夕方、台所で夕食の支度をしていたら、インターホンが鳴った。玄関を開けると、三年間一度も笑顔を見せなかった姑が、にこやかに立っていた。「息子の浮気を許してくれてありがとう。本当にいいお嫁さんだわ」頭が真っ白になった。夫は私に謝ったことなんて一度もない。それなのに、姑はまるで私が許したことになっている。しかも数日後、夫がぼそりと言った。「お袋が、なんか企んでるって、お前も気づいてるんだろ」。私は…

夕方、台所で夕食の支度をしていたら、インターホンが鳴った。玄関を開けると、三年間一度も笑顔を見せなかった姑が、にこやかに立っていた。「息子の浮気を許してくれてありがとう。本当にいいお嫁さんだわ」頭が真っ白になった。夫は私に謝ったことなんて一度もない。それなのに、姑はまるで私が許したことになっている。しかも数日後、夫がぼそりと言った。「お袋が、なんか企んでるって、お前も気づいてるんだろ」。私は...

姑が突然、にこやかな顔で家に現れたのは、夕方のことだった。私が台所で夕食の支度をしていると、インターホンが鳴って、玄関を開けたらそこに姑が立っていた。それだけで十分に異様だった。この三年間、姑は私に一度も笑顔を見せたことがなかったからだ。

「ふかさん、ちょっといいかしら」

「何の用ですか」

「上がらせてもらうわね」

勝手に上がり込んだ姑は、リビングのソファに座るなり、私の手を両手で握ってきた。その手は思ったより温かくて、なんだか気持ち悪かった。

「息子の浮気を許してくれてありがとう。本当にふかさんは最高のお嫁さんだわ」

私は何を言われているのか分からず、首を傾げた。

「お母さん、何の話でしょうか」

「ひろつぐに聞いたわよ。浮気したけど許してもらえたって」

思わず手を引っ込めた。あの男、よくもまあ平気な顔で言ったものだ。

「夫がそんなこと言ってたんですか」

「確かに、愛する人の裏切りはショックよね。でも男は必ず本斎の元に戻ってくるものなの。自信を持って堂々としてればいいのよ」

「はあ」

「ふかさんは自分で会社を立ち上げて立派に経営なさってるんだもの。このくらいのことで同じる弾じゃないわよね」

「仕事のことと夫婦のことは別ですし、お母さんもコロコロと態度を変えられると困ります」

「あら、そう」

「結婚者は女社長なんか三文もないって散々おっしゃってませんでしたっけ。会社にまで押しかけてきて、こんなちけな会社潰してしまいなさいと。社員の前で私を怒鳴ったのもお忘れですか」

姑の顔から笑みが消えた。一瞬、何か言い返すかと思ったが、すぐにまた別の笑顔を浮かべた。

「言った記憶はないけど、言ってたとしたらごめんなさいね」

「なかったことにする気ですか」

「私やっと自分の謝ちに気づいたの。確かに息子のことが可愛いがあまり、あなたに強く当たってきたわ」

「はい。ゴリゴリに当たられました」

「でも間違ってた。可愛い息子が選んだ人だからこそ大事にしなきゃいけなかったのよね」

「それに気づくのに三年かかったんですか」

「そうなのよ。でも今からでも遅くないわよね。ね」

「え、だいぶ遅いと思いますよ」

「ちょっと話は変わるんだけど、車が欲しいの」

いきなり何の話だ。私は思わずため息をつきかけた。

「いきなり何の話なんですか」

「人生で一度でいいからベンツに乗りたいのよ」

「買えばよろしいのでは」

「え、いいの」

「お好きになさったらいいかと」

「やった。嬉しい。若い頃からずっと会社に憧れてたのよね。本当に素敵な会社だったわ。あなたが社長でいてくれてよかった。そういうわけで、早速ディーラーに行ってくるわ」

