空港のトイレから出たら、妻も義両親も消えていた。荷物も、搭乗券も、全部ない。「どこにいるの?」と電話した私に、妻は信じられないことを言った。「あなたには、今日は帰ってもらうわ」——還暦祝いのニューヨーク旅行。ホテル代は私が出した。なのに、出発直前になって「あなたがいると気を遣うから来ないで」と義母に告げられ、妻もそれに従った。私が選んだ高級ホテルは、義両親だけが泊まることになった。その夜、妻…

空港のトイレから出たら、妻も義両親も消えていた。荷物も、搭乗券も、全部ない。「どこにいるの?」と電話した私に、妻は信じられないことを言った。「あなたには、今日は帰ってもらうわ」——還暦祝いのニューヨーク旅行。ホテル代は私が出した。なのに、出発直前になって「あなたがいると気を遣うから来ないで」と義母に告げられ、妻もそれに従った。私が選んだ高級ホテルは、義両親だけが泊まることになった。その夜、妻...

かおりは電話越しに、少し迷いを含んだ声で言った。

「ねえ、トール。来月、母さんの誕生日なんだって。これで父さんと二人そろって六十歳になるんだよ」

「ああ、そうなの。二人そろって還暦を迎えられるのね。おめでたいことじゃない」

「そうなんだよ。それでさ、二人にプレゼントを考えてるんだけど」

「うん。何を送るつもりなの?」

トールは少し間を置いてから、切り出した。

「ニューヨーク旅行なんてどうかなと思ってるんだ」

「え、そんなのできるの? すごい金額になるんじゃない?」

「実はな、二人の新婚旅行の行き先がニューヨークだったんだって。それからずっと、また行きたいとは言ってるけど、なかなか機会がないって言うんだ。だから、これをいい機会にしてもらおうかなって」

「でも、それってすごいお金がかかるわよ。簡単に出せる額じゃないでしょ」

「もちろん簡単に出せる額じゃないよ。でもさ、やっぱりそれなりに出費はあるもんだから。ただ、さすがに俺一人じゃ無理だから、かおりにも協力してほしいんだ」

「私もやっぱりそこはお願いしたいわ。でも、私たちも一緒に行くの?」

「もちろん。俺たちも旅行に同行するからね。四人で楽しい旅行にしようじゃないか。それにかおりが協力してくれるなら、俺も心強い」

「ニューヨークかあ。私は行ったことがないけど、二人の新婚旅行の場所かあ。いいわね。でも、休みは取れるかしら?」

「そこはみんなで合わせて取ろうよ。金額にもよるけどさ、かおりが出さないとダメかな?」

「ううん、私ももちろん出すわ。でも、ちょっと考えさせて。うちの親ももうすぐ還暦を迎えるのよ。そっちのお祝いをちゃんとしてあげたいのは山々だけど、私も自分の親の還暦をないがしろにはしたくないの」

「もちろん、それは分かってるよ。俺たちは夫婦だろ。どんな時も合わせるべきだよ。もちろん、そちらの両親の時は、かおりだけじゃなくて俺もちゃんと協力するからさ」

「本当?」

「ああ。それで、具体的にどうするか決めよう。飛行機代は俺が取るよ。四人分のチケットもな。それで、ホテル代はかおりが取るってのはどうだ?」

「ホテル代ね。まあ、それくらいならありがたく引き受けるわ。きっと、二人とも喜ぶわね」

「そうだといいんだけどな。ただ、心配事が一つあるんだ」

「何?」

「向こうで、前みたいにお母さんから嫌みとか言われないかってことだよ」

かおりは、はっとした顔をした。

「…そんなこと、ないわよ。だって、私たちのプレゼントで海外旅行ができてるんだから。きっと感謝してくれるはずよ。…そんなに心配?」

「ああ、まあ、ちょっとな。でも、大丈夫だと思う。それじゃあ、スケジュールをとりあえず合わせようか。休みが取れそうなところを、母さんたちと話し合うから」

「分かったわ。じゃあ、日程が決まったら教えて」

「ああ、ありがとう。それじゃあ、また連絡するよ」

「うん。とても楽しみにしてるわね」

翌日、かおりはアメリカにいる友人、レベッカに連絡を取った。

「レベッカ、久しぶり。元気にしてる?」

「あら、かおり。久しぶりね。どうしたの? 急に。相変わらず日本語が上手いわね」

「当たり前でしょ。日本でも長く生活してたんだから。アメリカに戻っても勉強は欠かしてないわよ。それでね、レベッカに聞きたいことがあるんだけど」

「何かしら?」

「実は今度、ニューヨークに旅行に行くことになったのよ。レベッカは今ニューヨークにいるんだよね。それで、時間があったらあなたに会いたいなって思って」

「嬉しいわ。そんな風に思ってくれてたなんて」

「当たり前でしょ。あなたは私の友人なんだから。私もレベッカのことを最高の友達だと思ってるわ」

「私もよ。日時を言ってくれれば、どんな状況でも会いに行くわ」

「嬉しい。久しぶりに会えるのが今から楽しみだわ」

「それはこっちのセリフよ。あなたのおかげで、私は日本で楽しい日々を過ごせたんだから」

「それは私も同じよ。もしよかったら、私が色々とアテをしてあげるわ。ニューヨークはもう長いから、地理はお手の物よ」

「本当? そうしてくれたらありがたいわ。ニューヨークは行ったことがなくて、うちの義両親は昔行ったことあるって言ってたけど、それはもう何十年も前の話だからね。情報が古くて当てにならないのよ」

