「順夜、今どこにいるの?何なのよ、こんな朝っぱらから。今日、お父さんの葬式でしょ。分かってる?だったらどうしてまだこっちに来てないの?手伝いがあるって言ってあったでしょ」
「ああ、それね」
「どれよ」
「今日の親父の葬式だけどさ、俺、欠席するわ。温泉行くから」
「はあ?何言ってるのよ。お父さんの葬式を欠席して温泉に行くって?」
「いや、前々から楽しみにしてたんだよ。今日の温泉、予約取るのが大変だったしな」
「それは知ってるけど、そういう問題じゃないでしょ。葬儀の方が優先に決まってるでしょ」
「お前が出席すれば問題ないんだろ。母さんたちにはお前からよろしく言っといて」
「バカじゃないの?実の息子でしょ、あんた」
「まあ、そういう感じだけどな」
「はあ」
「ていうか、遺体に会ってどうすんの?喋んないし、動きもしないんだから。それに、あの親父が喋ったところで腹が立つだけだし」
「何それ?最低なんだけど」
「ああ」
「もしかして、親の葬式に出ないとか、息子として失格だとか、そういうの気にしてる?」
「ああ、これだから親なし女は。自分の親がいないからって、やたらと親をありがたがるんだよ」
「ちょっと、言っていいことと悪いことがあるでしょ」
「まあ、でもな。親なしの俺を拾ったのは親父だし、ありがたがる気持ちも分からなくはないけどな」
「ねえ、そういう言い方はやめてくれる?」
「事実だろう。ガキの頃に両親が亡くなった、天涯孤独のぼっち女だもんな」
「どうしてそんなこと言うの?私、何かあなたの気に触るようなことでもした?」
「別に。ただ、昔からそうだよなって思ってただけだよ」
「何が?うちの親に点数稼ぎがうまいって言いたいの?私は別にそんなつもりは」
「俺と結婚したのだって、親へのアピールだろ。俺にはうちの親以外、家族なんていなかったしな」
「そんな風に思ってたの?私、あなたのことを」
「うちの親も、お前の方が可愛いんだろうな。俺よりもずっと昔から、お前ばかりかわいがってたし」
「そんなことないよ」
「あるんだよ。俺よりもお前の方が学費の高い大学に行かせてもらって、いい会社に入ってさ。よく他人の金でそんなことができたよな」
「さっきから何なの?そんなに不満があったなら、結婚なんてしなければよかったでしょ」
「安牌だったんだよ、つまり」
「安牌?」
「俺の身近にいたし、親もお前には甘いし。結婚するなら悪くないかなって思っただけだよ」
「最低。あなたって、本当に最低ね」
「まあ、いいさ。俺は魅惑の夢が待ってるから、もう行くわ」
「本当にそれでいいのね?」
「ああ、いいよ。じゃあ、後のことは頼んだ」
翌日。
「お母さん、先日はすみませんでした」
「何で、ち草が謝るの?あなたは悪くないわよ」
「でも、私だけ前日からこっちに泊まってたんです。その時に、無理やりにでも順夜さんを止めさせればよかったんです」
「そんなの、結果論でしょ。それに、もう終わったことよ」
「そうですけど……でも、お父さんのことをあんな風に言われて、どうしても納得できなくて」
「確かに、あの人は厳しい人だったわ。でも、それは順夜のことを思ってのことよ。それを、あんな風に言うなんて」
「お母さん、順夜さんは前からああだったんじゃないですか?」
「ち草は、相変わらずね」
「相変わらずって、何がですか?」
「あなたをうちで引き取ってから、もう何年経ったかしら?」
「え?私が小学生の頃に両親が亡くなったので、もう二十年くらい経ちますね」
「順夜とあなたが結婚して、うちを出ていってからも、本当に色々あったわよね」
「そうですね。子供には恵まれませんでしたが、本当に色々ありました」
「もう、いいんじゃない?元々、あなたを引き取ったのは、親友の形見だったからよ」
「それは知ってます。私の両親と、お父さんたちが仲が良かったんですよね」
「ええ。あなたのご両親は、親戚付き合いが壊滅的でね。亡くなった後、あなたは親戚中をたらい回しにされてたわ」
「今でも覚えてます。お父さんが、あいつらみたいなのに任せられるかって、単価を切ってくれました」
「そう。その単価を切った張本人は、もういないわね」
「お母さん、何を言ってるんですか?」
「順夜との関係も、もううまくいってないんでしょ?なら、離婚して、さっさと出ていきなさいよ」
