「お母さん、定年退職することになったから。これからはもっとあなたたちのサポートに時間を使えると思うわ」——そう義母に告げた瞬間、妻のさ苗さんが目を輝かせた。「マジで?…

「お母さん、定年退職することになったから。これからはもっとあなたたちのサポートに時間を使えると思うわ」——そう義母に告げた瞬間、妻のさ苗さんが目を輝かせた。「マジで?...

「お母さん、定年退職することになったから。これからはもっとあなたたちのサポートに時間を使えると思うわ」

私、司さ、そう言った瞬間、妻のさ苗さんが目を輝かせた。

「マジで? うわ、めっちゃありがたいよ。でも母さん、せっかく仕事やめられるなら旅行とか行ったり、伸び伸びしたりしなくていいの?」

「まあ、それはおいおい考えるわよ。家にいる時間が長くなるから、そのことだけさ苗さんにも伝えておいてくれるかしら」

「オッケー。苗も喜ぶと思うよ」

数日後、さ苗さんが私に言った。

「お母さん、定年退職されることにしたんですね」

「そうなのよ。家にずっと義母がいるのは嫌かしら」

「そんなことないです。……実は、ちょっとご相談したいことがありまして。私、パート始めてみたいんです」

「あら、ついに復帰するの?」

「子育てとの両立に自信がなかったんですけど、朝も次の4月で息子も幼稚園に入りますし、お母さんがお家にいてくれるなら私もやってみたいなと思いまして。ご迷惑をおかけするかもしれないんですが、いいでしょうか?」

「もちろんよ。頑張って。むしろ子育てにはこれからお金がかかるんだし、働きに出るのはいいことだわ。私もできる限りサポートするからね」

「ありがとうございます。うち実家が遠いし、なかなか頼れないしで。お母さんがいてくれて本当に良かったです」

数ヶ月後。私は職場の飲み会から帰ってきた。時計は夜の10時を回っている。リビングの電気はついている。テーブルには司さの書いたメモがある。

『お母さん、今日は遅くなる。ごめん』

しばらくすると、スマホが鳴った。さ苗さんからだ。出ると、最初から怒り口調だった。

「ちょっとさ苗さん、何度も連絡してるのに何で出ないのよ」

「仕事してたに決まってるでしょ。職場にまで電話してくるなんて、何考えてるんですか?」

「当たり前でしょ。今日は司さが午前中で帰ってくる日で、私も病院で用事があるから、あなたが今日はパートを調整して家にいるって、1ヶ月前に話してたわよね。何で家にいないの?」

「子どもが家に入れなくて、1度学校に戻ったのよ。学校がお父さんもお母さんも繋がらないって。それで私に電話がかかってきたんだから。あなた、何考えてるの?」

「パート先でトラブルがあって、出てきたんです。私、これでもそれなりに頼りにされてるんで」

「じゃあ何で私にも司さにも言わないで仕事に行ったの? 誰かが調整しないといけないことになるでしょ」

「だから私は働いてて忙しいんです。連絡する余裕もなかったんです。そんなのお母さんが何とかしてくださいよ。何のための無職なんですか?」

「あなたね……」

「じゃあ私、今日は遅くなるので失礼します」

そう言って、私は電話を切った。

数日後、私は妹に愚痴っていた。

「さ苗さんと連絡が取れたわよ。パート先でトラブルがあったんですって。でも、それなら私たちに一言あるべきでしょ。最近のさ苗さん、ちょっとどうかと思うわ。仕事を理由に何か雑っていうか……」

「でも、とりあえず連絡がついたなら良かったじゃん。悪いけど、お母さんのことはお願いね。俺もそんな急に職場を抜けられないし」

「それはいいわよ。でも、お願いする態度があるでしょ。私が急いで学校に迎えに行ったのに、さ苗さん、何て言ったと思う? 『無職なんだから何とかしろ』って言うのよ。あんまりだと思わない? 失礼すぎるわよ」

