死で怖いよね」
「だよね。肌の艶が違うよ。そっちは。私みたいにピチピチじゃないしね」
「そっちの。肌の艶がな」
「もっと褒めてくれてもいいんだよ?」
「あー、もう。でもさ、その元嫁から金取れるかな?私、ずっと欲しい指輪とバッグがあるんだけど」
「余裕だって。母さんが今、向こうを追い詰めてるからさ。今日中には300万、口座に入るはず。この旅行も実質タダってわけだ」
「ほんと?それ聞いて安心した」
「帰りにシャネル寄って、バッグ買ってやるよ」
「しんくん、大好き!愛してる!」
「俺も愛してるよ」
「でもさ、元嫁ってケチだから、結構貯め込んでると思うんだよ。でも実際、不倫したのはこっちなんだし、元嫁が払う必要ってないよね?」
「ないよ」
「じゃあ、なんでそんなに自信満々なの?」
「弱みを握ってるんだよ」
「マジ?」
「300万くらいなら、必ず出すさ」
「すごい!じゃあ、その元嫁さん、私たちのATMみたいなもんだね!」
「本当それな。俺らの愛のために、もっと働いてもらおうぜ」
その夜、私は二人の会話を、こっそりと録音していた。
「ねえ、はるか、明日の朝で支払い期限なんだけど」
「クルーズ代金でしょ?毎日LINEで言ってるじゃない」
「この件に関しては、払いませんよ。私、お母さんにはっきり言いましたから」
「はあ?何言ってるの?」
「はるかさんも、お母さんに嘘をついたって認めてましたよ」
「…何か勘違いしてない?」
次の瞬間、私のスマホが震えた。はるかからだ。
「あなた、私のこと、何か言って回ったでしょ?私が浮気したって、そういう噂、流してない?」
「噂?私は事実を言っただけよ。あなたの夫が不倫してたっていう、その事実を」
「証拠なんてないくせに!」
「証拠なら、写真ならあるわよ。探偵に撮ってもらったの。あなたの夫が、あなたの友達とホテルから出てくるところを」
沈黙が流れた。
「…何が目的?」
「慰謝料300万。それと、あなたの夫があなたの親友と関係を持ってたって、あなたの実家の両親に伝えるつもりはないってこと」
「あんた…!」
「払うの?それとも、両親と、あなたの夫の両親にも全部話す?善良な夫のフリしてるあの男の本性、みんなに知られたくなければ、素直に払いなさい」
「な、んで、私が…」
「レシート、あるのよ。あなたの夫が、あなたのクレジットカードで、私の義母と一緒に買い物したレシートがね。あれ、私の義母、あんたたちのことを何も知らないの?あんたの夫は、私のことを『最低な元嫁』って言いふらしてるみたいだけど」
「…恨み言、言いに来たの?」
「私は言いに来たのよ。この裁判で、あなたにすごく迷惑をかけたって、あなたに言いに来たの」
「はあ?」
「あんたは夫を取られた挙句に、毎日のように義母から責められて、私には痴話げんかを押し付けられて。よく我慢したわね」
「…何が言いたいの?」
「あんたが、私に言ってくれたこと、私も言うわ。今度は、こっちの番よ」
「意味が分からないわ…」
「あんたの夫は、私を捨てるために、あんたと一度寝たの?違うでしょ。あんたたちは、私からずっと前から、こそこそ会ってたんじゃないの?」
「違う!それは…!」
「あんた、妊娠してるでしょ。あんたの夫に。でも、あの人が、あんたと一緒になる気がないって言ったから、焦って私に謝りに来たんじゃないの?」
「な、ど…」
「あんたのことは、尊敬してた。自分の足で立ってる人だと思ってた。でも、違った。自分のことは全部棚に上げて、他人の幸せを壊しておいて、それでいて被害者ぶってる」
「…よく、そんなこと言えるわね…!」
「言えるわ。だって、あんたが、私の夫を寝取ったから、私はこうして生活費に困ってるんだもの」
「夫から慰謝料、きっちりもらってるでしょ!」
