母の容体が急変したと連絡が来たのは、いつもと変わらない平日の午後だった。父の切迫した声に、私はすぐに実家へ帰る準備を始めた。だが、その前に夫のたやに伝えなければと電話をかけたところ、彼は仕事中だと言いながらも、私の話を聞いてくれた。しかし、義母に伝えるようにと言われ、私は恐る恐る義母の部屋のドアをノックした。「あなたの母親は白血病でしょ。そんなの、これからいくらでもあるわ」と冷たく言い放たれ…

母の容体が急変したと連絡が来たのは、いつもと変わらない平日の午後だった。父の切迫した声に、私はすぐに実家へ帰る準備を始めた。だが、その前に夫のたやに伝えなければと電話をかけたところ、彼は仕事中だと言いながらも、私の話を聞いてくれた。しかし、義母に伝えるようにと言われ、私は恐る恐る義母の部屋のドアをノックした。「あなたの母親は白血病でしょ。そんなの、これからいくらでもあるわ」と冷たく言い放たれ...

「ゆい、今すぐ実家に戻ってきてくれ。」
「え?もしかして母さんに何かあったの?」
「そうだ。母さんの容体が急変したんだ。」
「嘘でしょ?だってこの前お見舞いに行った時は、すごく元気そうだったのに。」
「本当に綱渡り状態だったんだよ。とにかく今すぐ病院に来てくれ。」
「助かるのよね?」
「わからない。でも、二人で母さんが元気になるように祈ろう。」
「分かった。すぐにそっちに行くから。」

それから十分後、ゆいは夫のたやに電話をかけていた。
「たや、ちょっと話があるの。」
「なんだよ。こっちは仕事中だぞ。仕事中の私的な連絡は禁止だって言われてるんだ。」
「お願い。大事な話だから聞いてよ。」
「何だよ?」
「お母さんの容体が急変したの。」
「え?この前元気だとか言ってなかったか?」
「そうね。すごく元気そうだったのに。さっきお父さんから連絡があって…。もうずっと入院してたんだって。」
「そうなのか…。白血病になっちゃってね。それでも、抗がん剤治療とか受けて、ちゃんと元気になってるはずだったのに。」
「それで、何の話だ?」
「今から実家に帰るから、夜は自分でご飯を買ってくるなりして欲しいの。」
「ああ、そういうことか。俺は別にいいけどさ。」
「じゃあ、お願いね。」
「ちょっと待てよ。これは母さんには伝えてるのか?」
「いいえ。あなたに伝えておけば、それでいいでしょ。」
「駄目に決まってるだろう。母さんはお前に家事を任せてるんだから。急にいなくなったら怒るに決まってる。」
「前に実家に帰った時は、お母さんも普通に許してくれたじゃない。」
「それはたまたまだよ。さすがにこんなに続けて帰るってなったら、母さんだって怒るはずだ。だから、その前に母さんにもきちんと連絡をしておけよ。」
「私はすぐにでも帰りたいんだけど…。」
「軽く連絡をするだけでいいんだよ。とにかく、母さんを怒らせるようなことはするな。」
「事情が分かれば、理解してくれると思うけど。」
「いいや、ちゃんと筋は通せよ。お前のせいで俺が母さんに叱られるんだぞ。」
「あなたいくつなのよ。」
「俺たちの生活を支えてるのが母さんだって忘れるな。母さんは化粧品メーカーを一人で大きくしたんだ。だから俺たちは母さんの建てた家で生活してるし、母さんの会社で俺は働けてるんだぞ。その母さんに見捨てられたら大変なことになるって、考えれば分かるだろう。」
「あなただって仕事を頑張ってるんだし、そこまで必死にならなくてもいいと思うけど。」
「俺たちがいい暮らしができてるのは、母さんのおかげだって感謝してるんだよ。だからお前もちゃんと母さんに話をしてくれ。それが最低限の礼儀だ。」
「分かったわよ。」

