「こいつの年収は100万円。金も稼げない無能が住みついて困ってんだよ。」
夫は浮気相手と一緒に、散々私をこけにして笑った。普通の妻なら、こんな人のために今まで頑張ってきたのかと思うと虚しくなるものだろう。しかし私は逆だった。笑いが止まらず、吹き出してしまった。なぜなら、夫がドヤ顔で告げたその金額は、私のパートの給料だけの年収だったからだ。
私の名前はタンべレイカ。50歳で、週に何度か清掃員のパートに出ている。一つ年上の夫とは結婚して21年になる。仕事を始めたばかりの頃は腕や腰が痛んだものだが、最近は作業にも慣れ、体の不調もなく楽しく働けている。都会で一人暮らしをする娘がいる。あの子のためだと思うと、仕事にも一層身が入るというものだ。夫との二人暮らしは寂しいこともあるが、それでも平凡な毎日が続いていた。
だが、ここに至るまで、私には長年抱えていた不満があった。それは、ずっと専業主婦でいなければならなかったことだ。夫の構造は、昔から自分の両親を手本に生きている人で、結婚したら女は仕事をやめるべきだと譲らなかった。私は結婚と同時に仕事を失った。そのくせ構造は始末屋で、お金に細かく、娘の進学にさえ難色を示した。何日もかけてようやく説得したかと思えば、今度は仕送りの金額に文句を言う始末だ。私は自分が働きに出れば家計の貯金は使わずに済むと構造を説得し、しぶしぶながらパートを認めさせる結果を勝ち取ったのだった。
しかし、構造は自分の都合で私に用事を言いつけることも少なくなく、多くは働けず、私の給料は月に8万円ほどにしかならない。その上、働き始めたことで、逆に構造からの家事への監視や「パートのくせに」といった見下した発言が増えた。だが、自分の稼ぎで娘に仕送りをしてやれると思うと、気は楽だったしありがたかった。そして、この年になって新しい職場で人間関係が生まれたことは、嬉しい副産物だった。
ある月末、いつものように構造から生活費を受け取った私は、金額の少なさに驚いた。これまでお金を引き出すのを忘れて遅れたことはあっても、金額が足りないことはなかった。どうしたのだろうか。お金のことを聞けば構造の機嫌が悪くなるかもしれないが、聞かずにはいられなかった。
食後のお茶を出し、できるだけのんびりとした口調でお金のことを指摘すると、構造はテレビに目を向けたまま、素っ気なく答えた。何でも、このところ会社の業績が落ち込んでいるらしく、様々な手当てをカットされたという。こんな大変なことなのに、構造が思いのほか落ち着いた様子で話すのは少し引っかかったが、私は仕方がないことだと素直に受け入れた。ボーナスが減ろうが、通勤手当が減ろうが、リストラされるよりはずっといい。もちろん、長年会社に貢献している構造がその対象になるとは思っていない。だが、早期退職を求められることぐらいはあるかもしれない。私だって万が一に備えてはいるけれど、そんな事態など考えたくもないものだ。私が渡されている生活費は日用品や食費などにかかる現金での支払い部分のみで、元々引き落とし関係は構造が管理している。渡される額が少なくなっても、支払いが遅れる心配はない。どうしても足りなければ、住宅ローンの繰り上げ返済用に構造が貯めている貯金があるはずだし、私の独身時代のお金を使ってもいい。私は減額の理由が聞けたので、そんなに不安がらずに翌月を迎えた。
節約だって、やってみれば案外楽しいものだ。いかに予算や食材を無駄にしないかを考えるのは、パズルゲームのようで楽しみもある。私はこの困難に前向きに立ち向かっていた。
そんな生活を続けて半年ほどが経ち、私はなんとか娘への仕送りを続けていた。娘は自分がバイトを増やすから無理をするなと言ってくれるが、今でさえ支援できているのは家賃ぐらいのもので、他は娘が働いて賄っている。これ以上は頼れない。行きたいと願って入った大学なのだから、娘にはこれ以上学業の妨げになるようなことはさせたくなかった。私は娘にお礼を言って、気持ちだけありがたく受け取った。あれ以降、構造の給料は相変わらずカットされたままで、回復しそうな見込みはない。生活に困るというわけではないが、我が家はどこかギスギスした調子のままだ。私に教えてくれないのはいつものことなので予想の話になってしまうが、おそらく貯金もあまり増えてはいないのだろう。ますます私がしっかりしなくてはと思って、食費の節約にも力が入る。しかし、この頃から構造は今までに輪をかけてお金にうるさくなっていった。
「おい、金を無駄に使うな。夜は寝るだけなんだから、質素な飯でいいんだよ」