そう言って、姑は上機嫌で帰っていった。あれだけ私のことを潰せだの言っておいて、今度は私の稼ぎで車を買おうとしている。呆れるというより、怖かった。姑のあの手のひら返しは、何か裏があるとしか思えない。

数日後、今度は夫の広告が、何やら言いにくそうにソファに座っていた。

「お母さんから連絡来たんだけど、どういう風に話をすればあんな勘違いになるわけ」

「あ、何が」

「息子の浮気を許してくれてありがとうって言われた。お前、何言ったんだよ」

「許してくれたじゃん。あれは、俺が謝ったら、許すって言ってくれたじゃん」

「は?二時間バ取った結果、あなたが逆切れして離婚届けをプリントアウトして私に投げつけたよね。その反省してるって意味で書いただけだよ。それで、あの姑が急に優しくなったんだよ」

「そういうことか。じゃあ、お前も気づいてるんだな」

「何が」

「お袋が、なんか企んでるって」

「当たり前だろ。というか、お前、今まで何も言わなかったけど、気づいてたのか」

「ああ。なんか、お前が実家に帰った後、俺のところにも連絡が来てな。お前がものすごい勢いで怒ってるから、離婚するとか言い出して、俺が止めたんだ」

「は?私が離婚するって言ったから止めたの?お前が何か言ったんじゃないのか」

「いや、俺もお前に謝りたかったんだ。本当に悪かったと思ってる。だから、離婚はやめろって言ったんだ」

「どうして?」

「どうしてって、愛してるからだよ」

私はため息をついた。本当に信じられない男だ。

「じゃあ、どうして浮気なんてしたの」

「スーパーでウィンナーの試食やってたら、つい食うだろう。どんな味かなって興味が湧くよな」

「は?」

「うん。ね、結局食っては見たものの買わずに帰ることがあるよな」

「あるね。つまんで終わり」

「俺の浮気は試食と同じなんだよ」

「あー、なるほどね」

「だろな」

「あるか」

「やっぱりだめか」

「試食は誰も傷つけないし、全然話が違う。ウィンナーを焼いてるおばちゃんは食うだけ食って買わない客のせいで傷ついてるぞ」

「ウィンナー焼いてるおばちゃんには悪いけど、私はそのレベルじゃないくらいをえぐられたのよ」

「だよな。ごめん。本当に悪かったと思ってる。でも後にも先にもたった一度切りなんだ。任さしたなんて言葉じゃ軽々しいけど、ふかへの愛情は1mmも減ってないんだ」

「少し時間をちょうだい。私も色々考えたいから、しばらく実家に帰ることにする」

「分かった。俺ずっと待ってるから」

そう言い残して、私は家を出た。数日間、実家で過ごした。気持ちを整理する時間は必要だった。でも、あの姑が何か企んでいるような気がして、どうしても気になって仕方がなかった。