三分後、ゆいは義母の部屋の前に立っていた。そして、意を決してドアをノックした。
「お義母さん、突然の連絡で申し訳ありません。少しお話ししてもいいですか?」
「何?忙しいから手短にして。こっちは今、大型プロジェクトの準備をしてるのよ。あなたに割く時間はないわ。」
「実は、母の容体が急変しまして。実家に帰らせていただきたいんです。」
「あなたの母親は、確か白血病だったわよね。」
「はい。そうです。」
「それだけ重い病気なら、容態が変わることもあるでしょう。なのに、その度にいちいち帰ってたら、我が家のことがおろそかになるでしょ。」
「それは…帰るなということですか?」
「そうよ。この間帰ったばかりなんだから、今回は駄目よ。」
「ですが、危険な状態なんです。本当に、命に関わることなんです。」
「それだけ重たい病気なのよ。そんなことは、これからいくらでもあるわ。」
「あなたは、医者か何かですか?」
「はあ?」
「どうして何も知らないのに、そんなに偉そうに言い切れるんですか?」
「私に逆らうの?誰のおかげで生活ができてるか分かってるの?」
「お義母さんには感謝してますよ。でも、私をここまで育ててくれたのは、私の母ですから。その母が危険な状態なら、私はそばにいてあげたいと思ってるんです。」
「それこそ、あんたは医者かなんかなの?そばにいて、病気が良くなったりするのかしら?」
「もしかしたら、もう会えなくなるかもしれないんですよ。それでも行くなとおっしゃるんですか?」
「私は、仕事を怠るなと言ってるの。あなたの仕事は、我が家の家事よ。専業主婦になったら、家事をしないといけないの。それをサボるなんて、許されることじゃないわ。」
「帰ってきたら、ちゃんとやりますから。」
「これがあなたのわがままを聞く最後だと思いなさい。そして、用が済んだのなら、すぐに帰ってきなさいよ。今日一日だけ、特別に休みをあげるから。」
「…分かりました。できるだけ早く戻ります。」

しかし、その約束は果たされることはなかった。五時間後、病院から電話が入った。
「お母さん…。先ほど、母が天に旅立ちました。」
「あら、そう。なんとか最後に会えてよかったわね。」
「何それ…?私が止められてなかったら、それもできなかったって言いたいんですか?」
「そんなつもりはないわよ。それで、明日になったら帰ってこれるんでしょ?」
「ちょっと、そんなわけないじゃないですか。明後日には、母の葬儀が執り行われます。私はその準備を父とやります。お義母さんたちにも、参列してほしいと思って連絡したんです。」
「はあ…。ふざけるな。こっちは忙しいのよ。葬儀なんて行けるわけないでしょ。」
「じゃあ、せめて…たやだけでも。」
「たやも、うちの社員として忙しくしてるのよ。そんなことで休ませるわけにはいかないわ。」
「それはたやが決めることだと思います。あなたが決めることじゃないです。確か、忌引休暇みたいな制度がありましたよね。」
「そんなものを私が認めるわけないでしょ。たやがいつ休むのかは、私が決めるのよ。あの子は私の息子で、うちの社員なんだから。」
「たやはあなたの操り人形じゃないですよ。」
「私が手塩にかけて育てたんだから。あの子の意思決定権は、私にあるのよ。」
「そんなのおかしいですよ。それに…あんたは何よ。普通に家事をサボろうとしてるの?」
「一日だけしか休みは与えないって言ったはずよ。もしかして、帰ってこいと言ってるんですか?」
「当たり前でしょ。約束は守りなさい。」
「私はそんな約束をした覚えはありません。あなたが勝手に押し付けてきただけですよ。それに、大事な母が亡くなった葬儀なんですよ。どうしてそれをほっぽり出して帰れるんですか?」
「母親の葬式なんか、関係ないわ。あんたはこの家の嫁よ。葬儀に出てる暇があるのなら、家事をやりなさい。今すぐ帰ってきなさい。」
「あなたには、人の心というものがないんですか?親の葬儀を無視して帰れるわけがないでしょう。」
「私に口応えをするな。これ以上私の言うことが聞けないのなら、あんたは嫁失格よ。」
「それとこれとは別ですよ。私はたやと結婚してるんです。あなたにとやかく言われる筋合いはありません。」
「全く、どうしてこんなにわがままになったのかしら。両親から相当甘やかされて育ったようね。もっとたやみたいに素直な子なら良かったのに。」
「たやを素直だなんて、私は思いませんよ。それに、私の親は決して甘いだけの人ではありませんでした。」
「だとしても、あんたの親は本当に迷惑な人よ。あんたは我が家に嫁いだのよ。それなのに、何度も何度も実家に帰るなんて…。」
「母が病気だったんだから、仕方ないじゃないですか。」
「そんなの関係ないわ。我が家でお世話になってるんだから、私たちのことを最優先にするべきよ。」
「そんなの、おかしいですよ。」
「おかしくないわ。まあでも、これで足かせが一つなくなったんだから。これからは、より私たちの世話に集中できるでしょ。そういう意味では、良かったじゃない。」
「…何を言ってるんですか?もしかして、母が亡くなったことを、そうやって喜んでるんですか?」
義母は何も答えなかった。ただ、勝ち誇ったように口元を歪めただけだった。
「ええ、そういうことよ。」
「…そんなの、絶対に許せません。」
「あら、何を言い出すの?あんたは、この家の嫁よ。母親が死んだくらいで、いつまでも休んでいられると思わないで。」
「私は、帰りません。」
「何て言った?」
「私は、母の葬儀に出席します。それが、たとえあなたに反対されようと、私は私の意思で決めます。」
「ふん。好きにすればいいわ。でも、そうやって勝手なことばかりするなら、あんたには出て行ってもらうからね。たやにだって、もう会わせないから。」
「…たやは、私がちゃんと説明します。」
「たやが何て言うか、楽しみにしてるわよ。あの子は私の言うことを聞くからね。あなたみたいな、言うことを聞かない女なんて、すぐに捨てられるわよ。」
その言葉に、ゆいは何も言い返せなかった。たやのことを思うと、胸が締め付けられた。たやは、本当にお義母さんの言うことを聞いて、自分を見捨てるのだろうか。その不安が、ゆいの心を覆い始めていた。