構造は夕食の皿を見るなり、そう言って怒鳴った。これでもすでに量を減らし、質を落としている。若くはないのだから、それなりに体に気をつけてメニューを考えているのに、まだ気に入らないらしい。次の日から我が家の夕食は、具のない味噌汁と茶碗に半分のご飯だけになった。野菜も食べないと体に悪いと言えば、もやしを半分だけ使うことが許された。もちろん服は買わせてもらえないし、最近増えてきた白髪も染められないので、私はすっかり老け込んだ。しかし構造は部下もいる立場なので身だしなみを疎かにはできないし、夕食だって同じものを食べているのだから、私から文句は言えない。きっと今は給料が減ったままだから焦っているだけで、ちゃんとやりくりできていると分かれば、また最初の頃くらいには戻るだろう。私はそんな風に構造の様子を見守りながら、悪いとは思いながらも、自分のお金で食べる昼食を少しだけ豪華にして耐えていた。今なら自分でも呆れるほどの、けなげな我慢だった。
ある日、そんな私を嘲笑うかのような事件が起きた。その日、私は構造のスーツをクリーニングに出そうとポケットの中身を確認していた。あの貧乏飯を食べているのに、クリーニングに出したスーツと同列に並ぶというのもおかしなものだ。私はそんなことをふと考えてしまった自分がおかしくなりながら、反対のポケットの中も確認した。すると中から一枚のレシートが出てきた。何気なく開いてみると、それはいわゆるデパコスのレシートだった。百貨店の中でカウンターを構えて販売される、お高めの化粧品ブランドだ。問題はその金額ではなかった。私は構造から化粧品なんてもらったことはないし、このブランドは若い女性に好まれる可愛らしいデザインが特徴だ。直感的に、これは構造が浮気をしているに違いないと考えた。
「お母さん、就活始めようかな」
私は構造の浮気を疑い出してからも、できる限り冷静に振る舞った。やはりこういう時の女は勘が鋭いもので、知らないふりはうまくできていたと思う。構造は相変わらず私に過剰な節約を求めるが、本当は業績不振で給料が減らされたのではなく、浮気に使う小遣いが足りなくなったというところだろう。私のことは邪魔者扱いで、毎日何か文句を言わないと気が済まないらしい。
「お気楽なパートのくせに、飯は食うのか。俺の財産を食いつぶす外道みたいなもんだなあ」
しかし、どんなにひどいことを言われても、もう怒りは湧いてこなかった。そんなことは日常茶飯事だったし、ただ着実に準備を進めて、ついに構造を問い詰めた。私は単刀直入に、浮気をしているだろうと構造に聞いた。意外にも私には妻のプライドがあったようで、口から出た言葉は随分とトゲトゲしく聞こえた。しかし構造は全くひるむことなく、「今更気がついたのか」と笑い飛ばした。
「残念ながら、お前じゃ逆立ちしたって叶わないぞ。顔も性格も若さも稼ぎも、全部お前よりいい女だよ」
構造は高々とそう言って浮気相手を持ち上げ、ぺらぺらと私をけなした。私を見下して喋る構造を見ていると、なんだか虚しい気持ちになってきて、ついため息が出てしまった。すると構造は良い考えが浮かんだというように顔を輝かせて、自分のスマホを取り出した。
「いい機会だから、次の休みに合わせてやろう。まあ、せいぜい楽しみにしてろよ」
構造は私が落ち込んでいるように見えたのがよほど嬉しいようで、遠足前の子供のようにウキウキとしながら荷物を作って家を出た。今日で話が済まなかったのは残念なことだったが、悲しいとか悔しいといった感情は一切湧かなかった。あの人が身勝手なのは今に始まったことではないし、浮気相手と直接話すのだって、そんなに悪いことではないだろう。もちろん相応の責任は取ってもらうつもりだが、浮気相手が構造に騙されている場合だってあり得るのだから、まずは会ってみて浮気相手の人となりを知ろうと考えた。それに構造が家を出たということは、過度に節約された夕食を食べる必要もない。私にとっては、家の居心地が良くなっただけだと気がついてしまった。
浮気相手との顔合わせは予定通りに行われた。構造に連れられて自宅にやってきたのは、まだ24歳という若い女だった。私は一瞬、こんな若いお嬢さんになんてことをと思ったが、どうやらそれは間違いだったらしい。彼女は不倫相手の妻と対面しているというのに堂々としたもので、ニコニコと笑顔さえ浮かべて自己紹介をした。女の名前は山内桃で、仕事は派遣社員だそうだ。派遣先で出会った構造と仕事をするようになり、一緒に様々な困難を乗り越えるうちに愛が芽生えたのだとうっとりと語る。おそらく私との対面もその困難の一つに過ぎないのだろうなと思うと、一瞬だけ彼女に抱いた同情心が消え去った。話している内容も気持ち悪いが、妻の前で手を取り合って肩を寄せている二人の姿も気持ち悪い。私はできるだけ早く解散したいと思い始めた。そもそも構造が乗り気で話を進めるのなら、離婚にも喜んで応じるつもりだった。ところが自分たちが主役とばかりに気分が盛り上がった二人は、暴走し始めた。
「聞いてた通り、本当におばあちゃんみたい」
「そうだろう。桃に比べたら、実際にばあさんだけどな」
二人は私を散々にけなして煽っていたが、構造が続けて盛大な勘違いを披露した。