「ちょっと気が立ってただけだって。俺からも言っておくからさ、うまくやってよ」

「もしこれからも態度が改まらないなら、気持ちよくあなたたちのサポートはできないからね」

「分かった、分かった。行っておくから」

その日の夕方、司さが帰ってきた。

「お疲れ。これから帰るよ。苗、もうパート上がる?」

「ああ、今日は残業ないし帰るけど、どうかした?」

「ちょっと母さんのこと考えて欲しくて。今日、母さんに無職だからどうのこうの言ったの?」

「言ってないけど。……何で?」

「マジありえないんだけど」

「いや、ほら、苗の気持ちも分かるけどさ、一応世話にはなってるんだし。実際、母さんがいなくなったら困るだろ」

「別に、今日帰りに家のスペアキー作っていくから、司さに持たせれば、留守番くらいできるでしょ」

「ああ、まあ、鍵は持たせた方がいいか」

「大げさなのよ。自分が仕事やめたからって、働きに出た私が羨ましいんじゃない?」

「まあ何にせよ、喧嘩はやめてよ。色々面倒だからさ」

「はい、はい」

1ヶ月後。夜の9時を過ぎた頃、さ苗さんが帰ってきた。私はリビングで待っていた。

「あなた、今何時だと思ってるの? パートが18時までなのは分かってるのよ。連絡もなしにこんな時間に帰ってくるなんて」

「職場には連絡しましたよ。パート先の飲み会が長引いたんです。別にいいでしょ。司さも寝てるんだし」

「そういうことを言ってるんじゃないわよ。司さが寂しがってるのが分からない? ママに宿題を見てもらう約束をしてたのにって、泣きながら布団に入ったのよ」

「じゃあ何ですか? 仕事やめろって言うんですか?」

「仕事をするなとは言わないわ。働くことにはむしろ賛成よ。でも、やり方があるでしょ。あなたは母親なのよ」

「ああ、あの子ももう幼稚園なんだし、親にはいいきっかけだと思いませんか。ていうか、お母さん、最近口うるさすぎません?」

「何ですって?」

「定年退職して暇だからって、私に文句つけないでください。無職の人って、そうやって人の揚げ足取りしかできないんですか?」

「何でそんなこと言うの? 話の本質が全く違うわよ。私は仕事は応援している。その上で、子どもとの向き合い方を考えてって言ってるの」

「文句でも何でもないわ。何考えてるの? もうほっといてくれます? うちにはうちのやり方があるんで」

さ苗さんは、そう言い捨てて、自室にこもってしまった。

数分後、私から妹にLINEが入る。

「夜遅くにごめんなさい。起きてる?」

「むしろ、今帰ってきたところよ。どうしたの? 姉さんがこんな遅くにLINEなんて、何かあったの?」

「何かモヤモヤしてしまってね。息子家族との同居のストレス、なのかな……」

「何でそんなピンポイントで分かるの?」

「そりゃ、姉さんが定年退職して家のサポートに回るって聞いた時から、ちょっと心配してたのよ。元から、息子とお嫁さんは姉さんに頼りきりだったでしょ。それが、仕事もなくなっちゃったら、リミッター外れてとんでもないことになるんじゃないかって」

「うん……そうなのかもね。私が定年退職するのと合わせて、さ苗さんがパートに復帰したんだけどね。それからもう、すごいのよ。私のことを、何ていうか、都合のいい家政婦代わりにしか見てないというか」

「はあ。何それ。腹立つわねえ。今までも姉さんに任せっきりだったくせに。姉さんも、我慢しすぎない方がいいわよ」

「そうだ。今度一緒にランチどう? 定年退職のお祝いがまだできてなかったし。奢らせて」

「いいの? 嬉しい。ありがとう」

1週間後。私と妹は、近所のレストランでランチをしていた。

「それで、その後のさ苗さんはどうなの?」

「相変わらずよ。この前も、パート先で何かトラブルがあったらしくて、私に電話してきて『悪いけど迎えに行って』って。こっちは買い物の途中だったのに。子どものお迎えも、私に丸投げだし」