そこで私は、叔父が探偵をやっていることを思い出した。

「見た目はおじさん。頭脳もおじさんの探偵にちょっと頼みがあるんだけど、今は時間いい?」

「断る」

叔父はソファから動かず、新聞を読み続けた。

「へ?なんでよ。叔父が探偵やってるのに今まで得したことないんだから。一度くらいその特権使わせてくれたっていいじゃん」

「お前を得させるために探偵をやってるわけじゃない」

「はあ。じゃあ、あの子お母さんに言っちゃおっかな」

「やめろ。姉さんには言わない約束だろ」

「そこまで私の母を恐れるってどういうことよ」

「うるさい。お前には分からない上下関係があるんだ。さっさと予を言え」

「夫が浮気してた」

「いかにもしそうな顔してるじゃないか。気づいてたなら早く言ってよ。初めて会ったのが結婚式だぞ。めでたい席でそんなこと言えるか」

「で、根に持ってるんだろ」

「そう。本人も反省してるんだけど、なんか腑に落ちないのよね。女の感ってやつかな」

「うん」

「あと、姑まで突然何か企んでるみたいで、変なの。前は私の会社を潰せって言ってたくせに、急にご機嫌取りしてくるし」

「分かった。調べてみよう」

「いくら払えばいい?」

「5億」

「は?」

「嘘だ。15万でいい」

「激ア特じさん大好き」

「調子のいい奴め。ただし、お前が言った通りだったら、別だがな」

数日後、叔父から連絡があった。

「黒だ」

「へ?」

「真っ黒だ。漆黒だ。これ以上ないくらい黒い」

「どういうこと?」

「三日間、尾行したが、驚いたことに毎日違う女だった」

「は?金髪ショートだけじゃなかったってこと?」

「黒髪ロング、チパツパーマ、チャパツロング。どこに行ってた?」

「男女が行くところといえば決まってるだろう」

「もう二度としないって言ってたのに」

「信じたのか?」

「2%くらいはね。私が実家に帰ってる間くらいは大人しくしてると思ったのにな」

「一度するやつは二度も三度も四度もする。俺はそういうやつを嫌というほど見てきた」

「病気みたいなものなのかな」

「残念だがそうだ。だから俺は結婚なんてしないんだよ。一生一人の女に縛られるなんてまっぴらごめんだからな」

「その方が賢いよ。誰も傷つけないもん」

「で、どうするんだ」

「決まってるでしょ。離婚する」

実家を出るとき、私は広告にLINEをした。

「浮気したわね。離婚しましょう。離婚届けは送っておくから」

「違うんだ! あれは、仕事の付き合いで!」

「三日間、毎日違う女と会ってるお前を尾行した探偵さんが言ってたわよ。仕事の付き合いが三日連続で毎回違う女って、すごい仕事だね」

「あ、待ってくれ、話を聞いてくれ!」

「もうたくさんよ。今まで何度も信じてきたけど、もう無理。私、あなたのために三年も苦労してきて、やっといい姑になれると思ったらこれだもん。サヨナラ」

私はLINEをブロックした。広告から電話がかかってきたが、無視した。しばらくしたら、また電話がかかってきたが、それも無視した。しつこい男だと思った。

その週末、叔父から連絡があった。

「おい、後で金を振り込めよ」

「何のこと?」

「広告が家に来て、泣きながら謝ってたぞ。そして、こんなことを言ってた」

「何て?」

「『離婚しないでください。お袋が金を借りまくってて、俺が支払ってたんです。愛人が何人もいるように見せかけて、実は借金の取り立てだったんです』ってな」

「は?」

「俺の探偵でも分からなかった。大金が動いてるとは思ったんだがな。どうやら、お前の姑がギャンブルにハマってたらしい。広告はそれを必死に隠して、仕事の関係だと言い繕ってたんだ」

「じゃあ、浮気は…」

「なかったようだ。お前を泣かせるような奴だとは思わなかったが、本当に愛してるみたいだぞ。どうする?」

私はしばらく黙っていた。

「……叔父さん。15万、ちゃんと払うよ」

「そうか」

「でも、あの日のことは、まだ少し許せないの。もう一回じっくり考えるわ」

「そうしろ」

しばらくして、広告が実家に頭を下げに来た。私の両親には頭が上がらないのか、ずっと土下座していた。

「ふかのことが大好きです。支度が悪くてすみませんでした。お袋の借金はなんとかします。どうか、もう一度やり直してください」

私は、広告の背中を見つめて、ため息をついた。

「お母さんには、きちんと話をしなさいよ。私の方からも言っておくから」

「ふか?」

「今度何かあったら、その時は本当に離婚だからね」

「ありがとう! 愛してる!」

泣きながら抱きしめてくる広告の頭を、私はため息混じりに撫でた。

後日、私は姑に会いに行った。あれだけ態度が変わったのは、息子の借金の取り立てから逃れるためではなく、私にベンツを買ってもらおうと思ったからだろう。実際、姑は私の顔を見るなり、愛想笑いをした。