「おまけに年収は100万円。金も稼げない無能が住みついて困ってんだよ」
ドヤ顔でこちらを見る構造に耐えきれず、私は吹き出した。
「それ、年収じゃなくて月収ね」
実は、私のパートの給料は年収にするとおよそ100万円だが、年間の収入は1200万円近い。私は若いうちは結婚願望がなく、独身時代は仕事漬けの毎日だった。おかげで今は、その当時必死に働いて買った株の配当がたんまりある。早くに亡くなった祖母から相続した広い土地をレンタルスペースとして活用し、毎月賃料が入ってくる。広いばかりで旗竿地だったので扱いに困っていたが、近くにマンションがいくつか建って、今ではレンタルスペースは大繁盛だ。昔から仕事以外のことは全て私に丸投げで、書類の一つも確認してこなかった構造は、本当に何も知らなかったのだろう。だとしても、車を買い換えた時も高級な腕時計を買おうとした時も、結局お金を払ったのは私だったのに、まさかそんなにへそくりができる金額を渡していたつもりだったのかと呆れてしまった。
私の話を聞いた構造と桃は、すっかり言葉を失っていた。それならばと思った私は、早くこの不快な時間を終わらせようと淡々と話を進めるが、構造が慌てて口を挟んだ。
「そんなに金があるなんて、俺は何も聞いてないぞ」
顔を真っ赤にして騒ぐ構造に、私は「それはそうだろう」としか答えられなかった。周囲の人に妻を養えないと思われるのが嫌で私に仕事をやめさせ、娘が大学生になってようやく私が働くことを認めたと思ったら、そこでも見栄を張ってパートしか許さなかった人だ。本当はあなたの倍近く収入がありましたなんて、言えるはずがない。私に言われて自分の行いを振り返った構造は、やっと私の話を信じたようで、年収をネタに笑うのはお門違いだと理解したらしい。それでもなんとか私をこき下ろしたいようで、「桃だって生活に困らないだけの稼ぎはある」とか「若さも素直さもあって、自分の相手にふさわしい」とか、負け惜しみみたいなことを力説する。私は半ばうんざりしながら、最高の相手でも何でもいいから、慰謝料は二人とも払うようにと釘をさした。
「今日の会話は録音してるからね。私じゃなくて、電話の向こうの娘がだけど」
私は証拠の保存が万全なことを伝えて、通話状態のスマホを見せた。すると、それまであけに取られたように黙っていた桃が、突然バンと大きな音を立てて机を叩き、立ち上がった。
「もう別れる。だから私は関係ないわ」
桃は、いつも自分にプレゼントを買ってくれる構造ならお金持ちだから結婚してもいいかと思っていたらしく、お金のない構造とは一緒になるつもりはないようだ。彼女の話によると、構造は妻は自分の言いなりだと言って、離婚する時は木の実のように捨てるとか言いふらしていたそうだ。それが蓋を開けてみれば、年収では妻に負けていて、これから慰謝料まで取られる構造が、急に残念なおじさんに見えてきたらしい。すさまじいまでの現金な様子に、私は思わず笑いそうになってしまったが、構造はなんとか桃をなだめようと必死になっている。しかし元々結婚してもいい程度の気持ちしかなかった桃は耳を貸さず、そのまま家を飛び出してしまった。
残された構造は哀れなものだった。だったら私と婚姻関係を継続しようと思ったみたいだが、決して反省してではない。この後に及んで上から目線に関係修復を求める構造を無視して、私もさっさと家を出た。
その後、私は弁護士に依頼して、二人からしっかりと慰謝料を回収した。予想外だったのは、構造が思った以上に貯金を使い込んでいたことだ。実は家で粗末な夕食を食べていたはずの構造は、毎日のように桃と外食を楽しんでいた上に、彼女にせっせと貢いでいたらしい。その分を財産分与で計算し、慰謝料を払うと、数万円しか手元に残らなかったそうだ。金銭面での不安を抱えた構造は、自分の老後のためにも若くて、派遣とはいえ仕事にもついている桃を手放すまいと、必死にアプローチを再開した。そして「一緒に働いて桃の分の慰謝料も払ってやるから」と結婚を迫ったらしいが、失敗した。完全に構造に見切りをつけた桃は、親に泣きついてお金を借りて慰謝料を払うと同時に、実家がある地方に連れ戻された。しかしさすがは当本人なもので、彼女は構造の会社にこのことの顛末をばらして退職し、社内で大きな問題として扱われた挙げ句、構造は解雇に追いやられた。
しばらくは失業給付金でなんとかなっていたようだが、再就職がうまくいかなかったため、家のローンは払えなくなった。すると構造は弁護士経由で私にお金を貸すように頼んできたが、私はもう関わりたくないので、もちろん応じていない。それよりも、今は新しい環境に慣れるので精一杯だ。私はすでに長年暮らした土地を離れて、娘と一緒に暮らし始めている。この先何があるかわからないし、健康のためにもまた働きに出ようと思っているのだが、新しい土地での新しい出会いを想像するだけで、今は楽しくて仕方がない。