その夜、疲れ果てたゆいが実家のリビングでぼんやりしていると、スマホが鳴った。たやからだった。
「もしもし…。」
「ゆい、大丈夫か?母から聞いたよ。お義母さんが亡くなったんだって…。本当なのか?」
「…うん。本当だよ。」
「そうか…。それは、大変だったな。」
「たや…。私、明日、お母さんの葬儀をするの。お父さんと一緒に。」
「ああ…。そうだな。」
「ねえ、たや。葬儀、来てくれない?お義母さんは駄目だって言ったけど、私は…あなたに来てほしいの。」
「…ごめん、ゆい。俺、仕事が忙しくて。それに、母が駄目だって言ってるなら、それは俺も行けないんだ。」
「たや…。どうして?あなたのお母さんの言うことなら、何でも聞くの?私がこんなに辛い思いをしてるのに…。」
「決まりがあるんだ。俺は母の会社で働かせてもらってる身だし、母の言うことを聞かないと、立場が悪くなるんだ。分かってくれ。」
「分からない…。あなたは、私とお母さんと、どっちが大事なの?」
「…それは、決まってるだろ。でも、俺は母に逆らえないんだ。」
「そんなの、おかしいよ。自分で決められないの?」
「お前には分からないよ。俺がどんな思いでやってきたのか。母は俺の面倒を見てくれたんだ。恩があるんだよ。」
「じゃあ、私は…。私は、あなたにとって何なの?」
「…悪い、ゆい。今は、これで。また明日、連絡するから。」
そのまま、通話は切れた。ゆいは、スマホを握りしめたまま、長い間動けなかった。夫の弱さに、そして、自分勝手さに、腹が立って仕方なかった。でも、それ以上に、こうなることが怖かったのだ。本当は、こうなることを予感していたのかもしれない。