「ああ、それは心配ね。でも大丈夫。私が楽しいところから美味しいお店まで全部紹介してあげるわ。あなたたちの希望も聞けば、スケジュールまで全部やってあげるけど」

「え、でもそれはさすがに大変じゃない?」

「大丈夫よ。時間を見て予約を取るくらいならできるわ。どれくらい当日に会える時間を作れるかは、こっちのスケジュール次第だけど」

「だったら、早急に日程を決めておくわね。とりあえず、参加する人たち全員でLINEグループを作ろうよ。そこでそれぞれの希望を出してくれたら、私がいい感じの店を探しておくからさ」

「そうね。それじゃあ、トールに話を作るね。できたら、レベッカもそこに招待するわよ」

「オー、嬉しいわ。それじゃあ、また連絡するから」

「うん。とても楽しみに待ってるからね」

三日後、かおりの家で、トールとかおり、そしてかおりの両親が集まっていた。旅行の最終確認をするためだ。

「お義母さん、旅行に関してちょっと聞きたいことがあるんですけど」とトールが切り出した。

「はい。どうかしましたか」と、かおりの母、美佐代が答えた。

「ホテルに関しては、かおりが取ることになったんですよね」

「ええ、そうです」とかおりが答えた。

「サイトで見たんだけど、マンハッタン中心部にあるホテルがとても良さそうだったんだけど、そこを予約してもらっていいかしら?」と美佐代が言った。

「えっと、いくらくらいなんですか?」とトールが尋ねた。

「一泊で十万ってところかしら? それで四泊しようってことですものね」

「となると、ホテル代だけで四十万ですか…」とトールが言いかけると、美佐代は鼻で笑った。

「あら、何か不満でもあるのかしら? 外資系の企業で稼いでるみたいなアピールしてるくせに」

「そんなことはしてませんよ。…でもまあ、それくらいは仕方ないのかな」

「ここ以外のホテルなら、私は行きませんからね。私たちのプレゼントでしょ。なんでもっと前向きになれないの?」

「貯金を結構使わないといけないなと思いまして。それにもうすぐ、私の両親の還暦のお祝いもあるんです」

「本当に、あなたは私たちのことなんて何とも考えてないのね」

「考えてますって。それでも、一泊十万ってすごい額ですからね」

「安いホテルに泊まるなんて、旅行の気分が台無しよ。私はそれでは嫌なの」

「分かりましたよ。それで、そのホテルで手配します」

「ええ、そうしてちょうだい。…それと、もう一つお願いがあるんだけど」

「何ですか?」

「あなたは、その旅行にはいない方がいいのよ」

一瞬の沈黙が流れた。

「…なんですって?」

「だって、あなたが楽しめないでしょう。そうなると、こちらも気を遣ってしまって、楽しめないのよ。せっかくの旅行ですもの、みんなが楽しめる方がいいでしょう?」

「だとしたら、こちらも同じ気持ちですよ。ですが、私もせっかくの旅行を楽しみたいです。向こうで友人と会う約束もしましたし」

「それなら、ニューヨークに着いたら別行動っていうのもありだと思いますが。あなたはあなたで好きに楽しめばいいわ」

「ホテル代は私が出してるのに、それはないんじゃないですか?」

「あなたが払うと決めたのでしょう? 私が無理やり払わせたわけじゃないわ。それに、そのホテル代だって、私が選んだホテルをあなたが予約しただけよ。自分の選んだホテルに文句をつけるなんて、おかしな話だわ」