「ちょっと待ってください。お母さん、何で急にそんなことを言うんですか?順夜さんが大事なんでしょ?」
「お父さんはもういないし、順夜との関係も悪いなら、この関係を続ける意味なんてないわよ」
「でも、お母さん。私は」
「私は、あなたがここまで献身的に支えてくれたのも、事実よ。だから、手切れ金くらいはくれてあげるわ」
「手切れ金?そんなの、いりません」
「そう言わないで。何もなしに関係を切ったら、私たちが悪く見えるでしょ」
「お母さん、もしかして、もう私は邪魔だって言うんですか?血のつながらない他人は、必要ないって言うなら」
「そうね。血のつながらない他人は、確かに必要ないわね。でも、あなたにはお父さんの遺産の一部を、贈与という形で送ります。それを持って、出ていきなさい。そして、二度と私たちには関わらないこと。分かったわね?」
数日後。
「いやあ、まさかだったわ」
「急に何よ?」
「いや、母さんがち草を切るとは思わなくてさ」
「切るって、別にそんなに不思議なことじゃないでしょ」
「そうか?俺はてっきり、母さんも親父と一緒で、ち草を可愛がってるんだと思ってたよ」
「あの人がち草を可愛がってたのは、お父さんだけよ。私は別に、そんなつもりはなかったわ」
「え、マジ?」
「そもそもね、前々から考えてはいたのよ」
「ああ、何を?」
「あなたたちが離婚するなら、私もあの子と離れようってね」
「母さんが、そう言うのって意外だな」
「私だけじゃないわ。お父さんも言ってたんだから」
「親父が?」
「ほら、お父さんが入院してた時があったでしょ」
「ああ、あったな。俺は見舞いにも行ったことなかったけど」
「その時にお父さんが言ってたのよ。俺が亡くなったら、本当の家族を大事にしてくれって」
「へえ、それで親父がそんなことを言うんだ。やっぱ意外だな。あの親父でも、そういうことは思うんだな。病気で弱ってたのもあるんだろうけど」
「そうね。それに、私たちの遺産だって、可愛い子供に全部あげたいって言ってたわ」
「そっか。ようやく俺のフグっぷりに気づいたか」
「フグ?何の話?」
「いや、明らかだっただろ。俺よりもち草が優先されて、俺はフグの扱いだったんだから」
「ああ、そうね。そのフグってやつに気づくのが、遅すぎたんでしょ」
「ち草の方が努力してるとか言ってさ、実の息子よりも金をかけるとか、意味が分からないんだよ」
「ち草は、高校生の頃からずっと付き合ってた相手だったしね」
「ああ、急に何でそんな話になるんだよ」
「いや、あなたも変わったなと思ってね。昔は本気でち草のことを愛してるように見えたけど」
「愛だの何だのって、食えたもんじゃないよ。俺は現実を見るようになっただけだ」
「現実ね」
「ところで、ち草との離婚は、もう進めてる」
「あら、そうなの?」
「ああ、あいつ、母さんに見放されたのがショックだったみたいでな。文句も言わずに、離婚届にサインしてくれたよ」
「それは、ち草も可哀想にね。ずっと、実の娘のように育てられてきたんだから、ショックも大きいでしょうね」
「そうだな。でも、もう決まったことだ」
「それにしても、あんたたちは本当にどうしようもない親子だね」
「何だよ、急に」
「もう、いいわ。私、そろそろ帰るから」
「ああ、気をつけてな」
彼女が立ち上がろうとした時、玄関のチャイムが鳴った。
「何だ?誰か来たのか?」
「さあ?私も分からないわ」
彼女が玄関に向かい、ドアを開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。
「すみません、こちらの順夜さんという方のお宅でしょうか?」
「え?あ、はい。私が順夜ですが?」
「ああ、あなたが。よかった。ここに来る前に、ご自宅の電話番号にお電話したんですが、奥様だか元奥様だか、どなたかが出られました」
「ああ、たぶん、ち草のことですね。もう離婚するので、他人なんですけど」
「そうでしたか。それは失礼しました。では、ご本人にお伝えしますね。あなたのお父様がお亡くなりになられた、ということで、手続きの書類ができあがっております。良かったら、この書類に目を通していただけますか?」
「あ?何の書類ですか?」