翌日、葬儀は滞りなく行われた。ひっそりと、しかし温かく、母の冥福を祈る人々の姿があった。ゆいは、父の隣で、静かに母との別れを惜しんだ。母がいたから、今の自分がいる。そう思うと、涙が止まらなかった。

葬儀が終わり、片付けも一段落した頃、ゆいは自宅へ戻ることにした。家に帰れば、きっとお義母さんの小言が待っている。そして、たやは、少しも自分を守ってはくれないのだろう。それが分かっていても、ゆいは帰る場所を失くしていた。自分が育った実家には、もう母はいない。父は、悲しみに暮れている。これ以上、迷惑はかけられなかった。

玄関を開けると、お義母さんが仁王立ちで立っていた。
「遅いわよ。一体、何時間だと思ってるの?あなたが一日も休んでるから、家の中がどんなに滞ったか、分かってるの?」
「…すみません。片付けが思ったより長引いてしまって。」
「言い訳はいいわ。さっさと夕飯の支度をしなさい。それから、明日からの仕事の段取りもあるんだからね。」
「はい…。」
「まあ、これからは安心ね。あなたの足を引っ張ってた、お母さんもいなくなったんだから。のびのびと、うちの仕事に専念できるでしょ。」
その言葉に、ゆいは怒りを通り越して、笑えてきた。この人は、本当に何も分かっていない。母の死を、ただの「足かせが外れた」程度にしか思っていないのだ。心の底から、この人のことを、哀れだと思った。
「…そうですね。そうさせてもらいますよ、お義母さん。でも、忘れないでください。私の母がどれだけ私を大事に育ててくれたか。そして、私はあの人の娘であることを、誇りに思ってるってことを。」
「何よ、急に。」
「何でもありませんよ。さあ、夕飯の支度をしますね。お義母さんも、お腹が空いてるんでしょ?」
ゆいは、そう言って台所に向かった。涙は、もう出なかった。母が最期に教えてくれたこと。強い心で生きていくことの大切さ。たとえ、誰に見放されようと、自分は自分らしく生きていく。そう心に決めた。

その夜、たやは何も言わなかった。ただ、疲れた顔でソファに座っているだけだった。ゆいは、その横を通り過ぎざま、ぽつりと呟いた。
「あなたは、私がここにいていいの?」
「…何言ってんだよ。ここはお前の家だろ。」
「そうね。ここは私の家なのかもしれないわね。」
「おい、変なことを言うなよ。母は少し厳しいけど、悪い人じゃないんだ。」
「…うん。分かってるわよ。」
ゆいは、そう言って微笑んだ。もう、この人の前では、涙を見せない。自分から離れていくかもしれない、夫の背中を見ながら、ゆいは静かに思った。そして、自分は決して、お義母さんのような大人にはならない。母が教えてくれたように、いつか必ず、強くて優しい人になるんだと、心の中で強く誓った。

数週間後、たやは何の前触れもなく、大きなため息をついて言った。
「ゆい、ちょっといいか。」
「何?」
「その…。母に言われたんだ。そろそろ、子どもを考えろって。」
ゆいは、手を止めた。
「…何て言ったの?」
「俺は、まだいいって言ったんだ。お前も大変だし、もう少し落ち着いてからって。でも、母が聞かなくて…。早く孫の顔が見たいって、しつこく言うんだ。」
「それで、あなたはどうするの?」
「どうするって…。俺は、正直、まだ考えてないんだ。仕事も大変だし、お前に負担をかけたくないし。」
「たや…。あなたは、どうしたいの?あなたの気持ちを聞かせて。」
「俺の気持ち?…俺は、お前が大事だよ。でも、母も大事なんだ。」
「…そうね。分かってる。ありがとう、たや。」
ゆいは、それ以上何も言わなかった。自分が何を言っても、たやはお母さんの言いなりになる。それを変えようとしても、無駄なのかもしれない。それでも、ゆいは諦めなかった。いつか、たやが自分自身の気持ちに気づける日が来るまで。自分の足で立って、自分の意思で生きていくことの大切を、思い知る日が来るまで。

そして、その日は思ったより早くやってきた。ゆいのお腹に、新しい命が宿ったのだ。

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