トールは、こめかみを押さえた。

「…とにかく、ホテルはさっきのところでよろしくね。忘れないように、予約をしておきなさい」

「…はい。分かりましたよ」

「それで、その旅行の件なんだけど」

かおりは、うつむきながら言った。

「私も、皆さんとご一緒させていただくのは…遠慮しておこうと思います」

「何言ってるんだよ、かおりまで」とトールが言った。

「だって、お母さんがそう言ってるんだもの。私がいると、お母さんたちが楽しめないんでしょう?」

「そんなこと言ってないわよ」と美佐代が言った。

「あなたに来てもらえないと、私があなたのお父さんと二人きりで、あなたの夫と気まずい思いをしながら過ごさなきゃいけないのよ。それは嫌だわ。あなたも来なさい」

「でも…」

「来なさい。これは私の決定よ」

かおりは、トールを見た。トールは、何か言いたそうだったが、何も言わなかった。

その一か月後。空港で、かおりとトールは、両親と待ち合わせていた。

「トール、どこにいるの?」

かおりが電話越しに言った。

「トイレから出たら、誰もいなくなってて。もうそろそろ登場の時間でしょ。早くみんなでゲートに行きましょうよ」

「悪い…。もうみんな、ゲートの中に入ってるよ」

「え、待ってよ。私はどうしたらいいの?」

「…かおりには、今日は帰ってもらうよ」

「は? どういうこと?」

「お前の両親が、どうしてもお前との旅行は嫌だと言い出してさ」

「それが何よ。そんなのは今に始まったことじゃないわ。前から嫌そうな感じは出してたじゃない。それが、ここに来て本当に嫌だと言い出したんだよ」

「それなら、もっと前に言ってくれればよかったわ。だとしたら、私は休みだって取らなかったわ。私の分の航空券だって、無駄になったじゃない」

「俺も、まさか母さんがここまで嫌がるなんて思ってなかったんだよ。…でも、ここまで来たのなら、我慢してもらうように言いなさいよ。大人なんだから、それくらいできるでしょ」

「無理だな。俺は、お前の親に頭を下げてまで、この旅行に行きたいとは思わない」

「何よ、それ」

「俺は、お前の親と旅行をするのは、もうごめんなんだよ。毎回毎回、嫌みを言われて、気を遣って、ちっとも楽しくないんだ。それなら、今回は俺一人で行かせてもらうよ」

「…そう。じゃあ、私のことはいいから、勝手にすればいいわ」

「かおり…」

「行きなさいよ。せっかくの旅行なんだから、向こうで友人と会う約束もしてるんでしょ。私は帰るわ」

かおりは、そのまま電話を切った。

三日後、トールからかおりに電話があった。

「…かおり、ニューヨークは楽しかったか?」

「ええ、楽しかったわよ。あなたは?」

「…俺も、まあ、それなりにな。それで、かおり。ホテル代のことなんだけど」

「何?」

「俺の方で、ホテルは別のところを取ったんだ。だから、あの高級ホテルの分は、キャンセルしてもらって構わない」

「…は? どうして?」

「俺の両親が、あのホテルは高すぎるって言い出してな。もっと安いところにしろって。結局、俺たち夫婦は、別のホテルを取ったんだ。両親はあの高いホテルに泊まって、俺たちはもっと安いホテルに泊まるんだよ。あの年寄りは、本当に…」

「…そう。それは残念ね。せっかくいいホテルだと思ったのに」

「ああ。俺もそう思ったんだけどな。でも、もう決まったことだ。それより、今回の旅行、かおりの両親は本当に楽しんでくれたか?」

「ええ、とっても喜んでたわ。ずっと夢だったニューヨークに行けて、本当に幸せだって言ってた」

「そっか。それは良かった」

「…で、あなたの両親は?」

「俺の両親は、もう帰りたがってるよ。『金の無駄だった』って言ってた」

「…そう」

「ああ。もう二度と、こんな旅行には行かないってさ。あの年寄りは、なんでいつもいつもそうなんだろうな。せっかくの旅行なのに、一度も笑顔を見せなかったんだぞ」

トールの声は、怒りというより、諦めに近かった。

「…私は、あなたたち家族のことは、もう何も言わないわ。好きにすればいい」

「…ああ。そうするよ」

その夜、トールは一人、自宅の書斎で、スマホの画面を見つめていた。そこには、かおりとの結婚式の写真が写っている。二人とも、幸せそうな笑顔だった。

「…本当に、何がしたかったんだろうな、俺たちは」

トールは、写真を消して、スマホを置いた。そして、深いため息をついた。

翌日、かおりは友人からの連絡で、あることを知った。

「ねえ、かおり。知ってる? トールさん、ニューヨークで、日本人の女性と一緒にいるところを見たって話、あるんだって」

「…え? 誰からそんな話を聞いたの?」

「いや、だから、噂になってるんだって。知らないの?」

「…知らないわね。でも、何かの間違いじゃないかしら。トールは、あの旅行に一人で行ったはずよ」

「そうかもね。でも、結構具体的な話みたいよ。『友達』って紹介してたんだって。レベッカさんとかいう、きれいな外人女性に」

かおりは、何も言えなかった。

その日の夜、トールが帰宅した。かおりは、リビングで待っていた。

「おかえりなさい」

「ああ。…何か飲み物をもらえるか?」

「ええ。…トール、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「何だ?」

「ニューヨークで、レベッカに会ったんでしょ?」

トールの手が、一瞬止まった。

「…ああ。会ったよ。俺の方から、声をかけたんだ。かおりを連れて行けなかった代わりに、何かいい思い出を作ってきてほしいって言われたからな」

「…そう。それで、二人でどこか行ったの?」

「ホテルのバーで、少し飲んだだけだよ。他には何もしてない」

「…そう。なら、いいの」

かおりは、それ以上は聞かなかった。

部屋には、テレビの音だけが流れていた。そして、その日から、二人の間には、何か冷たい空気が流れるようになった。会話は最低限の用件だけ。笑顔も、増えることはなかった。

二人は、物理的には同じ家に住みながら、心は別々の場所に住んでいた。まるで、あの旅行が、何かの境界線だったかのように。

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