「いえ、あなたのお父様の遺産の手続きの書類です。実は、あなたのお父様がご入院中に、あなたに相続の権利がいくように、という遺言状を残されていたんです」
「は?ちょっと待ってください。俺、親父の葬式にも出てないんですけど。それに、遺産なんて聞いてませんよ。母さんが全部、ち草にやるって言ってたし」
「それが、ご両親はご離婚されていて、奥様はすでに他界されていたんですよね?ですから、正式な相続人は、あなたしかいらっしゃらないんですよ。息子さんですから」
その場で立ち尽くす順夜に、男は書類を差し出した。
「こちらが、その書類です。お目通しの上、必要事項をご記入いただければ、手続きを進めますが、よろしいですか?」
順夜は男の手から、重い書類を受け取った。
「ちょ、ちょっと待ってください。これ、どういうことです?」
「どういうことも、何も、あなたのお父様の遺言状ですから。あなたに、全財産を譲るという内容です。ただ、ちょっと困ったことがありまして」
「困ったこと?」
「ええ。あなたのご実家の家屋敷には、もう誰も住んでいません。奥様はすでにお亡くなりになって、お子さんもあなただけ。ですから、もしかしたら、この家を売却されるのも、おありかと思いましてね」
順夜は書類を二度見した。
親父の遺言。家屋敷。全財産。
ち草に全部やるように言っていた母親の言葉。家を追い出されるようにして渡された、たった一つの封筒。
あの時、母は言っていた。「お父さんの遺産の一部を贈与する」と。
つまり、あの言葉は、本来ならば順夜に渡るはずだった遺産のことを、指していたのだ。
「はあ。まさか、親父がここまでしてくれてたとはな」
順夜は呟いた。
「え?何か言いましたか?」
「いえ、何でも。ああ、ちょっとすみません。コップ一杯、お茶でも飲んでいってくださいませんか?」
「あ、いえ、お気遣いなく。私はこれで。では、書類ができましたら、またご連絡しますので」
「あ、はい。すみません、ありがとうございます」
男が帰り際に、振り返って言った。
「あの、言い忘れましたが、あなたは本当にいいお父様をお持ちですね。入院中、何度も、息子が元気でやっているか、気にかけておられましたよ。本当に、お大事にしてくださいね」
男の車が見えなくなるまで見送った後、順夜は玄関の前に立ち尽くした。
親父が、病気で弱っていた時、病院に見舞いに行ったことは一度もなかった。
死ぬ間際に、親父が残してくれた言葉。
「本当の家族を大事にしろ」
あの親父が、それを言ったのが一番理解できなかった。何故なら、親父はいつも、順夜よりち草を優先していたからだ。
庭に咲く草を愛でるように、ち草はあの家の「本当の娘」だった。
「本当の家族か。結局、俺たちはみんな、ち草がいないと、家族になれなかったんだな」
順夜は、ポケットの中で、ち草がサインした離婚届のペン先を転がすように触った。
母は、ち草に遺産の一部を贈与するといった。
では、残りの大部分は、誰のもの?
「はあ、ち草、下手なことしなけりゃ良かったのにな。お前が何もしなければ、母さんも離婚しなかったかもしれないのに」
そして順夜は、手にした書類と、携帯の待ち受け画面に映る古い家族写真、そして、遠ざかっていく男の車のテールランプを、交互に見つめた。
男の車のライトが、夕暮れに消えていくのを確認して、順夜はやっと息を吐いた。
家の中に戻ると、掃除を終えたはずの一軒家は、がらんと静まり返っていた。
昨日まで誰かいた気配すらしない。
ち草の残していった、小さな鉢植えが一つ、縁側にぽつんと置かれていた。
枯れかけのガーベラ。
「本当に、最後まで嫌な奴だな、俺は」
ポツリと呟くと、順夜は携帯を開き、ち草に電話をかけた。
ワンコールで出た。
「……もし」
「ああ、順夜だけど。今、出られるか?」
「別に、これから出かけるところだけど。何か、用?」
「ああ。親父の遺産の手続きの書類が、さっき届いた」
「……そう。良かったじゃない。何よりね」
「ああ。それで、なんだ。ち草、お前がサインしたままにしてる離婚届。あれ、俺が捨てるわけにはいかないんだよ。ちゃんと出したくてな」
「…………」
「それと。俺、今からそっちに行くわ。大事な話があるから」
「順夜の言葉、聞いてなかった。私、離婚の話は決まったことでいいと思ってる。もうあなたたちの、ああいうところが、耐えられない」