「もらってないわよ。あの人は、あんたに200万払ってるでしょ?あんたと別れるための手切れ金として。私には、一銭もくれないの。だって、あの人は私に『慰謝料を払え』って言ってるんだもの」
「そんなの…」
「言ったでしょ、こっちの番よって。あんたの夫は、私のことを『バカな元嫁』って言って笑ってるわよ。『ATM』ってね」
「…何、それ…」
「本当のことよ。あなたの夫、こう言ったの。『元嫁はATMだ。必要な時にいつでも引き出せる』ってね。あんたの親友も、実はあんたの夫と最初からつるんでて、あんたから金を引き出せるって踏んだから、近づいてきたんじゃないの?あんたの夫が言ってたわよ。『はるかは金を持ってる。別れるなら、300万は取らないと』ってね」
「…うそ…」
「真実よ。あなたの信じてたもの、全部偽物だったの。私はね、あんたたちに復讐しに来たんじゃない。あんたに、真実を教えに来たの。さあ、これで、あんたの負け。あなたの勝ち」
そう言って、私は立ち上がった。財布から一万円札を1枚取り出して、テーブルの上に置く。
「コーヒー代は出しておいたわ。おごりよ。…さよなら、偽りの妻だった人」
振り返りもせずに、喫茶店のドアを押した。外は、春の陽気な日差し。私は、ようやく、あの男と、あの義母と、そして自分の人生から、自由になった。
ちょうど一週間後、私は不動産屋にいた。
「こちらですね、鍵付きの物件」
「はい、ありがとうございます」
新しいアパートの鍵を握りしめる。部屋は狭いけれど、日当たりはいい。窓の外には、桜並木が見えた。
スマホに着信が入る。番号を見て、小さく笑った。
「もしもし、みなこです。ああ、クルーズの件ですね。ふふっ、いくらですか?ええ、母が払うと言ってるんで。……どうでしたか、あの女たちは?」
電話の向こうの相手の声を聞きながら、私は桜のつぼみを見上げた。
「復讐の果てに、二人はきっとぶつかりますよ。だって、300万をめぐって、あの3人が協力するはずがないんですから」
通話を切り、私は鍵をポケットにしまった。
「さて、と。新しい人生、始めますか」
その夜、私は男の実家の前の物陰に立っていた。部屋の窓に、はるかの姿が見える。男と、はるかと、そして義母の姿も。何やら言い争っているようだ。はるかが声を荒げ、義母が泣き崩れる。男がため息をついて、ソファにどさっと座った。
格好いい終わり方とはいかないけれど、これが現実だ。私の長い悪夢は、こうして、静かに幕を閉じた。
翌朝、送り主不明のメールが一通、私のスマホに届いている。
差出人の名前を見て、私は目を見張った。CRS、とあったからだ。
CRSって、ワールドワイドな人材派遣会社だった。
その翌日、私はエージェントとの面談に臨んでいた。
「キャリアアップですね?異国の地で働くのはいかが?」
「いいですね。候補に入れてください」
エージェントからのオファーは、海外勤務だった。条件は悪くない。何より、あの男たちがもう二度と、私に関わってこない場所で、新しい人生が始められる。
ドバイ、タイ、シンガポール。専用のオフィスで、私は希望のポストに配置された。
すべては、元夫の不信で新しい生活が始まる。私は、もう逃げない。
事件から一ヶ月後、私は新しい職場の近くのバーで、一人グラスを傾けていた。スマホを見ると、見慣れない番号から着信が入っている。
「はい、もしもし?」
「あ、田中です!田中みなこです!聞いてくださいよ、あの野郎、今度は全部ひっくり返して腹の探り合いの真っ最中なんで、近況報告ついでに電話したんです! 」
「ふふっ、おめでとう。調子はどう?」
「あの母、マジで基地外で!私の家の前で何日も待ち伏せしてて、猫のエサ代でもないですけど、『ハラスメント』ですよ! 」
「大丈夫?」