「それが育児と仕事の両立ってやつなのかもしれないけどね。でも、あんまり図に乗らせてもねえ」

「そうなのよ。この前なんて、司さが熱を出したのに、私に任せてパートに行ったのよ。『お母さんがいてくれるから助かる』って。私が何もしないと思ってるのよ、きっと」

「それ、あなたが甘やかしてるんじゃないの? もっと言っていいと思うわ。今のうちに言わないと、どんどん付け上がるわよ」

「でも、言うと角が立つし、揉めるのも面倒で……」

「あんたね、それじゃ駄目よ。この前、『無職のくせに』なんて言われたんでしょ? あれは絶対に許しちゃ駄目よ。よく我慢したわ、姉さんは」

「そうなのよ。あの時はさすがに頭に来たわ。私だって、定年退職するまではずっと働いてきたのに。子育てもして、家のこともやって。それなのに、あの言い草はないでしょ」

「ほんと、あれは失礼よ。私が逆の立場なら、黙ってないわ」

「……でも、司さが間に入ってくれるっていうから。あの子も、板挟みになってかわいそうだし、私からはあまり強く言えないのよ」

「それが逆に、二人を増長させてるんじゃないの。あんたが譲れば譲るほど、図に乗るんだって」

「分かってるわよ。分かってるんだけど、なかなか……」

「今度、私からも何か言っておくわ」

「やめてよ、余計にややこしくなるから」

「冗談よ、冗談。……でも、姉さん、覚えておきなさいよ。この間の態度を、いつか絶対に思い知らせてやるって」

私は、妹が本気で怒っているのを感じて、少し笑ってしまった。妹は昔から、私に何かあると、誰よりも先に怒ってくれる。そのありがたさを、定年退職して、家にいる時間が増えてから、より強く感じるようになったのかもしれない。

その夜、私は昼間のことを思い出して、ベッドに入ってもなかなか眠れなかった。司さも、さ苗さんも、孫も、それぞれに自分の生活があって、私はその中で、ただ年を取って、家のことを少し手伝っているだけだ。それが、こんなに難しいことだとは思わなかった。

そして、また翌朝が来る。朝食を用意して、孫を幼稚園に送り出す。さ苗さんは、何の連絡もなく出掛けていく。私は、ため息をついて、洗い物を始める。さっきから、カーテン越しに、隣の家の奥さんが、何か心配そうにこっちを見ているのに気づいて、私は作り笑いを浮かべた。

他人の家のことは、他人にしか分からない。でも、私の家の中は、私にしか変えられない。このまま、この年になってまで、お嫁さんの顔色を窺いながら生きていくのは、ちょっと違う気がする。でも、どうすればいいのか、まだ答えが出ない。

今日も、私はキッチンに立って、カレーを作る。孫が好きな、甘口のカレーだ。定年退職してからの毎日は、慌ただしいというより、むしろ、ただただ機械的に過ぎていく。仕事をしていた頃は、こんな風に昼間にキッチンに立つことなんてなかったのに。

昼過ぎに、孫から電話がかかってきた。幼稚園で転んで、膝を擦りむいたらしい。「ママ、今すぐ迎えに来て」という。私は、パートに行っているさ苗さんの代わりに、自転車を飛ばしてお迎えに行った。そして、家に連れて帰って、絆創膏を貼ってやった。

孫は、涙を拭いて、すぐに遊び始めた。私は、その背中を見ながら、自分が何のためにここにいるのかを、少しだけ考える。定年退職して、家のことを手伝って、孫の世話をして。これが、私の役目なのかもしれない。

だが、その日も、さ苗さんは夕方に帰ってきて、リビングにある私の荷物を見るなり、少しだけ眉をひそめた。

「お母さん、今日も一日中家にいたんですか? たまには外に出たらどうですか? 息抜きも必要でしょ」

「別に、息抜きなんて必要ないわよ。私は家にいるのが好きなんだから」

「そうですか。……でも、ずっと家にいると、また余計なことを考えるんじゃないですか? この前みたいに、私の仕事に文句をつけるみたいに」

「さ苗さん、今どの口がそれを言うの? あなたの仕事の愚痴を聞いているのは、いつも私よ。それに、あなたがこうして働いていられるのも、私が家にいて、子守や家事を引き受けているからでしょ。そのこと、忘れないでもらわないと困るわ」

「忘れてませんよ。でも、お母さんだって、定年退職してヒマで仕方ないから、そうやって私にちょっかいを出してくるんじゃないんですか? 無職の人間が、働いている人間の気持ちを分かるわけないですからね」