「ふかさん、こないだはいろいろありがとうね。あの日、ディーラーで早速注文したのよ。もうすぐ納車だって!」

「そうですか。で、そのお金なんですが」

「え?」

「あの8百万円の話です。広告の口座に振り込もうと思ってたんですが、やっぱり直接お渡しした方がいいかなと思いまして。お母様名義のご口座をお教えいただけますか?」

姑の顔から、笑顔が消えた。

「何のことかしら」

「だって、お母さんが『車が欲しい』って言い出したから、広告が『じゃあ、お母さんに買ってあげたら』って言われたそうですから。私、広告からお金を預かってるんです。だから、いくら必要かお聞きしようと思って」

「あ、いや、そんな…」

「私が直接、お金を立て替えるということにしておきますか? それとも、広告から引き出してもらいますか?」

「い、いいのよ、そんな! 車なら、もう買わないことにしたから! やっぱり、娘に買ってもらうのは悪いものね!」

そう言うと、姑は逃げるように帰っていった。あの調子なら、もう私に無心してくることはないだろう。

そして、私はようやく気づいた。あの姑の態度の急変も、広告の浮気も、すべては姑の借金を隠すための狂言だったのだと。

一ヶ月後、久しぶりに会った広告は、すっかり痩せて顔色も悪かったが、しっかりとした足取りで、私の前に立った。

「ふか、話があるんだ。とにかく、ちゃんと話を聞いてほしい」

「何? 今度は何をやらかしたの?」

広告は俯きながら、連絡先の書かれた紙を差し出した。

「今度は、この女に頼まれたんだ。『ごめんなさい。全部、お母さんに言われたの。お母さんに頼まれて、あなたを紹介してほしいって言われたの。だから、あの店に来るように言われたの。そうしなかったら、お前の借金をばらまくって言われたから、怖くて言えなかったんだ』って」

「…誰が言ってたの?」

「探偵に調べててもらったんだ。俺が浮気してた女、あれ、全部、母さんの差し金だったんだ。母さんが『お前をふかから引き離そうとしている』ってことを、俺が知らないと思ってたみたいでな。でも、俺は知ってたんだ。いつもお前の悪口を言う母さんを、俺は止められなかったんだ」

広告は、声を震わせて泣き出した。

「ふか、俺でごめん。本当に、お前だけは裏切っちゃいけなかったのに、ずっとお前に辛い思いをさせてきて、ごめん」

私は、しばらく広告の声を聞いていた。そして、言った。

「広告。あのね、私は、あなたに浮気されたのも、暴言を吐かれたのも、辛かったんだよ。でも、一番辛かったのは、あなたが私のことを信頼してくれなかったことだよ」

「ふか…」

「心配してたんだよ。私、あなたが嫌いになったから出て行ったんじゃなかった。あんなに好きなら、なぜ父さんみたいな人と結婚したんだろう。子供の頃から、父さんみたいな男は絶対に嫌だと思ってたのに。でもね、やっぱり私、あなたのことが好きみたい」

「じゃあ、俺は…俺は、お前のことが大事なんだ!」

私は、泣きじゃくる広告の背中を、軽く叩いた。

「分かってる。分かってるから、泣きなよ。今度こそ、ちゃんと離婚するのよ。そしたら、また一から始めよう」

広告は、うなずいた。

「ああ。約束する」

私は、ただ笑った。あの日、実家の縁側で広告が婦人たちと関わっているのを見たときから、私は分かっていたのかもしれない。あの人のそばにいることが、一番好きだと。

浮気の傷は、そう簡単には癒えない。しかし、もしあの時、私が離婚を選んでいたら、あの人が嘘をついて自分を守っていることにも気づかないまま、私は大人になった気になっていたかもしれない。

そして私は、これから先もずっと、この人のことを見つめていようと思った。例え、また何かあったとしても、それが騙し合いでも、私はあの人を選び続けるだろう。

だって、私は広告が好きだから。この人が、私の選んだ人だから。

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