「分かってる。でも、一言だけ言わせてくれ。聞けば、分かる」
通話の向こうから、何か言おうとして止めるような息遣いが聞こえた。
「聞いても意味ないと思うけど。……三十分したら、家の前に来て。行くところは、あなたの好きな、あの古い喫茶店でいいわ。それだけよ」
一方的に切れた通話。
順夜は、手に持った書類を、拳で握った。
雨の中、街の灯りが滲んで見える。
コーヒーの匂いに包まれたアンティークのカウンター。その奥で、前に座る順夜に、ち草は冷めた目を向けていた。
「それで、肝心な話って何?」
順夜は、コップの水を一口含むと、ゆっくりと切り出した。
「聞けよ。親父は、入院中、書いたんだ。俺が全部継げるようにって、遺言状を」
「…………何それ」
「母さんは、遺産の一部を、お前に贈与するって言ったろ。あれは、偽装なんだよ。実は、遺言状は二通あってな。一つは、正式なやつ。もう一つは、母さんが隠すはずだった、俺に全財産を渡すっていう、極秘のやつ」
ち草の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「そんなの、聞いてない」
「だろうな。母さんが全部、俺に隠してたんだ。お前を追い出す時、『遺産の一部』って言ったのは、きっと、俺からの目くらましだったんだろうよ。俺が来ないように、お前を追い出すように、上手く仕向けてたんだ」
「……違う。私、悪いことしてない。順夜こそ、私を追い出すために、陰で手を回したんでしょ?」
「俺が?違うよ。俺は本当に何も知らなかった。母さんを裏切ったら、お前が可哀想だと思ったから、お前には言わないでいてくれって、書類が届いたんだ」
「誰が、それを?」
「――俺の取り巻き、だった者だよ。ほら、昔、会社の取引先に、一回だけ面会したことあるだろ。こいつの井村っていう男」
カウンターの端で、飲みかけのブレンドを差し出した、スーツの男。
井村は、ち草に軽く会釈した。
「はじめまして。君の夫の、父親の、生前の弁護士です。あなたには、ずいぶん辛い思いをさせたみたいですね。お父さんの遺言状は、息子の順夜君に全財産を――」
「もういい!聞きたくない!」
ち草は耳を塞いだ。
「それで、それが全部伝えたかったこと?」
順夜は、ゆっくりと首を振った。
「違う。俺が言いたいのは、全部の話だ。親父の死。母さんの発言。お前の離婚の切り出し。そして、今、この瞬間の、俺とお前の問題だ」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
やがてち草は、震える声で言った。
「………何が、言いたいのよ」
「お前が離婚を望んだから、手続きには、俺からサインしたよ。話の途中で、何度も、サインするのを拒否しようかと思った。本当に、よかった。お前が自分から出て行ってくれて、本当に」
「…………何を、言ってるのよ」
「俺は、自分からお前を捨てる勇気がなかったんだよ。だから、お前から、離れていってくれて、ちょうど良かった。……どうにか、騙し騙し、やってこれたってわけだ。本当に、感謝してる。最後まで、降りだしただけマシだった」
ち草の頬を、涙が伝っていった。
「そんな……あなた、ずっと、ずっと私のことを、嫌いだったの?」
順夜は手に持ったカップのコーヒーを飲み干すと、静かに言った。
「さあな。俺が、家族の形を、本当に大事にできていたなら、きっと、ああもならなかったかもしれない」
「…………」
「だけど、もう遅いんだ。お前の望み通り、離婚は成立させる。書類は、俺がマンションに送っておく」
「嫌……。順夜、……」
「ち草、もう行け。お前を家族の縛りから解放してくれた、とびきりの大嫌いなやつと思えよ。本当に、全くだ。何が『本当の家族』だ。俺たちは、みんな、間違っていたんだよ」
席を立ち、伝票を手に取った順夜は、カウンターの伝票に、くしゃくしゃになった一万円札を置いた。
「俺のワガママ、今日まで聞いてくれて、ありがとう。じゃあな、ち草」
店のドアを開け、雨の中へ出ていく順夜。
「……順夜」
ち草は、返事のない妻の姿を、呆然と見つめるしかなかった。
二度と、彼の背中は見えない。
窓に映る雨は、まだ止みそうになかった。