「まあ、いいわ。その言葉、後悔しないようにね」

その週末、私は決心して、妹を連れて、上司に会いに行った。退職を取り消してもらうわけにはいかないだろうか、と。もちろん、もう無理だと言われるのは分かっている。それでも、私がこれから、この家でどうやって生きていけばいいのか、誰かに相談したかった。

上司は、私の話を聞いて、困ったような顔をしながら、こう言った。

「おばさん、もう十分働きましたよ。今は、ご家族のためにゆっくりすることを考えたらどうですか」

「分かっています。でも、私が家にいることで、返って家族がおかしくなっていくような気がして……」

「それは、気のせいですよ。みんな、誰かの助けが必要なんです。あなたが家にいることが、きっと誰かのためになっているんですから」

本当にそうだろうか。私は、上司の言葉に、素直に頷くことができなかった。

家に帰ると、さ苗さんが、珍しくリビングのソファに座って、スマホをいじっていた。私の気配に気づいて、顔も上げずに言う。

「おかえりなさい。どこに行ってたんですか?」

「ちょっと、買い物に」

「そう。あのさ、お母さん。今日、司さの保育園の保護者会があったんだけど、行ってくれなかった?」

「何で? 私は聞いてないわよ」

「私も今日、パートが忙しくて行けなかったんです。だから、お母さんが行ってくれるものだと思ってたんですけど」

「私は、あなたの代わりに保護者会に行くために、定年退職したわけじゃないわ。自分で調整できないなら、パートなんてやめればいいでしょ」

「……は? 今、何て言いました?」

「あなたが働きに出るのは、反対しないわ。でも、全部を私に押し付けるのは、もうやめなさい。私は、あなたの使用人でも、家政婦でもないのよ」

さ苗さんは、立ち上がった。目が、今まで見たことがないくらい怒っている。

「お母さん、あなた、一体、私が何をしてきたと思ってるんですか? 私は、この家のために、仕事を続けてきたんです。あなたが、子育てをまるで分かってないから、私がこうして調整してきたんです。せっかくパートを始めても、あなたが余計なことをするから、いつも台無しになってきた。もう、あなたに任せるのはたくさんです」

「あなたね、筋違いもいい加減にしなさい。私はあなたに何も頼まれて、子育ても家事もやってきたわけじゃない。良かれと思ってやってきたことに対して、それはないでしょう」

「良かれと思って? あなたのしていたことは、全部、私への嫌がらせじゃないですか。この家から、早く出て行ってくれませんか?」

その言葉を聞いた瞬間、私の中で、何かがプツンと切れた。

「……分かった。分かったわよ。出て行くわよ」

そう言って、私は自室に戻り、タンスからバッグを取り出した。数日分の着替えを詰めて、財布と通帳を突っ込んで、玄関に向かう。途中、リビングから、さ苗さんが何か叫んでいたけど、振り返らなかった。

「姉さん、落ち着いて! ちょっと待って!」

玄関で、私を追いかけてきた妹が、私の腕を掴んだ。

「姉さん、何するのよ。今からどこに行くの?」

「……少し、貸してくれる? この家には、もういられない」

「ちょっと待ってよ。でも、それはあんまりだよ。さ苗さん、やりすぎだよ」

「いいのよ。私が選んだ道だもの。きっと、どこかで誰かが私を必要としているわ。とりあえず、しばらくは無職の私だって、世の中、捨てたもんじゃないって、思い知らせてやるわ」

そう言って、私は妹の顔を見た。多分、私は泣いていたんだと思う。妹は、何も言わずに、私を抱きしめてくれた。

「……無理、しないでよ。電話くらいはちょうだいね」

「くれるわよ。家に着いたら」

私は、重い荷物を下ろして、バス停へと歩き出した。後ろで、さ苗さんが何か言っているような気がしたけど、もう振り返らなかった。

私は、この何年かで、確かに物わかりのいい、都合のいいおばあちゃんになっていたのかもしれない。でも、それも今日で終わりだ。私は、私の人生を、もう一度やり直すつもりで、この家を出る。それが、家族のためなのか、私のためなのかは、まだ分からない。ただ、今は、ただひたすら前を向いて歩くしかない。風が冷たかった。

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