「大丈夫ですよ!こちらも倒す気満々なんで、『もう、うちの敷地内に入ってこないでください』って内容証明送っときましたから!余裕のよっちゃんです!」
声が弾んでいる。私は窓の外の空を見上げた。
「じゃあ、そっちはどうですか?新しい会社で、男でもできました?」
「男は、もうたくさんよ。向こうの会社は…まあ、いろいろね」
「はは、なんか合ってますね。大丈夫ですよ、田中さんならもっとやれる。あ、切りますね!次の予約なんで!」
通話が終わる。私はジンを一口、飲み干した。
少しの間、笑いが込み上げて、一人で肩を震わせた。
……まったく、懲りない女たちだよ。
# 10月某日
あれから、義母とミナは、私が残した慰謝料300万を、うまく分割してやったらしい。
すごくありがたいことです。
まあ、ふたりとも鬼籍に入って誰もいなくなったから、それは言い訳なんだけど。
しかし、しぶといのは、あの男の方だ。
私が新しいジェット機を買ったと知って、事件から一年後、今度はこっそり、私の家の周りを覗いているのが目撃された、というので、警察のお世話になった。
ストーカー規制法の即効性は、即座には発揮されないけど、近づかないように警告はしてもらった。
後の祭りだが。
その後、忘れた頃に、また元夫と義母から電話がかかってきた。
「……どうして、そこまで人の縄張りを荒らすんだよ。慰謝料も払ったし、もう俺たち、縁は切れただろうが」
「何言ってるんですか?私は、ただ、あなたたちの『源泉徴収票』の数字と、税金の納まり具合が、あまりにもグズグズなんで、仕方なく税務署にチクっただけですよ」
「は? なにそれ?」
「給与所得の源泉徴収票、見ました?あれ、あなたね、会社に出すとき、給与を300万すぎに『低く』偽造してたでしょ。ばれるよ?私、税理士の知り合いから、全部、書類のコピー取り寄せてもらってますから」
『……あの、その、さっきのは冗談で、ちょっと試しただけで」
「さあ、自分で調べたら?私は何も、言うことないんで」
そう言って、私は電話を切った。
でも、下らない意地を張って、ここまで性格がねじ曲がってしまった。
あのさ、私も反省してるんだ。
結局、あの日から、私の復讐劇は続いている。
あの頃のような痛みは、もう残っていない。でも、時々、あの日のことを思い出しては、胸がチクチクと痛む。
それはまるで、そうすることで、あの男と、あの女から、まだ自由になれない自分がいることを、実感しているみたいだった。
そんなある日、コンビニに寄った帰り、久しぶりに、あの男を見た。
大通りに面した、高級アパルトマンの前。
黒のセダンから降り立ったのは、どこか老けた、見覚えのある後ろ姿。
隣に立っているのは、見覚えのない、若い女。
妊婦だった。
男が、アパートの管理人のような人物と、何やら話している。
私は見ないふりをした。
コンビニの袋を提げ直して、さっさと自分の家に帰ろうとした。
と、その時。
「あ、どうも、近所のものですが」
聞き覚えのある、声。よりによって、その真横から、私の視界に飛び込んでくる。
「お久しぶりです。お義母さん」
いや、もう、元義母か。
「お元気そうで、なによりです」
屈託のない笑顔で、私に話しかける。
まったく、悪びれた様子もなく、けろっと、ミナがいた時と同じ顔で。
私の前に立って、新築マンションのことを聞いてきた。
私の自宅が建ちそうなことやら、そういうことを、一方的に。
「……でしょ?だから、アタシ、こうしてわざわざ、あなたに報告しようと思って」
らしさ、全開です。
人の復讐の、一体、何が面白いんだか。
そう思いながらも、私は、反論できずにいた。
腹は立つ。しかし、この光景は、妙に笑える。
太陽の下、真面目腐った顔で、立ち尽くすしかないのであった。
